メールマガジン

HICPMめーるまがじんだい612ごう(2015.05.25)

掲載日2015 年 5 月 25 日

HICPMメールマガジン第612号(2015.05.25.)
皆さんこんにちは、

国会では「集団的自衛権の関連立法」で国会の審議が始まります。その背後には日本の産軍協調政策と、「一帯一路」の中国の覇権政策があります。チンギスカンの勢力が拡大した東の端が中央アジアからロシアに向かうのです。そこにアムール・チムールがチムール王国を設立したのです。
ウズベキスタンの首都タシケントは、昔の古代ホレムズの中心でした。タシケントからヒヴァに向かうため、タシケントとはウズベキスタンを南北に縦断する2本の川アムダリア川と、シャルダリア川を挟んだほぼ真西に位置するウルゲンチで飛行機を降りて、そこからヒヴァに向かいました。アラル海に向かって北に流れるアムダリア川とシルダリア川の関係は、メソポタミア文化を育んだペルシャ湾に向けて盗難に流れるチグリス川とユーフラテス川の関係に似て、中央アジアの文明の源です。

河川の流れに振り回された街「ヒヴァ」
ヒヴァは、首都タシケントの西約750km、ウルゲンチから南西に約35km、アムダリア川下流のオアシスの町で、古代ペルシャ時代からタラクム砂漠の出入り口として繁栄していました。四方を砂漠に囲まれながらも、アムダリア川の肥沃なデルタ地帯であるホレムズ地帯に人間が住み始め、農業を始めたのは4000-5000年も前のことで、この地帯の南の端に位置するヒヴァの起源もおそらく非常に古いと考えられています。ヒヴァは8世紀にはアラビア人に征服されイスラム世界に組み込まれました。当時はシルクロードからカスピ海、ヴォルガ川へと向かう脇道の小さな中継の町に過ぎませんでした。そして10世紀から14世紀にホレムズ帝国の都、旧ウルゲンチ(現在のトルクメニスタンクフナ・ウルゲンチ)が何度か全盛期を迎えても、ヒヴァは相変わらず脇役のままでした。しかし、その後アムダリア川の水系が変わったため、ヒヴァに都が移されました。ホレムズの発達により、9-13世紀にホレムズ王国がつくられ、13世紀にはモンゴルのチンギスハンにより破壊されました。しかし、14―15世紀、ホレムズはチムール王国の一部でしたが、16世紀にはチムール王国から分離し、チンギスハン系のハンの管理下に置かれました。17世紀にはアムダリア川の下流の方向が変わって、ヒヴァのオアシスは中止され、ホレムズの政治、経済、宗教の中心地、ハン国の首都になりました。

ホレムズ随一のイスラムの聖都
聖都ヒヴァは、外的の侵入を防ぐべく、外壁と内壁の2重の城壁で守られることになりました。1870年代にはロシアの保護圏内に組み込まれ、1920年代にはハン(モンゴル系国家)は引きずりおろされヒヴァ共和国となり、1925年ソ連に加盟し、ウズベキスタンの一部になりました。内壁の内側で囲まれたイチャン・カラ(内部の城)と呼ばれる所には20のモスク、6基のミナレットと多数のメドレセ(神学校)はじめとする数多くの遺跡が残されており、1969年には全体が「博物館都市」に指定され、1990年には「ユネスコの世界遺産」に登録されました。ヒヴァは現在ホレムズ州にあります。ホレムズとは「太陽の国」の意味です。その名のとおりヒヴァの年間300日は、雲一つない過酷な太陽に照らさせる土地で、人々は昔からアムダリア川の流れに翻弄されてきました。川の流れが変わるたびに川に沿って都市は移動しました。古代からヒヴァは栄枯盛衰を繰り返してきた国でしたが、ホルムズ王国があったことは、長い間、考古学上の謎の一つとされてきました。
幻の大国の存在が明らかになったのは、ソ連時代の1940年でした。砂漠のキジリクムに無数に点在する遺跡群がホレムズ大国のものであることが突き止められました。都城址は数百kmの範囲にわたって点在しその数は1000を超えています。古代ホレムズ文化を生み出したアムダリア川が流れを変える都度、国は城を造り変えなければならなりませんでした。1940年の調査でウルゲンチから50kmにあるボストンから北に10-20kmのキジルクム砂漠の端にもいくつかの都城址があることが判明しました。城址を「カラ」と呼ぶことから、「カラマワリ」(空転:ダジャレ)というツァーがはじめられています。アズヤ・カラ、トプラク・カラ、クワット・カラなどの「カラ」ツアーです。
ヒヴァの街の外側にある城壁は、ロシアに組み込まれる前のモンゴルのハン王国の時代の1842年にカラコロム砂漠との境に築かれたディシャン・カラの全長6キロメートルの城壁です。内側にある城壁は、中世のヒヴァの町を取り囲んでいる城壁で、高さ8~10m、壁の厚さ6m、レンガを積み上げた城壁で、総延長が、2250mあります。外側の城壁と内側の城壁との間に人々が暮らし、内側に城壁に囲まれた内城は、イチャン・カラ(内側の城壁)と呼ばれ、ハンの宮殿やハーレム、モスク、メドレセ、廟などがその中に立てられています。現在このイチャンカラ内部全体が、歴史文化博物館となり、ユネスコの世界遺産の指定になっています。

