メールマガジン

メールマガジン第428号

掲載日2011 年 11 月 1 日

メールマガジン第428号(11月1日)
皆さんこんにちは
先月10月24日から月末までバルト三国に行ってまいりました。このツアーは3月11日の東日本大震災直後に予定していたものが7ヶ月延期となったものでした。

バルト三国
バルト三国とは、ロシアの北東に位置し、バルト海に面し、南北に並んだエストニア共和国、ラトヴィア共和国、リトアニア共和国の3国をいいます。いずれの国も歴史文化、民族の構成も違い、現在使われている通貨も言葉もそれぞれ全く違っており、共通していることは、ソ連から不当な弾圧を受け、それがソ連の崩壊とともに独立しました。ソ連の支配時代に多数のロシア人が移住してきた民族作戦の結果、現代でもロシア人の占める比率は高いという事実もあります。ソ連の侵略時代の歴史がロシア人にとっても、自慢できない歴史であり、当地での半ロシア感情になっているのではないかと思われました。かつて、ソ連時代のもの(都市景観)は、都市の表に見える景観からは、すっかり姿を消していることからも、その様子を感じとることができました。

私の「バルト三国知識の欠如」
バルト三国は1990年ソ連の崩壊により独立を勝ち取った国で、日本とはあまりなじみのない国と考えていました。特にバルチック艦隊が就航したエストニアは、日露戦争のときのロシアであり、もともとロシアの属国くらいにしか考えていなかった国でした。ロシアを前提に想像していたものはバルト三国からは、ほとんど目にすることはなく、西ヨーロッパ社会と言う印象が強く感じられました。
今回、35年前にインドネシアで働いていたときに、「日本の学校教育で歴史を教えているのですか」と聞かれたときの恥ずかしい思い出を、もう一度、思い出しました。私は日本の教育はしっかりしていたと思い込んでいましたから、「日本では世界史も日本史も全部しっかり学んでいますよ」と答えたとき、「それでも、あなたは日本とこれほど深い関係のあるインドネシアのことについて、日本のインドネシアに対する植民地支配のことは勿論、地理や歴史で、日本との関係していることを、何も知っていないじゃないですか」と指摘されたときのことを、そのまま思い出しました。それほど、バルト三国に対しての私の知識は貧しいものでした。
今まで、世界各地を訪問し、訪問地の関係書籍を購読し、世界歴史についての無知を知り、中央公論社の世界歴史全集の全巻を読み、そこに書かれていることが世界歴史の本の一部であることを改めて知ることになりました。歴史の知識の貧しいことを再認識していたつもりでしたが、さらに幼稚な歴史的事実を知らぬことを、今回も見せつけられる思いでした。

バルト三国の日本に対するイメージと日本人の抱くバルト三国のイメージ
当地の人からすると、エストニアを支配していたロシアは、エストニアにとっては、憎き占領国でした。当時から現代まで、日露戦争で日本が勝利したことで、エストニア人にとって、大変に日本に対して親近感を感じていた国であったということを今回の旅行で知り、驚き以上に恥ずかしく思いました。かつて、トルコに出かけたとき、当地の東郷ビールが売られているのに出会い、そのいわれを聞いたとき、「憎きロシアを倒した国」連合艦隊の三笠の船長東郷平八郎に対する日本へのエールだったということを聞き驚いたときと同じ驚きでした。
日本では司馬遼太郎の「坂の上の雲」が映画化され、バルチック艦隊のこともずいぶん広く知らされてきましたが、バルト三国と日本との関係は、ほとんど知らされていなかったと思います。私は30年以上前「坂の上の雲」は読んでいたし、秋山好古、真之兄弟や正岡子規の生まれ育った松山で2年間生活し、秋山兄弟の墓地を訪問したり、日露戦争のことを少しは勉強していたつもりでいました。しかし、ロシアとエストニアの関係を、基本的には潜在的に同じ利益に立つ国と真逆に理解していたことは恥ずかしいの一語に尽きる理解でした。

杉原千畝とユダヤ人救出
「シンドラーズリスト」が映画化され、その映画を見、原著の翻訳を読み、かつて「夜と霧」を高校時代に見たときの恐怖を再確認した頃、杉原千畝の話がジャーナリズムを賑わし、関係した書籍を驚きの気持ちで読んだ記憶が残っていました。その程度の記憶でリトアニアを訪問しました。リトアニアには杉原千畝のユダヤ人に対するビザ発行で、外務省の2度にわたる命令を拒否して、自らの身の危険を冒してまで、ビザの発給に尽くした話(かつて、『決断:命のビザ』を読んでいました)を聞いていましたのが、今回訪問して、日本で感じた以上にリトアニアでは国家的に杉原千畝の偉業を評価してくれていることを見て、大変誇らしく思いました。特に、日本国内以上にリトワニア共和国そのものが、ユダヤ人を守りきれなかった気持ちを込めて、杉原千畝に対する尊敬の念を桜公園の実現で意思表示していることを知って驚きと感謝の気持ちを抱きました。

