メールマガジン

HICPMメールマガジン第564号(平成26年6月16日)

掲載日2014 年 6 月 16 日

HICPMメールマガジン第564号
みなさんこんにちは
「オランダとベルギーの街並みと住宅」の学習研究報告,第7回ベルギーの古都、「古都ブルージュの都心の街並み」を調査した報告をお送りいたします。

突然死し、500年後甦ったブルージュ
ブルージュは町全体がユネスコの世界遺産に認定されている町で、そこにはさらに沢山の世界遺産の建築物がありました。この町はAD7-9世紀にツイン川の河岸に作られた居住地が13世紀には北海に面する北ヨーロッパ最大の商業都市に成長していました。地中海のベネチアに相当する商業として、中世の経済の中心都市フィレンチエのメヂチ家の北ヨーロッパ支店が置かれていました。ブルージュはブルゴーニュ候の居住地としてフランドル絵画の集積にみるとおり、文化的に繁栄した都市です。しかし、15世紀に入りブルージュが経済的の最大の繁栄を謳歌していたとき、北海の海流による海砂の堆積とブルージュにとっての河口港であるツイン川の河床が河川の土砂の堆積で浅くなり、一方、貿易船は大きくなり、商船がブルージュ海岸大型商船の接岸が困難になり、河口港への入港できなくなったため、ブルージュは経済的にもっとも繁栄していたときに、突然死(サダンデス)を余儀なくされました。この町の繁栄したときの建築物とその時代に築かれた文化遺産がそのままの姿で残りました。その後、400年以上経過して、1907年『死都ブルージュ』(ブルージュ・ラ・モート)という一冊の本がきっかけで、世界が歴史文化が眠った状態の都市に注目することになり、そのタイムスリップした魅力が人々の心をひきつけ、今の盛況につながっています。

過去の息づく町ブルージュ
そのブルージュの観光地としての基盤は中世の経済。貿易の繁栄を背景に作られたもので、その歴史の恩恵を現代社会が受けているといわれています。これはすべての観光地について言われていることで、実は「都市は歴史文化の過去から現代までの集積」といわれている通り、一朝一夕にできるものではありません。街づくりも基本的に同じで、新しく開発する街の中にその土地の担ってきた歴史文化をいかに復興し、そこに居住する人たちが担ってきた歴史文化を育てない限り、人々に愛され育てられる街をつくることはできません。「観光」とは、漢語で、語源的に「国の光を見せる」ということです。観光は物見遊山という刹那的な遊びではありません。その国が歴史文化として過去から未来に向けて誇ることのできる「歴史文化の光」を人々は観光をとして享受し、そこで心を潤し、未来への希望につながる文化を吸収し、エネルギーを得て元気になっているのです。欧米の住宅・建築・都市の学問は、そのような理由でヒューマニティ・デパートメント(人文科学学部)で教育・調査研究・開発の対象にしています。日本のようなエンジニアリング(工学部)での機能、性能の教育・調査研究・開発だけでは、人々に愛される文化環境は作れません。

環状運河で囲まれた中世の町ブルージュの都市構造
ブルージュはその都市全体が中世に作られた運河で囲われていて、現代の玄関に相当する鉄道の駅は運河の外でブルージュの南西の隅にあります。都市を河口運河を通ってブルージュに入るところには大陸の中世都市に共通する都市の門があります。ブルージュの駅の北西にある運河にかかっている門がフーフェリー門といい、その門に隣接してぺギン会修道院があります。そのフーフェリー門から反時計回りに、ヴェジネベスト通り、カテリネベスト通り、最初にブルージュの南端にある運河にかかっている門がカテリネ門です。その次にゲントプードベスト通りを経由して街の東南に位置して、ゲント門があります。ゲント門からボニーベスト通りとなり、道は東北方向にむかいます。ボニーベスト通りを通った先、運河で囲まれた市街地の東の端には十字の門(クルスプード)があります。
十字門の周辺には西安教会、エルサレム教会、民族博物館や15世紀に救護院として建設され、今はベルギーのボビンレースの学校として使われているレースセンターがあります。そこから北に向けてクリスベスト通りを通って街の北東にダムの門があります。その間の運河に面して南から北に向けてポネシーレ風車、聖ヤンハイス風車、という風車が並んでいます。20年ほど前に来たブルージュに来たときには自転車を借りて1日中まちなかをはしりまわりました。そのときここまで来て、風車のある丘で今回と同じ青い空を見てこの丘に寝ころんでくつろぎました。このとき驚いたことは、高密度に生活しているはずのブルージュに驚くほど伸び伸びとして空間があるということでした。このよう空間は意識してつくらないと維持することができない都市空間です。

