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HICPMメールマガジン第584号(2014.11.05)

掲載日2014 年 11 月 4 日

HICPMメールマガジン第584号(2014.11.05)
みなさんこんにちは
日本・オランダ・アメリカの住宅比較
日本の住宅1.「日本の住宅政策の始まりと政策の大転換」

戦後日本の2つのモデルとなった住宅・建築・都市政策(欧米モデルと独自モデル)
英国モデルの住宅都市政策:ストックの住宅政策

日本が第2次世界大戦によって国土が爆撃され焼け野原となり、海外の植民地や戦地から人々や軍人が引き揚げ、絶対的な住宅不足の中で余裕住宅開放、兵舎、列車、バス等の非住宅居住によっても絶対的住宅不足に対応できず、「住宅よこせ」デモに応えるために政治的な形だけの「越冬住宅」と呼ばれる緊急仮設住宅を供給した。その直後から始まった日本の住宅政策は、住宅政策の先進国である英国の住宅政策に倣おうとした。ロンドンはヒットラーの爆撃によりロンドンの4分の3の住宅が利用不能になり、議員内閣制の英国の第2次世界大戦終戦前の国会議員選挙では、戦争を勝利に導いた保守党チャーチル首相が勝利を掴むかに見えたが、国民は住宅政策を選挙の政治課題に掲げたアトリー労働党を支持した。
政権を奪取したアトリー内閣は、エベネザー・ハワードの実践したガーデンシティの住宅供給政策とグリーンベルト政策と一体となった都市農村計画法を施行した。そして、戦後の時代に読み替えた政策として公営住宅政策とハーロー・ニュータウンとステヴネイジ・ニュータウンの開発を皮切りに戦後のロンドン復興政策と併せて、全国で40近いニュータウンを実践する政策を展開した。英国の政策は、戦前から住宅問題が社会問題として最も先進的に取り組まれた国として世界的に関心を持たれ、労働党の住宅政策は「高嶺の花」であるかもしれないが、世界中が最も先進的な住宅政策(優れた住環境をもった住宅を、国民の家計支出の範囲で供給する)として学ぶべき「他山の石」と考えられていた。

住宅政策の転換点に入省することで見聞できた戦後の住宅政策
1960年日米安全保障条約が締結された時代に入省した筆者が、戦後の住宅政策に影響を与え、直接間接に指導を受けた人たちは、英国の住宅政策評価する人たちであった。当時住宅局は英国の「住宅要覧」を住宅建設課中心で翻訳し、そこに書かれたことを日本の住宅政策に採り入れることを考えていた。私が業務上で直接、間接に知ることができた人たちは、(住宅設計者)久米権九郎、市浦健、(住宅問題研究者)西山卯三、谷重雄、高山英華、本城和彦らとともに、(建設省の官僚)伊東五郎、大村巳代治、鎌田隆男、前岡幹夫、尚明、小宮賢一、梶山晃、前川喜寛、前田勇、上野洋、北畠照躬等である。これらの人たちは、盛んに欧米の住宅政策を調査研究するとともに、GHQ(連合軍総司令)の占領政策の影響を受け、欧米の住宅・建築・都市政策を日本で実践しようと考えていた。これ等の世代の住宅政策の考え方は、基本的に資産としての住宅をつくる考えに立っていたが、60年日米安全保障条約締結後の日米同盟時代の高度経済成長政策の中で、住宅政策がスクラップ・アンド・ビルドのフローの政策に転換されることにより否定され、その後の現代の住宅政策には引き継がれていない。
日本が経済政策本位への道を走り始めるまでは、欧米工業先進国に倣うという姿勢であった。建設省から技術者を英国に派遣し研修させ、英国の公営住宅及びグリーンベルト政策やニュータウンについての調査も行わせた。そして、戦後の住宅政策は英国に倣って公営住宅を中心に「住宅難所帯の解消」と「シュワーベの理論」に基づいて、家計費支出で負担できる範囲の家賃を所得の20%と差ためた公営住宅を政府施策住宅として進めた。街づくりでは、英国のハーロー・ニュータウンを道路計画でも真似た千里ニュータウン団地開発を実験モデルにした。都市計画制度としては建築基準法の制定にあたってGHQからの指導を受けた「一団地住宅施設(マスタープランド・コミュニティ)」による住宅地開発を行った。さらに、首都圏近郊緑地整備政策を英国の「グリーベルト政策」に倣って実施した。この時代の日本の住宅・都市政策はまったく暗中模索で何をしてよいかわからず、西欧先進国に倣うと言うより、真似できるものは真似をする政策に終始した。GHQ(連合軍総司令)の監督下にいた日本は、戦災復興のため建設三法(建築基準法、建築士法、建設業法)の立法は、米軍の基地建設も関係するため関心が高く、積極的であった。建設省住宅局は米国西海岸(地震地帯)の建築法規「ユニフォーム・ビルディング・コード」の制定団体であるICBO(インタナショナル・カンファレンス・オブ・ビルディング・オフィッシャルズ:国際建築主事協会)に会員になり、米国の建築法規を学ぶことになった。しかし、住宅政策には関心が薄く、建設省官僚が英国に倣おうならば、財政負担が過大にならない限りは、日本政府の好きにさせる対応であった。

