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HICPMメールマガジン第563号(平成26年6月9日)

掲載日2014 年 6 月 9 日

HICPMメールマガジン第563号
みなさんこんにちは
「オランダとベルギーの街並みと住宅」の学習研究報告,第6回としてオランダの首都、「アムステルダムの都心の施設」を調査した報告をお送りいたします。

海水面下の国・都市を支える干拓技術
オランダの首都アムステルダムは人口70万人の都市です。日本的な東京首都圏の考え方で見ることはできません。アムステルダムは歴史的に運河で取り囲まれた城塞都市で、現在は戦略的な都市防衛の考え方はありませんが、通過交通から都市を守るために環状線が都市外周に造られていて、都市を通過交通から守っています。アムステルダムはアイセル湖を介して北海(ワッデン海)につながっていますが、アムステルダムならアイセル湖を通ってきた海に出ることはできません。現在大堤防により北海と区画され、アイセル湖と呼ばれている所は、以前は、北海(ワッデン海)と直接つながるゾイデル湾でした。1927-32年ゾイデル海開発プロジクトとして幅90m、長さ32㎞の大堤防を建設するによって、海面下に土地が多いアムステルダムを北海が暴れたとき、水害の危機から守ることを考えました。アムステルダムの面するゾイデル湖の治水対策としてオランダは巨大な淡水湖を造り、4カ所に大きな干拓地をつくるとともに、いつでもこの地を干拓により陸地として使うことができる準備をしました。「神が地球をつくったが、オランダはオランダ人が作った」といわれるほどオランダ人の干拓技術にはすごいものがあります。

風車を利用した国土開発干拓技術
アムステルダムの歴史を振り返ると、現在より800年ほど前、アイセル川の河口に住みついた漁民がアイセル川の河口に土を盛り上げて湾を閉鎖し、運河を造り、水の流れを変え、干拓を始め、今のアムステルダムを造りました。その事業が1270年にアムステル河を現在のダムラックを流れていた河川をせき止めて、その末端をO・Zフォールブルヴァㇽ運河、アウデスシャンス運河及びクローフェンニールヴァル運河の3運河に分岐し、アイ湾(ヘット・アイ)につなげた事業でした。そのアムステル河をせき止めたダムの場所が、今のアムステルダムの中心の王宮前広場のダム広場です。現在、キンダーダイクを訪問しますと、いまでも49台の風車が残されていて、オランダ人が風車を使っい、海水面以下の干拓した土地の水を1台の風車を使って、1.5メートル高いところに排出する伝統的技術が見られるようになっています。キンダ―ダイクの近くに、日本唯一の外洋船で江戸幕府の手から明治維新政府に渡って使われた咸臨丸や、江戸時代の中ごろ幕府がオランダに注文して東京湾に国の観光(威光を誇示する)丸の造船された造船場がありました。

商業都市の移動:ブルージュ、アントワープからアムステルダムへ
ヨーロッパの北部には11世紀中世から地中海からの貿易を拡大し、その貿易港として、11世紀からブルージュ、ゲント、15世紀にはアントワープとそれぞれ河口に貿易港がつくられてきました。しかし、いずれも北海の流砂の多い海岸に位置した河口港であったことで河床が上昇し、浚渫が困難であったためと、貿易の拡大で貿易船が大きくなるのと、これらの商業都市はいずれも経済の最盛期を迎えて、港は商船の規模の拡大と過少の深さが矛盾し、商業的な役割を担えなくなってしまいました。その代表例が15世紀のブルージュです。15世紀にはブルージュは貿易の港の地位を失いアントワープがその中心になりました。しかし、アントワープは河口港であるとともに、17世紀スペインがオランダを支配したとき、フランスの支配を受けていたベルギーとオランダとの国家間の利害が対立しました。オランダがアントワープ港を封鎖し、アントワープの経済を担っていたユダヤ人がアントワープを捨て、アムステルダムに大量移動をし、事実上、貿易をできなくすることでアントワープの経済活動が休眠させられました。そして、その港湾としてアムステルダムが貿易と経済活動の独占的地位を得て拡大しました。アントワープはスペインがオランダに敗北してから、再び、アムステルダムと並んでヨーロッパの主要な貿易港として発展しました。

