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HICPMメールマガジン第611号(2015.05.18)

掲載日2015 年 5 月 18 日

HICPMメールマガジン第611号(2015.05.18.)
皆さんこんにちは

ウズベキスタンの報告の第3回目です。
タケシントの近代都市計画

前回、ウズベキスタンの首都タシケントがロシアに併合されて、中央公園からの放射状道路による近代都市建設の話を紹介しました。当時のロシアはパリ改造でオースマンが建設した公園道路の計画を、主要な都市計画に取り入れたもので、近代都市計画の原点になっています。これと同じ計画がロシアによる大連の都市計画です。大連は1895年三国(フランス、ドイツ帝国、 ロシア帝国)干渉により日本が清との間で結んだ下関 条約で日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求めました。清に返還された遼東半島の大連でロシアが行った都市計画が、ペテルスブルグに倣ったパリ大改造計画モデル実施をロシア帝国内で実施しようとしたものでした。このタシケントも同じ放射状型の道路パターンによる近代都市計画でした。その放射状の道路計画は、近代の爆発するイメージを都市計画に取り入れたものと言われ、オランダのアムステルダムや、日本の田園調布のような近代都市に共通する道路パターンです。このような形でロシアの近代国家のルネサンスの都市計画を見ることは驚きでした。それほど近代国家にルネサンスは大きな影響を与えています。

タシケントの地理と古代からの歴史
タシケントはサマルカンドから天山北度に枝分かれし北東に向かったところにある中央アジア最大の都市で、ウズベキスタン共和国の首都です。ウズベキスタンの北側キジルクム砂漠を挟んで西にアムダリア川、東にシャルダリ川があって、この2つの川は北西にあるアラル海に向かって流れています。2つの川に沿って、南に凸の道路が造られ、北西のヒヴァ、南のブハリ、その東のサマルカンド、その北東のタケシントと大きな都市が連続し、タシケントは天山山脈の西斜面、チルチク川の流域に位置しています。タシケントの古い名前はチャーチュウ(シャーシュウ)、ビンケンといいます。タシケントは2,200年の歴史を有する農業文明の国の都市で、大草原遊牧民族世界との接触がこの都市の特色です。最初の都市はチルチク川の灌漑用水路であったサラル運河で興りました。現代この都市には、北へカザフスタンからロシアにつながる鉄道駅があります。タシケントの都市は、ボスス運河がタシケントの中心の水上交通となった後、現在の旧市街地の方に移りました。9世紀にアラブが侵攻し、イスラム国として新しい砦が建てられ、都市は防壁に囲まれた。中世にタシケントはマーナワランナハルとよばれ、短期ですがブハラハン国のシャイバーニー朝の首都になりました。
1582年ブラハハン国のアン・アブドラフ・タケシント・シェイバニ王朝が絶滅した後、タシケントは長い間ブハラハン国の支配者と、都市の主権を要求したカザフステップの指導者との間の対立の種になっていました。1613年タシケント住民の暴動をアシタルハニー王朝であるブハラハン国ののハンイマムクリーが鎮圧したことと、1723年ブハラハン国ののジュンガルがタシケントの都市を略奪したことなどに見られるとおり、都市は安定していませんでした。それにもかかわらず、12の城門のある防衛城壁に囲まれた200以上の4つ地区には人口が集中し、タケシントは人びとが集中し、都市は発展していました。ハン国とはチンギスハンの流れをくむモンゴル支配の末裔です。
18世紀からタシケントは地域の貿易のセンターになり、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、タンコーカンド・ハン国と貿易をしました。19世紀にはコカンドハン国に属していたタシケントはロシアに併合され、トリキスタン共和国の首都となりました。1929年からウズベキスタン共和国はソ連のメンバーとなり、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、その首都になりました。1991年から独立したウズベキスタンの首都となりました。タシケントにはたくさんの廟、モスク、メドレッセ(神学校)が23あり、その中では以下の構成のスティ・イマム・アンサンブル計画が、代表的なものです。

スティ・イマム・アンサンブル計画(イスラム関係施設)
スティ・イマム・アンサンブル計画は、全体で13の施設で構成されていますが、そのうち現在残っているものは以下の8つの施設です。(1)キャファリ・シャシ廟は、1541年シェイバに王朝のタケシントスルタンの建築家(グリャム・フセイン)で既存の土台の上に築かれた廟です。その中に建てられている(2)バラクハーン・メドレセ(神学校)は16世紀シャイバーニー朝のバラクハーンによって建てられた神学校です。入口のアーチには美しいモザイク模様とアラビヤ語の文字が描かれています。このメドレセには、ソ連時代から、中央アジアのイスラーム本庁が置かれていました。2007年の夏の修理後、フジュラ(学生用の部屋)はほかの街のメドレセ同様土産物店になってしまっています。(3)スコンチホッジャ廟(青のドーム)は16世紀前半に建設されタケシントしスルタン一家の納骨堂です。1968年自身で破壊された後、立て直されドームの鼓状部に詩人アドディン・ワシフィーによる詩と墓碑銘が記されています。(4)ティッシャ、・セイフモスク、(5)無為・務モ咯・メドレッセ、(6)ナマズコビ・メドレッセ、(7)ハズラティ・イマム・モスク、(8)ミナレットで、ハウズ(池),お墓の入口、ホジャ廟、都市の門などは今では残っていません。

