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HICPMメールマガジン第522号(2013年8月26日)

掲載日2013 年 8 月 26 日

HICPMメールマガジン第522号(平成25年8月26日)
皆さんこんにちは

今回も前回に続きルーマニア・ブルガリア旅行の続き、ブルガリアのお話をします。それに先立ち、お詫びして訂正いたします。前回お送りしたルーマニアの旅行報告で、ルーマニアの体操選手コマネチのことをチャスラフスカ(チェッコの体操選手)とルーマニアのチャウセスク大統領のことを書いていてうっかり間違えて書きました。

ブルガリア
ブルガリアの面積は,青森県ほどの国土ですが、バルカン半島の中央にあり古代ローマ時代から地理的に重要なところとして多くの国が侵略を繰り返し、想像を絶する苦難の道を歩かされた国です。日本との関係では、大相撲の大関・琴欧州関や、ブルガリア・ヨーグルトでなじみのある国です。また、近年は、ブルガリア観光が拡大しているそうです。
日本からは「バラの谷」の町として有名なカザンクラや、ブルガリアの歴史文化を象徴するブルガリア正教会のリラの僧院のような代表的な建築物があります。また、プロディエフの旧市街地の「張り出し窓がついた住宅」が立ち並ぶ街並みや、古都ベリコ・タルノボの街並みなど、過去の文化遺産は多くの訪問客を満足させてきました。

しかし、現在見るブルガリアは、都市には、首都ソフィアの都心部には、所構わず落書きなどのバンダリズムが広がっており、都市衰退が目立ちます。旅行中に、失業率20%の高さに不満を抱いた市民たちが、経済政策批判のデモが50日目を迎えたときに遭遇し、都心は警察官であふれていました。
経済的展望が持てないため、過去の栄光ある歴史をブルガリア人が再認識する余裕がもてず、首都であり、かつ、都心に国立大学をもつ首都ソフィアを散策していても、人通りは少なく、店舗に陳列されている商品に魅力がなく、人影も少なく、青年があちこちに所在なくたむろするなど、国民の総意として再生に向けての意欲がないように感じられました。

その最大の原因は、ブルガリアの現代につながる歴史を見ると、国土全体がソ連の支配下で非常な苦しみを受けたことにあるように感じられます。それはソ連という巨大国の支配を受けて主体性を奪われた社会主義全体主義による国家が、統制下で個性を認められない歴史が続いたためだと言ってよいと思います。
首都ソフィアの街並みを見て、社会主義時代に建設された共産党本部や、党幹部たちのアパート建築などの都心の利便性の高い所に目立つように建てられた個性をもたなく、単に巨大で虚勢を張った建築物が歴史のある街並みの調和を破壊していました。
社会主義時代に入って建てられた権力を誇る巨大で、個性を失った建築物に象徴されるように、人格性を失ったように見える建築物が、宗教建築物や王宮や大学のような歴史建築物を威圧するかのように、大都市の目抜き通りを占拠し、それらが軒並みにバンダリズムの対象になっていることで、都市の景観破壊の原因となっていることがその理由として指摘できます。

首都ソフィアと日本の大都市の街との共通性
社会主義国になる以前からのブルガリアの歴史文化を担った優れた建築物が、街並景観から浮き上がっていることを見て、この国の過去の文化がいかに粗末に扱われたかが想像されます。その無政府状態を思わせる異様な街並み景観を満ちるうちに、どこかで見た景観のような気がして思い出そうとしていたら、日本の都市景観を思い出していました。ソフィアの街並み景観と日本の大都市の街並景観とは具体的には全く違っていますが、建築物相互の表情が無政府状態であるという所に、どこか共通しているように感じられました。

日本では建築物が自己主張をするということで差別しあって、相互に相殺効果を上げています。一方、ブルガリアは、ブルガリアの社会主義時代の全体主義建築物で、日本とは全く正反対で、画一的な建築物で統一されている筈なのに、過去の歴史的町並みを破壊し、調和できない街並みをつくっていました。
日本と共通していることは、歴史文化を粗末にした建築物で、時代とともに国民から見放されて衰退の一途をたどっていることに気が付きました。このような街は社会主義時代に建築された建築物のリモデリングとスクラップアンドビルドをしないと美しい魅力ある街とすることはできないように思われました。ソ連から押し着せられたブルガリアの歴史文化を蹂躙した社会主義都市計画に対し、ブルガリアの人びとは全く愛情を感じられず、それがバンダリズムの大きな原因になっているように思われました。

環境都市フライブルクのヴォーバンにみられたバンダリズムとの共通性
かつて、フライブルクに出掛けたとき、フライブルクが環境都市として誇るヴォーバン地区で、建築物に対する落書きなどのバンダリズムが驚くほど多いのを見せられて驚きました。その理由について説明してくれた村上さんは、ヴォーバンは経済的に恵まれた世帯が住んでいますが、進学で希望を叶えられなかった子供達の教育への荒廃があるのではないか、と説明してくれました。
その説明だけではどうも納得できませんでしたが、ブルガリアのバンダリズムは都心の目抜き通りにまで徹底して行われており、その社会病理は街づくりの基本問題となる減少だと思いました。しかし、街のバンダリズムとは対照的に、ブルガリア人は威厳のある髭(ひげ)を蓄えた丸い顔つきと、大きな頑丈な体を持った個性的な民族で、子どもを大切にする人懐かしさと親日さが、旅行者の目からも親しみが持てました。
そのようなブルガリアの歴史文化を知るために、ブルガリアの地理、歴史文化の概観をまとめてみました。地図を見ながら歴史を追っかけると、ブルガリアの生い立ちが見えてくると思い紹介しました。

