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HICPMメールマガジン第632号(2015.10.14)

掲載日2015 年 10 月 13 日

HICPMメールマガジン第632号(2015・10.14)
皆さんこんにちは

10月5日から10日まで、ホームビルダー研究会の人々と「レンガ建築デザイン研修ツアー」でベルギーとオランダに出かけてきました。フィレンツェと並んでルネサンスがもっと早い時期に開花した14-15世紀のブルージュは、今回のハイライトでした。現代においてもレンガの街としては世界でも最も美しい素晴らしい観光地としてみることができる通り、当時、「北方ルネサンス」とも言われ、ハンザ同盟の中心地として栄えた文化が現在に伝えられています。
私は皆さんがルネサンスデザインによる街と、住宅による資産形成の研修を希望されており、それに応えて、現地の街並みと住宅見学と対応させて、レンガ建築とルネサンスデザインの説明と、住宅による資産形成の実例を私の娘のライデンの住宅を直接見学し、娘の住宅が建築後20年経過して、一部増築をしたようですが、購入価格の2倍以上に値上がりした解説を通して、オランダにおける住宅を購入した資産形成ができている事例を実体験してもらいました。

ルネサンスデザイン
古代ローマ文明・文化の復興というルネサンスは、中世キリスト教文化・文明のアンチテーゼとして、ヘレニズム文化・文明の復興後行われました。紀元前1世紀にヴィトルビュウスの纏めた「建築10書」をアンドレア・パラディオが建築としたものをAD1570年書籍「建築四書」に纏め、それ以降ルネサンス建築デザインが体系的に設計されるようになりました。ルネサンス建築自体は自体は、15世紀初め(1420年)ごろから17世紀までに確立し、その後、近代建築デザインとして広く欧米に普及するが、現在ルネサンス様式として広がっているものは、パラディオ以降と考えるべきである。
イスラム教国とキリスト教国との闘いの結果、イスラム教国に遙かに水をあけられていたことを思い知らされたキリスト教国は、イスラム教国の高い水準に合った文化・文明の秘密は、ヘレニズム文明にあることを探り当てました。ヘレニズム文化・文明が古代ローマ国家の文化文明の源泉であることを知って、「古代ローマに立ち返ってキリスト教国の文化文明を「古代ローマの復興(ルネサンス)」として取り組むことになりました。この中での「人間復興」は、ギリシャ神話に登場する人間味あふれる神々の自由奔放な生き方の復興でした。今回研修旅行で訪問したブルージュは、ルネサンス建築の始まりの都市で、この解説は、後日、HICPMビルダーズマガジンにおいて行う予定です。

以下、目下連載中の「CM]講座のうち、日本の住宅生産方法を伝統工法住宅デザインの関係と、住宅政策のご説明の続きとしてお話しします。

「伝統木造」という「差別化住宅」横行の不合理な社会
消費者も戦後70年の歴史の中で日本文化が海外から評価されたことに影響され、日本の建築家が「日本の伝統建築」と言って住宅を設計すれば、それが海外からは「ジャポニズム」と呼ばれ、目新しい東洋のデザインとして珍重されるようになりました。国内外の社会が日本の伝統建築物を評価する力をよいことに、現代の日本人は、伝統とは無関係の思いつきの「似て非なる」木造建築を、口先で「伝統木造」技術と言って、恥ずかしげもなく露出させてきました。江戸前期に完成した伝統木造建築技術と無関係の思い付き程度の技術を「伝統木造」技術を発展させたものと称し、住宅販売を目的に、地方の木材産業と共謀し、公的助成を受けて特殊な設計を売り出している例が無数にあります。これらの技術の共通点は、「国産木材を使う」ということで、それに政府が助成を行い、公的援助を得ていることで、「伝統木造」という売り言葉に、公的機関の御墨付けをもらうことです。その最大の問題は、日本が島国で、海外からの住宅産業技術がやってこられないためです。

