メールマガジン

メールマガジン第521号(2013年8月20日)

掲載日2013 年 8 月 19 日

HICPMメールマガジン(平成25年8月20日)
皆さんこんにちは、盆休みはいかがお過ごしでしたでしょうか。
東欧諸国の変化を見たい

私は数年前から出かけてみたいと思っていたルーマニアとブルガリアに出かけてきました。
ロシア民謡で「ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方」と学生時代にロシア民謡で口にしたところです。塩野七生の『ローマ人の物語』でも古代ローマが支配するために大きな犠牲を払った豊かな土地ダキアであることが書いてありました。大陸の中にあり、バルカン半島そのものは東西南北の交易の要衝にあるうえ、その土地自体が肥えていることから、常に国土は外国の侵略や支配が及んでいたところです。古代にはガタエ人が居住していましたが、ローマ帝国の領土(ダキア属州)となったことがあります。現在の国名「ルーマニア」も、そのときの状態である(ローマ人の土地)を意味しています。社会主義国家経営として国威発揚をスポーツに向け、チャフラフスカのような10点満点の完璧な体操の演技をする素晴らしい選手を生み出した国でもあります。

歴史を知らないとわからない
以前、私がインドネシアに出かけ生活をしていたとき、インドネシア人の同僚から「日本で歴史の教育をしているのですか。」と聞かれたことがあり、「日本では中学・高校で日本歴史と世界歴史を学ぶ」と答えました。すると、「あなたは日本人が第2次世界大戦前からインドネシアを支配し、人を殺し、富を奪っていたことを何も知らないだけではなく、インドネシアの歴史も地理も何も知らない。世界史を学んだなど信じられない」と言われたことがありました。それは、今回訪問したルーマニアについてもブルガリアについても同じで、恥ずかしい限りです。そこで出かける前に、まず、両国に情報を調べることにしました。ルーマニアに限って歴史を概観してみて、民族の攻防と移動の複雑さに脅かされました。そこで旅行をする際、観光をしている対象の裏に隠されているものが歴史文化です。今回のりょくでは、観光に先立って、ルーマニアの歴史で調べたことを簡単に紹介することにしました。

年表から見た古代ルーマニアの歴史
紀元前513年、ドナウ川南でガタエ人の部族連合が、対スキュタイ人戦役中のペルシア王(ダレイオス1世)に敗れました。約600年後、ダキイ人は、ローマ皇帝トラヤヌスの2度の遠征(101年、106年)に敗れ、王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなりました。238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征し、ローマはドナウ川南まで後退を余儀なくされ、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編しました。271年、ダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いた後、民族大移動があり、フン人の帝国に併呑されました。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配しました。ゲピド人がトランシルヴァニアを8世紀まで支配し、その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、支配は1000年まで続きました。13―14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国が続きました。

中世から近世のルーマニア
中世にはこの地には、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があり、ワラキアとモルダヴィアは15-16世紀にかけてオスマン帝国の属国でした。オスマントルコの支配は、税金さえ納付すれば大幅な自治を認めるものでした。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲しましたが、パリ条約により1920年再合併しました。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領でした。トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降ハプスブルク家領となりました。1526年にオスマン帝国の属国となり、18世紀に再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続きました。

近代から現代までのルーマニア
ワラキアとモルダヴィアは合同し、1877年に独立宣言を行いました。1878年ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立し、第一次世界大戦でトランシルヴァニアを併合しました。同じ1918年ベッサラビアを回復しましたが、1940年再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲され、現在はモルドバ共和国、ウクライナになっています。1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなど、ルーマニアの一部を占領しました。国民は列強の領土割譲の言いなりになる国王カロル2世を退位させました。ルーマニアはドイツにつき日独伊の枢軸国側として参戦し、ソ連が占領した地域を回復しましたが、ドイツ敗退により、再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いた親ドイツ派のイオン・アントネスク元帥らを逮捕し、連合国側につき、王国内のドイツ軍を壊滅させました。

