メールマガジン

メールマガジン第410号

掲載日2011 年 6 月 28 日

メールマガジン第410号(平成23年6月27日)
皆さんこんにちは。
法事国を腐らせている司法(裁判所)
目下二つの事件、4つの裁判で判決と最終段階を迎え、関係者は一種の絶望感を味あわされています。私が官僚だった時代、官僚の醜さを実感していました。産官癒着の上前をはねていた政治家の醜さを知って、政治家のことを、官僚たちでさえ「卑しい」と言っていました。政治スキャンダルは国民の驚きの対象にはなりませんでした。しかし、現在の裁判を見ていると、裁判官は、平然と法律を蹂躙し、産官癒着の不正に手を貸している行政の法律違反を幇助し、業者に巨額な不正利益を供与しています。
その結果、国民の生活と都市生活の安全とが危機に追いやられているのを再三見せ付けられてきました。司法による法律違反により国民の痛みが深まり、「日本は法治国ではない」という絶望感が、国民に蔓延し始めています。
戦前の軍国主義の治安維持法時代の日本やヒットラーのナチズムや、ムッソリーニのファシズム、スターリン時代のソ連・東欧と国家と国民との関係は、現在の福島原子力発電所事故処理同様、国民の利益を奪い、産官利益中心の政策は何時までも不変という絶望感です。

内閣法制局が持っていた健全性はいずこに
私は官僚時代に政府の立法に何度か関係し、中でも、都市計画法の制定や、建築基準法第五次改正(防災避難規定の大改正)に当たり、内閣法制局の法令審査で、行政法が憲法に抵触していないかに関し、法制局は非常に分りやすい議論で審査したことに、一種の驚きと新鮮さを味わった記憶があります。
私が官僚になった年に、直属の上司が、「君、官僚になったのだから、技官でもこの本は読んでおけ」と、元内閣法制局長官・佐藤達夫著「法制執務要提」を見せ、指導してくれました。この本は実務的に法律を扱う入門書として、その後の私の行政官としての仕事を大いに支えてくれました。その頃から内閣法制局に対しては、佐籐達夫の著書を通して法律に対する信頼感をもちました。内閣法制局の法令審査を受けたとき、国民の生命と財産の安全という憲法第25条との関係を持ち出し審査をしてくれた法制局に対して日本国憲法の護り人という一層硬い信頼感をもつことができました。

官僚と政治家の腐敗は、司法・法曹界の腐敗と比べれば、まだ「まし」
しかし、現実に内閣法制局から示される憲法第9条の解釈や、安保条約関係の日米地位協定では失望が重なっていました。それでも、高度な政治の絡む問題以外では、成文法体系の日本国では文理解釈を基本とするので、最終的には「法律が国民を守ってくれる」と言う信頼をしました。現実に私が関係した行政事件では、「行政機関が行政法に照らして正しい行政処分をしたか」を問うものでしたから、法治国であるかぎり、司法(裁判所)は、より明確な国家の法の番人であるから、内閣法制局のような行政部局より憲法に忠実に、法律どおりの判決を出してくれると期待してきました。
しかし、実際に行政事件訴訟をしてみると、裁判官は行政関連の法律を知らず、法律を読まず、判例やその解説を金科玉条にして判決を書いています。裁判官は関連する法律を勉強しようとせず、不正をやった行政庁の言いなりの判決を「オウム返し」に書いているだけです。官僚や政治家よりももっと醜い形で不正幇助をしている連中であることが分ってきました。
なぜ司法が行政法に抵触する違法を容認し、不正幇助を繰り返しているのか、と言う疑問抱かざるを得ませんでした。初めはそのような疑問を持つこと自体「三権分立」と言う日本国の憲法に照らして、司法が行政に迎合することは思いも依らぬことに思われました。しかし、その疑問を抱いて日本の裁判史を見ると、別に驚くほどの疑問でないことが分りました。

裁判の卑しさの原点「松川事件」
最高裁判所判事田中耕太郎が、松川事件において、検察庁が起訴した事実が弁護団によって、その矛盾が暴露され、公判を維持することが困難な状態に追い込まれたとき、「起訴事実に矛盾があったとしても、(吉田内閣が政治的に「日本共産党が仕組んだ犯罪」と言明し、犯罪の筋書きが政治的に犯罪の事実は決っているのであるから)その矛盾は問題にしなくても良い」という趣旨の発言をしました。広津和郎などの文学者の裁判批判を「雑音」と言い、「文士裁判」と揶揄して見せたが、それこそ裁判官の傲慢な「恥の上塗り」でしかありませんでした。その田中判事が国際司法裁判所の判事に政府から推薦されたのです。
裁判官社会は極めて身分制の厳しい社会で、裁判官と書記官だけではなく、家裁、簡裁、地裁、高裁、最高裁の関係に学閥が関係した「橋のない川」の人種差別がされている社会です。差別の序列の中での昇進に「人生の価値」が集約されている社会です。
官僚社会で見ていたものもひどい差別社会でしたが、それとは全く比較にならないほどの閉塞した司法社会での差別がやられていることが分ってきました。裁判官たちは、自分等の昇進のために裁判をやっているのであって、「国民の僕として主権者の国民のために裁判をしている」という意識は全くありません。要するに、自分の利益本位で、裁判官自身の昇進のために、任命権者の意向にあった裁判をしているのです。