日本の国民不在の住宅政策
日本の戦後の住宅は、その出発点から国民不在の住宅政策として始まりました。第2次世界大戦における日本の戦争で行ったことは「東京裁判」で明らかにされたとおり、非人道的、反社会的で極めて残忍なものでした。そこでこのような戦争を日本が再度起こすことが無いようにという占領軍の占領政策が取られました。それが1946年、日本国が占領軍の指示で制定させた日本国憲法でした。占領軍は占領違政策を円滑に実施するために日本人の占領政策反対を行わないように、終戦直前まで大本営が拘っていた国体(天皇制)の維持(日本国憲法第1章)を認め、その天皇の命令により日本国民が従う日本国の統治と、日本の軍国主義と再軍備の目を根こそぎ潰す方法として、「戦争の放棄(日本国憲法第2章)を定めました。それに合わせ、軍事産業資本である財閥の解体、戦前軍に関係していた人物の公職追放、陸軍省、海軍省、内務省と合わせて商工省の解体を行い、日本から軍国主義と軍需産業を解体し、放逐することにしました。
しかし、1949年朝鮮戦争が勃発し、南北朝鮮を米ソ中の戦争がはじまりました。そのため、日本に対する占領政策は日本国憲法と矛盾し、日本が米軍の兵站基地となり、戦争を支援することになりました。日本が米軍の兵站基地となることは、日本が戦前の軍需産業を復興し、米軍の兵站基地となることでした。軍需産業を復興するために軍需産業資本であった財閥解体は中止され、軍需産業労働者のための社宅供給を図るため住宅金融公庫が設立され、軍需産業労働者向け住宅の供給が始まりました。その後の日本の住宅政策は、公庫住宅、公営住宅、公団住宅と言う3本の住宅で1976年ベトナム戦争が終結するまで、米軍の兵站基地を維持することが主たる目的で進められました。

軍需産業労働者向け住宅の終焉
1976年ベトナム戦争が終了するまでは、日本は軍需産業の復興支援のための軍需産業用労働者住宅(住宅金融公庫による産業労働者向け住宅と日本住宅公団による特定分譲住宅)を中心に、社宅による住宅供給がされない産業労働者には、日本が米軍の兵站基地としての機能を果たすための労働者のために政府施策住宅が供給されました。しかし、日本がその経済力を回復し、軍需産業から平和産業に軸足が移るに従い、土地を保有している国民が自宅を取得する比率が高まりました。しかし、政府施策住宅の中心は企業向け社宅と、公営住宅、公団住宅、公社住宅と言う法人が住宅供給をするものが中心でした。そこには日本の伝統的住宅建築文化は消滅し、設計・施工応急仮設建築技術でした。
しかし、軍需産業用の住宅供給が不要になった1976年以降になると、法人が中心になる住宅需要は急減し、政府の住宅政策の中心は、法人供給に対するものではなく、住宅産業側の供給主体が需要を開拓することになりました。その住宅購入者は国民一般になりました。それまでの法人向け住宅供給から個人向け住宅供給に軸足が移されたとき、高地価と高住宅価格に対して国民の需要は素直に対応できる状況ではありませんでした。そこで政府の住宅政策は、土地所有者と住宅所有者に対する新築および建て替え住宅を中心に、政府が育てたプレハブ住宅産業による住宅供給でした。
そこには日本の伝統的住宅産業は崩壊し、その技術・技能は全く無視されました。政府は、自らが育てたハウスメーカーのために、建て替えを推進するために既存住宅が無価値なものと思い込ませるために、減価償却理論を持ち込み、高額な住宅費負担を住宅ローン負担として軽減するために、住宅ローンの融資期間を世界最長に延長し、住宅購入者の「ローン痛」を軽減することでした。住宅産業にとって最大の競争相手は、自らの建設した住宅である。それが競争相手にならぬように既存住宅(中古住宅)に対する融資は行わないこととされました。

