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HICPMメールマガジン第585号(2014.11.10)

掲載日2014 年 11 月 10 日

HICPMメールマガジン第585号(2014.11.12)
みなさんこんにちは
日本・オランダ・アメリカの住宅比較
第11回「日本の住宅政策の始まりと政策の大転換」
日本の住宅2.

英国に倣うことにした戦後の日本の都市住宅政策
戦後の日本では、大都市が戦災を被り、戦後の彼岸は不燃都市の建設と言われた。そのときモデルになったのが、同じく大きな戦災を被って英国である。そこで、英国のニュータウン法や田園都市論に倣った都市計画論や住宅団地計画が、国のリーダーシップのもとで、西欧の経験を取り入れて、地方公共団体や日本住宅公団や地方住宅供給公社の団地開発として計画され実施されてた。
西欧の多くの都市が戦災で壊滅的な被害を被ったことから、戦後の都市の戦災復興再建策として住宅・都市問題が取り組まれた。その中で最も進んでいると考えられた取り組みが、英国の住宅都市対策であった。保守党のチャーチルの下で第2次世界大戦に勝利した英国は、ロンドンを中心に都市は広い地域で壊滅的被害を被った。そのため、住宅問題を政策の中心に掲げた労働党のアトリー政権が、住宅都市政策を訴えて国民の支持を受け政権を担うことになった。アトリーの政策はエベネザー・ハワードが進めた「ガーデンシティ」の街づくり理論を戦後のニュータウン政策として実施するとともに、グリーンベルト政策によって都市のスプロールを押さえ、計画的な都市計画を実施する政策を掲げた。
英国では、歴史的に産業革命が最も早く展開し、住宅問題が最も早く顕著な形で現れ、その対策が取られた国である。フリードリッヒ・エンゲルスの「住宅問題」や「英国における労働者階級の状態」等の書籍は戦前から日本の内務官僚にも住宅問題関係者からも読まれてきた。英国は、住宅に対する先進的な取り組みがなされたため、日本の戦後の都市住宅政策は英国に学ぶ考え方が基本となっていた。

警察による建築行政から、GHQと米国の建築行政の影響
日本の戦前の都市政策は大正9年につくられた都市計画法と市街地建築物法により行われてきた。戦後日本が米国の占領下におかれたとき内務省の解体もあり、警察行政で行われた市街地建築物法による建築行政は廃止となり、新しい立法が行われることになった。GHQの下で戦災復興のためと占領軍の日本支配に一環として建築三法が造られた。そのため、その影響が最初の都市計画法と建築基準法に現れた。当時の建築三法とは、建築基準法、建設業法及び建築士法である。建設業法は米軍施設を造るための工事業者の監督及びその適正施工に必要とされ、また、建築士法は進駐軍の工事の設計監理を担う業者を整備する必要から進駐軍の要請で急遽整備された。市街地建築物法は内務省の警察行政の一環として行われ、戦後の民主化の下で警察権による建築の許可制度は適当でないとされ廃止された。新たに全国を対象に国民の健康で安全かつ衛生的な環境を守るため、建築基準法が制定されることになった。

都市計画法と建築基準法
建築基準法の前身である戦前までの市街地建築物法は、県庁所在地など都市計画法が施行される大都市を対象に施行されていた。新たに制定された建築基準法は米国のICBO(国際主事会議)が制定していた統一建築基準法(ユニフォームビルディングコード)と、米国の都市計画法(ゾーニングコード)によるサブでビジョンコントロール(「一敷地一建築物」の建築規制)を取り入れ、戦後復興に必要とされ、作成されたものである。新たに創設された建築基準法は戦前の市街地建築物法を基本的に踏襲するものであった。それは警察による許可制度を廃止し、建築主事という行政庁の指揮下にない独立建築行政機関(建築主事)の確認行う仕組みである。建築主は建築計画が建築基準法に適合していることの確認を受けた後、建築基準法に適合する工事をする制度である。建築確認は建築行政が許可をする制度ではなくなった。新しく制定された建築基準法では、建築行政が確認通りの工事をする義務を免ぜられ、建築基準法に適合する工事の監督をすることになった。確認済み証が交付され、請負契約を締結したら建築工事が始められる。それ以降は建築主事が工事を建築基準法に適合していることを検査確認する。そのために、請負工事に添付された工事用の設計図書の検査確認以降、工事完成後の工事完了検査確認までを工事内容と建築基準法とを照合して行い、最終的に検査済み証が交付される制度になった。
現在は確認事務が行政機関による許可処分のように間違って解釈され、確認済み証通りの工事をしなければいけないような行政運用が行われているが、建築基準法の規定はそのようにはなっていない。米国ではユニフォームビルディングコード(建築基準)が行政機関の行政法として建築許可制度として施行され、許可通りの建築施工が義務付けられているが、日本では戦前の警察行政による許可を廃止し、米国にもない「建築行政機関と独立した建築主事制度による確認制度」になった。しかし、建築基準法の立法時の考え方からずれ、現在では民間主事は特定行政庁の指揮下に置かれる制度になっている。行政担当者も十分納得していない建築確認制度は、結果的に建築行政を無責任で不安定な制度にしている。