運河と大堤防を使ったアムステルダムの治水国土総合開発
オランダ自体が国土の4分の一を海水面以下の土地としているために、これまで堤防の決壊により浸水による被害を繰り返し受けてきました。アムステルダムもその例外ではありませんでした。そのため、堤防をつくり干拓をし、排水を行ってきました。アムステルダムもこれらの過去に北海に面した商業都市と同様、洪水と北海の流砂の厳しい環境に置かれたアムステル川の河口に造られた都市でした。そこでアムステルダムの貿易港を北海の自然の脅威から守り、貿易を軸にする建材活動を安定的に継続させるために、1865年から1876年にかけて北海運河が開削されました。当時、砂の堆積等で航行が難しくなりつつあったアムステルダムのアイ湾が面する ゾイデル海を経由せずに、アムステルダムから直接北海に至る航路を開くこととなりました 。オランダ政府は、その約60年後、北海(ワッデン海)の内陸に開けたゾイデル湾を大堤防で仕切り、アイセル湖をつくりました。北海の荒海の影響をカットし、干拓技術を駆使した結果、アイセル湖をいつでも陸地として利用することができる状況をつくりました。河口港の河川流砂の体積を受ける港ではなく、アムステルダムの港湾は、海とは切り離し、専ら治水対策として、かつ、農地、牧草地、工業用地など優れた経済活動のできる土地として開発する目的で、大堤防を建設し海を閉め切ったわけです。しかし、現在、オランダ政府は急いでアイセル湖全体を一挙に干拓をせず、必要な土地の干拓に止め、全体は基本的に穏やかな淡水湖として水面を維持し、オランダの環境を維持した国土の発展に寄与させてきました。現在、アムステルダムはアイ湾から北海運河を通って北海に直接結び、商業・流通業務活動産業の発展を担う港として利用しています。そしてアムステルダムと並んで、商工業活動と一体の産業都市としての港湾活動は、ロッテルダムに移動し役割分担をし合ったオランダの双璧の国際港となっています。

運河で低湿地を干拓し造られた都市アムステルダム
大陸の多くの都市では城郭を拡張してきましたが、アムステルダムは居住者の拡大に合せ低湿地に運河を造り、干拓地(ボルダ―)を形成し、その繰り返しで人口の増加に対応してきました。また、そこで働く人たちの居住区を都心から郊外に向けて5つの運河とともに干拓地の形成で市街地を拡大してきました。アムステル川の水はこれらの運河を迂回してゾイデル湾に流れ込みました。つまり、現在のアイ湾の東に位置するアイセル湖は、かつてはゾイデル湾(海)と呼ばれ、アイ湾はゾイデル湾(海)の一部で、北海(ワッデン海)と直接繋がっていました。今のアイセル湖はゾイデル湾(海)が大堤防で区画されて淡水のアイセル湖になり、北海(ワッデン海)とは区画されています。実はオランダの干拓は、土地を盛土して海水面より高い土地をつくるのではなく、干拓後の土地自体も海水面以下の土地利用です。いつも海水面下の国土の中から水を海水面以上の高さに揚水し続けなければなりません。しかも、干拓地より高い位置にある海水面が北海という荒海で、その高潮によって、過去、再三、生活も命も脅かされてきました。暴れる海からの治水対策が北海運河や大堤防を築造してアイセル湖の干拓になっているのです。