チョルスアンサンブル(イスラム関連施設)
中世からのコンプレックスはタシケントシャフリスタンの南西のコーナーに位置していて、現在のチョルスアンサンブルは1569年に建てられました。下記に説明する(1)クキャルダルメドレッセです。クキャルダッシュ・メドレセ(神学校)は旧市街地の23のメドレッセの中で最も大きなメドレッセで、シェイバニ王朝のタシケントスルタンでルビシハン、当時、タケシントを支配していた大臣クカルダッシュによって16世紀に建てられたタケシントの代表的な学校です。この建築物は宗教的な役割だけではなく、政治的、文化的戦略的役割果たしていました。住民がコカインドハンに対し暴動を起こしたとき、ここから大砲を発射され、また、メドレッセの前は公開の刑場としても使われました。宗教施設は国家の統治機構の一端を担っていました。このメドレッセ(神学校)は、ソ連時代には倉庫などとして使われ、独立後修復して再び神学校として活動しています。
2012年11月現在、135人の神学生が学んでいます。この学校の2階は学生寮になっています。金曜日には入口前のテラスまで人があふれ、大規模な礼拝が行われています。帝政ロシアに併合される前はレギスタンと呼ばれ、タシケントの中心地でした。メドレセの裏手の丘の上には15世紀に建てられた修復された(2)ジャミー・モスクがあります。15世紀半ばに建てられたジャミ―モスクは再建され残されましたが、このモスクと同じ時代に建てられた2つのメドレッセとモスクは、1966年の地震で倒壊し現存しません。チョルスアンサンブルには以上の2つの建築物と修復されなかった(3)グルパサールモスクで構成され、建設当初のメドレッセやモスクで今は残っていません。

タシケントの中央パサール見学
旧市街地が設立された丘の前の市場は、1000年以上現代のチョルスとエスキ・ジュワ広場の間に位置しています。元のレギスタンアリクに沿って粘土、藁、砂、小石などをこねて作った構造の建築物からパサール全体が広大な迷路に造られています。どこまでも続くパサールの外に向かって開いた商品を販売する店舗と小工場(家内工業)が集積しています。バザール地域の中央に最上階にドームがある4階建てのビルの周りに3階建ての建築物の巨大なパサールがあり、その周辺の土地にも路上市場を大きくしたパサールが広がっていました。大きなビルの最上階が食肉、野菜など生鮮食品のパサールで、2階が衣服雑貨、日用品の市場になっていました。1階は専門店やレストランなどでした。出店の店舗数、販売されている商品、食品の量、いずれも想像を絶する量で、道路一杯に店舗が張り出して営業をしている状態でした。半球状のドームは中心の大きなドームとは別に6個の小さな半球状ドームがあります。

タシケント旧市街地
タシケント旧市街地の名称は、19世紀の後半、中世タケシントの隣にヨーロッパ式の新市街地が始められたときに、新市街地と区別して呼ばれることになった約10の廟と5つのメドレッセと3つのモスクをもつ市街地です。旧市街地とは現代までほとんど何も残らなかった城門内の地域です。旧市街地は伝統的な平屋建てで、粘土、わら、砂、小石などをこねて作った粘土造建築物です。イブラギムアタ廟と城壁で囲まれたジュマモスクとクキャルダシ・メドレッセを中心に、蜘蛛の巣状の12本の道路が12の城門(都市の門)で場外と結ばれて造られ、旧市街地のウルダ城壁と旧市街地のパサールに集まる現代に向けて建て替えが行われてきた街並みです。街並みは道路に向けて店舗が造られています。
モスクとはイスラムの集会を行う所で、そこには人々に呼びかけるミナレット(塔)があります。メドレッセは神学校で、全寮制で、中央に広場を囲んで寄宿舎や教室が連続しています。廟は遺体を棺に入れ、安置し、祀る所です。いずれの建築物にも中央に青のドームが架けられています。

日本人墓地
市街の南西のヤッカサライ通りのムスリム墓地の一角に、第2次世界知戦後、日本人がソ連に抑留され、この地に連行され、強制労働により死亡した79人の墓地です。タケシント地区で亡くなったひとの名を刻む墓標と記念碑が、桜の植樹が日本人の手で成された墓地の中に造られています。ソ連によって抑留された人たちで、理屈に合わない強制労働で全く納得できないものです。強制労働で日本人たちが建設したオヴォイ・オペラ・バレエ劇場がタシケントの新市街地に現在、立派に立っています。大通りから墓地に行く途中に日本人抑留者に関する資料館がありました。
(NPO法人 住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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