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HICPMメールマガジン第654号(2016.03.14)

掲載日2016 年 3 月 14 日

メールマガジン第654号(2016.03.14)
皆さんこんにちは、

今回は夢現設計室(前野さん)が計画された3月1日から4日の実質2泊3日でヤンゴンに行きのミャンマー・ヤンゴン視察ツアー報告をいたします。
アウンサンスー チーが政権を握ることになる前夜のミャンマー、旧英国植民地の都市 を見ること、「ビルマの竪琴の舞台」と金色に輝くバゴタと涅槃像が象徴する仏教国を見ること、日本のODA開発による工業団地開発、ミャンマーのレンガ生産工場見学という盛沢山のテーマを抱えて出かけました。予定したものは一見られましたが、旅行前に想像していた「期待」となにか、何か物足らない気持ちが残っています。

政権変革の前夜という興奮が見られない
アウンサンスーチーが国家を変える時代的転換を迎えている筈なのに、社会全体に政権変革への期待とか、住民の希望が、今回のミャンマーでは見られませんでした。現軍事政権が抑圧した国家には、社会全体に明るさとか希望が感じられませんでした。
労賃の安さをもとめて、中国の大きな投資が行われ雇用機会が増大し、経済活動を高い水準に引き上げているようですが、利益は中国が投資以上のものを収奪しているようで、国民は手放しに中国の経済進出を喜んでおらず、搾取されている感覚を持っていました。
近年、経済進出に関し、日本政府が中国に負けぬように意欲的で、今回、視察した日本のODAでの256億円の大規模工業団地の開発の経済支援はヤンゴン郊外に行なわれ、既に、日本企業の進出も活発に始められていました。このODA開発は日本国民の税金を使い大規模工業団地を開発し、そこに日本企業を積極的に呼び込むもので、外務省の経済援助の名を借りた国民の税金を企業向けに再分配する事業です。
中国に後れを取った日本が中国と競争する形で政府援助を行い、ミャンマーの経済的な発展の可能性を評価され、わが国産業界の目がこの国に集っています。40年前、田中角栄がインドネシアの石油利権を日本で確保するためにインドネシアを、日本の最大経済援助国にした当時の様子と2重写しに見えました。政治経済が一緒になって、日本からの税金をミャンマーに進出する日本の民間企業の利潤追求を支援するプロジェクトに政・官・産が利権を得ようと群がって、経済援助は口実で、日本の企業利益のために、「国威拡大を考えた援助」に動かされているように思われました。

アウンサンスーチー政権への権力移行の障害となっている中国
アウンサンスーチーの父である32歳で虐殺されたアウンサン将軍が、20代の後半、ビルマの独立のため、日本軍将校の協力を引き出し国民に大きな希望を与えました。ちょうど、インドネシアのスカルノが日本軍に協力を独立の力に取り入れたと同じように、ビルマの英国からの独立に大きな力を発揮し、国民の支持を得、ミャンマーに政治に大きな足跡を残していたことで、現在でも国民の目指すの星になっていました。
しかし、現在の軍事政権が中国共産党の支持を得て国家権力を牛耳り、その後、軍事政権は米国が容認してきたことが現在の長期軍事政権の基盤を作り、それが国民の民主化に対する希望を打ち砕き、政治の懸隔に対する絶望を与えて、アウンサンスーチーの政治を受け入れない「政治的絶望の国家」を造ってしまったようです。中国は専ら自国の経済活動のためにミャンマーに大きな影響力を行使し、ミャンマーを自国の経済のために利用した結果、現在もミャンマーは、中国の利権に結び付いているミャンマー軍が大きな力を維持しているように見えました。しかし、中国共産党の帝国主義的侵略の本質にミャンマー国民は気付き、反発を感じて いるようです。