「神は世界を造り、オランダ人はオランダを造った」といわせた干拓技術
オランダの干拓能力を示す代表例として、アムステルダムの北20㎞にあるベームスター干拓地は、マイナス3.5mの土地を1612年から1617年に5年間かけて工事が行われた干拓地です。そこでは42台の風車を使い排水を行い、陸地を造ったオランダの干拓能力を現代に伝える世界遺産になっています。ベームスター干拓地はオランダ北西部北ホラント州にあり、アムステルダムを含むそれ以降の干拓工事にも影響を与えました。ベームスター干拓地は、オランダ東インド会社の海外派遣の食糧確保を目的とした農地の開拓を企図したものでした。この干拓では、風車を利用して水を排出しました。実際に農地として使われ始めたものの、排水の不十分さが原因で牧草地に転用されましたが、排水技術の向上により土地を改善し、現在では大規模な園芸農業も営まれています。
この干拓技術が、アムステルダムもスキポール空港とともに海面下3メートルにある湿気たビートの泥の上に建てられにも拘らず、北ヨーロッパにおける商業流通業の中心地として非常に大きな役割を担っています。このようにオランダ人の干拓能力を駆使した都市づくりは、アムステルダムの商業都市の形成拡大と、造船能力の向上と港湾の施設の整備に対応する港湾管理を可能にし、ジャワに拠点を置くオランダ東インド会社の本拠地となる優れた国際的な貿易港の基盤を築きました。アムステルダムはゾンデㇽ湾(海)の最も奥に位置する良港であったのですが、所詮海水面下の土地を利用した土地ですから、荒れた北海の影響を回避はむづかしく、再三、高潮に被害を受けてきました。アムステルダムの港湾機能を北海の影響を受けないように北海運河を開鑿し、アムステルダムのアイ湾は、北海運河で北海に直接つなげ、年間1、400万トンの貨物がアムステルダムに運んでいます。

オランダの常識、日本の非常識
オランダの旅行から帰って、観光案内や旅行案内に関する色々の資料を読みましたが、ここに記載したことをまとめた資料に出合いませんでした。多分日本のオランダに精通した人がオランダの資料を基に案内書をつくっているためだと思います。海面下の土地を干拓して利用することは、オランダの人自身の生存の前提ですから、皆、常識として干拓の知識は高く、一般の旅行案内や観光案内で扱うものではなくなっています。そのため、オランダの資料を基にした日本の旅行案内や観光案内には説明されていないと推察されました。日本では東日本大震災で地盤が陥没し、大騒ぎになり、それらの土地は放棄しなければならないと言い、国をあげて、高台移転をするか巨大な防潮堤を築造するほかに選択肢はないと言います。しかし、オランダ人の常識は800年以上前から海水面下の土地に定住する技術を開発し、そこで驚くべき経済発展をしてきたのです。東日本大震災が、何故オランダに技術提案を求めようとしなかったのか。オランダ人に検討してもらえば、経済復興を叶える干拓事業を可能にすることを教えてくれるに違いありません。

アムステルダム旧市街地の構造を造っている環状運河
オランダが世界の海に乗り出していた17世紀の黄金時代に、アムステルダムはその中心都市の開発が行われました。それ以前に形成された都市が、旧市街地と呼ばれるところで、旧都市の外殻に構築されたジングル運河で囲われた区域の過半です。5つの同心円状に築造された運河は、アムスル川がその末端で、O・Zフォールブルヴァㇽ運河、アウデスシャンス運河及びクローフェンニールヴァル運河の3運河に分岐しアイ湾に導かれています。旧市街地のコア(核)には、都市の中央のニーウマルクト広場と軽量所を中心に、反時計回りに、北側からアムステル中央駅、王宮、ダム広場、アムステル大学、アムステルダム市役所から、北部アイ湾に隣接するオーステルドックを結ぶ都市の旧市街地のコア(核)があり、それを囲んでアムステルダムの環状運河がつくられています。環状運河はアムステル河の河口から、上流に向けて、(1)ジングル運河、(2)ヘーレン運河、(3)カイザルス運河、(4)プリンセン運河、(5)リジングバーングラハト運河と5つの環状運河があります。その外殻にアムステルダムという都市の城郭を囲む形態で(6)ジングル大運河がつくられています。

