メールマガジン

HICPMメールマガジン第502号(4月15日)

掲載日2013 年 4 月 15 日

HICPMメールマガジン第502号(4月15日)
皆さんこんにちは、
マーガレット・サッチャーさんのご逝去を悼んで

彼女は英国の首相でしたが、世界の政治はもとより、それまでの公共住宅政策を大きく変えた人です。住宅産業関係者は彼女の業績を忘れることがあってはならないと思います。たぶん、日本の住宅産業関係者で、彼女のことを知らない人はいないでしょう、と言いたくなるのです。しかし、実際サッチャーさんが亡くなってからの追悼情報の中に、住宅産業との関係でその業績を報道した記事はほとんどありませんでした。サッチャーが映画化されたことで、この映画はとても良い映画でしたが、彼女のことは、「鉄の女」とアルツハイマー患者になったことで知っている方が多く、その偉大な業績は知らされておらず、それらが一般的なサッチャー像ではないかと思います。

日本の戦後国家再建のモデル:英国
日本の戦後の住宅政策は、国家が国民の住宅にどこまで責任を持つか、という憲法25条との関係で、住宅問題・住宅政策が考えられていました。日本の戦後復興も、「戦争の放棄」と「不燃都市の建設」を掲げ、新憲法との関係で、国家の実現目標は、英国が進めている「福祉国家」を鉄筋コンクリートで建設することといわれていました。その中の都市づくりのモデルは、戦後の英国労働党政府によるエベネッツァー・ハワードの「ガーデンシティの理論」に基づくものでした。それは公営住宅を中心とするニュータウンの建設とグリーンベルトによる都市のスプロールを防止するものでした。そして住宅政策は全国民を対象にした公営住宅による住宅供給でした。日本の首都再建策と住宅政策は、英国の労働党の政策の倣って取り組まれました。英国では国家の強い管理下で福祉国家の建設が取り組まれたため、日本からそれに倣うため、多くの行政関係者や民間人が、英国に派遣され、留学しましたその後1968年の都市計画法の制定は、英国の「都市農村計画法」を下敷きに作成した「総決算」でした。。

「住宅政策とは公営住宅」と考えてきた英国に倣う時代
戦後は第二次世界大戦でロンドンが壊滅的に破壊された。英国を戦勝国に導いたチャーチル首相は保守党でしたが、終戦末期に行われた国政選挙では、住宅政策を政策の中心に掲げた労働党アトリーが、政権を奪いました。労働党は、政府の戦後復興の中心に公営住宅を据え、ニュータウン開発を中心にした都市開発の下に、新規住宅の80%以上を公営住宅で供給するという住宅政策を取りました。
住宅問題といえば、産業革命の関係で生まれた問題であるという理解が基本で、住宅政策といえば、「産業革命が最初に起こった英国の住宅政策に倣う」というのが資本主義国家の共通した住宅政策でした。エンゲルスの『住宅問題』や『英国における労働者階級の状態』が英国の住宅政策の原点にあり、その対策として英国での住宅政策が先進諸国の住宅政策のもとになっていました。関西の京都大学西山教授の門下生、故巽和夫教授、住田昌二教授等は、未だに公共賃貸住宅が住宅政策の基本と主張しています。

日本の住宅政策と「狸穴論」
日本の住宅政策は「住宅難世帯の解消」に始まりました。日本経済は朝鮮戦争特需で潤い、国家の経済基盤が造られ、高度経済成長に入る前には、住宅政策の目標は、「一世帯一住宅」になりました。その目標を実現するために英国の住宅政策をモデルに、公営住宅、公団住宅、公庫住宅の3種類の住宅政策を、国が責任を持って行う公共住宅政策になりました。その目標は、「英国の住宅政策」でした。
日本では、河野一郎が建設大臣になったとき、河野大臣は「狸や狢でも自分の住処(すみか)を持っている。万物の霊長たる人間が自分の住宅がもてない筈ない」と、英国のような公共住宅政策をしようとすることを批判し、日本の公営住宅重視の政策を妨害しようとしました。当時、河野大臣は大臣室にはあまりいなくて、日ソ漁業交渉で大きな力を発揮したことも関係してか、ソ連大使館と隣接した狸穴の建設省の合同会議所に事務所を持っていました。それもあって「河野の狸穴論」と揶揄され、当時の社会的な住宅政策は、やはり、英国の住宅政策に倣うべきという時代でした。