米国の都市計画制度の導入
米国のゾーニングコードは英国の都市農村計画法と同じ都市計画法のことで、英国では都市農村計画法による計画許可として、開発行為と建築行為までを一貫して許可している。1968年の都市計画法制定以前の1950年の建築基準法の制定では、米国のゾーニングコードによるサブディビジョン・コントロールが採り入れられ、その中にマスタープランド・コミュニテイ(その後、「PUD:プランド・ユニット・ディベロップメント」と呼ばれている。)の概念が採り入れられた。前者は、都市計画法第8条に対応する建築基準法第3章の「一敷地、一建築物」の規定で、建築基準法第3章規定が対応する。一方、後者は、都市計画法第11条第1項第8号に規定されている「一団地の住宅施設」の規定である。
建築基準法が制定されたとき関連改正された都市計画法に設けられた「一団地の住宅施設」については、「一団地の住宅施設」は「建築ではなく、都市施設」であると説明され、法律上整理された。
米国の都市計画のマスタープランド・コミュニティの概念は、一般的には、法定都市計画をマスタープラン(基本計画)と言い、壁面位置の指定など配置計画を含む土地と建築物の基本的な関係を決め、その基本計画に対応するアーキテクチュラルガイドライン(建築設計指針)が決められ、それがゾーニングコードとされ、建築物はゾーニングコードどおりに建築し、都市を建設する制度になっている。
「一敷地、一建築物」の建築規制をサブディビジョン・コントロール(敷地ごとの建築物既成)と呼んでいる。一方、PUDはその計画全体が「一つの都市施設」として有機的な一つの団地としての計画とするため、PUDの場合には、開発団地ごとに有機的な建築設計指針を作成し、それを都市計画決定することで都市計画決定通りの住宅地をつくることになる。その結果、建築基準法では、都市計画法第11条第1項第8号で都市計画として基本計画と建築設計指針とを一連の計画として決定をし、そこで決定された建築設計指針を建築基準法第86条に基づく建築規制として行うものである。そこで「一団地の住宅施設」の建築規制には、「一敷地、一建築物」建築基準法第3章規定は適用されない。

都市計画法と建築基準法の「姉妹法の関係」と法定都市計画
米国のゾーニングコードでは、土地と住宅とは不可分一体の不動産であるから、宅地が先に決められそこに建築物が建築される場合は、都市計画決定された宅地の土地利用計画(マスタープラン)通りの三次元の都市空間をする住宅加工であるとされる。そのときの建築規制がサブディビジョンコントロールである。一方、団地(ユニット)に計画的に複数の住宅を建てられる場合も、集合住宅をその土地利用計画にあわせての集合住宅地加工するものであり、すべて「PUD:プランド・ユニット・デベロップメント」として一体の都市施設として開発される。土地利用計画に沿ってつくられた住宅は、土地に吸収された土地と一体の住宅不動産になる。
しかし、日本の場合、民法により、土地と住宅とが別の不動産であるとされる。英国や米国の都市計画法の計画許可では土地と建築物とが一体の計画対象物として審査されるが、日本では、それぞれが都市計画(開発)と建築(確認)とに分けられ、別の法律体系によって監督規制されている。そのため日本では、都市計画法と建築基準法とを有機的関係を持たせる必要性から、「姉妹法」という不文律の関係があるとされる。都市計画法8条が建築基準法第3章で対応することや、都市計画法第11条第1項第8号が、建築基準法第86条で対応する関係が明文規定のないまま暗黙裡の了解としてつくられてきた。法律上の明文規定がないことから「一団地の住宅施設」が都市施設として都市計画決定をしなくても建築基準法第86条の規定を適用する違法が行われてきた。
小泉・竹中内閣による「聖域なき改革」では、都市計画法と建築基準法の姉妹法の関係を無視して規制緩和された。その結果、「一団地の住宅施設」の都市施設としての地位は完膚なきまでに崩壊させられ、都市計画決定を蹂躙しそれぞれの行政が勝手に規制緩和を行ったことへの行政関係者の抵抗感はない。その中の最大の憲法違反は法定都市計画の変更である。都市計画決定は決定された時点で都市空間が完成されるわけではない。都市計画決定された内容を長年月掛け、国家権力で最終的に法定都市計画の実現を担保することで都市計画決定した内容を実現させるものである。そのため法定都市計画は憲法第29条第2項で定める私有財産権の保障に対し例外的に公共性が認められる決定処分である。