経済成長と産業界の利益本位の住宅・建築・都市政策
現在の日本の住宅・建築・都市政策は田中角栄による列島改造に始まり、都市改造、都市再開発として取り組まれ、小泉・竹内閣による「聖域なき改革」の都市再生事業であり、安倍内閣によるアベノミクスの政策である。これらの政策は、一貫してケインズ経済学による財政指導によるスクラップ・アンド・ビルドを繰り返すフロー経済として実施された。下河辺淳、大塩洋一郎、澤田光英らの官僚が牽引した住宅都市政策は、住宅関連企業利益中心主義の産業政策に進み、住宅・建築・都市を人間の生活文化との関係で考えることをなくしてしまった。著者が入省当時の建設本省で最初に洗礼を受けたストック重視の欧米の住宅・建築・都市政策の思想は、その後も一貫して世界の住宅・建築・都市政策として実施されて来たのに対し、日本だけは住宅統計上、住宅総数が世帯総数を上回った住宅余剰時代に入り、その直後の「居住水準の向上」を政策の中心に据えた住宅建設計画法に基づくスクラップ・アンド・ビルドを進める住宅生産工業化政策により、現在の産業政策本位の政策に大きく転換した。住宅を償却資産と扱い、住宅の価値を残存価値とする扱いにより、購入した住宅は確実にその資産価値を失うことになった。国民は住宅を購入することで確実に資産を失うという世界の住宅政策では起こり得ないことを容認する世界の異端児となり、「日本の常識は世界の非常識」になってしまった。その「世界の常識が日本では通用しない」という科学が通用しない恥ずべき住宅政策に日本の住宅・建築・都市関係者はもとより、行政も学校教育関係者も全く気付いていない。

日本の経済復興の原点は軍需産業の復活・再生
日本の住宅政策が大きく転換したのは1946年住宅建設計画法が制定されたときからである。日本国憲法が発布されたときは、日本の軍国主義再発を制限するため、憲法第9条が制定されたが、その後1950年朝鮮戦争が勃発し、米国にとって極東の兵站基地として、当初予定していたフィリッピンができないことが分かり、急遽、日本の軍需産業を復活させて活用する必要を認識された。重化学工業を含む軍需産業が看板だけを架け替え米軍からの需要物資需要にこたえる形で生産され、日本の産業は軍需産業を牽引車として米軍の軍需を梃子に復興された。その象徴的な産業が自動車と造船業であった。政治的には1951年サンフランシスコ講和条約と一体で、同日に日米同盟として日米安全保障条約が締結された。日本経済は軍需を背景に急激に発展し経済は高度成長を始めることになった。その結果、産業用エネルギーとして炭鉱住宅の建設、重厚長大型産業の復興に合わせ、新産業都市や工業整備特別地区に公営住宅や公団住宅、公庫住宅として、産業労働者向け住宅の建設を政府の住宅政策として進めた。

