メールマガジン

HICPMメールマガジン第566号(平成26年6月30日)

掲載日2014 年 6 月 30 日

MM566号ゲント(6月30日)
みなさんこんにちは
「オランダとベルギーの街並みと住宅」の学習研究報告,第7回は、かつてヨーロッパで最大の国家・神聖ローマ帝国を支配した「カール5世の生誕地ゲント」をとおして、「過去の栄光に誇りを持つ町ゲント」を調査した報告をお送りいたします。

「過去の栄光に誇りを持つ」町ゲント
河川と運河により経済発展をしたゲント

ゲントはスヘルデ河とレイエ川という2大河川が合流する場市の合流のケルト語「ガンダ」が語源としてゲントという名前が付けられた。ゲントの街は、11世紀ノルマンに攻撃され、破壊された経験をもっています。ゲントはまたフランダース地方の中心都市(フラレデン伯爵の国の首都)として、中世においてはレースやリネン取り引きの中心地として、海外貿易産業を中心にして、経済的、政治的に発展しました。15世紀にはギルドが力を握り、ブルージュと並んで毛織物産業が発達し、商工業者が中心になって中世市民階級によるギルドが中心になった都市経営が行われました。17世紀にはゲントは戦乱に巻き込まれましたが、18世紀には再び経済的に繁栄することができました。ゲントはスヘルデ河の川砂の堆積により航行不能になり港の機能が働くなり、産業が衰退しました。しかし、19世紀初頭になると自動紡織機の導入により繊維業が息を吹き返し、その後、ゲントからオランダの北海海岸の街テルニューゼン(ゲントの略真北に位置する都市)を結ぶ運河が開鑿され、ゲントの貿易は再びその機能を回復しました。その経済発展のカギを握ったものは、河川と運河による水運を利用した外洋との貿易でした。ゲントは内陸にありながら、国際的な貿易のできる開港を持つ都市として発展したところです。自動車や列車が登場する以前の社会において、物資や人間の移動を大量に最も経済的に行う主tンは、船舶による輸送でした。その方法としてかセント運河の開鑿が重視され、近世までの都市の感染の役割を果たしてきました。現在、ゲントは、花の栽培や花の輸出も盛んで「ゲント・フラワー・ショー」の行われる世界でも有名な「花の都」と呼ばれている所です。ゲントの市民には、ゲントがゲントの歴史上、かつて神聖ローマ帝国の皇帝で、最も版図が大きかったときの皇帝カール5世の生誕地であることに大きな誇りを持っています。

ハプスブルグ家とカール5世の生誕地ゲント
ゲントの街が現在の繁栄をした理由にかつて「日の沈まぬ大帝国」と言われた神聖ローマ帝国のカール5世の生誕地であることがあげられます。カール5世の父はハプスブルグ家出身のフィリップ・ル・ボー、母は、スペインの多い継承者の娘ジャンヌ・ド・カスティーユで、1500年、ゲントに生まれました。ハプスブルク家はスイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥した王家で、273年にハプスブルク伯のルドルフがドイツ王神聖ローマ帝国の君主に選出されて世に出ました。ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失い、もっぱら軸足をオーストリア地方に移し、一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世が「大公」を自称ましした。1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り、その後、婚姻関係からハプスブルク家は、ゲントのあるブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させました。ブルゴーニュ領ネザーランドは現在のオランダベルギーに跨る所で、北海貿易の中核として、当時の商工業と貿易など、経済活動の中心になっていました。

