メールマガジン

メールマガジン第560号(平成26年5月19日)

掲載日2014 年 5 月 19 日

MM560号(2014年5月19日)
みなさんこんにちは

「オランダとベルギーの街並みと住宅」の学習研究報告,第3回として高密度市街地で豊かな空間をつくている「日本となじみの深い街ライデン」を確かめた報告をお送りいたします。

フォンンシーボルトが繋いだ日蘭の架け橋
フォンシーボルトは,江戸時代にジャワのバタビアに拠点を構えていたオランダ東インド会社(VOC)を経由して日本にやってきた医学者です。バタビアとは第2次世界大戦終了直後までのインドネシアの首都名で、オランダの植民地時代に、オランダのバターフ州にちなんでつけられた名前です。それ以前の名前は、スンダクラパ(キビとヤシの村)です。ジャワ人のモジョパイト・イスラム王朝がポルトガルを打ち負かし、ポルトガルの支配下にはいらなかった戦果を記憶するために、「ジャヤカルタ」(「大勝利」)と名づけられました。現在のジャカルタは第2次世界大戦後の名前です。

ジャヤカルタにオランダの商館が建設され、やがてはそれが要塞となり、オランダ東インド会社になり、バタビヤと名付けられ、オランダ植民地経営が始まりました。フォンシーボルトはジャワのバタビヤのオランダ東インド会社に派遣され、そこから日本にやってきました。日本の歴史文化や地理学、動物学、植物学を調べ、それをヨーロッパに知らせた人としてフォンシーボルトは極めて特異な人でした。本来は医者で長崎の出島で鳴滝塾を起こし、蘭学(医学)を日本人に教授し高野長英らを教育しました。

しかし、帰国時の船が難破し、そこから流出した積み荷の中に国外持ち出し禁止になっていた地図が見つかり、いわゆる「シーボルト事件」が発生することになりました。それは鎖国時代の江戸幕府にとっては、西欧列強の脅威を感じていたため、フォンシーボルトはスパイの嫌疑をかけられ厳重な取り調べを受けることになります。そのシーボルトが日本から持ち帰ったものや、フォンシーボルトが娘の名前を冠したアジサイなどの植物が、今ライデン大学の植物園にシーボルトの日本から持ち帰った遺産として、多くの日本人観光客や現地オランダ人に関心を持たれています。

ライデン大学ではオランダの東インド会社を経営と深いつながりを持つ研究蓄積は高く、東南アジアおよび日本を含む東アジア関係の研究を盛んです。当然、ライデンはそのような歴史を担っていることから、東洋に対する関心の高い都市です。日本からも江戸時代の日本との関係を調べるときや、オランダ東インド会社に関係する研究をするときにはライデン大学は避けて通ることができないところになっています。

オランダと日本とジャワを結ぶオランダ東インド会社
日本では江戸時代唯一の世界への窓口としてオランダは極めて重要な役割を担ていましたが、オランダにとってはそれはオランダの極東及び東南アジア戦略の一環に過ぎません。日本とオランダや英国とは絹貿易を通して東南アジアで利害が対立し、当時日本は銀生産が世界最大で、その銀を利用して絹を買いあさったため、オランダの東インド会社は経営困難に陥りました。

オランダは世界列強が日本を植民地化の対象にしているといって、日本に鎖国を進めるたといわれ、オランダは身内のように見ていました。日本はアメリカの将校であるピンカートンと蝶々夫人は、鎖国の結果、国外に追放されました。当時ジャワはオランダの法制度が施行され公正証書が登記されたため、ジャワに渡った蝶々夫人のことは公正証書をたどってよくわかるようになっています。ジャワの石油資源をめぐる日蘭の対立は、その後、第2次世界大戦時に、オランダと敵対関係になりました。

連合軍の対日包囲網とされたABCD(米国、英国、中国、オランダ)の一翼をオランダが担ったことで、ジャワのエネルギー資源の争奪をめぐって日本はジャワに進駐し、オランダと激しい戦闘を交えました。「日本人による3年半の植民地支配はオランダによる350年の植民地支配に比べはるかに残虐であった。」と現代のインドネシアの高等学校教科書に記載してあります。