アールヌーボ-とユーゲントシュティール(young style)
ラトビアでの思いがけない収穫は、アールヌーボー様式のドイツ版というべきユーゲントシュティール建築のレベルの高さ、その規模の大きさでした。たぶん本家のドイツ以上に充実した街並みを保存して、町全体が建築デザインの宝庫という感じを受けました。昨年フルブライグのべーレ地区のユーゲントシュティールの街並みを見学した際にも、その落ち着きと時代を超えた美しさに驚きました。
今回のラトビアの首都リガにつくられていたユーゲンシュティールは、その規模と内容において当時リガの市長が卒先して取り組んだといわれるだけあって、極めて優れたレベルのものでした。その当時、同じ建築を造ってはいけないという厳しい指示もあり、並んでいる建築物が相互にデザインを競い、その相乗効果が街並みの美しさに表れていました。

「ソ連と日本」の共通した植民地経営
バルト三国と、一口で呼んでいますが、その性格は全く違っています。共通していることは、ドイツとロシアやソ連に国家を蹂躙され、特に、ソ連時代には、民族浄化といわれるのにふさわしく、民族のシベリアへの開拓のための強制移や、反対にロシア人をこのバルト三国に移住させるといった残酷で不当な人権蹂躙を半世紀以上続けたということです。
その話を聞いていて、何か日本が東洋拓殖会社を造って、朝鮮侵略を行い、朝鮮人を大陸に追い出し、国内から農民を朝鮮に移住させた明治政府による朝鮮経営と同じことがやられていたことを聞かされる思いでした。その政治の程度において、国家そのものの構成を変えてしまうという意味では、日本の朝鮮経営と基本的に大同小異というしかありません。
しかし、日本から多くの観光客として出かけている人たちのほとんど全員といってよいくらいの人が東洋拓殖会社の存在は勿論、日本政府がやった土地測量で、当時、入り会い制度であった朝鮮人の土地所有制度が破壊され、多くの朝鮮人の土地が日本政府によって奪われ、居住地から追い出されたことを知っている人はいないのではないかと思われました。

バルト三国の建築文化
バルト三国は12-13世紀ごろから拓け、特にいずれの国もバルト海に面していたため、古くから地中海と大西洋周りの貿易船が出入し、ハンザ同盟に象徴される商業貿易が盛んであったため、イタリアを始めとする文明、とヨーロッパ文化が当地にやってきて、最も充実した建築様式の建築物が街並みを作ってきたことに大きな特色があります。
建築様式として、ヨーロッパ大陸中の最も完成度の高い建築様式が見られるということでも、都市のデザインや建築の様式を学ぶためには見るに値する「実物の教科書」を見る思いがします。
特に、バルト三国は、いずれもそれぞれの民族意識が高く、そのアイデンティティとして、16,7世紀当時から、ルネッサンス様式を初め、バロック様式、ロココ様式、ネオクラシック様式がイタリアの建築家を招聘して建築されたこともあり、基本に歴史様式に忠実な建築が、社会的な尊敬を得て建てられたようでありました。住民たちは、これらの建築文化を自分たちの生活文化を豊かにするものとして楽しんできた様子が伺えます。その意味では、バルト三国の都市は、中世宗教建築、城郭建築、近世都市商業建築、近代建築に、それぞれ固有の建築文化を発展させ、いずれも建築デザインとしては非常に完成度の高い教科書を見せてくれる国です。

見学内容に関してはビルダーズマガジンで皆様にご紹介しようと考えている。いずれにしろ、8日間の短い旅行で、バスに揺られての3カ国めぐり、駆け足の見学でしかなかったが、晩秋の黄葉が美しく、適当に木の葉も落ちて、建築物を見る上では大変恵まれた時期であった。気温も零度前後で太陽高度も低くまぶしいが陽の当たった建築物は輝いていた。観光立国を掲げる3国とも、建物の外装塗装に5年毎の塗り替えをしているとのこと、色鮮やかなユーゲントシュティール様式やバロック様式の街並みを見せる国の建築探訪、良い見学ができた。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長 戸谷英世)



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