ブルージュで味わえるもの
中世の都市は現在見ても都市の骨格である基本計画がしっかりできています。現在の調和のとれた個性的な都市の充実を見ると、非常に高い都市計画の技術によって裏書きされていたと確信せざるを得ません。ブルージュの町を何度も訪問し、街並み散策を通しての推測でしかありませんが、多分、教会の建築と広場の建設に関し、それぞれ地区の主体性を重視した個性ある空間が計画されていて、都市計画として市民の合意形成のできる計画が作られていたに違いありません。岩波新書で私の学生時代の半世紀以上前、、羽仁五郎著『ミケランジョロ』が爆発的に読まれ、それがきっかけで『都市の論理』という本が出版され、日本での中世都市への関心が高まりました。そこで登場する中世の市民を近代ブルジョアジーの発祥のように羽仁五郎は間違って伝えていますが、それは中世の市民のバイタリティが近代ブルジョアジーの祖先のように思い込んでしまった誤りで、中世都市の市民・ギルドたちの魅力を、羽仁五郎は自分の想像する中世都市の生活に対する感激として伝えています。私達がこのブルージュで感じると同じものを伝えています。
外周の運河から市街地内部に入り込みますが、南から北に、ビードー・ヘゼル博物館とボタリー博物館があります。このダム門には大きな運河を挟んだ2本の道路(ヌールベークセカイとダムセダムセジード)とジーデルバルチェの3本の道路に接しています。そこに外洋からの河川を引き込んだ港(港湾施設:ブロットコムとハンデルスコム)があります。中世貿易が盛んであったころは大いににぎわったところだと思います。その南にブルージュの運河に囲まれた市域の最北部にある公園です。バロンルゼット公園があります。その公園からコンエリザべチアン通りを通って北西部にあるロバ門から、マルクト広場の西にあるセブレビツ公園を通って、南に向かって救世主大聖堂を東に見ることのできるサンド広場を結ぶ区域になります。

中世の市民の足としての水上交通運輸
また現在、ブルージュの中心部といわれるところは、ブルージュの外郭に作られた都市を守る運河城壁から、西に3分の一ほど入ったところに作られた運河の西側と、ブルージュを斜めに4分割するように造られている運河の北から2番目の運河以南の部分です。この都市の内部に作られている運河を貨物の輸送の幹線に使い、また人を運ぶ中世の中心の交通手段として使い、社会、経済、政治を支えていた動脈でした。ブルージュの町はこの運河を都市活動の骨格としてつくられています。現在の中心市街地は、やはりブルージュの観光の最大の名所である経済活動の中心地、ギルドハウスのある「マルクト広場」と、政治の中心であった市役所のある「ブルク広場」です。この2つの広場は双子の広場のように一体的にも利用できるようにつくられています。これらの中世に作られた都市施設である広場は必ず、建築物を囲んだ計画(マスタープラン)に従って建築物がアーキテクチュラルガイドライン(建築設計指針)に従って建てられる方法で形成されています。建築物は土地に定着されて土地の一部になると考えられています。
これらの大きな広場は、都市計画として計画され、北側から時計回りに、ヤン・ファン・エイク広場を北端に、セイファルブルグ教会を東端に、アトリッド女王公園、ブルージュダイアモンド博物館、ぺギン会修道院、を結ぶところを南端に、サンド広場を西端にした線で結んだ部分です。ブルージュの主要な観光資源はその中に入っています。ブルージュの町は中世の町を基本的に生かして、そこに20世紀になって歴史文化観光として現代の観光都市が形成されているのです。

ホテルの隣の聖母教会
ブルージュの街中を流れるダイフェル運河から見上げる位置に聖母教会があります。今回のブルージュ旅行にあたっては、私たちの宿泊したところはその聖母教会の隣で、娘が車椅子観光を希望した私の体の状態を考えて、都心のもっとも楽に行動ができて、ブルージュの中心街を楽しめるホテルを予約してくれたのでした。そのホテルは、道路を挟んで両側に宿泊施設と食堂部分があるホテルで、車いすを持ち込むことはできないほどの狭い路下と部屋でした。狭いホテルにも中庭があり、中庭に面してバルコニー型の廊下があり、緊急時には塀を乗り越えて避難できるように梯子も用意されていました。建物自体が4階ですので1階の中庭に面した部屋も開放感がありました。
隣接していた聖母教会は、13-15世紀に掛けてブルゴーニュ公国の統治時代シャルル侯爵家の礼拝堂とされ、何度も改修を繰り返した教会です。その何度も改修された時代を反映して、多くの建築様式が取り入れられています。現在見ることのできる教会の塔は、高さ122メートルの煉瓦の戦闘がエンパイアーステイトビルディングを連想されるような高い存在感のある尖塔のある建築物です。聖母教会は、遠くからもブルージュの都心のランドマークタワーとしての役割を果たしていました。聖母教会にあるミケランジョロの『聖母子像』や、ブルージュやゲントを代表する画家ヤン・ファン・アイクの『十字架上のキリスト』は有名です。

