メールマガジン

メールマガジン第328号

掲載日2009 年 11 月 30 日

メールマガジン第328号
皆さんこんにちは
「事業仕分け」と民主主義政治を考える
行政刷新会議の「事業仕分け」作業が11月27日に終了しました。この取り組みに対する国民の関心と評価がジャーナリズムを賑わしていますが、私は非常に高く評価しています。今回の取り組みは、小泉内閣が取り組んだ司法改革でなされた裁判員制度と似ていて、実は全く違った法治国の理屈にあった立法改革の取り組みです。その違いは重要で、後にその理由を説明します。
主権在民の民主主義社会において、主権者とは、意思決定をする主権者を言い、法治国では、主権者である国民が法律を立法します。財政支出を決定する予算は、国民の代表者が予算立法として、国会で決定します。日本は、代議員制度を採っていますから、国民はその代表者として国会議員の選出し、国会議員の活動をとおして、国民の意見を政治に反映して、国会又は地方議会で立法をします。
このような民主主義政治の仕組みから、今回の行政刷新会議の性格は、民主主義政治の中でどのようなものなのかを以下に解説します。

国民の代表者(国会議員)と行政府(内閣)の役割
立法の中には、国会議員が直接提案する議員立法もあれば、行政府が法律を提案する政府立法もあります。行政府(内閣)の仕事は、基本的には、国会で立法されたことを、その立法趣旨と法律内容を尊重して、忠実に政治を行うこと(行政)が役割です。しかし、現実の政治や行政は連続して行われるものですから、行政を実施していく過程を通して、既存の法律制度の不備や欠陥が発見されるので、それを補い、修正していくこと(行政運用)も必要となります。
その行政での運用が法律の枠内では法律理論的にできないという場合には、実態を法律に反映させるため、行政府の長(内閣総理大臣及び各省大臣)が、法律の改正又は新規立法の提案をすることになります。そこで、政府提案という立法方法が政府(内閣)に与えられているのです。しかし、政府提案の立法は、例外なく、国会で国民の代表である国会議員によって審査され、国会の議決のより立法されることになっています。

行政刷新会議
民主党が今回始めた「事業仕分け」は、行政府が政府提案として国会に提出する予算案を、国会に提出する前に、主権者である国民によって事前審査するというもので、単に国民の代表者である国会議員だけではなく、直接利害関係の大きい国民や、その分野の専門家の事前審査を基に、国民の代表者である国会議員が民意を代表して事業の採択の仕分けをしたものです。
それは間接民主主義の弱い部分を補強する対応として、民主主義の枠組みを直接民主主義に向けて拡大したものとして評価できます。一部のジャーナリズムの意見の中には、権力を握った民主党の学術研究などへの理解のない判断といった批判がありました。
しかし、重要なことは、民主主義は、意思決定を国民が行うというもので、「衆愚政治に陥る危険性」と常に隣り合わせにありますが、又は、かつてのエリート政治家が国民の引きずっていった「啓蒙主義が、帝国主義戦争に国民を引きずり込んだ歴史」という弱点を持っています。啓蒙主義を皮肉ったトルストイの「イワンの馬鹿」を思い起こすとよいと思います。国民が自分で判断した結論に責任を持つことが重要です。

見当違いの有名大学学長とノーベル賞受賞学者たち
行政刷新会議での事業仕分けに関して、東京大学学長らが批判しましたが、この対応は啓蒙主義思想のゆがみ逸脱であるというべきです。彼らが大学研究費の利害関係者であることは間違いありません。だから、自分たちのやりたい研究費が圧迫されるのは困るという利害関係者の主張であるというならば納得できます。しかし、彼らの発言は、利害関係者からの意見という枠を逸脱して、俺たちの言うことを聞かない無知な仕分けには正当性がない、いわぬばかりの傲慢な意見発表です。これは啓蒙主義の歪んだ表れで、行政的判断を「著名大学と著名学者」の権威で裁いた「学者馬鹿」の僭越な発言というほかありません。
学者研究者たちが、自己主張を利益団体として、社会的な共感を得られるように論理立ててすることなら分かります。しかし、自己主張の正当性を、権威を傘に来て強調するだけにしか映らない主張でした。一体、彼らは、これまでの予算要求を文部科学省に対して要求するに当たって、どの程度社会的に合理性の高い説明をしてきたのでしょうか。学者たちがやりたいと主張する研究に関し、今回の事業仕分け作業での回答者となった文部科学省の関係者に、現在の800兆円近くある財政赤字国家の予算として、どの程度の納得できる資料を整備して説明したのでしょうか。また、実績として国会議員たちの質問に耐える準備をし、血税を使う説明責任を果たしてきたのでしょうか。