法定都市計画

都市計画決定された法定都市計画は、国家が介入して私有財産権の保障される内容を決定し、国家権力によりその実現を担保している。そこで一旦決定された法定都市計画は実現されなければならない。その実現を強制する権利のことを「計画高権」と呼んでいる。実際、都市計画決定された内容を都市計画行政が実現しようとすれば、裁判所の判決を受けなければならないが、収用権や代執行権の行使できる。その法定都市計画を変更することは、国家が介入して決定した私有財産権の内容を変更することになる。そのため、憲法第29条第3項及び建築基準法第11条には、私有財産権に影響を与え国民の財産に損失を発生させる場合には、損失補償をするべきことが定めてある。当然、法定都市計画を変更するときには、予め変更に伴う損失を明らかにし、補償をどのようにするかを明確にしなければならない。
小泉・竹中内閣は、バブル崩壊後、地価下落に伴い発生した損失を企業が隠蔽し、地価が下落しなかった金融機関に対する「利払いによる粉飾」でハードランディング損失の発生を逃れてきた。企業は損失発生の経営責任を負わず、政府の規制緩和によって損失の救済を受けようとしてきた。その企業の要請に応えた小泉・竹中内閣による政策が「聖域なき改革」であった。バブル経済の崩壊により4分のⅠに下落し、上昇する見込みの立たない地価をそのままにし、土地売却益をバブル時代に戻す方法が考案された。その方法とは、地価は上昇しなくても販売できる床面積を4倍に拡大する開発容積率の拡大策である。その具体的な取り組みが、都市計画法、建築基準法と法定都市計画の改正である。法定都市計画の変更は、その地区に土地を保有している者の私有財産に重大な利害得失を及ぼす。その憲法第29条3項に違反することを無視し、一切の補償を行わないで法定都市計画を改正することは憲法違反である。

日本の都市計画の理解
戦後の日本では英国に学ぶとして公営住宅制度を始めるとともに、英国のアトリー政権が始めたニュータウン政策に対応して、建設省は英国のステブネイジとほぼ同時期に開発されたハーローニュータウンに住宅局から技術官僚を派遣した。帰国後その技官を大阪府企業局に派出し、ハーローと同じ地型の千里で大阪府が土地を買収し、そこで千里ニュータウンを開発した。その後、政府は、ニュータウンのモデルと理論と実践を学ぶため、英国に多くの官僚、学者、関係者を派遣し、英国の都市開発を見聞させ、実務に携わらせ、近代都市計画の理論を学ばせ、帰国後、都市計画行政や住宅団地開発を担当させた。そして、1968年、英国の都市農村計画法に倣った新都市計画法の制定にあたらせた。
一方、不燃都市建設を進める手段として鉄筋コンクリート住宅団地が開発され、その団地計画技法として、欧米に技術者を派遣し、技術習得をさせてきた。その中で学んだ近代都市計画理論として近隣住区理論(ネイバーフッド・ユニット)を使った住宅地団地開発からニュータウン開発を行ってきた。住宅団地の出現により、戦後の都市計画は大きく変貌した。しかし、現在見る通り、欧米の近代都市計画法制度とは大きくかけ離れたものになっている。その歴史を追って、以下の通り検討する。