世界恐慌で成果を挙げたケインズ経済学
戦後の経済政策の基本として取られた日本の政策は、占領政策の一環として米国の経済政策を受け入れたものでした。このケインズ経済学が1929年の米国の世界恐慌後の米国経済再興の政策で大きな成果を上げたことから、一挙に世界の経済学の中心に躍り出ることになりました。英国の経済学者ケインズ経済学は財政需要を政府が生み出すことで国家の経済をリードするものであり、戦後、世界中の国々は、戦勝国も戦敗国も米国の経済援助を受け戦後復興を図ったことから、世界の経済政策はケインズ経済学がリードすることになりました。当時ハーバード大学にいた都留重人が、新しい経済学として米国で採火を安倍田ケインズ経済学を戦後復興の経済政策に取り入れるべきことを提唱し、日本にケインズ経済学を導入に貢献をしていました。また日銀法改正に関係した塩野谷九十九名古屋大学教授もケインズの「一般経済理論」の翻訳者として、金融界に影響力を持ち、その後、多くの卒業生を、日銀をはじめ主要都市銀行に送り込みました。多分、日本で当時ケインズ経済学に転換した経済学者の中で、「マルキシズム経済学批判ができて転向した人」は、いなかったのではないかと思います。

マルクス経済学からケインズ経済学への宗旨替え
日本の大学の経済学も終戦までは、資本主義経済の社会科学的の法則性を解明したマルクス経済学が中心でした。戦時中、共産主義は否定されていましたが、アダム・スミスなど伝統的経済学は教育として許され、基本的にマルクス経済学ということを口にしないように「伝統経済学」などといっていました。戦時中は日独伊防共協定がありましたので、「ドイツ・イデオロギー」と言えば、実は、マルクス・レーニン主議のことを指していましたが、官憲など洋書の背表紙を見て「ナチズムと勘違いし」たという笑い話も実際にあったそうです。しかし、価値論を基礎にした価格論をベースにした経済学は、その行き着くところはマルクス経済学でした。一方、戦後のケインズ経済学は価値論を持ち出さず、需要と供給関係を基礎に、価格論による経済運営を実証的に影響する現象論的認識の基づく経済論でした。
ケインズ経済学は、経済政策や経営を操作するうえで現実的であるということで、政府の経済政策や日銀の金融政策はケインズ経済学となり、日本の経済学は「掌を翻した」ように、理屈も説明できないで「マルクス経済学は間違った古い理論で、ケインズ経済学が新しい正しい理論だ」と「宗旨替え」をしました。経済学は宗教のように、マルクス経済学からケインズ経済学「信仰」として取り代わりました。その転換は政府の政策になびき、学生の就職のために転向しました。皮肉にも、ケインズ経済学による政策に破綻が生まれてきた結果、あれほど危険視されていたマルクス経済学が、現在、再評価がされ、NHKでもその解説がされるようになっています。