ぺギン会修道院
この教会を見学してから、その教会から見て南の方向にある中心市街地の南の端にあるペギン会修道院に出かけました。現在は世界遺産にもなり、ベネディクト会の修道院になっていますぺギン会修道院は、12世紀にリエージュの司祭ランベール・ル・ベージュが起こした運動で、その修道院の運動は、独身女性や夫を亡くして女性の生活と権利を守ることを主目的としていました。修道女は新興の下に貧者と病人に奉仕する共同生活を送っていました。このぺギン会修道院は、現在の日本の美智子皇后陛下が結婚に踏み切る前にこの修道院に来て神に祈ったという話が伝えられています。以前この修道院を訪問した時は美智子皇后がこもって祈られたという建物を教えられて入ったのですが、今回その場所は思い出せませんでした。この修道院は中央に樹木の立ち並ぶ公園があって、その公園を囲む形で修道院の礼拝堂の建築物が立ち並んでいます。そしてこのぺギン会修道院の広い敷地全体を、運河が敷地を折り囲んでいる形で造られています。運河に面した修道院の水辺の広場には、アヒルがたくさん休んでいました。そこに突然、外から観光用の馬車が爪音を響かせながら木立の緑の広場にやってきますが、その音を聞いていてもアヒルは知らぬ顔を決めているといった非常にのどかな景色でした。

運河クルージングとレンガの街並み散策
この修道院を出てから運河沿いに街並み見学をしました。運河と橋梁とが美しい街並み景観を造っていました。そこでこのブルージュの都市の中央幹線としてのダイフェル運河では、観光用のクルージングがその眺望を売り物に行なわれています。ダイフェル運河は、基本的に運河の片側に道路が造られていて、運河は何度も石造の橋で対岸の道路につながっています。この橋は基本的にアーチ形のデザインで、それら形状の違ったアーチの橋梁が運河景観をロマンティックなものにしています。以前ブルージュに来たときは2度とも運河ツアーに参加しました。しかし、最初は運河という水面の高さに近い位置からの街並み景観は、いろいろなアーチの橋梁をくぐって立派な建築美を誇るレンガ建築街並みを観光できました。そのため、運河からの景色と違った新しい景観で非常に面白いと思いました。観光船のスピードは、結構速く爽快だったことを思い出しましたが、運河に面して立ち並んでいる街並みの景色を走る速さで見るため、爽快ではあっても、立ち並んでいる素晴らしいレンガ建築をゆっくり鑑賞することはできません。以前2階の観光船観光は、写真を被写体の建築物の説明を聞き流しながら、左右の建築物を訳も分からず撮っていただけで、個々の建築のことは写真を見直してもほとんど記憶に残らないといった経験をしました。

車椅子による街並み散策

そこで、今回はクルージングに乗る観光はやめ、車いすで押されたゆっくりと建築物を観光して回りました。運河の横を走る道や、運河を横切る橋の上から観光船を見る景色も、長い歴史の中で次々に増築されたと思われる運河に面して建築された建築物も、驚くほど調和して建てられていることを確認できました。それらの建築物は、増築や改築を繰り返して建築されたと推察されるレンガ建築物でしたが、驚くほど木造の外壁が作られていました。構成された楽しい景色は、十分の時間が取れるため、建築のされ方やその詳細を考えることができるだけに、観光船から見る景色と違った面白い景色だと思いました。中世においての建築物の増改築に対する社会の関心は、都市空間は市民全体のものという共同意識が強かったことから、現在とはと比較にならないほど高かったと思います。それだけに新築の場合以上に増改築をする場合には周辺との調和を考えたに違いありません。その結果が、現在の街並み景観が観光資源になっておかしくない街並み景観の構成要素となれるレンガと木造建築およびそのレンガや木材による増改築を建てることになったに違いありません。