彼ら学者たちのやるべきことは、居丈高に啓蒙主義者として自己主張をする前に、まず、自分たちの主張をどのように今回の予算案作成の基礎作業した文部科学省に説明したか、そして、文部科学省がその要求を理解して財務省に提出したか、さらに、行政刷新会議での各章の国会議員に対する説明と審査経緯はどうであったのか。有名大学の学長達はそのプロセスを、「社会に対して、分かりやすく謙虚に説明する」ことが必要であったはずです。しかし、彼らはジャーナリズムに向かって吼えただけでした。
もし、その作業がやられていれば、一体この予算を切り捨てたことが正しかったのか、間違っていたのか、その責任はどこにあったか、が国民に分かることになります。そうすれば、その改善の途が、次回の国会選挙も含んで、反映できるはずでした。

国会議員は、基本的には、所詮「素人」集団
国会議員の事業仕分けで果たした際の役割と、その能力との関係での、「国会議員」という人物の資質について考えてみることが必要です。国会議員は、所詮、多種多様な利害に関係する国民の代表者と考えるべきで、一部の階層からの推薦を受けたとしても、それらの推薦者の利益のよき理解者であっても、その特定の国民の代理人ではありません。国会議員には、国民の利益を代理をするような国民の最小公倍数的な知識や経験を求められていません。国会議員には、専門的知識のある人や、高学歴や、博識の人もいれば、専門性はなく、低学歴で専門知識な低い国会議員もいます。

国会は専門知識を競い合う場所ではなく、国会議員に求められている資質の最大の要件は、現状を理解し、専門家の意見を間違わず理解し、国民の意見を代表する判断の出来る資質で、個別の専門知識ではありません。国会では国民の代表者に専門的知識がなくても、国民一般の消費者としての権利の主張と義務の履行が出来ることを前提に、国会議員としての活動が出来るようにできています。議員は、専門家集団を国会の議員調査権を使って調べることはいくらでも出来ます。憲法で「国家が国民に約束していることを実現する」ために国民のニーズを調査し、それを実現するためにはどのような方法があるかを専門家たちの知識で提案を纏めさせて、それらの選択肢の中から、国民的感覚で憲法に規定してある国民の利益の選択する仕事が国会議員に求められています。

今回の事業仕分けに関しても、国会議員は、「費用対効果」の関係で予算案所審査しているのであって、その技術的内容ややり方を議論する専門的知識を持っている専門家集団ではないし、その様な審査をすることも、必要も求められていません。国会議員が専門的知識を持たないことを恥じる必要もありませんし、それのないことを非難する必要もありません。所詮国会議員は「素人」であってかまわないのです。

小泉内閣の裁判員制度との違い
小泉内閣でやられた行政改革や司法改革はこれとは全く違ったものでした。小泉内閣の取り組んだ行政改革・司法改革のうちの行政改革は、護送船団方式で、自民党内の権力争いが、あたかも国家の行政改革の基本問題であるとして取り上げたものでした。竹下派が握っていた郵政行政と癒着した政治権力を崩壊する権力闘争としての行政改革であって、主権在民の観点で,国民にとって行政を風通しのよいものにするというものではありませんでした。小泉内閣のやったことは、自民党内の利権構造の改変であって、国民主権の行政改革ではありませんでした。
司法改革についても同様で、国民に分かりやすい司法にするのではなく、本来、司法内部で体質改革しなければならないことを怠り、刑事訴訟に限定して、これまでの刑事訴訟事件での最高裁をトップと、検察とが癒着した司法の膿を出すことはせず、それをむしろ隠蔽してしまうことをしたものでした。そのやり方は、司法への住民参加ということで、刑事事件に隠された検察と司法の癒着問題を反らし、刑事裁判の責任を国民に転嫁することで司法改革を闇に葬り去ってしまったものが、小泉の司法改革でした。

