メールマガジン

HICPMメールマガジン第575号(2014年9月16日)

掲載日2014 年 9 月 16 日

みなさんこんにちは

「オランダ、日本、米国、3国の住宅問題比較のうちオランダの第4回目です。

HICPMメールマガジン第577号(平成26年9月15日)
オランダの都市と住宅

『共産党宣言』が教えてくれた欧州の都市
オランダの町を旅行して一番驚かされることは、日本よりはるかに人口が高密度である国であるにもかかわらず、町を出た途端、見渡す限り緑の牧場が広がり、牛や羊たちが放牧されているのどかな景色がある。都市が豊かな自然に囲われているのは、なぜだろうか。カール・マルクス著『共産党宣言』で初めて知ったことは、都市のつくり方自体が欧州大陸と日本とは全く違うことでした。ヨーロッパ大陸にある都市は常に戦禍に脅かされ、自らの都市を守るために濠(運河)を都市周囲にめぐらし、または、城郭を築き外敵から守り、城内に住む人に市民権を与え高密度に住んでいました。濠や城郭を造ることは巨額な費用がかかるため、濠や城郭はどうしても造らなければならなくなるまでは造らず、既存の濠や城壁の中にできるだけ人口を詰め込んだ。そのため、住宅の上に住宅を載せ、共同便所や共同水道等の施設が共同利用された。そのため、フランスやイタリア、スペインなどの大陸の都市では、城郭内にできるだけ沢山の人口を住ませるための共同住宅(マルティ・ファミリー・ハウス)が建設され、高密度居住の土地利用が行われた。

近代都市の形成
農民たちは城郭外に生活し、都市に食料品を供給した。貴族たちは都市に庭園を持っていたが、市民には庭はなく城外にピクニックに行くことが楽しみになっていた。その市民に公園を与えるために道路を公園にした人がパリ大改造計画をナポレオン3世の下で実施した。ジョルジョ・オースマンであった。この都市改造の考え方は、その後の欧米の近代都市計画の基本になったもので、オランダの都市もその考え方を取り入れている。
近代都市のベースとなっているものは中世の都市である。中世の都市では、濠や城郭の拡張が人口増加に追い付かず、その後、都市間の商業流通を営む人たちは日常的には城外に生活し、緊急の危険を感じ多ときに都市に逃げ込むことになった。緊急時には市の城内に入ることのできる鍵を与えられ、いつでも都市に逃げ込むことができる人が城外市民である。市民権を与えられた印として市民の鍵を贈る記念行事の起源である。しかし、英国では欧州大陸とは違いその必要性がなかったため、土地の上下に他人の権利が重ならない住宅(シングル・ファミリー・ハウス)が建てらした。そのため、英国では、まともな住宅は,上下に他人の権利が存在しない住宅で、自家菜園や物干しと日光浴ができ専用のバックヤード(裏庭)を持っていることが適正(ディーセント)な住宅と言われ、大陸の共同住宅とは違った住居観を生み育てた。

西欧大陸の都市、英国の都市
中世都市史の中で、大陸では人々が高密度に住み、お互いが豊かな生活を営む街づくりの方法を開発して来た。英国でも都市住宅は土地の高密度利用を図るため、テラスと呼ばれる住宅が建てられた。テラスとは独立住宅が隣地境界線に接して建設される連続住宅である。オランダは運河や城壁で街を囲い外敵の侵入から自らの生活を守った大陸型の都市づくりで、大都市では共同住宅が建設されたが、小さな都市では、英国の都市住宅同様なテラスにより、高密度開発を実現した。オランダとベルギーは地盤が軟弱な低湿地であることも関係し、中低層過密住宅をつくる方法として、連続住宅による高密度開発が小規模開発として行われた。