スペイン中心に激動するヨーロッパ政治支配の影響を受けたフランドル地方
当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国でもありました。さらに、カール5世の弟フェルディナント1世がハンガリー王、ボヘミア王に選出され、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大しました。カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカール5世は、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を、弟フェルディナントと分割しました。また、その相続した所領は1556年に息子フェリペ2世に継がせ、ハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家とオーストリア系ハプスブルク家に分かれました。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ皇帝位を世襲することになりました。このカール5世が権力をふるった16世紀はゲントのまさに黄金期と言われた時代でした。
カール5世はイスラム勢力をヨーロッパから放逐するレコンキスタ(イスラム勢力に支配されたイベリア半島からイスラム勢力を追い出してキリスト教の再征服運動(英語では「リ・コンクウェスト」といいます。)を行い、アンゴラとカスチリアはグラナダのイスラム教国を滅ぼし、アルハンブラ宮殿を占領し、その一角にルネサンス建築を建設したことでも知られています。グラナダに残っていたイスラム教国は、既にオスマントルコとは全く関係の切れたイスラム教国で、アンゴラとカスチリアのような中速に台頭してきたキリスト教国には戦える力を持っていませんでした。しかし、キリスト教国にとっては8回にわたる十字軍遠征で成果を上げることもできず、イスラム教国をイベリア半島から追い出すことができたことは大変な快挙とされていました。このような皇帝が誕生した街ということでゲント市民は現代でもカール5世を偲ぶお祭りを年1回開催しています、そのお祭りとは、納税を拒否した責任者を絞首刑に処したことに因んだ「処刑者の行列」行っています。ゲントは西フランドル地方の中心都市として豊かな生活を送れる都市として発展したことから、「花の都」とも呼ばれ、1809年から、花の祭典(ゲント・フロリア)が5年に1度開催されてきました。前回は2010年、次回は2015年で各国から花の生産者やデザイナーたちが集まってくる。

2つの河川に挟まって発展したゲントの街
ゲントは都市の発生の経緯として毛織物やレース産業などを中心とした商工業・貿易を中心とした商都として水上交通によって都市を発展させてきました。都市の東を流れるスヘルデ河と都市の中心に流れるレイエ川の2本の川は北海にまで直接つながっていて、その水上貿易を基本に都市が発展してきました。ゲントは、東フランダースの州都で、「刺繍や織物」の町中世ベルギーの工業都市として繁栄したところで、大学都市としても有名な「花の都」とも呼ばれています。ブルージュは直接北海に河川で繋がっていますが、ゲントはスヘルデ河を下って、アントワープを経由して北海に流れ込む国際的な貿易を担う巨大な河川です。そのため、ゲントの経済活動は、物資の運搬を持っておも効率的に行うためには船舶の利用が不可欠で、運河によって枝分かれさせた河川と運河網で都市に引き込んだ経済活動網が形成されていました。ゲントの経済は商船の規模が小さいうちは北海から貿易船が遡ってくることで栄えた都市でしたが、商業活動が拡大し、大きな商船を利用するようになると、スヘルデ河の交通運輸では不可能になってきます。かつて、ブルージュが北海の流砂の影響を受けて、貿易船が接岸していた港が利用できなくなって、都市活動自体がその最盛期に活動を停止しなけらばならない事態に追いやられたように、ゲントも、やがてはアントワープも、スハルデ河の土砂の堆積と商船の規模の拡大によって、国際的な貿易港としての役割を担えなくなっていきました。

ゲントの中心市街地の街並み見学
今回のゲント訪問では、ゲントの中心にある聖ミカエル教会から西から東に偉大な教会や市庁舎などの公共建築を見ながらの市街地景観を見学して回りました。ゲントの中心市街地を南北に流れるレイエ川は、基本的にはスヘルデ川の支流です。中心市街地を北西から南東に走る道路が、北から南に流れるレイエ川を横切るところに1,909年に造られた聖ミヒエル橋が造られています。ミヒャエル橋から北に数ブロックの所にリベ川とレイエ川の2つの川のY字に合流する点があります。レイエ河が北から南へ流れ、ゲントの南を流れるスヘルデ川に合流します。レイエ河の東岸は「グラスレイ」と呼ばれ、ギルドハウスが並んでいます。「グラスレイ」とは、「香草海岸」の意味で、中世には港として栄えたところを意味しています。グラスレイには、プラバント、(フランダース)・ゴシック、バロックなどさまざまな建築様式で造られたギルドハウスが隣地境界線一杯に棟を連続させ建ち並んでいます。連続して迫力のある街並みを形成している姿は壮観です。レイエ河の対岸(西)は、「コーンレイ」と呼ばれ、穀物海岸という意味を持っています。ここの建築物の多くは16世紀に建設されたものを、20世紀になって復元されたのもですが、河川に沿って建設されている豪華で華やかなギルドハウスは、そのころのギルドの勢力の活躍を十分感じさせるものです。