政府施策住宅と言う閉鎖された住宅市場
1976年のベトナム戦争が終結するまでの間は、日米安全保障条約を後ろ盾に日本は米軍の兵站基地として、車両や船舶を始め、米軍が朝戦争からインドシナ半島での社会主義国との戦闘を優位に実施するための軍需物資の供給を始め、その活動を支援するための国家としての後方支援を行ってきました。沖縄や岩国、横須賀、三沢などの米軍基地や米軍の指揮下に置かれている自衛隊に対する日本国政府の財政は、基本的に日米同盟の枠組みの中で決められるもので、米軍の極東戦略の一環となっているものでした。それが日本国憲法に違反していることは言うまでもありません。
日本国憲法解釈をめぐる争いが1959年の砂川事件でした。その裁判で東京地方裁判所の伊達判決では、日米安全保障条約が憲法違反であるから日米安全保障条約に基づく基地規則に違反した学生の行動は無罪と判決しました。それに対し政府は特別飛躍上告と言い、最高裁判所に直接上告しました。最高裁判所田中耕太郎裁判長は、日米安全保障条約は高度な行政統治のための同盟であって、それを日本国憲法に照らし裁くこともできるが、それは必ずしも憲法で判断を下さなければならないものではないと「統治行政論」を展開し、日米安全保障条約は日本国憲法で裁かなくてもよいと判決を下しました。
実は1952年サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立国になり占領軍が国外に退去しなければならなくなったとき、独立国日本が米国に対し占領下の米軍の活動を日本が独立後も継続するよう日米安全保障条約が締結されました。憲法第9条と日米安全保障条約が矛盾することは、日米安全保障条約が締結されたときに始まっています。中谷防衛大臣が米軍の兵站基地となっていることは戦争放棄を定めた憲法に違反しないと国会で答弁していますが、法律上はもとより、国語として中谷大臣の言っていることは間違っています。日本の戦後の住宅政策は日本が米軍の兵站基地となったことによる住宅政策で、ベトナム戦争終了後の住宅政策は、政府が4半世紀かけて育ててきた住宅産業の需要を確保するための住宅政策で、国民のためのものではありません。

営業販売本位の住宅デザインと住宅技術
政府はこと住宅産業に関しては、日米同盟の重要な役割を担うものとして官営産業同様の育成を行ってきました。そのため住宅産業に対する政府の統制や利権は重くのしかかり、自由主義経済における民間の経済活動と同じに見ることはできません。政府は産業を育成し、その育成された産業と行政権とは利権でつながり、そこに政治家、政党、官僚機構が介入し、その利益を反映する形で産業政策が決められることになります。それが、米国で一般的に行われている2×4工法が日本でそのままできないか理由です。
2×4工法の技術を見れば分かります。製材や合板は米国やカナダのものが輸入されてきました。2×4工法は、1971年に「枠組み壁工法」として建築基準法上一般工法としてオープンされながら、35年掛けて日本の枠組み壁方法は米国やカナダの2×4工法とは、その生産価格で2倍もしています。それだけではなく、屋内のオープン空間として日本と同等以上の大きな地震が起きているカリフォルニアの住宅と比較して半分程度以下の空間しか作れないでいます。このように全く似て非なるものになっている理由は、住宅生産に携わる住宅産業がその企業利益のために政治家・官僚と癒着し米国の技術の導入を妨害してきたためです。その意味では江戸時代の鎖国政策が、企業利益とそれにつながる政治家と官僚と御用学者による護送船団が日本を支配しているからのです。
コンクリート業界が公共事業と一体となって、大きな護送船団を形成し、戦後、電柱の材料をしてカラマツの植林にしましたが、その市場を廃材の山に代えてしまいました。カラマツに代え、鉄筋コンクリート電柱にし、美しい海浜の砂丘をテトラポットと護岸擁壁に代え、その裏で実施された公共事業利権が政治家、官僚、産業界と御用学者に支配されたことは知らぬ人は居ません。東日本大震災復興事業は、基本的に大土木事業として行われ、公共事業関係者は大きな利益を上げ、そこで造られた公共事業の結果はその多くが利用されないまま放置されていますが、事業によって金もうけをした関係者は、お金を使ったことで事業の成果は上がったことにしてしまっています。

システム産業としての住宅産業
コンクリートに関する物づくりに象徴されるように、日本の物づくり技術は過去の伝統の物づくりとは基本的に断絶してしまっています。そのことは工務店の担っている建設技術に基本的な変化をもたらし、過去の日本で重要視されていた「段取り8分に仕事2分」という仕事の前提になる規矩術や曲尺の利用に関する標準化、規格化かということが、全く伝承されないで、現在の木工事が「伝統技術」のように言われて行われています。日本の伝統木造は、徹底した規格化、標準化、共通化を図ることによって、大工職人は全国的広がりを持って生産性の高い仕事をし、職人は高い賃金を手にすることができました。職人が育たなくなったため、工場加工材料の占拠率が高まって生産性は高まりましたが、職人は育たず、現場は破綻に瀕しています。
欧米の住宅産業を調査すれば容易に理解できる通り、年間の取引される全住宅の80%強は既存住宅です。そのため、建設現場で働く職人が住宅産業としては不可欠な条件になっています。建設現場で工場製作以上の工事生産性を上がることが社会的に必要とされています。この条件は日本のこれからの住宅産業にとって不可欠な条件となってきます。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長 戸谷 英世)



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