欧州の都市を理解する最高の図書『共産党宣言』
わたくしの学生時代は、戦後の民主化を考える原点として「共産党宣言」を読み、資本主義国家の形成の歴史を同書から勉強した。『共産党宣言』は近代資本主義経済体制の形成を科学的に学ぶ歴史書として、近代以降、世界中でもっともよく読まれた本の一つで、欧米の社会科学を学ぶ入門書として、この本を読まない学生はいなかった。『共産党宣言』の書き出しの文章が、東京大学の入学試験問題に取り上げられたことも影響していた。この本には戦後の民主教育を象徴する資本主義社会が誕生した背景を学ぶ歴史が記載されていた。オランダの都市は欧州大陸の都市と同じように城郭に代わる運河を使って都市を守り、市街地の人口密度は驚くほど高い。しかし、市街地には市民が共有空地(コモン)を上手に使い、そこを住民の共通のルールで管理し、共有空間は多目的に何重にも利用された。私が『共産党宣言』から学んだ都市の形成史は、『建築法規概論』(共著:オーム社)として40年前に刊行し、筑波大学などの教科書(副本)として使われた。

都市と農村は一体不可分の有機的関係
城郭の外には都市も拡大したが、近代以降も都市の構造は基本的に変わらず、農業生産者たちが農業や畜産を行い、都市住民の食料を供給するための農地が広がっている。一方、市民は農地から食糧を確保するとともに自らも市民農園を経営し、健康のためにピクニックにでかけた。都市空間と農業空間を市民が両方利用することで、メリハリの利いた都市生活がでる。中世に骨格が作られた都市と農村の関係が、近世以降の都市形成の骨格を与えてきた。都市にはそれぞれの歴史文化があり、中世の地方分権的な都市の歴史を背負い近代都市が形成されたため、西欧人はそれぞれ固有の地域地区に高い共同体の帰属意識を持っている。
その原点は、居住できる土地が限られているため、共有空間(コモン)地を利用せざるを得ず、その利用をめぐるルールを設け自主的に統治(自治)してきた。つまり、共有地(コモン)を大切にすることから、近代のコミュニティの意識が生まれてきた。

重視されてきたセキュリティの高い都市造り
実は、コミュニティが都市のセキュリティ-を高める最大の鍵を握っていた。そのことが、1980年代のTND(トラディショナル・ネイバーフッド・ディベロップメント:伝統的近隣住区開発)理論の構築段階で明らかになり、TNDが米国のニューアーバニズムによる都市づくりの中心的計画理論として再確認された。建築物の隣棟間に無意味な空地を作らない理由も、賊が隠れることができなくするためであるが、土地所有者自体が健全管理のできない隙間の土地は、人々の繋がりを脆くする原因になる。ニューアーバニズムの原点、セキュリティーとコミュニティを育てる街づくりが、オランダで見た中世の街づくりの中に根付いている。

高密度市街地を豊かに利用する鍵:共有地(コモン)の利用
高密度に居住しながらも人々に豊かな環境を提供するためには、都市と農村の人びとの生活空間が有機的に繋がる必要がある。欧州では都市計画法の中で都市と農村とを一体的な空間として扱い、日本のように市街化区域と市街化調整区域を線引きで対立させない。都市居住者にとり農村は人間性を回復するために必要な自然を提供する空間である。都市の中では過密な高人口密度で生活をしながら、中世以来の都市には、豊かな緑の共有緑地(コモングリーン)や石畳の敷かれたマルクト広場が確保されている。ゴータ市の場合もその典型的な例で、市役所が広場の中心に建てられ、経済活動と政治の中心となっている。
オランダでは低湿地の水を排出するために運河が築造され、運河に関連する人たちの生命財産と運河とは不可分に関係し、運河の管理は自治によって行われてきた。運河管理の仕事は近代国家の仕事になった後も、運河は経済活動を支える交通・運輸の手段として、市民たちはそれらをすべて国家の管理に委ねるのではなく、利害関係者による経営管理ルールとし、国家管理と共存した自治的な管理が行われてきた。官民の役割分担がなされ、市民の権利と義務とを背景に官民の役割分担に沿い、管理された人間環境をつくっている。1991年ヨセミテ公園のアワニーホテルでの合意「アワニーの原則」が地域、地区の段階に対応した官民協力の役割分担をまとめたが、その原型がオランダの伝統を担った都市の自治によるコミュニティ経営に見られる。

