メールマガジン第327号
皆さんこんにちは
ハワイ大学でのセミナー
11月17日から21日までハワイに行ってきました。娘がハワイ大学の歴史学部で日本史の教鞭をとっているのですが、「もし、機会があったら、日本の戦後の住宅政策に関してなら、中央官庁の行政を担当した官僚の体験に関心があれば、いつでも話をします」と以前から言っており、今回の旅行中に特別講義を一コマ設ける運びになりました。30-45分の範囲で、「経済成長期の日本の住宅政策:インサイダー・ストーリー」について講義し、その後20分くらい質疑応答に応えるというものでした。日本現代史を勉強してまだ日の浅いアメリカ人学生約30名を対象としていたので、戦後—特に住宅建設計画法時代—の住宅政策が、どのような歴史的文脈の中で取り組まれたか、そして、その成果をどのように考えるべきかという話を、できるだけかみ砕いて説明するようにました。
日本の戦後住宅政策の総括
このテーマ―住生活基本法の生まれた背景と、それが現代の住宅政策の基本条件になっている実情―は、実は私がこれまで総括に務め、住宅関係者に知ってもらいたいことと考えていたことの一部でした。現代に住宅政策に暗い影を投げ掛けているのは、とくに「スクラップ・アンド・ビルド」政策化で進められた住宅政策です。このために、いかに貧しい住宅と住宅地がつくられてきたかということは、世界の住宅と比較すれば歴然です。しかし、日本ほどの経済力と国民資産とGDPを誇っている国で、どうしてこれほど住宅が貧しくて、都市が醜いのか。この問いに対する回答は、1960年の日米安全保障条約に端を発する「日米同盟」を前提になされた日米間の経済合意とそこから生じる経済活動の分業、およびその背景を理解することなくしては不可能、と、私は過去数十年にわたる検証から確信してきました。今回のハワイ大の講義は、そこにテーマを絞ってみました。以下は当日の話の筋に若干補足したものです。
マッカサーによる占領政策
まず、60年日米安全保障条約の背景です。日本が1945年夏に敗戦したとき、連合軍が最大に恐れていたものは、日本の軍国主義の復活でした。連合軍の指導の下に作成られた日本国権法第9条は、国民を収攬する象徴とされた天皇制と並んで代表的な条項です。当時、吉田首相は第9条に関しては、攻撃のための軍隊はもとより、自衛のための軍隊をも持たないことを国会で説明しています。吉田首相の関心は経済再建でした。マッカサーも日本の大都市の殆ど総てが爆撃に遭い、経済的に疲弊した日本の現実を見て、経済復興の重要性を理解し、約1000人近いニュー・ディーラーと呼ばれる米国の世界恐慌から経済再建した関係者たちを日本の再建のために呼び寄せました。
日本経済の朝鮮特需による復興
やがて朝鮮戦争が勃発し、その結果、自由主義圏の軍事力と社会主義圏の軍事力が拮抗していることが明らかになりました。朝鮮戦線は、戦前の日本の内地軍と関東軍の支配地域を2分していた38度線を境界として分割され、戦争は終結したものの、米ソ冷戦関係の緊張は高まったのは周知の通りです。他方、東大の丸山眞男に代表される知識階級たちを含め、戦後日本社会は軍国主義に対抗する勢力として、民主主義を社会主義に厚い信頼を築きつつありました。とくに、日本の独立に際して、社会主義国を含め全世界とのいわば「全面」講和条約を結ぶという方向に世論は動いていました。しかし、1948年中国とソ連との間で締結された中ソ軍事同盟では、「日本は両国にとって仮想的」と明記されたこともあって、吉田茂首相は全面講和の見込みはなくなったと判断しました。
単独講和と日米安全保障協定に至った経緯
結局、吉田首相は、自由主義諸国だけとの単独講和を決意します。しかし、米国内では、それを歓迎する国務省と、独立国日本に米軍基地をおけなくなることを危惧して反対する国防省との意見が対立し、当初は講和への見込みが立ちませんでした。そこで、吉田首相は池田勇人(大蔵大臣)を首相の特命大使として米国に送り、単独講和条約締結の同日、独立国日本から米国に対して、「米軍基地の設置」の要請を出すことを提案しました。これが、その後問題となる日米安全保障条約と、それに基づく日米地位に関する秘密協定です。独立後、日本政府は日米安全保障条約を根拠に、国防(自衛隊)予算を拡大します。そして日本の本格的な経済復興は、米軍の軍需費も含めた鉄鋼産業、自動車産業、電気機械産業等軍需産業を育成することが基本となり、それが日本の経済復興の原動力になったのです。
日本の軍需産業による経済発展