英国を組織的に構造改革(リフォーム)した首相
英国は7つの海にあった植民地を失いました。そこから大きな富を得ていました。その結果、英国は戦後の経済復興期、米国からの援助も得て、一時は、住宅を中心とする内需拡大政策で国内景気を維持拡大し、福祉国家の実現を目指して世界をリードするように見えました。しかし、戦後の一時期を経過すると英国は衰退の一途をたどりました。サッチャーが首相になったときは、先進工業国の産業構造が重厚長大から軽薄短小に変わり、英国のロンドンやリバプールなど、それまで英国経済をリードしてきた重厚長大型都市が軒並みに衰退して行きました。英国の財政状態は最悪で、失業が急増し、犯罪が多発し、アイルランドとの関係も悪化し、国民は希望を失い、誇りも失い、英国人は「英国病」という「無気力で、何もしないで福祉に依存する」という慢性病に罹患していました。
それに活を入れた人がマーガレット・サッチャーでした。サッチャーの大きな政策は次の5点です。

第一は、英国が国際社会の中で存在感を発揮するためには、英国の金融機関が倒産しても、英国が世界の金融中枢であるという経済活動の国際的中心であるという立場を築くために、「シティ」を中心にしたテームズ河の再開発(ドックランド再開発)を伴う「ビッグバン」と呼ばれた金融の自由化政策を果敢に実施したことです。

第2は、国家の財政を苦しめていた公共住宅政策をはっきり廃止し、公営住宅の払い下げと新規の公共住宅を建設しないという住宅政策を実行したことです。重厚長大型産業都市であったリバプールを歴史博物都市とし、英国自体の産業構造を重厚長大から軽薄短小の産業都市に転換したことです。

第3は、行政改革を断行し行政組織のスクラップアンドビルドを実践し、首都ロンドンの行政機構を変え、国家の官庁機構を全面的に改組し、役に立たない組織は潰し、経済活性化に必要な組織を創設し、あわせて慢性病化していた福祉政策をスリム化し、税収の増大を図ることをしました。行政改革〈リフォーム〉の断行です。

第4は、フォークランド戦争です。英国の移民が住民の大多数であるフォークランドをアルゼンチンが攻撃したことに対し、英国の威信とそこに住む住民の意向を尊重して地球の反対側にある領地を守り抜くことで、英国民のナショナリズムに火をつけ、国家への求心力と威信を回復させたことです。

第5は、エリザベス女王との関係は、必ずしもよかったとは言われませんが、プリンスチャールズの「ビジョン・オブ・ブリテン」にも共通する英国の歴史伝統を尊重することで、英国人である誇りをもたせることでした。公営住宅の廃止に対してプリンスチャールズは、コーポラティブによる賃貸住宅に取り組んだリバプールのウエラーストリートのコーポラティブ事業を支援するなど、サッチャー首相との英国が再生するための政策を進めるという関係はよく対応していました。

リーダーシップを発揮したサッチャー首相の経営力
サッチャーが、その時代の中で大きな役割を果たすことができた理由は、同じ国民で構成されている英国を、その置かれている社会経済環境の中で、大きな国際的な流れを見誤らないで、正しい方向付けをしたことだと思います。こと住宅政策に関しては、ある意味で世界住宅先進工業国の住宅政策関係者を敵に回し、住宅問題研究者の大きな批判を省みず、公共住宅政策から民間活力を生かす住宅政策に大きな舵取りをした、皆の共感の得られる必然性のある政策を取ったことに尽きると思います。そのことによって取り組みのベクトルが揃い、国民の活力が相乗効果を発揮することができました。

サッチャーに学ぶ行動を
日本の工務店が建設業として自力を高めるためにはCM能力を高めることをおいてないと確信していますが、政府が進める護送船団詐欺政策の前に、これまでのHICPMは「蟷螂の斧」であって、期待した効力を全く発揮できないでいることを感じています。
工務店の持っている潜在力を住宅購入者のニーズの実現に向けて発揮できるようにするためには、設計施工、材料供給、住宅金融など住宅産業に携わる人たちの能力が同じ方向のベクトルとなって組み合わせられなければなりません。そのためにサッチャーの行政期を振り返って、HICPMとしても、もう一度CMを推進することを考えています。
(NPO法人住宅生産生研究会 理事長 戸谷 英世)



コメント投稿




powerd by デジコム