長崎のハウステンボスから学ぶことのできるオランダの文化
今回のオランダ旅行の一つの目玉は、ハウステンボス(長崎)のモデルとなった空間がどのようにつくられ、利用されているかを知ることにあった。実際に生活していないハウステンボス(長崎)は、忠実のオランダの住宅・建築・都市をまねてつくったところである。形を学ぶためには日本人にとって近くて費用の掛からず、訪問しやすい教材である。それを日本の街づくりに活用する技術とするために、ハウステンボス(長崎)をもっと有効に活用できないかと考えた。ハウステンボス(長崎)の中心広場とそこに立っている市役所が、ゴーダの市役所のあるコモン(マルクト広場)の空間である。ゴーダ市役所の建築物は、オランダを代表する美しい建築物であるので、ハウステンボス(長崎)の中心に立てられた。ゴーダのマルクト広場は、オランダの中世から大切に守られてきた都市空間を手っ取り早く理解するうえで大変好都合である。ハウステンボス(長崎)を訪問した疑似体験は、ゴータ市民が大切にしてきた空間計画を学ぶ上で、教科書的実例経験になる。

昔と同じように繁栄するマルクト広場
以前、鉄道でゴーダの駅まで来て、そこから徒歩で市役所のある中心広場まで歩いた。駅からほんの5分足らずの距離で、街並みに気を取られているとマルクト広場に出てしまった。今回は娘の自家用車に車いすをつけて都心のマルクト広場の近くまでやってきて、そこで車いすに乗ってゴーダの市役所とギルドの建物と、それらが取り囲んでつくっているコモン(マルクト広場)を見て回った。市の中央にあるのがマルクト広場で、その広場を囲んで立ち並ぶ建築物は、ギルドごとの個性を主張した多種多様なデザインの建築物である。その建築物の連続したファサードに囲まれた広場が、学ぼうとしているコモン(都市の共有空間)である。その中心がゴーダ市役所と広場を囲むギルドハウスである。マルクト広場の周りにギルドハウスが建てられたのではなく、最初に政治経済の中心となるべきマルクト広場の3次元の計画があり、その計画通りの市役所とギルドハウスの建築物がデザインされ、計画通りに建築物が建てられ豪華なマルクト広場ができている。建築物はマルクト広場のデザインに不可欠なものである。コモン(共有地)としてはそのほかに様々な規模のコモンが町全体に散在しているが、いずれの広場も最初から3次元の設計がされて、その計画通りの建築がされ、コモンの性格も活用の実態もそれぞれ決められてきた。

政治、経済、文化の中心地:マルクト広場
都市全体に人々が高密度居住しているにもかかわらず、日本では見ることができないほどの大きなマルクト広場が造られている。広場ではゴーダが栄えた中世から現代にいたるまで、チーズや食肉加工品や野菜や果実、食品や日用品雑貨、衣料や装身具、家具や食器など生活必需品や様々な商品の市場が立ち、人々の経済活動の中心でした。同時にこの広場では政治の行事が行われたりする都市生活の中心であり、商業や文化の中心の空間(コモン)である。人々の生活がこのマルクト広場とつながっている。現代も観光事業として、同じような利用がされている。ゴーダの人々の生活がすべてこのマルクト広場との関係で作られている。

街のシンボルとして機能する「からくり人形」
マルクト広場と呼ばれている市役所広場を取り囲んで、その地に持ち込まれる商品を運搬する運河が造られ、その運河を利用した商工業が繁栄した。運河の両側を商店街で造られたギルド組合の建物が軒を連ね、バックアレー(裏通り)を背中合わせにした街並みで取囲われた中央広場に、ゴーダ市役所がゴーダの文化を象徴する建築物として立っていた。中央広場や街並みの構成の姿もそのままハウステンボス(長崎)に取り入れられている。中央にあるゴーダ市庁舎の前方横壁上部の「からくり人形」時計は、特別豪華なものではないが、昔から時を告げる施設として人々の生活リズムをつくってきた施設である。現代でもその歴史を伝える文化施設としてゴーダの市民に愛され、毎時間、市役所の時計台から音楽とともに飛び出すため、市民も多くの観光客もその様子を見に集まってくる。1分足らずの「からくり人形」の登場・パフォーマンスを30分以上待ち、人形が動き始めると望遠カメラの放列が迎え、あっけなく終わった分だけかえって貴重なものを見た満足を感じている。