それを裏付ける通り、日本人によるジャワ島におけるオランダ人への虐殺・暴行や弾圧はジャワ人との8代にわたる混血にまで及んだことが、私がインドネシアで働いていた40年前のインドネシア新聞に頻繁に掲載されていました。そのため、オランダ人の多くは日本人のインドネシア植民地支配の関係で多くの痛みを受けた関係者がいて、日本人に対する恨みを抱いているオランダ人も多く、オランダは必ずしも日本贔屓ではありません。

むしろ、日本人に傷を受けた関係者が多く、日本に恨みを抱くものが多いと考えたほうがよいのです。戦争賠償では、日本はインドネシアの石油資源を手に入れるため最大の戦後賠償と経済援助をインドネシアに行ってきました。しかし田中内閣の時の東南アジアへの経済進出は米国の利権を脅かすと考えられロッキード事件で田中首相は失脚しました。日本人は近世以降の歴史教育を受けておらず、日本人の歴史認識は世界で問題にされています。しかし、文化交流という観点ではフォンシーボルトが繋いだ日本とオランダの架け橋は相互理解の基盤となっていると考えるべきと思います。

王様の誕生日のフリーマーケットは出会いの機会
フォンシーボルトの記念植物園のあるライデン大学のあるライデン市は、キャンパスとしてまとまった大学の区域はなく、都心中心に大学の校舎が散在する大学町です。ドイツのハイデルブルグ大学とよく似ていて、町全体が大学であり、大学全体が都市に融合しています。都心を流れるライン運河沿いに、大学の校舎が、市役所、計量所、聖バンクラス教会などと明確な教会がなく立ち並んでいます。大学の校舎と同じように学生の宿舎・住宅もたっています。

4月26日は王様の誕生日で、町全体にフリーマーケットが立ち、出店を出してよい道路や広場はライデン市が指定し、それらの道路や広場はどこもかしこもフリーマーケットで足の踏み場もない状態でした。皆が橙色のマフラーや着物(外套やセーター)を着た人たちが国王の誕生日を祝い、家族でフリーマーケットに出店していました。フリーマーケットというお祭りは、人びととの出会いの機会として、国民皆が楽しんでいました。

フリーマーケットでは、モノを販売しようというより、友達を待っているという感じで、子供連れの家族でごった返していました。ライデン市民は皆この機会に街に繰り出すことで、旧交を温めあうことを期待していました。あちこちでそのような景色に出会いました。ライデン市の中央を走るライン運河の市役所前には、運河の上に大きなステージが造られ、パフォーマンスの舞台と観覧席とアウト・ドア・レストランやカフェーがつくられ、若者だけではなく市民全体が大変な盛り上がりでした。女王の誕生日が王の誕生日になり数日、誕生日が変わったのに、それに気が付かず女王の誕生日に橙色の着物で飾ってやってきた観光客もあったとの話もありました。

スペインとの戦いで大学を得たライデン
ライデン市の中央の新旧ライン運河の合流点に城砦跡がありました。その城砦は12世紀に建設された城砦ですが、そこはライデン市にとってその存在をかけた土地として重要なところでした。1574年スペインとの戦いにライデンの市民がここに立てこもって戦いで、最後にはダムを決壊させせて、自らの生命を掛けてスペインを撃退しました。ライデン市民が非常に大きな犠牲を払ったことでスペインを敗北に追い込んだ記念の場所として、その後も長く大切にされてきました。

この市民の献身的な戦いに国王が感服し、オランダ国王はライデン市民の勇敢な戦いに感謝の気持ちを表して、この地にライデン大学を建設したといわれています。王の誕生日を祝うお祭りは、現在においてもこの城砦の中でもその周辺まで広く賑やかに行われていました。

都市の景観はこの城塞のように具体的な記念物があることもあれば、何もないこともあります。しかし、かつてこの地にスペインとの戦いがあった事実こそ、人がタイムスリップできたらそこで見ることができる時間軸を戻した景色です。わたくしたちは過去にそこに存在していた歴史の風景が現代の風景の下絵になっていることを感じているのです。そのため都市計画は過去からの歴史文化を現在の市民が想像できる4次元で計画しなければいけないのです。