裁判所の任命権者の意識
裁判所の任命権者の意識は、「裁判官たちの法律知識・能力が欠如していること」を承知しています。そのため、裁判官の弱点を隠蔽するために、裁判所の封建的身分制度を利用し、批判をする余地を与えず、控訴又は上告と言う裁判官の批判を受けにくい「テフロン加工された」裁判制度を乱用し、法律違反を好き放題にやっているのです。その横暴なやり方は、次の3つの横暴な(トラの威を借る)裁判に集約されています。

(1)    第1は、裁判所の「経営として」迅速な裁判を進めることです。そのためには、「刑事事件」は、起訴権者の検察庁の意向に従い、「行政事件」では、被告である行政庁の処分を支持することです。司法(裁判官)は、所詮、専門の法律知識は欠如しているのであるから、専門的知識を有する行政官に迎合すれば、国家の行政を指示することになり、馴染みの客(刑事事件は検察官。行政事件は行政庁」と仲良くやったほうが、円滑に裁判が進み国家の安定になると考えています。行政機関(検察庁や行政機関)の扱っている刑法、各種行政法は、法律の仕組みが複雑で、裁判官にとっては正確には理解できておらず、「恥をかかないためには検察官と行政機関の言いなりになるほうがよい」と考えていることにあります。

(2)    身分制の激しい司法の中で「世間知らずの裁判官たち」は、基本的に社会性がなく、自己中心的です。そのため、立身出世をするためには、任命権者又は人事権を持つ人の僕になることで、やくざ社会同然の「面倒を見る、見られる」の「貸し・借りの関係」で、組織が作られました。最高裁判所の法律違反の判決「判例」を法律に優先させることが忠誠になっています。裁判所の差別構造に対応し、多くの法曹界では腐った裁判官に迎合し、自分の裁判では、裁判官から少しでも温情を受けようと醜い「擦り寄り(迎合)」します。裁判官に楯突くことはしません。裁判官が判決に当たり、訴訟人(被告、原告)を見下し教訓をたれ、感想を言い、注意をし、情をたれ、喜怒哀楽表現を口にし、判事の口にすべきでない貧しい「人間味」を主張します。裁判官は法律に謙虚でなければならず、自らの判決が法律に照らしていかに「判決が正当であるか」を証明することに集中しなければなりません。それにも拘らず、現行の裁判は訴訟人を見下し、「裁いてやるぞ」と言う時代錯誤の態度に終始しています。

(3)    民事事件出の裁判所の基本姿勢は弁護士とつるんでの和解が基本です。裁判所は判決を書く必要がなく、訴訟弁護士には、それぞれの依頼人に対して「敗訴になる可能性を匂わせ(騙し)」、成功報酬という名で、弁護士報酬に加えて、利益の折半する暗黙裡の「背任行為」が白昼公然と起こっています。裁判官は弁護士が訴訟代理人の付かない裁判を嫌がり、弁護士を付けさせることに必死となります。

裁判官のスキャンダルの追及
裁判官OBが大企業や団体に天下っています。弁護士になる裁判官もいます。いろいろの状況を多角的に見ていますと裁判官は、法廷の高い席から将来の退官後の生活を考えて就職活動をしているのではないかという感じを持たされてしまいます。裁判官には、退官後、司法関係の権力を行使する職業又は利権(訴訟関係)への就職に関しては、厳重な調査をしない限り、官僚同様、許すべきではないと言う考えを持っています。
日本中で最も汚い「犯罪幇助」をやっている身分差別に縛られた機関が司法である。この汚い組織の掃除をどのようにしたらできるか。汚い裁判組織を情報公開することで、国民がそのような裁判組織を容認できるか、と言う視点からこの問題に取り組んでいったらどうかと考えています。今回は具体的事例を割愛するが、今後機会を作って、皆様に考えてもらいたいと思います。
(住宅生産性研究会理事長 戸谷英世)



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