チーズの街ゴーダのチーズのお店
ゴーダの街の中心広場には昔からのチーズの計量所があり、そこではチーズを観光客向けに販売していた。
かつて訪問したとき、計量所と別の場所に驚くほどたくさんの種類の大きなチーズ販売店があり、興味があったことを思い出しその店を探してみた。その専門店は中央広場に続く道の入口だったことは覚えていたが、方向感覚がわからなくなったので、その場所を地元の人に確認し出かけた。そこには大きな円形の蝋でチーズの周囲をくるんだチーズが山積みになっているだけでなく、香辛料が入ったチーズ、ハーブの入ったチーズ、干しぶどうの入ったチーズなど色とりどりで、味も形も違った驚くほどたくさんの種類のチ-ズがあった。その店にはたくさんの買い物客が入れ替わりたちかわりやってきて門前市をなしていた。そこでオランダの観光客が楽しんでいるように、さまざまな種類のチーズを試食し、楽しみ、驚き、そして驚くほどの種類のチーズを、沢山、お土産として購入した。ここではショッピングすること自体が楽しく、来店者の満足は高いように思えた。

運河が生き続けている町
中央広場を囲う形に周辺の運河があるが、それは建物にブロックされてマルクト広場からは見えない。運河に面した道路に軒を接して建てられている店舗とマルクト広場に面した店舗とが背中合わせに、どこまでもエンドレスに並び、マルクト広場の裏側の運河に面した道も楽しいショッピング通りになっていた。その通りに面してこじんまりした前庭広場のあるゴーダ博物館があり、道路から狭い運河にかかっている長さ10メートル、幅4メートル程度の橋を渡った先には入口の扉のある門があった。博物館の前庭広場は起伏があり、大きな広場ではないが、博物館の建物を背景にした変化に富んだ空間になっていた。その広場は、塀と建築物に囲われたこんもり盛り上がった台地で、そこには多数のオブジェのほか、高い木も植えられ、起伏を利用した地盤の高さの違いをいかし、たくさんのテーブルが三々五々にグループをつくり配置されたアウト・ドア・カフェーになっていた。

ゴーダ博物館の前庭
前庭広場にはおどけたユーモラスな人形や面白いデコレーションがあり、博物館の出窓に飾られた人形が目立つように飾られた建築の外壁と塀とが、前庭広場の景色の背景となり、来館者にとって、そこはお茶を飲み、軽食を楽しめるくつろげる場所になっていた。前庭広場・公園は、日本の宅地造成のように「ひらば」(平らな土地)をつくり、コンクリート舗装をすることはせず、すべて起伏がある地形をそのままの状態で利用し、土地の起伏そのものが前庭広場・公園の面白さとなっていた。前庭広場は隣の敷地の中庭とも連続した公園道路がついていて、門をくぐれば隣の庭とも一体的に散策できるようにもなっていた。博物館に入らなくてそこでお茶の休憩を取って時間を過ごす人もたくさんいました。私たちもお茶や食事をしている人たちの雰囲気を楽しみ、それから、隣に見えるこのゴーダ最大の見せ場である聖ヤン教会を見学した。