C・A・ペレーの近隣住区論を工学技術として受け取った日本
これまでの半世紀は、私自身、官僚として25年、その後民間分野での技術者として25年、合計半世紀に当たるが、戦後の住宅地計画を総括するために議論しなければならないテーマの一つが近隣住区論(ネイバーフッドユニット)である。この近隣住区論は公共住宅団地開発の計画論の基本に据えてきたものである。英国のニュータウンと不可分一体の計画論とし産学官一体となって推進してきた都市計画理論である。実はこの近隣住区論は米国のC・A・ペレーが取りまとめた理論で、ガーデンシティの理論を取りまとめたエベネザー・ハワードの理論ではない。わが国に英国の戦災復興事業としてニュータウンが紹介されたとき、英国のニュータウンの技術に取り入れられ、ニュータウンの理論と近隣住区論が不可分一体の理論として日本に導入された。しかし、ハワードのガーデンシティの理論は都市経営の理論で計画技術論ではない。一方近隣住区論は、米国で開発された住宅地のヒエラルキーを持った住宅計画論である。ニュータウン理論にと一緒に近隣住区論が日本で取り入れられた理由は、ハーローニュータウンで採用されていたことと、都市計画や住宅団地計画を工学「エンジニアリング」の住宅地計画として教育し普及させる物づくりとして分かり易い理論であったためである。
近隣住区理論はC・A・ペレーが住宅地の計画は子供たちの小学、中学高校の就学環境と有機的な対応関係があることを、実際の住宅地と学校の立地との関係から明らかにしたもので、学校計画を住宅地のグルーピングとして実施する上で合理性があった。しかし、日本では近隣住区計画が行政境界を無視して策定された事実は、専ら「物づくり」としての計画論とされたことの証明である。自動車社会が進んだ社会で近隣住区理論が機能しているか疑問があるが、近隣住区論によってつくられた公共住宅団地で理論と実践の関係者の調査研究はない。都市計画と都市経営は表裏の関係になければならないが、日本に入った近隣住区論には物づくりの計画論であっても、住宅地経営や居住者の生活論ではない。

エベネザー・ハワードのガーデンシテイは都市経営モデル
エベネザー・ハワードの『ガーデンシテイ』は日本では『田園都市論』と翻訳され、多くの都市計画関係者がその思想を伝えているが、その多くは極めて観念的な都市、農村、ガーデンシティという3つの磁石「マグネット」を比較するもので、「ハワードが3つの磁石」のを歴史的経緯に踏み込んで説明する解説書は皆無に等しい。その理由はガーデンシティの問題を工学(エンジニアリング)の学問体系としてしか理解していないためである。都市や住環境は人びとの生活と歴史文化の集積の人文科学(ヒューマニテイズ)として理解する姿勢が存在しない。ハワードは都市と農村を性格の違う土地利用空間で、その違いを明らかにする努力をしている。都市に生活する人々には都市と異なる農村的な土地利用が必要である。それらを都市生活者の要求に合わせた空間の提供の仕方をハワードは問題にしている。
『ガーデンシテイ』は産業革命による工業開発が環境を汚染し、人々が健康を損わされ、都市から郊外に脱出(エクソダス)しなければならない時代の都市経営の書物である。ハワード自身が「都市経営の発明家」と自称している通り、ハワードが『ガーデンシティ』の中で一番重要視していることは、都市居住者が満足できる都市経営の仕方である。結論的に明言していることは、都市は多様な土地利用計画が有機的につくられ、一人の法人格を有する都市経営者の下で、住宅を所有し生活している居住者の主体である借地人による自治経営をしなければ、住宅の資産価値は維持向上させることはできない。
ガーデンシティ株式会社が土地の所有者で、リースホールドによる住宅を所有する借地人組合が住宅地経営の主体性を持った経営を明らかにしている。多分、人は土地を所有すると古代ローマ法時代から「土地の所有権はその上下に及ぶ」規定を勘違いし、フリーホールドになれば無政府状態を引き起きる惧れがあると考えた。そのためリースホールドによる住宅地経営によりガーデンシティ株式会社の定めた土地利用の基本ルールの下で秩序ある住宅地経営を行うことが適当であると考えた。