ゲントの代表的建築物と街並み観賞
レイエ河にかかる聖ミカエル橋の東側に、聖ニコラス教会、大聖堂、鐘楼はレイエ河の東側に隣接したところがあります。聖ニコラス教会は、スヘルデ川流域に建設されてきたゴシック建築(スヘルデ・ゴシック)の最高傑作と言われる建築物です。聖ニコラスは両市の守護聖人出るとともに、船乗りの守護聖人で、航行の安全祈願の教会です。高い鐘楼(ベルフォート)は、14世紀にゲントの自治権の象徴として、ギルドによって建設されたものです。高さ90mで6階建ての53の鐘をもつ鐘楼は、16世紀に設置されました。この鐘楼からは、はるか南のスヘルデ河の合流点も見渡せるとともに、レイエ川、リーバ川を見渡すことのできるゲントの街の望楼(火の見やぐら)としての役割を果たしてきました。現在は繊維ホールとして、ゲントの歴史を展示しています。その道路を挟んだ向かいにゲント市庁舎があります。
ゲントの街の優れた景観を観賞するビューポイントとなっている聖ミカエル橋は、橋の中央に盛り上がった太鼓橋で、そこには聖ミカエルの像をかかった欄干灯も飾られています。ここ聖ミカエル橋からあのレイエ川両岸である「グラスレイ」と「コーンレイ」に建つ美しいギルドハウスの街並みを見ることができます。ギルドハウスは基本的に妻入りのデザインで、縦に並んだ開口部が建物のファサードに垂直にとおる開口部の建枠「額縁」の等間隔に造られた線を強調することになります。各ギルドハウスはそれぞれ豪華絢爛なデザインとしてつくられ隣り合っているギルドハウスのデザインは屋根の破風回りやペディメントのデザイン、全く違っています。開口部のデザインの全てに亘って同じところはありません。それであるにもかかわらず、隣り合っている建築物はそう簿に違っていながらその違いが相互の違いによって一層引き立てられるようになっています。建物と建物との間は基本的に隙間を設けていません。それがあるときは、そこが路地のような通路という機能を担っている場合に限られます。この景色がこの街で最も美しい景観といわれているので、今回のツアーでは、聖ミカエル橋からの景色を堪能してから、橋の東の町並み見学に向かいました。

聖バーフ大聖堂のファン・エイクの名画「神秘の子羊の礼拝」
鐘楼(繊維ホール)からさらに東に進むとそこには、聖バーフ大聖堂があります。この大聖堂にはフランドルの至宝15世紀フランドル 絵画の最高峰ファン・エイク兄弟作とされる三幅対の祭壇が「神秘の子羊の礼拝」(1426年)がありました。フランドル地方の製材発展が帰属や教会商人の絵画に対する需要を高め、フランドル絵画が反映したと言われています。この絵画の中心の祭壇の上に祀られている仔羊は、ゲントの毛織物産業とはたして関係があるものか、大変興味のある名画です。とりあえずこの名画(実は改装工事中で見学できたのはレプリカで、本物は別の場所に展示されていましたが、出かけませんでした。コピーであっても、本物であっても見分けがつきません。ともかく、「神秘の子羊の礼拝」を見ることが出来たので、そこを今回のゲント市内観光の東端の折り返し点として、聖バーフ大聖堂から西に反転し、市役所を見学しました。この市役所は1576年「ゲントの講和条約が結ばれた歴史的建築物で、この建築物には,ゴシック様式や、バロック様式が混じりあって造られていました。今回訪問することはできなかったが、ゲント史博物館、ゲントし現代美術館、ゲント美術館、ゲントデザインミュージアムなど展示品はもとより、美術館建築も優れていると言われているので、次回は時間を取って見学したいと思っている。

幻想的な中世のお城:フランドル伯爵城
市役所の庁舎建築を外側から見学してから、レイエ川に戻りました。川沿いの建っている民俗的な味わいのあるギルドハウスを見学してから、そこでフランドル伯の居城グラーフェン・ステインを対岸から眺めました。この城を建造する指示をしたフィリップ・ダルザスは、十字軍がシリアに造った要塞に発想を得てつくられた建築様式と言われる。グラーフェン・ステインは十字軍に参加し、城の完成を見ないで死亡した。この使途は牢獄としてつかわれていたこともあるが、陰鬱な雰囲気を漂わせている。リーバ川とレイエ川の合流点でY字型に2つの河川リーバ川とレイエ川に囲まれ、大きな堀に囲まれたお城か、あたかも湖水の水面に浮かぶように立つ堅固な城塞は、フランドルはきアルザス家のフィリップが軍事拠点として1180年に築いた居城です。この居城は城砦建築で最初に建設されたのは、9世紀にバイキングの進入に対抗して作られた城砦といわれています。フランドル伯爵城を、リーバ川を挟んで見学してから、その近くにある民族博物館「アリンの家」を見学しました。「アリンの家」は14世紀から施療院や病院として利用されていた建築物を1962年に民族博物館としてフランドルの生活や文化を展示するようにしたものです。