聖ヤン教会のステンドグラス
聖ヤン教会は、洗礼者ヨハネ(ヤン)に献納された教会で、ヨハネの生涯が聖歌隊席の周りにステンドグラスでつくられている。このステンドグラスは1573年以前に造られたこれらのいわゆる「カトリック・ステンドグラス」は、1552年の火災後にこの教会に寄贈されたものによるものである。いずれのステンドグラスも、宗教関係者と非宗教関係者が双方とも自分たちが良い人間であり敬虔な人間で、力を持っていることを誇示すために寄付したものである。ステンドグラスのスポンサーは、スペインのフェリペ2世、その妻メアリーチュード、オランダの女性提督、司教その他の高位聖職者、ゴールデンフリースの騎士たちなど著名人が多く、彼らから贈呈された700枚近いステンドグラスがこの教会の誇る宝になっていた。ステンドグラスには作成者(依頼者)名が付けられているため、これらのステンドグラスが寄贈された歴史の経緯を今でも検証することができる。そのため教会に見学に来た人にとってステンドグラスは、時代を超えて制作時の色と光を伝えてくれる美しい評価・鑑賞の対象であるだけではなく、その裏側に大変な歴史があることを聞かされ、現代にその歴史文化を伝えている。

キリスト教が都市文化の土台
聖ヤン教会の内部が全面的に改装中でしたが、教会の内部装飾を見やすいように解説され展示してあった。この改修工事は20年以上の歳月をかけて行われているもので、カトリック教だけではなく、行政も民間も当地の共有の財産と考えて取り組んでいる。この教会は特定の宗教施設というのではなく、長い歴史文化を経てゴーダの人々が守り育ててきた文化遺産であると皆が考えているところに、ゴーダの街造りの本質がある。よく西欧のキリスト教社会では、人々の宗教離れが進んでいると言われている。確かに、信者数や教会への礼拝者を統計的にみる人は、信者は減少しているかもしれない。しかし、西欧について勉強をすればするほど、キリスト教文化は現代の生活の文化的基盤を構成し、宗教を宗教行事に限定して考えることはできない。

オランダ人の生活の骨格を作っている宗教文化
ご利益を求める信仰や、アミニズムのような自然に対する八百万の神に対する信仰とは違い、キリスト教は人格神の対決といった個人の生き方として、人々の生き方に影響を与えている。キリスト教は人間の生き方そのものを左右する宗教の重い問題だけではなく、人間の社会、経済、政治と深く関係した生活に組み込まれ、信仰以前に人々の生活と切り離せない関係をもっている。聖ヤン教会は長年月をかけ巨額な費用を必要とする改修・改装事業の中で、それを物心両面で支えてきたゴーダ市民の町を育ててきた文化に対する思いを見せられた。ゴーダの市民にとって宗教は個人の信仰を超えて、人々の生活を支えてきた文化風土である。

北海中心商業都市の移動:ダムを造り、干拓と運河でつくられた首都アムステルダムへ
オランダの首都アムステルダムは人口70万人の都市であるが、東京首都圏といった考え方で見ることはできない。アムステルダムは歴史的に運河で取り囲まれた城塞都市で、現在は都市防衛という考え方はないが、通過交通から都市を守るために環状線が都市の外周に造られ、都市を通過交通から守っている。アムステルダムは現在大堤防により北海と区画されたアイセル湖は、大堤防築造前まで北海と直接繋がっていた。大堤防によってオランダは巨大な淡水湖を造り上げ、いつでもこの地を干拓により陸地として使うことができる。「神が地球をつくったが、オランダはオランダ人が作った」といわれるほどオランダ人の干拓技術にはすごいものがある。
アムステルダムの歴史を振り返ると、800年ほど前アイセル川の河口に漁民が住みつき、アイセル川の河口に土を盛り上げ、湾を閉鎖し、運河を造り水の流れを変え、干拓を始めアムステルダムを造った。1270年、アムステル河をせき止め、現在のダムラックを流れていた河川の末端を、O・Zフォールブルヴァㇽ運河、アウデスシャンス運河及びクローフェンニールヴァル運河の3運河に分岐し、アイ湾(ヘット・アイ)につなげた。そのアムステル河をせき止めたダムの場所が今のアムステルダムの中心の王宮前広場のダム広場である。現在キンダーダイクを訪問すると、そこにはいまだ49台の風車が残っていて、オランダ人が風車を使って海水面以下の干拓した土地からの水を1台の風車を使って、1.5メートル高いところに排出する実物が見られる。
西欧の北部には14世紀中世から地中海からの貿易を拡大し、ブルージュ、ゲント、アントワープとそれぞれ河口に貿易の港がつくられてきた。しかし、いずれも北海の流砂の多い海岸に位置した河口港で、河床が年を追って上昇し、浚渫が困難であったことと貿易の拡大で貿易船が大きくなることにより、これらの商業都市はいずれも最盛期を迎え、港は商船の規模の拡大と過少の深さが矛盾対立し、商業的な役割を担えなくなった。15世紀ブルージュが、その後アントワープ港が、北海の砂の堆積とベルギーとオランダの利害対立が原因で貿易をできなくなり、アムステルダムが北海の中心港湾としての独占的地位を得た。