以来、米国の日本に対する経済援助があるのですが、重化学工業を復興させた「朝鮮特需」以降の警察予備隊を含む日本の軍需産業は、日本の経済復興を理解していく上で大きな要となります。戦争特需により、炭鉱、鉄鋼産業、自動車産業、化学工業が一挙に戦前をしのぐ大きさに復興し、それが神武景気の始まりとなるのです。一方では敗戦の傷跡を大きく残した状態ではありましたが、旧財閥や旧軍事産業が平和産業という姿で復活したのです。さらに重要なのは、この時期に人口の都市集中による住宅政策が始まったことでした。炭鉱の復興と軍需産業の成長により、米国への輸出産業が発展して都市に産業労働者が集中しはじめたのです。これらの労働者に対して住宅を供給することが、「戦後住宅難世帯の解消」という政策目標下、政府の住宅政策目標となったのです。
産業政策としての日本の住宅政策
1950年の住宅金融公庫は、まさに三井、三菱を中心とする炭鉱住宅のために住宅供給を目的として始められました。やがて、産業労働者用住宅(社宅)建設のための住宅金融をすることが最も大きな政策目標となりました。ここで「個人用住宅建設」が始まりますが、これは、社宅に依らないで住宅を建設しようとする需要者を対象にするものです。産業政策として、政府が企業の住宅供給を肩代わりしているといってもよいでしょう。政府は、社宅等企業向け中高層住宅建築のための融資を、戦災復興のために「都市不燃化政策」という大義名分の下に、支援しました。鳩山内閣が成立した1955年、270万戸の住宅難を解消するとして、住宅政策を政策に掲げ日本住宅公団を設立しました。これは、大都市で働く一般勤労者を相手にする賃貸住宅と産業労働者を対象にする特定分譲住宅、という企業社宅の建設でした。
世界の政治経済地図の改変
1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約は、日本と自由主義諸国との間で結ばれた国際条約ですが、その背後にあったのが、先に述べた日米安全保障条約という日米同盟でした。ソ連が水素爆弾を米国に先行して開発するなど、米ソの緊張関係は高まり、それに輪を掛ける形で、アジア大陸では、西欧の植民地が、中立国又は社会主義国の独立として相次ぎました。それを見て、米国のCIA長官アレン・ダレスは、社会主義国の支配が拡大することを「ドミノ理論」として警告していました。他方、50年代後半になると日本の経済力が拡大しはじめ、1951年の日米安全保障条約の不平等性が日本国内で新たに問題になっていました。これに対して米国側は、日米地位協定など基地に関する不平等を解消するのではなく、日米の政治・軍事・経済的分担の対等な関係を政治的平等関係の構築することが求められる、と要求してきました。
60年日米安全保障条約と日本経済構造の再編成
こうして、1960年の日米安全保障条約では、憲法第9条で軍事力を持ち得ない日本を米国が軍事的に護る代償に、日本政府は米国の国内経済問題を一部肩代わりすることが求められました。とくに、産油国・大農業国アメリカの石油と農産品について、為替及び関税の自由化政策により日本が輸入拡大を支援する、という軍事と経済面両方においての対等の関係が提起されました。この提案は、結局「日米対等の同盟」として日本側が半ば一方的に受け入れることになったのですが、その経済状の結果がここでは重要です。この合意により、日本国内では炭鉱の閉山と農業構造改善事業による零細農業の切捨てが必要となり、多数の失業者が10年以上に亘って都市に流出することになったのです。日本経済が年間10%以上の経済成長率を10年以上継続することができた背景には、60年安保により失業者して低賃金労働者となった人々が、潤沢産業労働者として供給されたことがあったのでした。「岩戸景気」はここに始まるのです。そして、この景気を支えたのが、新たな局面を迎える日本の住宅政策でもありました。
炭鉱の閉山と農業構造改善による社会問題