ヒヴァ内部の都市・イチャン・カラ
トゥアーでは、ホテルからみ南にすぐに向かい、ヒヴァ内部の都市・イチャン・カラ(長さ2,200m高さ7-8m)の土壁で囲まれている16-17世紀の内部の城門(北門)から内壁に沿って、オタ・ダルヴァザ門(西門)まで城壁の外を歩きました。北門から左回りで、城壁の4分の1を歩き、西(正門)の正面入口まで徒歩10分位の距離に立地していました。西門(正門)前には、「ゼロの発見」で有名なヒヴァで生まれた科学者ムハンマド・アル・ホラズミ(783-850)の像があり、その脇にシルクロードの地図が置かれていました。西門からは観光バスが発着し、ヒヴァの正門になっています。1920年の革命後、正門は混乱で壊されましたが、1975年に修復されました。門は2基のミナレットのような塔で造られ、門を潜る城壁にはチケット売り場やガイドの詰所があります。

工事中とのままの「カルタ・ミナル」
西門を入って真直ぐ東に向かう道路がメインストリートです。このメインストリートを中心に主要な建築物が立っています。西門を入ってすぐに目に飛び込んでくるのが、青、緑、白の彩釉タイル模様で飾られた未完成のミナレット(カルタ・ミナル)です。このミナレットは、1852年着工され、未完成であるため、さまざまな伝説が残っています。ムハンマド・アミン・ハンが109mの高く立派なミナレットを建て、その頂上から400㎞離れたブハラの街を見張ろうとしていることを知ったブハラのハンは、塔を建設していた職人を買収し工事を中止させました。それを怒ったムハンマド・アミン・ハンは、職人を殺したという伝説があります。だが、実際は1855年半にムハメッド・アミン・ハンはペルシャとの戦いで死んだため、工事は中断されたのが実情です。事実、基礎部分の直径は14.2mあるので、建築物の高さは70-80mの高さになったと推測されていますが、ミナレットは、26mで中断されたため、「カルタ(短い)」の名がつけられた。

ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセとキョフナ・アルク
そのミナレットに付随して、現在ホテルとして使われているムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ(神学校)があります。このメドレッセは、西(正)門を入ってすぐ右側にあります。ムハンマド・アミン・ハンがこの建築物の建設を命じ、1852年に完成しました。中央アジアで最も大規模な神学校で、最盛期には99人の寄宿生がいました。新学校の機能と同時にイスラムの最高裁判所事務局でもありました。敷地は、71.7m×60m、中庭の広さ38m四方の大きさです。中庭を取り囲む2階建ての建築物には125室があります。建設当時、ヒヴァで初めての新学制のために二間続きの部屋が与えられました。正面入口や建物の全面はタイルで装飾されています。

キョフナ・アルク(古い宮殿)
メドレセの向かいの城壁はキョフナ・アルクで、入り口は城壁の先を左に回るとそこにあります。キョフナ・アルクはハンの「古い宮殿」で17世紀に建てられました。タシュ・ハウリ(新宮殿)ができてから、それと区別するためにこのように呼ばれるようになりました。宮殿は城壁で囲まれており、この中にハンによって建てられた執務のための公邸、寛ぎの間、モスク、ハーレム、兵器庫、火薬庫、造幣所もあり、そこで絹の紙幣も造られていました。1838年、アラクリ・ハンの命令で建てられた夏のモスクは、造幣所のあった中庭にあり、青、緑、白の七宝タイルで細かい模様で装飾され、多くの柱で天井を支えています。クリヌッシュ・ハンのアイヴァン(造幣所)は17世紀に建てられましたが、ペルシャに破壊され、現在のものは19世紀の最初に建てられました。2本の高い柱のあるテラスで、壁面は七宝タイルで覆われ、天井は赤、黄、緑、黒などのカラフルな模様で飾られた玉座になっています。中庭にはお客が来たときに使った「移動式住居」を建てる円形の土台が設けられています。現存するハーレム(四人の妻と数十人の妾が一角に生活する「江戸幕府の大奥」)は19世紀に建てられたもので、南側がハンの妻の部屋、北側が召使いや妾の部屋となっています。また、入口前の広場では兵士のパレードや罪人の処刑を行なわれました。城壁に沿って監獄が建て増されました。現在入口付近にはズインダ(監獄博物館)があり、監獄の様子を再現した人形や処刑方法が描かれた絵画が展示されています。