運河で低湿地を干拓し造られた海水面下の都市アムステルダム
オランダ自体が国土の4分の一を海水面以下の土地であるために、これまで堤防の決壊により浸水による被害を繰り返し受けてきた。そのためアムステルダムは堤防をつくり、干拓をし、排水を行ってきた。アムステルダムは過去に北海に面した商業都市と違い、北海の流砂の厳しい環境からは外れアムステル川の河口に造られた都市で、河川を人工的に管理するとともに浚渫技術を持って北海運河を建設した。その結果、河口港の河川流砂の体積を受ける港ではなく優れた商業港としてオランダの発展に寄与してきました。さらに洪水対策として大堤防を築造しアイセル湖をつくり、北海からの影響をカットした。現在、港湾と一体の産業都市の役割はロッテルダムに移動し、アムステルダムは商業・業務・観光を中心にした港湾になった。
大陸の多くの都市では城郭を拡張していきたが、アムステルダムは居住者の拡大に合せて、城郭に代わる方法として低湿地に運河を造り、干拓地(ボルダ―)を形成し、運河を拡大し人口の増加に対応してきた。また、そこで働く人たちの居住区を都心から郊外に向けて5つの運河とともに干拓地に拡大し、アムステルダムでの市街地は拡大した。アムステル川の水はこれらの運河を経由して、大堤防の築造によりつくられたザイデル湾に開かれた北海とは直接繋がっていないアムセル湖(淡水湖)に流れ込む。アムステルダムから北海への航路は、アイ湾を経由して北海運河が迂回し、最終的には北海に繋がっている。現在、アムステルダムのアイ湾は、アムセル川の昔の流れとは変え、北海運河につながり、北海運河を通って西に向かい、北海に直接つながり、年間1、400万トンの貨物がアムステルダムに運ばれています。

「神は世界を造り、オランダ人はオランダを造った」といわせた干拓技術
オランダの干拓能力を示す代表例として、アムステルダムの北20㎞にあるベームスター干拓地がある。1612年から1617年に5年間かけてマイナス3.5mの土地に干拓工事が行われて生れた土地である。そこでは42台の風車を使い排水を行い、陸地を造ったオランダの干拓能力を現代に伝える世界遺産である。ベームスター干拓地は、オランダ北西部北ホラント州にあり、アムステルダムを含むそれ以降の干拓工事にも影響を与えた。ベームスター干拓地は、元々は、オランダ東インド会社の海外派遣の食糧確保を目的とし、農地の開発を企図し、風車を利用して水を排出した。干拓後、実際に農地として使われ始めたものの、排水の不十分さが原因で牧草地に転用されたが、排水技術の向上により土地を改善し、園芸農業も営まれている。
オランダの干拓技術が、アムステルダムもスキポール空港とともに海面下3メートルにある湿気たビートの泥の上に建てられにも拘らず、北欧の商業流通業の中心地として非常に大きな役割を担っている。オランダ人の干拓能力を駆使した都市づくりは、その後のアムステルダムの商業都市の形成拡大と、造船能力の向上と港湾の施設の整備に対応する港湾管理を可能にし、ジャワに拠点を置くオランダ東インド会社の本拠地となる優れた国際的な貿易港の基盤を築いた。