北九州では、大手炭鉱の約50の中小炭鉱のうち、約80%を占める労働者が未開放部落の住民でした。彼等は、明治時代に皮革と食肉の排他独占的営業権を奪われたのち、新たな差別(新平民)を持ち込まれてきたのです。およそ100年後の60年安保にともない炭鉱が閉山されるようになると、炭坑労働者は再び失業に追い込まれることになり、あらたな政治・社会問題として浮上してきました。他方、北海道でも類似した炭坑問題がありました。そこでは、朝鮮人労働者が約80%を占めていましたが、彼等は戦前に強制徴用された人たちです。日本の敗戦があっても彼等の社会的地位向上には直接つながらず、むしろ戦勝国民としての扱いを受けず、やがて失業問題が発生することを意味していました。炭鉱労働者問題、部落問題、朝鮮人問題—これら3つの問題に対して、しかし政府は日米安全保障問題と相乗効果を図ることがないよう、いわゆる「分断政策」で対処し、社会・経済不安を押さえようとしました。例えば、朝鮮人問題は朝鮮事情がよく知られていないことを良いことに、当時創立されて間もない北朝鮮を理想郷のように謳い上げ、各紙メディア―朝日新聞や赤旗も含みます―までも宣伝作業に寄与し、やがて1959年12月を皮切りに日本赤十字ベースでの朝鮮帰還事業をはじめます。他方、1960年1月、政府は炭鉱閉山の審議会答申(有沢広巳調査団)を行い、4月には、同和対策審議会を設立し総合的な対策をはじめることを制度化しました。こうして、「分断政策」に成功し、同年6月の日米安全保障条約の自然成立へ、途を開いたのでした。
官僚が需要を計画的に生み出す新しい住宅政策
さて、1965年に始まった住宅建設計画法に目を転じてみましょう。この計画法では、5年ごとに国民の居住水準を調査し、それを基に将来の国民の居住水準を政策決定します。そして、地方公共団体、公団(日本住宅公団、地域整備振興公団)、公社(地方住宅供給公社)などの公的住宅供給主体を発注者とし、新しい水準に従った公営住宅や公団住宅及び公庫住宅を、供給するようにしました。新しい住宅政策の実体は、急成長する企業の住宅問題を政府が事実上背負い込むことであり、行政が指導・先行する形をとることでした。この点は重要です。この政策は、行政が産業の要請を受けて、住宅産業を育成する、という流れをつくりだし、政・官・業が癒着したいわば「護送船団方式」と呼ばれる利権構造で進められることになったのです。こうして、日本全体としての住宅ストックは1968年以来、住宅統計上、「住宅余り現象」が拡大していったわけです。どうしてかというと、政府が5年ごとに居住水準を自由に引き上げることができたわけで、結果的に無尽蔵に住宅政策上の需要を拡大したのです。さらには、政府指導で創りあげた住宅産業界用に住宅需要を生み出すことの出来る「官営住宅産業」構造を作り、官僚OBの雇用機会まで供給するようになっていったのです。
GDP最大化のためにスクラップ・アンド・ビルド政策
この政策を推進するためには、余剰の住宅を「スクラップ」し、新たに住宅を「ビルド」することが必要になります。「スクラップ・アンド・ビルド」政策として、政府は住宅を「償却資産」として扱うように不動産評価制度を変えます。また、住宅金融公庫のローンにおいても、「既存住宅は木造の場合20年で資産価値はなくなる」という扱いをしました。この政策は、政府の経済性格であるGDPを最大化する政策と「軌を一にする」ものでした。「償却」という概念は会計法又は税法上の扱いであっても、住宅の市場価格を「償却」という概念で扱うことは世界的にも異例であり、非常に特異である点、ここで押さえておく必要がありましょう。さらに問題なのは、日本の都市では、戸建て住宅(シングル・ファミリーハウス)と共同住宅(マルテイ・ファミリーハウス)とが同じ土地利用区分に入ることが可能であり、しかも、共同住宅に商業・業務施設までもが入り込んでもそれを拒否しないという、先進国として異例な歪んだ混合用途地域が認められています。そのため、最も地価負担額の高い土地利用に移行する現象が横行し、土地利用が戦後非常に混乱していきました。そのいい例として、たとえば大手企業は利用目的も無い土地を保有し、そのため空地が多数存在しながら「土地不足」とされ、地価の理不尽な高騰を招いてきました。一方企業側は、「保有地/空き地」を担保に銀行から資金を借り、株式投資のためのマネーゲームにのめりこんでいったのです。
バブル経済と株式・土地・住宅問題