地図を比較して分かるアムステルダム市形成の歴史
1939年当時のアムステルダムの写真と地図を見ると、アムステル川が北上して西に湾曲し、現代のダム広場で再度北に折れ、現在のダムラック通りを北上しアイ湾に流れていました。ダム広場から旧証券取引所を繋ぎ、アムステルダム中央駅にぶつかる部分にアムステル川の本流が流れていたのです。アムスル河の市街地に入る位置にアムステルダムの外郭城壁が造られ、現在の旧市街地と呼ばれている区域のうち、西半分部分の北から3番目の放射状運河レヒュリール運河部分から西側の(6)シングル大運河までの市街地は、すべて完成していました。レンブラント広場までは当時の市街地に入っていましたが、(2)へーレン運河以南の市街地は、現在のシンゲル大運河の以北の市街地は、1939年以降に建設されたところになります。アムスル川がへーレン運河と結びつく部分以東のへーレン運河は、アムステルダムの外郭城壁部分の城外となる現在のシンゲル運河の原型を作っていました。これらの環状運河を縦に繋ぐ放射状に造られた運河4本とアムスル河がありますが、放射状運河のへーレン運河は、城郭の外に造られたシングル大運河の部分で、それ以東の運河はすべて1939年以降に建設されたものです。

運河の両側の道路に面して造られたキャナルハウスによる街並み
運河はその両側に道路があり散策できますが、環状運河の内(3)カイザルス運河や放射状運河の中央北から3番目のレヒュリール運河周辺は、運河に沿ってキャナルハウスが建てられています。キャナルハウスは、ボートハウスではなく、干拓して陸地になった陸上に造られた住宅で、妻入り形式を基本としていました。その妻入り屋根の小屋の棟木が突出し、その棟木に滑車を取り付けられるように造られています。運河を上って運ばれた荷物は、運河から直接運河に面して建てられたキャナルハウスの棟木に滑車を取り付けて陸に引き上げられました。キャナルハウスの屋内階段は幅が狭く、屋内階段を使い、荷物を上階には挙げられません。そこで大きな荷物は開口部を外し、屋外から滑車に吊るして取り込む方法が採られました。その当時のままの個性豊かな興味深いデザインのキャナルハウスが、お互いに外壁を接して建てられ、面白い町並み景観をつくっています。キャナルハウスの特色は小屋組みの形とペディメントのデザインです。キャナルハウスは観光コースとなっているだけではなく、アムステルダムの人々にとって、「わが街」として誇りの持てる散策道になっています。

都市を運河を使った世界遺産公園都市としたアムステルダム
19世紀の中ごろまでは、アムステルダムはシングル大運河で囲われた防衛壁の内側にありました。この市街地を旧市街地と呼び、この運河に架けられた橋脚の数は約400脚になると言われます。運河を中心につくられた街並みは水と緑を挟んで多様な建築デザインが相乗効果を発揮し、魅力的な街並み景観をつくり、写真や絵画のテーマにもなっています。この街並みは人々を散策に誘い、そこで立ち話を楽しみ、市場が立ち、民が楽しむコミュニティを育むことのできる空間になっています。パリ大改造計画で、ジョルジュ・オースマンがシャンゼリゼ大通りをつくるときに「道の日常的利用としては市民の公園にする」土地利用の考え方が、近代都市計画の基礎を作りました。アムステルダムの運河の街並みは、オースマンの提唱している考え方と同じです。この運河によりつくられたアムステルダムの街並み景観全体が、世界遺産に登録されています。