「60年日米安全保障条約改正」で大きく転換した日本の産業構造
日本の住宅政策に採ってもその転換点になったのが日米安全保障条約の改正である。朝鮮戦争から継続したインドシナ半島のベトナム戦争に続く一連の戦争で、日本は米軍の兵站基地として大きな役割を果たすとともに、米軍の軍需により経済的な発展を遂げることになった。1960年日米安全保障条約の改正は日米対等の同盟に改正するもので、その内容は日米の経済的な負担をバランスするようにするものであった。憲法9条の関係で日本の軍事的安全は、それまで同様、米国が極東安全戦略の中で担う。しかし、日本は経済力が高まったので米軍負担経費を日本も分担するとともに、米国経済が石油と農産品に対して日本が輸入拡大をするように自由化を求めてきた。結果として、日本は炭鉱を閉山し、石油を輸入し、農業構造改善を受け入れて農産品の輸入を拡大することになった。その結果、炭鉱と農村から巨大な失業者が低賃金労働者として都市に押し出され、日本の低賃金構造を維持しながら経済成長として年間10%以上の経済成長を10年以上続けることができた。
60年の日米安全保障条約の改正は、日本が「所得倍増計画」を掲げて、高度経済成長政策を推進することになった基本構造をつくるものであった。日本の高度経済成長は、「ジャパン・イズ・アズ・ナンバー・ワン」などいわれ、日本人の優れた創意工夫によるものと考えられたりしてきた。しかし、この時代の日本人が特別優秀であって優れた開発をしたのではなく、米軍の極東戦略を米国内の大きな政治圧力に応えるためには選択の余地のない政策を逃げることなくまともに取り組んだためであった。

「所得倍増計画」から「全国総合開発計画」
農業と炭鉱という2大産業が崩壊し、それらが単独で起きた場合には、国家経済は破綻への道を歩まざるを得なかった。しかし、炭鉱と農業という日本の基幹産業構造の崩壊が、結果的に低賃金労働力の長期にわたる供給を可能にし、米軍の軍需と日本の自衛隊の軍需を背景に日本の重厚長大型産業が拡大し、それが東南アジアに対する戦後賠償需要とも重なり、日本の経済繁栄のバックグラウンドをつくった。60年日米安全保障条約改正と同時に行われた自由化政策を背景に国内の産業構造の改変が良循環の経済成長を生み出したと考えるべきである。池田内閣による所得倍増計画は、60年日米安全保障条約に併せて受け入れた自由化政策を経済発展政策として具体化したという国家主導の経済政策として優れた政策で、産業構造の転換により発生した失業者を重厚長大産業(日本国憲法と日米安全保障条約その実態は軍需産業)の技術革新として取り組めたところに幸運も作用していた。
急激な都市化に対応して政府は全国総合開発計画を立案し、新都市計画法を制定し全国に道路網整備を図り、道路整備と併せて土地区画整理事業を都市改造事業として行い、宅地供給を図ることになった。実は新全国総合開発計画や都市計画法が的確に機能できた背景に、日本の基幹エネルギー転換が新しい税源を生み、道路事業の財源を生み出すことを可能にしていた。石炭に代えて石油を採用することになり、石炭と石油の小売価格の差額をガソリン税として国が税を徴収し、その財源を使って道路整備が行われることになった。そして、道路整備と併せて都市改造土地区画整理事業が行われることになった結果、潤沢な量の宅地が供給され、住宅供給を促進することになった。

「居住水準の向上」を掲げた住宅政策の転換
その結果、1968年には住宅統計上、総住宅数が総世帯数を上回り、住宅戸数余剰という住宅事情が生まれ、政府は住宅政策を「量から質へ」と基本的に転換することになった。この住宅政策転換の説明は論理的に正しくない。「量から質へ」の本当の意味は、「量的な変化は、やがて、質的な転化をもたらす」という弁証法的考え方を表す言葉であるが、日本の住宅政策では、「住宅難世帯の解消という量的住宅供給」から、「住宅の規模の拡大という居住水準の向上」政策への転換という政策目標のを説明する標語に過ぎない。政府の言う「居住水準」という政策目標は、政府施策住宅の計画面積を拡大するための予算獲得の目標設定であった。政府の主導で「居住水準」を引き上げることで、政府が指導力を握って住宅の融資対象面積や公共住宅の補助対象面積を引き上げることで住宅産業を牽引する政策枠組みを造り上げた。この政策は、当時、日本の経済政策に関しても、財政により市場経済を牽引するケインズ経済学が「官主導の経済政策」として取り入れられ、財政支出によって経済を牽引する最も優れた政策と考えられ、官僚支配の国づくりとして政権政党に利用された。