戦後にこうして構築されていった非常に特異な住宅産業・土地市場構造が、バブル経済の基である土地と株式の相乗効果構造を作っていったのでした。そして、90年代初頭のバブル経済崩壊の原因でもあります。日本が世界の経済活動の3大局(ニューヨーク、ロンドン、東京)の一つになるとする想定の元に、バブル崩壊以前の日本銀行は金融緩和を実施しますが、これは国土庁発表した商業業務床需要予測に対応していました。この金融緩和をきっかけに、不動産買い替え特例に関する租税免除措置を利用して、都心から郊外に、玉突き状態の住宅地の売買がされ始めました。そのため、多数の取引が都心から郊外へと進行するのですが、さらに放射状に地価投機売買が進み、それが都市全体の地価水準を高騰させて株式投機へと拡大循環しました。やがて、余剰資金を利用したリゾート開発にも開発対象が拡大し、バブル経済は全国規模に達しました。その最も中心になった経済的な仕組みはなにか。それは、土地自身が開発されて所期の収益を発生されることなく、あたかもそのものが同様な投資効果を発揮するものとみなしたたうえでの融資がされてきたこと、ここから「土地と株式の相乗効果」が生まれたことが、あらためて確認される必要がありましょう。
バブル経済後の住宅による景気刺激策の失敗
バブル経済はいろいろな経済活動に障害を齎しました。先行きにおびえた日本銀行の三重野総裁は、短期的にバブル経済を収束させるべく金融引き締めを行い、ハード・ランデイングでの問題解決を図ろうとしました。その結果、多くの倒産事故が発生し、不良債権が金融機関を筆頭に全産業を覆うことになって、企業倒産や関係者の自殺まで多発しました。政府はその状態を改善するために、当時、最も経済効果の高い住宅投資を利用して、「お金を使わせることを目的にした」景気浮揚策を推進しました。しかし、政府のやったことは何だったか。それは、国民に年収の8倍(政府は5倍まで、残りは別の金融機関の合わせ融資)以上もの借金を背負わせることで、それを「ゆとり償還」といって最初の5年間は元金の返済猶予を与えるというやり方でした。つまり、返済能力を遥かに逸脱した金融を「返済できるかのように勘違い」させて借金させて、お金を使わせてきたのです。このやり方は 住宅ローン返済不能事故を引き起こさせ、ローンの担保に取られた個人信用を保険した生命保険による資金回収を、「自殺の強要」という形で進められ、結果的には、自殺の拡大と個人破産を引き起こしたのです。
バブル経済の破綻と住宅政策の破綻と新しい住宅政策
財政と金融とを濫用した住宅による景気刺激策が失敗したのはいうまでもありません。地方公共団体、住宅公団、住宅公社、住宅金融公庫は、いずれも財政・金融上破産状態になり、その住宅政策を継続不能に陥りました。公庫、公団の廃止が閣議決定され、住宅建設計画法による住宅政策は破綻したのです。それに変わって登場したのが、「住生活基本法」と呼ばれる政策です。この政策は、官僚中心のこれまで住宅産業に依存して退職後の生活を計画してきた制度に代わるものとして策定されたものです。しかしそれは、住宅の性能表示、耐震性安全、エネルギー対策などにより、いわゆる「護送船団方式」で育った住宅産業の営業を支援するものであることにかわりはありませんでした。安全を口実にした検査、審査を強制的にし、さらに住宅の瑕疵保証など消費者の不安を利用して性能試験、建築確認の手数料、保証保険金の掛け金を消費者に負荷し、それを官僚や公務員OBの退職後の収入源にする、というこれまでと同じ国民不在の政策を、長期優良住宅政策として展開したのです。その政策は、長期優良住宅政策に感覚する国民、住宅産業には、その政策のために余分に掛かる費用分のお金を補助しようとするものです。端的に言うと、その本質は、形を変えた官僚及び関係行政機関職員OBの雇用機会確保と賃金保障政策なのです。この政策は、総て国民に高い費用負担を求め、要請関係者が利益を得るという政策となっています。
ハワイ大学での講義と質疑応答
さて、ハワイ大学の講義では時間制限もあり、バブル経済関係のところは殆ど説明をすることは、残念ながらできませんでした。しかし、若い学生たちからの質問は正鵠を付いたものが非常に多く、真面目な授業態度には驚き感心させられました。学生の質問は、「スクラップ・アンド・ビルド政策」という、政府主導の特異な住宅政策に対する驚きに集中していました。「国民の住宅が資産造りではないのではないか」とか、住宅の資産価値を崩す「土地利用規制に対する混合用途制はおかしいのではないか」というコメントも多々あり、まだ20歳にもならないアメリカ人男女学生にとっても、先進国日本の住宅政策が、日本国民にとって理不尽だと強く感じられるようでした。講義する側の私も、「世界の常識が日本の非常識であり、日本の非常識が世界の常識」だということが実感される思いがしました。この学生たちの疑問を日本人が同じように感じるようになることが大切なことだと思いました。
戸谷英世
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