日本がモデルにしたアムステルダム中央駅
この中のアムステルダム中央駅は、東京駅を近代国家の天皇制護持の象徴として国家のデザインのモデルとされた駅舎とも言われます。当時日本は国家のデザインとして世界の工業先進国に倣って、国家の重要建築物を国家のデザインとして、西欧に倣ってルネサンス様式によるデザインでつくることを決定しました。英国から建築家ジョサイア・コンドルを近代国家の建築デザイン技術者を教育養成するために、東京大学建築学科教授として招聘しましました。第一期卒業生辰野金吾は、自らの設計で、東京駅、日本銀行、国会議事堂をルネサンス様式建築としてつくることに執念を燃やしたと言われます。明治の初め、オランダや当時ヨーロッパで大きな力をもっていたハプスブルグ家の影響から、オランダの中央駅とベルギーの中央銀行が日本の真似すべきモデルにされました。モデルとされたアムステルダム中央駅は1889年ネオ・ゴシッを取り入れたルネサンス様式の折衷様式建築物です。

新市街地計画の目玉の公園と公共建築と街並み景観をつくる建築デザイン
1935年アムステルダムの都市計画としての一般拡張計画(AUP)が作られ、それまでの旧市街地とは全く別のグリーンベルトを挟んで新しい拡張計画が作られ、その計画は1950年以降に実現しました。その新市街地にはフォンデル公園、ベアトリクス公園、東公園、西公園、サルファテ公園、動物園と並んでミュージアム公園という巨大な公園が作られています。このミュージアム公園の中にコンセルトへボウ(国立音楽堂)、市立近代美術館、ヴァン・ゴッホ美術館、国立美術館があります。今回のアムステルダム訪問の一つの目的はコンセルトヘボウの見学でした。しかし、予約をとらないで出かけたため入場できず、次回に見学することにし、立派なデザインの外壁をインテリアに利用したカフェーでお茶だけを楽しんだだけでしたが、なかなかよくできた空間で満足しました。

アムステルダムの街並みが魅了区的である理由
そこを出てから近くのヴァン・ゴッホ美術館を見学しました。日本企業の寄付で黒川紀章が設計した増築棟は改装工事中で閉館していましたので、本館部分で絵画鑑賞をしました。その後、隣接していた国立美術館も外壁部分を屋内空間に取り込んだ受付とショップに改装した魅力的な空間になっていたので、その空間をちょっと覗き、そのあたりの公共的な建築と立派な市街地住宅・建築を見学して回りました。市街地に立てられた美しい併存共同住宅建築物は、例外なく隣地境界線に接し、狭い間口で立てられていました。説明によると、税金が間口幅に関係していた歴史を反映して、狭い間口の建築物になっていましたが、それらは同じ建築物ではなく、いずれの建築物も個性豊かな建築物でした。それは両隣の建築物と調和し、隣接する建築物は相互に相乗効果を発揮し、各建築物は、個別の建築では表現できない美しさを発揮し、アムステルダムの街並み景観の魅力となっていました。それは各建築を設計者が隣接する建築物との調和を図ることを設計上の重要な条件と考えて設計をするヨーロッパにおける建築教育の結果で、偶然に造られたわけではありません。

スリナム料理のお店
お昼になったので、この近くにあるスリナム料理のレストランに出かけました。スリナムとは中央アメリカのカリブ海に面し、昔の日本の地図では「ギアナ」の記載されていた3国の中央がスリナムです。かつてオランダの植民地で、その国にはインドやアフリカからの移住者も多く、今は独立しています。スリナムの独立をめぐり、内戦の勃発を恐れた人たちが宗主国オランダに移住してきました。その人たちがアムステルダムに定住しレストランを開いているのです。そこでは同じくオランダの植民地であったインドネシアの料理も提供していました。小さなレストランでしたがスリナム人と思われる人たちも来て、客でいっぱいでした。そこにはスリナム人たちが、今でも多く集まっていまししたが、料理の味が良いことと、値段が手ごろであることで沢山のオランダ人も食事に来ていました。オランダでは人種を分け隔てず、皆おrんダ人と言っています。この町はアムステルダム中心市街地の南部の中層住宅が通りを埋め尽くしている中心街の一角に位置していました。