ジュマ(金曜)モスクとアラクリ・ハーン・メドレセ
キョフナ・アルクからメインストリートに戻る道を行くと、左側に彫刻された木柱が見事なジュマ・モスクとミナレットがあります。ジュマ(金曜)モスクは多柱式の建築で、中央アジアで最も有名なモスクの一つです。10世紀に建てられたが、修復工事を重ね今の形になったのは18世紀末ごろです。約3mの間隔で213本の木の柱が建てられていて、広さは55m×46mで、高さ5mで堅固な壁に囲われています。中に入ると、神秘的な薄暗がりの中に彫刻が施された木の柱がたくさん並んでいます。天窓から差し込む光だけで彫刻を浮かび上がらせています。彫刻は柱ごとにすべて違っています。古い柱はホレムズから運ばれたもので、4本が10-11世紀、25本が17世紀の柱です。モスクの前にあるミナレットの高さは42mあり、2階へ81段の階段があり、そこは上ることができるようになっています。モスクを右に向かって東門に進み、門の手前を左に曲がると、そこにアラクリ・ハーン・メドレセ(神学校)があります。この神学校は、アラクリ・ハーンが1830年から1840年にかけてイチャン・カラの東門の隣にメドレセ、その北のバザール、キャラバン・サライ(旅人宿)を殆ど同時期に建てました。現在のキャラバンサライは屋内バザールになっています。メドレセの内部はウズベキスタンの伝統的なデザインの復刻を目的に、ユネスコの運営する職工技術訓練センターになっています。

タシュ・ハウリ宮殿とイスラーム・ホジャ・メドレセ
これらの建築物の向かい側が「石の宮殿」タシュ・ハウリ宮殿であります。このタシュ・ハウリ宮殿はⅠ830-1838年に東門の近くにアラクリ・ハンによってクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿で、ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや装飾インテリアで飾られています。公務を行う謁見や儀式の場、宴会やお客を接客する場とハーレムに分かれています。儀式が行われたアイヴァンの高い柱のテラスの展示場は、木枠とカラフルな幾何学模様を巧みに組み合わせて、豪華さを強調しています。青いタイルの幾何学模様で装飾された中庭を囲む2階建ての建築物にある部屋がハーレムで、大小163もの部屋で構成されています。南側の比較的大きな部屋が、ハンの執務室と4人の制裁の部屋です。ハンは中庭に立てたユルタ(東屋)にいるのを好んだと伝えられています。
この新学校と並び、イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレットは、ヒヴァの最後のハン、イスファンディヤル・ハンの大臣イスラーム・ホジャにより1910年に建てられたもので、ヒヴァで最も新しいメドレセとミナレットです。イスラーム・ホジャは非常に進歩的な大臣で、ロシアをたびたび訪問し、そこで得た知識を自国の発展に役立てようとして、ヨーロッパ形式の学校、病院、郵便局を開き、橋や道路を造り近代化に尽くしました。非常に人気が出たため、ハント聖職者からの恨みを買い殺害され、生き埋めにされました。メドレセはタイルで飾られた正面玄関もありますが、構造は対称形ではありません。中庭は小さく、囲んでいる1階部分は42の部屋があるだけです。2階があるのは入口部分だけです。広さは43m×32.5m、中庭は23m×20mです。ミナレットはヒヴァで最も高く45mあります。基底部の直径は9.5mだが、色タイルの模様の付け方のためか実際より高く見えます。中には118段の階段があり上ることができます。

バフラヴァン・マフムド廟
メインストリートから南にさがったところにバフラヴァン・マフムド廟があります。この霊廟にはヒヴァの庇護者として尊敬されていたプフラヴァン・マフムド(Ⅰ247-1326年)が眠っています。そしてクラッシュ(ウズベキスタンの武道)の名手であったので、パフラバン(強者)となづけられました。入口の木彫りの扉を入ると小さな中庭に出て、正面にはドームの霊廟、右には低い柱のアイヴァン(集会所)、左には少し地味な霊廟が並んでいます。「聖人のそばに埋葬されると来世で幸せになる」言い伝えがあり、彼の墓のそばにはムハマド・ラヒム・ハンや14世紀から20世紀にかけて造られたハンの親族の墓があります。霊廟内は一面鮮やかなターコイズ・ブルーの彩釉タイルで覆われています。入って正面の墓石がムハンマド・ラヒム・ハンのものです。より豪華に装飾されたものが、パフラバン・マフムドの中庭には泉が湧き出し、この水を飲むと男は強く、女は美しくなるといわれています。そこで私はつられて飲もうとしましたが、皆に「生水の飲料は危ない」と注意され止めました。この日の夕食はヒヴァ王朝夏用宮殿「トザボーグ・パレス」でした。豪華な雰囲気のところでした。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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