都市経営の基本は土地経営
ハワード自身は、『ガーデンシティ』理論の実践としてレッチワースガーデンシテイとウェルインガーデンシテイの2つのガーデンシテイを開発した。しかし、結果的に第2次世界大戦後のニュータウン法のモデルになったことで、その理論は高く評価されているが、ハワード自身はガーデンシティ経営に失敗し資産を失い、みじめな生涯を終えたと伝えられる。しかし、『ガーデンシテイ』の中でガーデンシテイ経営は最終的には巨額の利益を生みだすことになり、土地所有者であるガーデンシティ株式会社は住宅を購入した人に高い配当を与えるとハワードは明言している。現在レッチワースガ-デンシティを見る限り、都市は熟成し経年するにつれ資産価値は上昇し続けている。そのため、多くのリースホールドで住宅を建築した人たちは資産価値が上昇している。
資本利益を手にするためには、リースホールドよりフリーホールドにしてより大きな資本価値上昇利益を得ようと人びとは動き、現在この地に住宅を所有している人の80%以上はフリーホールドになっている。住宅地全体をリースホールドにするのではなくフリーホールドで住宅不動産を所有する人が増えている。そのこと自体ハワードの計画論と矛盾するものではない。ハワードが『ガーデンシテイ』の中で明言したようなガーデンシティ経営の結果、巨大なキャピタルゲインが生まれ、この地に住宅を持った人は、経年するにつれ、より巨額な利益を得ることになる。ハワードが言う住宅地経営の基本は、その住宅地に住宅を保有した人が経済的に豊かにならないと、それは優れた住宅地経営とは言えない。
エベネザー・ハワードが発想し、レイモンダ・アンウインとバーリー・パーカーが設計者となった『ガーデンシテイ』の中で主張したことは住宅地経営の発明家として住宅地の在り方を提案したことである。
米国に渡った『ガーデンシテイ』理論は20世紀の初めカンザスシテイで「カントリークラブ」をリースホールドで開発した。この住宅地は「資産形成を実現する住宅地として社会的に評価された。その成果を新しくフリーホールドの住宅地として取り組む開発「ラドバーン開発」(ニュージャージー)が実施された。「ラドバーン開発」はJ・C ・ニコㇽズとチャーリー・アッシャーが新しい住宅地経営手法を考案し、クラーレンス・スタインとヘンリー・ライトが設計者で歩車道分離を実現する交通安全技術として日本国内でも広く伝えられている。日本ではガーデンシテイ理論の骨格として近隣住区論とラドバーン開発も歩車道分離技法として紹介され、住宅地計画時の発生交通量、雨水・汚水の発生量等計画上の土木工学的処理やグルーピングの計画技術として使われた。
しかし、これ等の英米の技術は住宅地経営という視点では受け止められてこなかった。ましてや、これ等の英米の優れた住宅地開発が英米で開発されたように、「住宅による資産形成の住宅地経営技術と紹介されることはなかった。また、優れた住宅地の評価は、人々がこの街に生活したいと感じるような「人々が帰属意識を抱くデザインとして開発計画されなければならない」話は、近隣住区論を利用した建築工学や都市工学の人たちや、産学官の関係者の街づくりの話からは消滅してしまっている。日本の都市住宅地開発技術を日本に紹介し、指導してきた学者、技術者、行政関係者は、あくまでも「物づくり」の枠組みから出ず、開発後の住宅地を住民主権の下で育てることは取り組まなかった。その理由は住宅、建築、都市問題は物づくりを行う「工学」であって「人文科学」と理解してないからである。

英国に倣った新都市計画違法が英国のように機能しない理由
日本が朝鮮戦争特需に始まり極東の冷戦構造の中で、憲法第9条の規定がありながらも、日米安全保障条約という日米同盟を背景に、米軍の兵站基地として大きな軍事需要を得て、日本の戦後経済基盤が確立した。その結果、経済成長し都市化が急激に進み、都市基盤整備と都市開発の調和を図らなければならなくなったため、1968年、都市は、農村を破壊して都市につくり変えていくと農政からおそれられ、都市と農村の線引きをする法律として都市計画法が制定された。そこで英国の都市農村計画法に倣って計画許可制度を導入することになった。しかし、英国の都市計画法の導入は民法が邪魔をしそのまま導入することはできなかった。土地と住宅を別の不動産と扱うことで、土木と建築の利権が、官僚、業界、学界を分離した。結果的に、都市計画法による開発行為・開発許可(土木)と、建築行為・建築確認(建築)の関係はそのまま維持された。土木と建築とは、欧米であれば、いずれも物づくりのシビルエンジニアリング(工学)で行われることである。それを日本では土木工学、建築工学としてあたかもシーア派とスンニ派の対立になり、学問や技術交流だけではなく、人事上も行われていない。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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