旧市街地の中心的建築物:計量所(イン・デ・ワーグ)
アムステルダムの中心に、大航海時代の商品の計量所「イン・デ・ワーグ」が、木構造の面白い構造材料の組み合わせをインテリアデザインに生かした空間を生かし、今は高級レストランとして賑わっていました。この建築物自体の周囲に多くの塔建築が取り囲み、建築物全体に取り付けられている沢山の屋根全体が一体の個性的な建築物になっていました。前面にはニーウマルクト広場があり、ダム広場と並ぶアムステルダムの旧市街地の東西の中心広場になっています。そこはダム広場同様、子供や大人たちが遊ぶ遊戯施設やエンターテインメントをする移動可施設が沢山あって、そのあたり全体が遊園地の雰囲気を持っています。この中心街からもう一つの移動式遊園地が置かれていたダム広場経由でダムラック通りを経てアムステルダム中央駅まで行きました。途中、1903年に完成したオランダの近代建築の父・ヘンドリック・ベルラーへ設計の旧証券取引場を横に眺めました。その裏手東側のO・Zフォールブルブヴァル運河沿いには、13世紀初めにアムステルダム誕生と同時に木造建築で建設された旧教会(聖ニコラスを祀るバシリカ教会)が、14世紀ごろまでに現在の形になった建築として建てられています。この旧教会の周りが飾り窓(売春)地帯です。王宮広場からアムステルダム中央駅の周りはいつ来ても工事中で驚かされます。街づくりには時間をかけても気にしていない考え方の背景に、都市計画は100年の計と考える土壌があるのではないかと感じました。

オランダの現代建築2例
アムステルダム中央駅から西の方向に少し進むと海岸に面し、突き出たところに現代建築物が立っていました。見学した建築はいずれも建築物自体が立体的都市を形成し、マルセイユで、ル・コルビジエが実験的に建設したピロティー上に造った都市モデルでした。一つは、2013年、アイ・ドックという名の複合建築物で、ディック・ファン・ハメルンと、ビヤン・マステンブロックの設計によるアパート、事務所、ホテル、マリーナ、駐車場で構成された都市でした。このような都市の考え方は、すでに過去のものと感じていましたが、コルビジエが提唱した都市の考え方が、都心に住みたい市民の要求に応え、都市生活に必要な施設の集合体としてつくり、アムステルダムの既存都市集積と一体的に利用する考え方は、現代でも有効な都市づくりの方法と思わされました。
もう一つのハウジングコンプレックスは、「シロ・アムステルダム」と呼ばれる会場に建設された共同住宅です。以前、貯蔵庫(サイロ)であった所を、2002年にNVRDV建築事務所が、157戸の個性的な生活空間に生まれ変わらせたプロジェクトです。海に向けての眺望を重視し、1戸の住宅が2層や3層にわたって利用した大胆奇抜な空間構成の住宅です。この住宅のコミュニティ広場は海に突き出た広いウッドデッキで、住宅はピロティの上に建築されています。全体の建築物が、構造耐力的に潮の影響を避ける方法も東日本大震災津波の経験に照らして面白いデザインでした。
これらはいずれもアムステルダムの高い住宅需要に応えるプロジェクトとして、アムステルダム中央駅と目と鼻の先の近距離に高密度開発され、既存のアムステルダムの都市アメニティを完全に利用できることが特色です。高密度住宅地開発であるにもかかわらず、そこには居住用の施設を高密度にコンパクトに計画しながら、海洋空間を既成市街地の都市空間を奪うことなく高層利用する環境計画として開発されたところが、形態的にも経営的にも共通した特色でした。

次回からはベルギーに移り、「ブルージュ」のご案内をします。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長戸谷英世)



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