米国のOBT(オペレーション・ブレーク・スルー)の影響
日本自体が朝鮮戦争特需とその後の冷戦構造を梃子に軍需による漁夫の利により経済基盤が拡大し、経済成長に合わせて労賃が上昇した。人口の都市化が進み、住宅需要は増大する一方で、政府は住宅供給を進めたくても建設労働者の供給が追い付かないため、コストインフレにより国民の住居費負担能力の範囲で住宅を供給することが一層苦しくなっていた。たまたま当時、米国では住宅都市開発省(HUD)がOBT(オペレイション・ブレーク・スルー)と呼ばれる住宅生産工場化政策に取り組むことになった。そこで、建設労働者不足に悩む日本は、早速、政・産・官・学が一体になって、米国でのOBTを学びにHUDに出かけ、通産省及び建設省が中心になって住宅生産工業化政策にとき組むことになった。そのきっかけをつくった論文が、通産省官僚内田元亨が1967年に中央公論に投稿した『住宅産業論』である。この住宅産業論は住宅の生産を現場から工場生産に移すことで、居住水準の高い住宅の安価で大量供給を可能にするという展望を示すものであった。

国民のためから産業界のための住宅産業政策
少なくとも住宅建設計画法以前までは、日本の住宅政策は、「住宅難の解消」をその住居費負担の範囲内の家賃で住宅を供給するという政策に立っていた。その限りでは欧米先進国と住宅政策としての表面上は基本的に同じ住宅政策を推進していた。しかし、住宅建設計画法時代に入って、重厚長大型の産業が極東の政治的不安定と朝鮮及びインドシナ半島における戦争により、経済がインフレ化し国民所得が急上昇するという基本的な変化が生まれてきた。国民の社会的移動も活性化し、住宅需要は急増した。需要の増大に対応し、政府は住宅生産近代化政策として、大量生産工業生産方式による住宅供給を実行に移した。都市化に発生する大きな住宅需要に対して、既成の住宅供給方式によらないで、住宅の部品の向上政策と現場での単純な組み立てで、高品質の住宅を安定的に、適正価格で供給する目標を実現する政策に転換した。政府は住宅産業界に対し、工場生産住宅方式を確立するために、建設省は需要保障を行い、通産省は生産設備に対し長期低利金融と割増償却を含む事実上の減税を実施する至れり尽くせりの政策で臨むことになった。国会では、なぜ政府は価格保障と需要保障までしなければならないかという質問が相次いだ。政府は民間住宅産業に供給体力がつくまではその政策を持続しなければならないと説明した。そして、工業化住宅が年間20万戸の住宅供給が実施されるまで、手厚い保護を継続した。

政府援助からテイクオフした日本のプレハブ住宅
しかし、工業化政策が軌道に乗っても、供給範囲が拡大するため経費が増大するという理由を挙げて、工業化住宅の価格が約束通り引き下げられることはなかった。しかし、プレハブ住宅は市場で十分な競争力を持っており、財政上の支援を継続する理由が失われているという指摘を受けて、建設省および通産省はそれまでの手厚い産業界への援助は止めざるを得なくなった。そのときに当たり、工業化住宅の価格は量産政策の推進により引き下げられなかったではないかという批判を浴びることになった。その批判に対し、政府は、国民の住宅要求自体が高度化しており、その高い需要に対し、工業生産住宅は性能が高いから、結果的に高品質住宅は価格は高くても、それは当然で、敢えて価格を安くする必要はないと住宅産業界は言い開き直り、政府は住宅金融公庫を使って、高性能を理由に高額住宅に割増融資を実施した。高性能で住宅をつくることは、必ずしも住宅の生産価格が高くなることではない。
しかし、高価格販売をするためにそれに見合った住宅融資をしなければ購買力の強化にはならない。住宅の購買力は住宅の融資額で決定されるからである。日本では住宅の高額販売をするために高額融資をする必要を認め住宅金融公庫が割り増し融資を行ってきた。日本の住宅金融は欧米のように住宅の価値を根拠に住宅を担保にローンを行うモーゲージではない。住宅の価値を評価しないで住宅金融が行われ、その代わり住宅の融資のために、住宅だけではなくその土地と住宅ローンの借主に住宅価格と同額以上の生命保険加入を条件にしている。住宅金融公庫による割増融資も対象とされる工事部分の価値には無関係で融資額を増やすために行うものである。政府は住宅金融公庫に対して高額な担保を取ることで価値の曖昧な住宅に融資を行い、それによりプレハブ住宅はテイクオフ(離陸)することになった。