現代のルーマニア
戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍により王制を廃止させられ、1947年にルーマニア人民共和国が成立しました。しかし、ニコラエ・チャウシェスク独裁政権の下、次第にソ連とは一線を画す一国共産主義を唱え始め、西側との結びつきを強めましたが、1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命により打倒され、民主化されました。2007年1月1日に欧州連合 (EU) に加盟しました。しかし、欧州理事会は加盟に際し改革が不十分であると再審査となり、加盟後も改革の続行を条件に承認されました。しかし、経済基盤は脆弱であるため、現在時点でも、通貨は統合されていません。以上のような歴史を経験してきたルーマニア人が自らのアイデンティティとして受け入れ育ててきた空間文化を知るために、いろいろな糸口を探りながら、宗教、公益、歴史文化のつながりを貧しい知識を頼りに探ることになります。ルーマニアでは小さな村でもその歴史の個性を大切にしていました。

チャウセスクの驚異の都市計画
現在ルーマニアを訪問する人のほぼすべてが訪問する建築物は「国民の館」(パレス・オブ・ザ・ナショナル・パーリャメント)と呼ばれる延べ面積としてもペンタゴン(米国・国防省)に次ぐ世界第2の規模を誇る建築物です。チャウシェスクが自らの威容を国内外に誇示する意図でつくられた迎賓館ともいうべき建築物です。この建築物は、現在では各政党の事務所として利用されていますが、その利用面積は70%程度で、多くの床が未利用のまま放置されています。この建築物の化粧材料としては大理石や材木、絨毯やシャンデリアなどの照明器具が全国から集められ、床、壁、天井を豪華に装飾しています。チャウセスク大統領自身が工事中の現場を何度も訪問し、自らの歩幅を基準に実際の階段を歩き、蹴上げ、府水ら、踊り場の幅など6回も検査したと説明されています。チャウシェスク大統領は国民に向かってバルコニーから演説をすることが得意で、この小高い丘の上につくられた「国民の館」の建物も、その建築物から東西南北、4方向に幅員120mの道路が延長1000mもの長さに放射状につくられ、その道路に沿って凹凸のある巨大な高層マンションが、広幅員道路のストリートスケープをつくっています。パリ改造計画に当たってナポレオン3世がジョルジュ・オースマンを使って築造したシャンゼリゼ大通りを圧倒するだけの都市空間の威容を誇っています。

英国チャールズ皇太子の好きな農村
ルーマニア全土は、穏やかな丘陵でつくられていて、そこには高い教会の尖塔を囲んで小さな村落ができている。プリンスチャールズが『ビジョン・オブ・ブリテイン』の中で、都市景観について言及していますが、そのモデルがルーマニアの街ではないかと思わされました。ルーマニアが中世以来、オスマントルコに支配された歴史をもちながら、自治を守るとともに固有の文化を守ってきた姿に歴史文化の特性が残っているのです。チャールズ皇太子自身はその自治によって固有の文化を守ってきたことと、その環境を享受することを評価しています。チャールズ皇太子は、自らがこの農村に5戸も別荘をもっていて、自ら使わないときには賃貸用として貸し出しているなど、趣味と実益を兼ねて経営しているということでした。豊かな雑木林や穏やかな丘陵、そこに広がる向日葵(ひまわり)畑や牛、馬、羊などの酪農地帯が続いています。そこには有名な吸血鬼ドラキュラ伝説の関係する建築物があちこちに建設されています。ルーマニアといえば必ず登場するドラキュラは、15世紀のワラキア公であったヴラド・ツェペシュがそのモデルになったとされています。ドラキュラ―伝説だけではなく、沢山の民話を生み出している村や町が沢山あるところです。ルーマニアはどこに行っても歴史や文化を感じさせられる所でもあります。
(特定非営利活動法人 住宅生産性研究会 理事長 戸谷英世)



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