修道女たちのためのハウジングコンプレックス
確かに中世のブルージュは運河の交通が主たる交通であったわけですから、運河からの景色が中世のメインの景色だったわけです。そのような目で街並み景観を見るとすべての建築物は運河に顔を向けて建築のファサードをつくっていることがわかります。レンガの建築が運河に接して水面から立ち上がって立っているだけではなく、運河に乗り出して建築されていたり、運河から直接荷物の出し入れもできるようになっていました。屋根勾配がきついことと建物高さが多様で、屋根の形状も多様であるため、スカイラインに大きな変化がつくられ、魅力のあるスカイライインをもった景観がつくられていました。レンガ建築は縦の線が強いためその連続が街並み景観にリズムを与えていました。レンガ建築の増築に木造による恒久的な増築が少なくないとも改めて加工性の優れた木材の特性と考えられました。
ぺギン会修道院を出てから表通りを歩き始めましたが、途中の運河にかかった橋から少し離れた細長い公園(愛の湖公園)に隣接して美しい住宅がありました。よく見るとそれは真っ白な修道院の尼さんたちが生活する美しいハウジングコンプレックス(住宅団地)でした。道路に面した住宅が立て横に住宅の軸(棟)を直角に方向を変えながら、ロマネスク様式の半円形の門構えを区切りにした空間構成で落ち着きのある街並み景観を造っていました。ブルージュの街並み景観は運河との関係で美しい街並みを楽しむことができますが、道路から運河を見る景色より、道路からの運河を見る景観のほうが見ごたえがあるように思えました。

マルクト広場とベルフォート(鐘楼)
ブルージュの最大の観光スポットはギルドハウスがコモン空間をつくっているマルクト(中世のギルドたちが作ったマーケット)広場で、その中の見せ物は、その中央に立っている教会のベルフォート(鐘楼)ときルドハウスです。中世においての教会は権力の象徴です。1300年ごろに建築されはじめ,15世紀に完成しました。鐘楼は366段の石造の螺旋階段で作られたひときは高い鐘楼で、そこには47台のカリオンの鐘の総重量が27トンあります。鐘楼のバルコニーにはノートルダム(聖母マリア)像があります。このマルクト広場には、東側には白色のネオゴシック建築様式のフランドル州政庁と郵便局があり、北側(グランプラスの正面)には色とりどりのプシュットの家、クラネンブルクの家と呼ばれているギルドハウス(同業組合の建築)が建っています。マルクト広場の中央にはブロンズ像の肉屋(ジャン・ブレイデル)と織物工(ピーター・ドゥ・コニンク)の像がたっています。この2人はフランスからの独立戦争(1302年)のときの熱烈な戦士であったといわれています。このように都市空間には独立戦争からの歴史を軸に据えた4次元の空間づくりがされています。この空間を訪れたれた人に歴史と文化の知識があれば、創造たくましく過去にさかのぼってその空間を楽しむとともに未来にくけて私たちが守らなければならないものを自覚できるように計画してあります。このように都市は歴史軸をタイムスリップして経験できるようにけいかくされます。

街並み鑑賞のための休憩時間の楽しみ方
マルクト広場に面してレストランやカフェーがアウトドアーレストランの店舗が広場に色とりどりのテントを張って、突き出しており、どこの店も多くの観光客が満席状態で、マルクト博賀の景色の中の人物になりきってくつろいでいました。この中世から変わらぬ市民が集まる空間に身をおいて、そこで食事をし、お茶を飲みながら中世から多くの人たちが楽しんだ空間を楽しむことは、時代を超えて歴史文化を享受する観光の醍醐味ではないかと思いました。私たちはそこでベルギービールを飲み、ムール貝を食べ、ベルギーのハムやソーセージと野菜の食事を楽しむとともに、中世にギルドたちが作った広場の空間文化を、食文化も一緒にそのまま現代において満喫することができました。
この広場に建築されているギルドハウスに共通していることは、それぞれが個性的にデザインされていて、屋根の形状が切妻で、隣地境界線に接して建てられていることですが、すべてのギルドハウスのファサードのデザインに同じものはありません。むしろ、全く違っているというべきです。レンガ建築であるため、外壁はアティックを入れて4階建ての建築物で、ファサードは開口部で埋められていますが、その形状、色彩、額縁の設計のデザインはすべて違っています。窓が建築物の個性を強調するため、窓の周りには派手なトリムが取り付けられていますが、街並み全体としての違和感なく、むしろ、各建築物ごとでデザインの相互協力を行って、個々の建築物は街の中でより光彩をはなっていました。これは宗麟の建築物との調和を図ることが建築設計指針で定められているためです。