ブルガリアの地理(バルカン半島の中心国)
ブルガリアはトラキア、モエシア、マケドニアなどの古くからの地方で構成されています。国土の三分の一を山岳地帯が占め、バルカン半島の最高峰ムサラ山(標高2,925m)があります。国土のほぼ中央を東西に走り、バルカン半島の名の由来となったバルカン山脈(スタラ・プラニナ)とスレドナ・ゴラ山脈にはさまれた一帯は、穏やかな丘陵の続くバラの生産地です。
「ローズオイル」と「バラ祭り」で、日本人観光客が多数集まってくる「バラの谷」と呼ばれるところです。そこには多数の村があり、各地にバラ畑が散在し、全体として一大生産地となっています。
丘陵地帯と平原は東の黒海沿岸と、ブルガリアの主要河川ドナウ川に沿い、ルーマニアとの国境にもなっています。ブルガリアの気候はバルカン山脈で2分され、北側は、冬は気温が低く、多湿で、夏は、気温が高く、乾燥しています。南側は、温暖で湿度が高く、ケッペンの気候区分では地中海性気候です。

このブルガリアの土地で展開された歴史を整理してみました。

ブルガリアの古代歴史(古代ローマより古い歴史)
塩野七生の『ローマ人の物語』にもよく登場したトラキアでは、紀元前4000年頃の黄金遺物を多数持つ遺跡群が確認され、学者の間で新しい「文明」といわれています。5世紀以降、民族大移動の時代には、スラヴ人が侵入し、次いで、テュルク系の遊牧民族ブルガール人が侵攻し、スラヴ人を支配下に置き、680年頃東ローマ帝国に支配を認めさせ、ブルガール人の国(第一次ブルガリア帝国)を建国しました。ブルガール人はスラヴ人より人数が圧倒的に少なかったため、10世紀までにスラヴ人と混血・同化し、現在のブルガリア人が形作られました。ブルガリア帝国は11世紀に東ローマ帝国に滅ぼされ、再び東ローマ帝国領となりました。

ブルガリアの中世・近世史(オスマントルコとロシア対立化で「漁夫の利」)
12世紀末に再び独立(第二次ブルガリア帝国)しましたが、1242年のモンゴル人の侵攻により衰退し、1393年にオスマン帝国に滅ぼされました。以後、500年間もの長きにわたるトルコの支配下に置かれましたが、1878年南下政策を取るロシアとオスマン帝国が露土戦争を戦い、トルコの敗北で結ばれたサン・ステファノ条約で「漁夫の利」を得、大ブルガリア公国となりましたが、事実上ロシアの保護国で、ロシア領土をエーゲ海まで伸張させました。イギリス、オーストリアなどがロシアの南下政策を懸念し、ベルリン条約でブルガリア領土を縮小させ、ロシアの政治的影響を弱めさせました。

ブルガリアの近代史(バルカン戦争の犠牲)
1908年、オスマントルコで青年トルコ人革命が勃発を機に、ブルガリアは独立を宣言し、1909年に国際的に独立を承認され、ブルガリア王国が成立し、君主としてドイツ諸侯が迎えられました。1912年ギリシャ、セルビア、モンテネグロとバルカン同盟を結び、トルコと第一次バルカン戦争を戦いました。1913年戦後処理をめぐりセルビア、ギリシャと対立し、第二次バルカン戦争を行い、敗北しました。 その戦争でルーマニア、モンテネグロ及びトルコと対立しブルガリアは敗北し、和平はブカレスト講和会議でした。

ブルガリアの誇る現代史(ナチス・ホロコーストと袂を分かった国)
1915年、第一次世界大戦で同盟国側に参戦し勝利しましたが、1941年第2次世界大戦では、ナチス・ドイツと軍事同盟を締結しました。しかし、ホロコーストには抵抗しブルガリアからのユダヤ人移送を国王が阻止し、枢軸国下では戦時中、ユダヤ人口を増加させた唯一の国でした。1944年にソ連の侵攻を受け、王政が廃止され共和制が成立し、ソ連の衛星国家・ブルガリア人民共和国が成立しました。
1989年に共産党政権が崩壊し、2001年に元国王シメオン・サクスコブルクゴツキが首相に就任しました。さらに、ユーゴスラビアに対する国連の経済制裁はブルガリア経済に更なる打撃を与えました。1994年国内総生産は拡大したが、不安定な銀行システムが悪化し、1996年に金融危機に陥りました。その後、経済政策の努力が認められ、2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟しました。

このようにブルガリアは、EUの経済最後進国で失業者も多く、人びとには希望が持てない状態が続いており、非常に苦しい状態にあります。今回ブルガリアでは過去の優れたキリスト教文化(リラの僧院や岩窟協会)の永遠性とソ連支配を長年月経験した社会主義統制国家の都市文化破壊という対立した世界を見ることができました。
(NPO法人住宅生産生研究会 理事長 戸谷 英世)



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