多様な建築物による相乗効果のある街並み景観
町全体が細い路地がくもの巣のように張り巡らされていて、そこに隣地境界線に接して大小さまざまなレンガ造の住宅が立ち並んでいます。その街並みの中に立派な建築が建っているので良くみると、それらの立派な建築物は、ライデン大学の法学部の建築でした。大学の校舎は、運河周囲の建築とは違って階高も高く、左右対称の権威のあるデザインで立っています。

しかし、建築物の高さも3~4階程度で周囲の民家の建築と高さではさほど大きな違いはありません。そのため、街並みは大学の立派な建築物で引き立てられても、大学の建築物に威圧されて街並み景観が壊されることはありません。特に大学の建築物には小さな広場公園や緑地がついているため、そこの樹木や空間が街並みに生命力を与えているように思われました。

屋内を通りを歩く人に開放する生活
細街路網に沿って形成されたライデンの住宅地は、1階部分が店舗になっている兼用住宅もあれば、専用住宅でも1階部分にはパーラー(応接間)が配置されています。それらの一般の住宅は、通りを通る人に家の中を見せているのではないかと思わせるほど、道路に面した大きな嵌め殺し窓(ピクチャーウインドウ)になっていて、そこにはカーテンもつるされていなく屋内が丸見えで、開放的に屋内を見せています。そのため、街並みを散策していると、通りを歩いている人には、その町が歓迎してくれているように感じられます。

オランダで25年も住んでいる娘の話いよると、窓を閉鎖的にしている人は、むしろ、隠し事のある人ということで嫌がられるということでした。オランダ人は平気で家の中をのぞき込んで目が合うと、ハーイと声をかけてきます。特に他人の家を覗こうとするのではなく、お隣さんは元気かなといった程度の関心の持ち方のように思われます。「相手のことをわかっていることが、相手に配慮をすること」になるからです。

米国のTND(伝統的近隣住区)の考え方やニューアーバニズムの考え方も基本的に共通するものと思いました。レンガの住宅にはそれぞれ住宅で生活している人と同じように個性があって、建物の形やレンガの色、レンガ目地の種類のほかに、窓辺に植えられた潅木や草花によってもそれぞれの個性を演出しています。生活の仕方も、住宅のデザインもお互いの違いを理解しあうところにオランダの生活のしやすさがあると思いました。

限られた空間を大きく使う方法:共有地(コモン)の利用
住宅の種類は、最初から連続住宅として建築されたものもありますが、戸建住宅を隣地境界線に接して建築されたものもあります。いずれも隣戸間に隣棟空地はなく、土地は中庭を取り入れて100%利用しています。建物や塀で囲われた屋外空間は、屋内空間の連続したプライベートな空間になっているものもあれば、コモン(共有地)になっていて、そこに面して倉庫や車庫を設けるようなことも行われています。

隣戸間の空地と思われるところは必ず通り抜けの通路ができていて都市内の近道になっているようでした。連続住宅として建設されたものは、総建設費として大きなお金が必要とされることからそのデザインや構造からも、近世以降の建築のように思われました。後でわかったことは、その多くは、国庫補助金を受けたり、家賃補助を受けて入居する最近の社会住宅であるとのことでした。この細街路網こそ地域のコミュニテイを支えているネットワークなのです。

高密度な土地利用をしながらゆとりのある空間の演出
わが国の市街地にびっしり造られているまったく利用価値のない建築間の隙間空地は、街並み景観を醜くし、犯罪を隠す役割や市街地火災の引き起こす原因にしかならないのに引き比べ、オランダの都市は、貴重な都市空間を余すところなく使い切っていることに驚かされます。コモン(共有地)として経営管理することは、かえって共有地の管理主体と管理内容を明確にすることでコモンはより適正な管理がなされているようです。

それは都市空間での生活を「一人なみんなのために、みんなは一人のために」というコーポラティヴの考え方が都市生活に浸み込んでいるためではないかと思われます。都市の土地は私的に所有されていても、都市空間は社会全体で使っているという認識です。都市の空間利用として街並み景観や人々の移動空間がその代表的なものです。オランダで駆使されている共有地(コモン)の利用技術は、米国の計画技術として日本から1955年にロックフェラーの支援で吉村順三がMOMAに建てた松風荘から発展したオープンプランニングの屋外版と基本的に同じ技法だと思います。米国では「三種の神器」で空間の経営管理をしていますが、オランダでは地縁的コミュニテイがその管理を行っているのです。