市庁舎(ブルグ)広場
マルクト広場の隣にブルグ広場と呼ばれる市庁舎広場があります。二つの広場に名前はそれぞれ、マルクト広場(市場の広場)とブルグ広場(町の広場)のことで、それぞれの働きを表していて、短い道路でつながれ一体的に使われることもあります。利用方法を考えた2つの広場は、視覚的にも、機能的にも独立した位置と構成で作られています。この広場の中心の建築物が市庁舎の建築物です。この市庁舎はブルゴーニュ公国時代の中央政庁として建設されました。マルクト広場のベルフォート(鐘楼)がその経済的力を誇っている建築物であるのに対して、市役所の建築物は長方形の形をしたゴシック様式の聖骨厨子を模した工芸作品のような美しい建築物です。1376年に立てられたフランドル地方で最も古いプラバント・ゴシック建築様式の美しい建築物です。この建築様式はフランボヤン・ゴシックとも呼ばれています。ファサードには7本の柱が設けられ、そこには聖人の石像が並んでいます。建築物そのものが芸術品のデコレーションがされており、内部のデコレーションも絶品です。ブルージュ最古の建築物の一つといわれ、2階の長老会室は1402年にオーク材の円天井と彫刻でインテリアが作られた「ゴシックの間」は、現在も市民の結婚式や大きな会議に使われています。この市役所に向かう途中にある記録保存書は1883年に港は裁判所として使われていますが、ブラマント・ネッサンスの建築といわれる金箔の像が棟を飾っている左右対称形のファサードの芸術品のようなとても美しい建築物です。

病院を改装したメムリンク美術館(ブリュージュ)
朝食後、聖母教会から少し南に下がった右手にあるメムリンク美術館を見学した。メムリンク美術館は12世紀の建造された聖ヨハネ施療院を改装し、その一部を美術館にした建築物です。このベルギーで生涯をおくったブルージュを代表する画家ハンス・メムリンクの代表作を中心に展示されています。これらの絵画は、病院に療養中の患者が心安らぐようにと集められた宗教画などを展示しています。一説には戦争で負傷したドイツ人メムリンクがこの病院で治療をうけ、その感謝の印に絵画を製作したという説もあります。この病院は豪快な木造トラスとポスト・アンド・ビームとを組み合わせた大開口の建築は、その小屋組みや、大きな梁構造を見ることができるようになっていますので、木構造骨組みが表現するその迫力を見ることができます。ここには小さなドールハウスのような規模の建築物模型ですが、ベルギー7大秘宝のひとつである「聖ウルスラの聖遺物箱」や『聖カトリーヌの神秘の結婚』、『キリストの悲嘆』などの作品を見ることができました。

マリーアントワネットに絡むボビンレースの話
このメムリンク美術館でも見られますが、ブルージュのあちらこちらのお店でベルギーのレースが販売されています。大変高額な値段がしますのでそのわけを聞いてみました。フランドル地方はどこでも昔から繊細な工芸が盛んですが、その中でもレースの技術はヨーロッパで最も進んだところといわれます。その昔フランスではフランス刺繍でも知られているようにレースの工芸が有名でした。そのフランスのレース(ニードルポイントレース)の工芸を一挙に駄目にしてしまったのがルイ14世と結婚したマリーアントワネットだといわれています。マリーアントワネットはポンパドール夫人らとレースの工芸が大好きでそれにはまっていたということですが、ベルギーのボビンレース(日本の組紐の技術と同じで、非常に時間と手間がかかる工芸です。)を見てからはフランスのレースには目もくれなくなり、フランスの宮廷がベルギーのボビンレースに席巻され、国費は乱費され財政は行き詰まり、フランスのレースは斜陽になってしまったといわれています。
ベルギーでは多くの女性たちがボビンレースを楽しみ、その技術は高く、その技術に対する関心が高いことから、各家では家のファサードのガラス窓のボビンレースを飾ることが、現在でも一般に行われています。ブルージュの住宅でもレースを全面窓のガラスに張っている家をたくさん見ることができました。家の前を通る人たちはそのレースに目を留めて技術を盗もうとしたり、レースの技術に関心したりするそうです。その結果、ガラス窓を通して家の中が見えても、人々の関心はレースに奪われたガラス面でシャットアウトされるというのです。そのようなことを聞いてから、窓のつるしてあるレースに関心を持つようにもなりましたが、同じレースが吊るしてあるということはまずありません。レースの模様がその家の主婦の文化的感覚と評価されるのかもしれません。参考までに、レースの種類には、ボビンレース、ニードルポイントレースのほかに機械編みレースがあり、さらにそれらの合成したレースもあります。

次回は、「ゲント」をご紹介します
(NPO法人住宅生産性研究会理事長 戸谷英世)



コメント投稿




powerd by デジコム