運河に面して建てられた美しいレンガ建築
レイエ川両岸に造られているコーレンレイやグラスレイと呼ばれる中世のギルドの建築は、驚くほど個性的で、その建築の間口、高さ、切妻の形状と妻飾り、窓の形、窓額縁、材料のレンガの形、色彩、意匠、など建築デザイン要素を構成するすべての要素に関し、同じデザインはないかとむきになって探してみたが、同じデザインを見つけることはできませんでした。何故これほど個性的でなければならないのかと疑問にさえ思わされました。どうやら建築物のデザインは、その建築物を所有する人のデザインに対するこだわりといった簡単なものではなく、建築物の所有者の家柄とか人格ではないかと思わされるほど、個性的なものばかりでした。そのように建築デザインとしては、個性の主張がファサードに現れているにもかかわらず、各建築物は隣棟に隙間を造らず、隣地境界線に接して建築されています。それでいて隣り合う建築デザインが驚くほど調和しています。街並み全体としては、個別の住宅のファサードの美しさのどれよりも、街並み景観の方が楽しい景観をつくっていることです。個々の建築の所有者は、他人と同じ建築デザインを嫌うと同時に、両隣に対して、いかに調和するデザインにするかを図ることによって、相乗効果を発揮させるデザインとしていると考えざるを得ません。ファサードのデザインの中で、すべての建築物が最も重視しているデザインは、屋根のスカイラインを形作る部分です。そのように考えると、スカイラインに各建築物の個性が最も強烈に発揮されていますが、その個性が街並み景観を面白くしているのです。一方、間口の大きな建築物の場合、そのファサードは基本的にあるプロトタイプのデザインを繰り返して使うことでリズムのある建築デザインを造り、そこに存在感の主張が見られます。レンガの建築が単純にならないように開口部と柱に、縦にトリムをしっかり入れて、繰り返しのデザインを採油することによりリズムのダイナミズムを作っています。組積造建築のデザインの基本は、縦のデザインを基調にしたレンガ建築によく表れています。

ゲントの街並みと街並み計画
今回のゲントの街並み見学は、その中心部の公的な建築物を中心に、建築物デザインを見学する中心市街地のみの街並み見学でした。一般に中世に都市はマルクト広場と呼ばれる広場の周りにギルドの建築物が囲う形式をとっていましたが、ゲントの現在の都市空間は、そのような広場はなく、聖バーフ広場と呼ばれる広場の近くに市役所があります。聖バーフ大聖堂は、1274年に町の裕福な毛織物商人によって建築されたもので、鐘楼の塔は1569年に完成しました。聖バーフ大聖堂の前に、現在の観光案内所があります。その近くに市役所があるもので、ゲントにはブルージュのように、市の中心広場としてのマルクト広場はありませんでした。そのためか、現在のゲントの町には、街の「広場に集まる」感じが弱く、経済的な活動のすぐれた町という感じを受けました。レイエ川の両岸に残っている中世のギルドの建築物は限られていて、ブルージュの町とは違って男性的な力強い感じのする町でした。建築物はブルージュより都市的な感じの構想で機能的な感じを受けましたが、町の中には、公共建築や宗教建築がたくさん立てられていて、かつての経済的繁栄を背景に、ブルージュと都市の立派さを競争した時代に、如何経済活動が盛んであったかを十分伝えてくれています。
ゲントの街はブルージュと違って経済的活動が中世以降も継続したため、ブルージュのように突然死「サダンデス」した性格の町ではなく、中世から現代にまで経済活動が続き、それが都市に立っている建築物にも時代に変遷を感じさせるものになっていました。都市はその場所ごとに違った性格を感じさせ、多様なライフスタイルを受け入れることのできる住みやすそうな雰囲気のある街でした。過去に栄えていたときの思い出の中にタイムスリップするようなブルージュとは全く性格の違った街で、カール5世という政治的に大きな力をふるい、その後も経済活動で栄えた町として、産業都市として独特な性格をもった町で、ブルージュと比較して遜色のない町並みを誇っていました。

次回は「アントワープ」をご案内することにいたします。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長 戸谷 英世)



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