アムステルダムの運河構造
オランダが世界の海に乗り出していた17世紀の黄金時代に、アムステルダムの中心都市開発がされた。そのときまでに形成された都市が旧市街地で、旧都市の外殻に構築されたジングル運河で囲われた区域の過半をしめる。5つの同心円状に築造された運河は、アムスル川が運河その末端で、O・Zフォールブルヴァㇽ運河、アウデスシャンス運河及びクローフェンニールヴァル運河の3運河に分岐し、そこからアイ湾に導かれている。旧市街地のコア(核)になっている中心市街地には、都市の中央のニーウマルクト広場と軽量所を中心に、反時計回りに、北側からアムステル中央駅、王宮、ダム広場、アムステル大学、アムステルダム市役所があり、北部アイ湾に隣接するオーステルドックを結ぶ都市の旧市街地のコア(核)を囲んで、アムステルダムの環状運河がつくられている。その環状運河は、アムステル河の河口から、上流に向けて、(1)ジングル運河、(2)ヘーレン運河、(3)カイザルス運河、(4)プリンセン運河、(5)リジングバーングラハト運河と5つの環状運河がある。その外殻にアムステルダムという都市の城郭を囲む形態で(6)ジングル大運河がつくられている。

新旧地図比較による都市成長歴史の検討
1939年当時の写真と地図を見ると、アムステルダムは、アムステル川が北上して西に湾曲し、現代のダム広場で再度北に折れ、現在のダムラック通りを北上しアイ湾に流れていた。ダム広場から旧証券取引所を繋ぎ、アムステルダム中央駅にぶつかる部分にアムステル川の本流が流れていた。アムスル川の位置にアムステルダムの外郭城壁が造られ、現在の旧市街地と呼ばれている区域のうち、西半分部分の北から3番目の放射状運河レヒュリール運河部分から西側は、現在の(6)シングル大運河までの市街地はすべて完成していた。レンブラント広場までは当時の市街地に入っていたが、(2)へーレン運河以南の市街地は、現在のシンゲル大運河の以北の市街地であっても、1939年以降に建設されたところになる。アムスル川がへーレン運河と結びつく部分以東のへーレン運河は、アムステルダムの外郭城壁部分の城外となる現在のシンゲル運河の原型である。これらの環状運河を縦に繋ぐ放射状に造られた運河4本とアムスル川があるが、放射状運河のへーレン運河は城郭の外に造られたシングル大運河の部分で、それ以東の運河はすべて1939年以降に建設されたものである。

運河の両側の道路に面して造られたキャナルハウスによる街並み
運河はその両側に道路があり散策できる。環状運河の内(3)カイザルス運河や放射状運河の中央北から3番目のレヒュリール運河周辺は、運河に沿ってキャナルハウスと呼ばれ建築が建てられている。キャナルハウスは妻入り形式を基本とし、妻屋根の小屋の棟木に滑車を取り付けることができるように造られている。運河を上って運ばれた荷物は、運河から直接運河に面して立てられた住宅や建築物の棟木に取り付けられた滑車を使って陸に引き上げられた。大きな荷物は開口部を外し、そこから住宅の中に取り込む方法がとられた。当時のままの個性豊かな興味深いデザインのキャナルハウスは、お互いに外壁を接して建てられ、面白い町並み景観をつくり、観光コース、アムステルダムの人々にとって、「わが街」として誇りの持てる散策道になっている。
19世紀の中ごろまで、アムステルダムはシングル大運河で囲われた防衛壁の中側にあり、この市街地を旧市街地と呼ぶ。これらの運河の架けられた橋脚の数は約400脚になる。運河を中心につくられた街並みは水と緑を挟んで多様な建築デザインが相乗効果を発揮して魅力的な街並み景観をつくり、写真や絵画のテーマにもなっている。この街並みは人々を散策に誘い出し、立ち話を楽しみ、市場が立ち、市民が楽しむコミュニティを育んできた。パリの大改造計画にあたってジョルジュ・オースマンがシャンゼリゼ大通りをつくり、日常的利用としては公園にする道路で、近代都市計画の基礎をつくった。アムステルダムの運河につくられた各街並みは、オースマンの提唱している考え方と同じで、この運河によりつくられた街並み全体が世界遺産に登録されている。