工業化住宅販売を支援した政府の政策
しかし、もっと重大な問題はその営業方法であった。政府は住宅会社に対して、その住宅販売は既存住宅の建て替え、中でも木造住宅の建て替えであると営業の対象を明らかにした。住宅政策上住宅を償却資産と決めたことはないし、その資産価値を償却資産として扱ったときの残存価値であると決めた法的な根拠は存在しない。それにもかかわらず、政府は既存木造住宅の耐用年数は20年で、その残存価値は20年以上経過したものは、建設価格の10%の価値しかないといった。その上で「隙間風が入る古い住宅は、資産価値が無くなった住宅で、そのような住宅に住んでいると、その人は社会的信用を失う」と説明して、立派な木造住宅を工業化住宅に建て替えを勧めるように政府が営業の示唆を与えてきた。歴史的に木造住宅は半永久的に使えるよう木材が腐敗菌に侵されないよう、隙間風(酸素)を供給する計画をするよう大学や高等専門機関の建築工学で教育してきた。木造建築で腐食菌に置かされず長寿を誇る代表的な例が社寺仏閣の建築である。開口部はもとより、木造部分には緩やかな自然換気が行われるように自然換気が計画されてきた。建築学のテキストにおいて、木造住宅の自然換気計算の方法も教育されてきた。その事実を、工業化住宅振興を図る政官学関係者は知らないはずはない。政府施策の住宅政策に関係すれば、研究費補助金や政府関係研究への参加、卒業生の就職先の実利が提供される。そのような環境の下で、木材腐食の自然科学的事実を無視しての営業することが支持されていった。
また、政府の金融機関・住宅金融公庫は、住宅会社から建て替え営業の攻勢を受けた木造住宅居住者は、本当に住宅会社の営業担当者が説明する通り、建築後20年を経過した住宅の資産価値を調査してくれるよう依頼した。それに対し「あなたの住宅の建設時期はいつであるか」と聞き返され、20年を経過しているときには、「現物を見るまでもないことで、その資産価値は償却理論で計算した残存価値である」と説明された。それに加えて、「最近は、大衆浴場も少なくなり、廃材を燃料とする風呂も少なくなったので、住宅を取り壊した廃材は処分することもできないので、10%の残価値にもならない。むしろ取り壊し費用を余分にとられることになる。」と説明された。その結果、この期間に国内の非常に良い品質の木造住宅が取り壊され、多くの工業化住宅に建て替えられることになった。

高度成長時代の木造文化破壊の再現としての都市文化破壊
E・H・カーが「鬼と犬」(講談社)の中で、世界大戦の戦火から辛うじて免れた貴重な都市の住宅が、高度経済成長の中で、日本人の手で破壊され、見る影もなくなった日本の都市の景観を嘆いている。バブル経済が崩壊し、「不毛の20年」が経過し、小泉・竹中内閣の下で不良債権の粉飾経理で自らの首を絞め経済活動をできなくしていた状態を打破するために、「聖域なき改革」が断行された。その聖域とは、日本国憲法のことである。日本国憲法は国民が健康で文化的な生活を享受できるように経済的強者の経済活動に対し行政法で制限を掛け、その行政ルールの中で自由競争をする社会としている。
法定都市計画はそのハードなルールの一つである。しかし、小泉・竹中内閣は、法定都市計画を憲法第29条第3項及び建築基準法第11条に違反し、かつて確定して私有財産権を規制した法定都市計画を何の保証を行わないで改正し、既存の土地利用の4倍近い容積の拡大を認めることにより、バブルで4分の1に縮小した地価による損失を回復する規制緩和を実施した。日本国憲法は制定以来変更されていない。制定時の憲法ではできなかった都市計画法の改正は憲法の拡大解釈で出来ると説明されているが、憲法の拡大解釈は憲法違反である。その結果、この10年の都市再生事業で都市のスカイラインが全く変化してしまうほどの土地利用の変化が起こってしまった。
この都市再生事業によって不良債権の粉飾で経営を悪化させていた企業は救済され、また、マンション建て替え円滑化法でマンションを建て替え事業で巨額の利益を上げた企業もある。しかし、それまでの法定都市計画として計画高権の裏付けを得て守られてきた都市景観は見事に破壊されてしまった。日本の住宅都市政策はフローの政策で流通による経済的利益を優先して都市のストックとしての財産を破壊してきた。都市施設整備がないままで容積率だけが膨張した土地は「贋金」同様の使い道があり、使った人に利益を与える。しかし「贋金」を受け取った人は、ストックの資産として欠陥資産を受け取ることになる。住宅建設計画法に始まる「居住水準向上」のフローの住宅政策は、「贋金」によりつくられた住宅都市のようである。
(NPO法人 住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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