高い専門性が要求される行政及び司法事務
行政や司法は、憲法で国家が国民に保障した国民の基本的人権を護る行政事務又は司法事務を適格に実行する制度と、組織と人材によってしか、期待どおりに行うことは出来ません。そこで国家行政組織法を軸に各省の行政組織法、各省の行政を実行する行政法と、それを担う職員の資質、採用、人事管理を定めた国家公務員法、地方公務員法に基付き、職員の任用から研修、人事管理まで、専門的知識と能力を有するものが、それぞれの知識、能力を駆使して、実施できるように作られています。
国会という国民の代表という素人集団が制定した法律を、司法、行政の専門機関が担当することにより、立法どおりの行政が行われることになるはずです。しかし、現実には、国会で考えたとおりの行政や司法が行われないことから、それをモニタリングする必要が生まれてきます。通常の行政の欠陥は、行政不服審査請求という方法で、直接、行政府に処分又は不作為の吟味を求めることが制度化されています。それでなされた行政内部での最高の判断に疑問があるときには、三権分立の仕組みで、司法で判断を争うことになります。
その司法の判断が国民代表者が国会でなした立法に照らして適合していることは、主権者である国民によりモニタリングされなければなりません。それが欧州や米国でやられている陪審員制度です。陪審員は裁判官という専門側の判断が、国民の代表が国会でが立法した法律で裁かれた結果が、素人の国民で求めたものに合致しているかという結果の評価は国民でやれる仕事です。

国民に責任転嫁の裁判員制度
しかし、小泉内閣は、陪審員制度という国民視線で裁判をモニタリングするのではなく、素人の国民に、専門的知識の学習や訓練(司法訓練制度)を受けた裁判官でなければ出来ないとされた仕事を、全く専門的知識や訓練をする機会も与えないで、裁判官に支払われる高給とはかけ離れた安い費用で、無理やりに担わせることで、国民に司法の責任を転嫁したのです。被告(患者)の立場に立ってみれば、素人(ヤブ医者)の診断で決められた処分(処置と処方)に従うべきことを受け入れることはできません。
その裁判員制度な最高裁判所以下の司法が反対しないどころか、積極的に賛成したのです。司法は司法が担うべき責任を国民に責任転嫁することを喜んだか、それとも彼らはこれまで法律を無視し、本当は素人でもやれる仕事をやってきているということを社会的に認めているのか、最高裁判所は、そのいずれかの行動をしたもので、司法の対応は、気が狂ったのではないかとしか私には思われません。

民主党の当面の取り組みの評価
今回の事業仕分けの取り組みに対し、最初の取り組みであったことで、不十分であったことはいくらでも指摘できると思いますが、私は、民主党が「国民の目線で」といった政策目標を実践したという点で評価しています。時間さえ許せば、これまでの政府がやってきた国民から提出されたパブリックコメントを行政が勝手に処理できるのではなくて、出されたコメントには忠実に理由をつけて採択、非採択、保留とその後の処理とを明らかにするようなことが取り組まれることが必要だと思います。いずれも時間と費用が掛かる仕事になりますが、主権在民の民主政治をするためには避けられない問題だと思います。その方法として今回のような公開の場で、国民の代表者として政権を任された政党の議員が国民を代表して公開の場で「事業仕分け」に取り組んだことは非常に評価できると思います。

事業仕分けの次の段階
実は、この民主党の行
った事業仕分けの結果について、今度はジャーナリズムが主体性を持って野党を交えて評価する作業が必要になるのです。その評価を通して、当初の計画が実施に移されたときの国民のモニタリングとなり、それが次の選挙を通して政権政党の評価として現れることになると思います。CM(コンストラクション・マネジメント)でもOM(オペ令ション・マネジメント)でも、P(プラン:計画)-D(ドウー:計画通りの実施)-C(チェック:計画との照合検査)-A(アクション:修正計画に基づく再起動)という試行錯誤を繰り返して改善していきます。
計画したものは、その時点での最善であっても、社会経済環境は常に動いており、実施段階ではその変更を求められることもあります。計画と実績との違いを通して計画の段階と実践との段階との矛盾を理解して改善に取り組むことが求められています。
民主党は、「初心、忘れるべからず」で、「国民の代表者」であり、「代理人」ではないことを肝に銘じて、専門知識、経験を有する人を駆使して、国民に正しい情報提供をして、国民に判断をさせること、つまり、代表者として国会議員である民主党議員が、どのような判断をしたかの「国民に対する説明責任を果たす」ことをかならず行い、そのなした判断に関して、しっかり責任をとり、次の選挙で国民の審判を仰ぐという姿勢を維持することでなければなりません。
戸谷英世


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