レンガ住宅の多様性
ほとんどの住宅はレンガ建築ですが、それらのレンガ建築にはレンガを構造材料として利用するものもあれば、化粧材料として利用するものもある上、建築時代の建築傾向なども反映してその種類は驚くほど多種多様です。レンガの種類もレンガの目地の種類も違うだけではなく、レンガをに使っているものもあれば、その上に漆喰を塗って構造材として使っているものも、ペンキで化粧しているものもあります。

レンガ建築では煉瓦の種類や大きさだけではなく、目地やレンガの化粧の方法や、、開口部の配置と開口部周りのデコレーションや、軒まわりや窓高さや階高さの壁面のトリムが建物の高さ方向のプロポーションを表現し、重要なデザイン要素になっていました。レンガという材料は、圧縮力しか負担できない組積材料であるため、鉄や木材のように引張りや髷に耐える力は非常に少ないため、総2階建てや総3階建てのように、壁は直立に作ることが原則です。その上、開口部を造ることもレンガだけではアーチを使うなど困難を伴います。そこでその制約を乗り越えての工夫が多くのデザインを生んでいると思います。試行錯誤のメソポタミアからの4000年を超すレンガの建築が素晴らしいデザインを生んできたのだと思います。

町並み景観を作るためのファサードの作り方
すべての住宅は個性的であるだけに、特に各建築物ごとに屋根の形には個性があって、その街並みとしての全体は、スカイラインを見るといずれの建築もそこに個性を主張しながら、同時に隣戸を意識していることがわかります。共通していることは道路に沿ってファサードが作られていることです。そのため道路に面して玄関があり、または路地の入口があります。そして敷地の区画は必ずしも道路に直角ではなく斜めになっていることも普通にあります。

結果的に、住宅の棟が道路に対し斜めになっている住宅もたくさんありました。連続する住宅のファサードが住宅の棟に直角ではなく、道路境界線に平行に作られて「わが町」と意識の持てる町並み景観の担い手になっているのです。町並み景観のデザインは「多様性の統一」といった「試行錯誤の繰り返し」により、街並みとして調和するデザインを実現する努力が無意識に働いているように思われました、それが、時間軸を持ち込んだ街並み景観を市民自身が吟味することにより、高度な街並みデザイン調和を実現しているように思われました。

ライデンの町から学ぶこと:コモン(共有地)の計画と管理
フォンシーボルトは日本に蘭学を教えてくれました。そして日本の多くの文化をオランダに伝えてくれました。それは現代のライデンを歩いてみるとライデン大学を中心に日本の文化がこの地に伝えられていることを知ることができます。日本は地価が世界中で最も高い国の一つです。

それであるにもかかわらず、大都市を歩いていると、土地が細切れに分割されているため、建築物と敷地境界線との間に、全く利用されていない空地がたくさん放置されています。それだけではなく、その隙間が都市環境を貧しくしています。今回の調査をして、改めてオランダ人の合理主義というか、徹底した無駄をしないという良い意味での「ケチ」が都市空間を狭くても豊かにつくっていることを教えてくれました。

日本人がオランダに来て、フォンシーボルトが日本から素晴らしい文化をオランダに持ち帰ったように、わたくしたちはこの土地の少ない国で、土地の有効で効率的な利用をすることで豊かな環境を実現している技術を学び、日本の街づくりに役立てなければいけないと考えます。それは、空間が絶対量として少ないわけですから、「使えないと考えられる土地を集合して、それをみんなでコモン(共有地)として使うこと」だということです。

共有地は多くの関係者が時間をずらして使うことで、関係者が大きな空間として理輸できるということです。また、みんなが一緒に使わなければならないときには、コミュニテイが育つという側面もあります。ライデンの街並みを見学し、今度は街の裏側に回って、バックアレーやコモンとしてつくられたバックヤードに足を踏み込むとその空間の作り方と使い方がわかります。そこで住民との会話ができれば、そこでの空間の使い方と管理のルールを知ることができます。

次回はオランダが、世界で最も進んでいる社会住宅を実際に「ライデン」で訪問したお話をいたします。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長戸谷英世)



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