日本がモデルにしたアムステルダム中央駅

アムステルダム中央駅は、明治政府が東京駅を天皇制護持の近代国家の象徴として、国家のデザインのモデルとされた駅舎である。明治政府は国家のデザインとして世界の工業先進国に倣って、国家の重要建築物を国家のデザインとして、西欧に倣ってルネサンス様式でつくることを決定した。英国から建築家ジョサイア・コンドルを招聘し、近代国家の建築デザイン教育養成するために、東京大学建築学科教授に迎えた。その第一期卒業生辰野金吾は、自らの設計で東京駅、日本銀行、国会議事堂をルネサンス様式の建築としてつくることに執念を燃やした。明治の初め、オランダや当時欧州で大きな力をもっていた東ローマ帝国のハプスブルグ家の影響考え、オランダの中央駅とベルギーの中央銀行が日本の真似すべきモデルにされた。モデルとされたアムステルダム中央駅は、1889年ネオ・ゴシックとネオ・ルネサンス様式の折衷様式の建築物である。

新市街地計画の目玉の公園と公共建築と街並み景観をつくる建築デザイン
1935年都市計画としての一般拡張計画(AUP)が作られ、それまでの旧市街地とは全く別のグリーンベルトを挟んで新しい拡張計画が作られ、その計画は1950年以降に実現した。新市街地にはフォンデル公園、ベアトリクス公園、東公園、西公園、サルファテ公園、動物園と並んでミュージアム公園という巨大な公園が作られている。ミュージアム公園の中にコンセルトへボウ(国立音楽堂)、市立近代美術館、ヴァン・ゴッホ美術館、と国立美術館がある。今回のアムステルダム訪問のひとつの目的は、コンセルトヘボウの見学であった。しかし、予約をとらないで出かけ入場できず、立派な外壁をインテリア利用したカフェーでお茶だけを楽しんだだけでした。代わりにヴァン・ゴッホ美術館を見学した。隣接していた国立美術館も外壁部分を屋内空間に取り込んだ受付とショップに改装した魅力的な空間になっていたので、その空間とそのあたりの公共的な建築と立派な市街地住宅・建築を見学して回った。市街地に立てられている建築物は、例外なく、隣地境界線に接して立てられていた。それらの建築群を詳細に見ると、立ち並んでいる建築物の中に同じ建築物は存在せず、いづれの建築物も個性豊かな建築物であることがわかった。それであるにもかかわらず、両隣の建築物と調和させて建築されているために、結果的に隣接する建築物は相互に相乗効果を発揮し、それぞれの建築物は、個別の建築では表現できない建築物の美しさを発揮し、そのことがアムステルダムの街並み景観の魅力となっていた。それは建築の設計者が隣接する建築物との調和を図ることを設計上の条件と考えているためである。
アムステルダムの中心に、大航海時代の商品の計量所であった「イン・デ・ワーグ」が、その木構造の面白い構造材料の組み合わせをインテリアデザインに生かした空間を、いまは高級レストランとしてにぎわっていた。この建築物自体の周囲に多くの塔建築が取り囲み、建築物全体として取り付けられている沢山の屋根全体が一体の個性的な建築物になっている。その前面にはニーウマルクト広場があって、ダム広場と並ぶアムステルダム旧市街地の東西の中心広場になっている。そこにはダム広場同様、子供や大人たちが遊ぶ遊具やエンターテインメントをする施設がたくさんあり、全体が遊園地の雰囲気を持っている。この中心街から王宮広場のあるダム広場を通って、旧証券取引場を横に眺めてアムステルダム中央駅まで散策した。王宮広場にもいつものように移動式遊園地が置かれ、アムステルダム中央駅の周辺はいつ来ても工事中で街づくりを、時間をかけてもいつもより良いものをつくる考え方に驚かされる。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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