日本政府の政策への疑問
そこに日本の安倍政権が中国を意識し、中国の轍を踏まない経済支援で乗り出そうとしています。日本政府は安い労働力を求めている日本企業の経済成長のために、経済進出を行おうとしています。日本政府は中国とは違った高い技術で、より良い労賃条件を提供する産業を進出させ、中国の企業と比較して改善される期待は強いようです。
ちょうど40年前に、インドネシアでの反日田中暴動の後の関係修復のため、社会開発援助で私達がインドネシア政府支援に出掛けたとき同様の高い期待を持って迎えられているときと同じ感じがしました。当時、外資を導入し経済発展を推進していたスハルト大統領と同じような外資による経済発展の役割を、アウンサンスーチーが日本など西側の民主国家の支援を引き出すことで政治力を強化しようとしているという気もします。
アウンサンスーチーはあれだけの弾圧を受けながら生き残ったしたたかさこそ、ミャンマーの軍事政権にとっても経済成長は大きな課題で、アウンサンスーチーと西側諸国との関係を重視していたようにも思われます。発展途上国は教育水準が向上したため、先進工業国と同じ労働力をミャンマーでは供給できるようになってきていますが、これ等の優秀な労働力を働かせるための職場をミャンマーでつくる資本が圧倒的に欠乏しています。
アウンサンスーチーの政策は、発展途上国の弱点をよく理解し、先進工業国の経済援助をミャンマーに持ち込む西欧諸国の支援を切り札にしているところが特色で、その国家経営の仕方は、人民の立場に立ったホー チミンとは基本的に違い、権力志向の基本が経済成長策を西側諸国に期待することに置いている人ではないかと推察しました。

英国植民地時代の建築
今回のツアーで私が期待していた旧英国植民地時代の建築を見ることでした。目に付く物は、官公庁建築物が中心で、現在も建設当時の形を維持しています。しかし、首都がネピドーに移転し、政府の中央官庁の業務は、新首都ネピドに移転し、ヤンゴンの庁舎は現在使われているものもありますが、一般的に勢いを失い、廃墟となっているものと維持管理や修繕も満足に行われていないものが多く、そこからは植民地時代のような国家を啓蒙主義的に引っ張っていく「国家のデザイン」という元気が伝わってきませんでした。
アウンサンスーチーの夫の生前の執務室はヴィクトリアンスティック様式の瀟洒なレストランになっていました。この国の植民地時代の日の当たる部分として、現代のミャンマーでは、植民地建築の良さが殆ど評価されていないように思われました。
建築物は、その時代の指導的な役割を担っていない限り、博物学的な興味では活かされないことがわかりました。しかし、ビクトリアン様式の植民地建築物が、現在の経済活動の期待に応え、ミャンマーが主体性をもって、植民地時代の建築物はミャンマー人自身が建設した建築物だという意識で評価し利用されたら、歴史の栄光を復興できると思いました。
丁度、ロシア革命後、セントペレルスブルグの建築物をロマノフ王朝の建築物であるから破壊してしまえという大きな革命後の世論に対し、レーニンが、これ等の優れた建築物はソ連の人民の力で造ったと言い、残すように説得しました。レニングラードと言う都市名はそこで付けられました。現在のミャンマーでは、軍事政権が圧倒的な力をもち、中国文化の影響下にあり、植民地時代の歴史文化の再評価ができていないためと思われます。

「宗教はアヘンだ」
ミャンマーにはたくさんのパゴダがあります。今回はその中心的なパゴダ(シュエダゴンパゴダ)の豪華さとミャンマー人の宝が詰め込まれている様子を見て驚かされました。聖書の中でキリストが、「我に付き従おうとするものは、そのもてる財産を貧しい人たちに分け与えなさい。そうすれば、その財産は天国に積まれ、その人の心も天国に向かいます。そのとき、その人は私についてこられる。」と言ったと同じ宗教の考え方が、ミャンマーのパゴダで見られました。ミャンマーの人たちは指輪や、宝石や貴金属などの財宝が驚くほどたくさんパゴダに積まれ、ミャンマー人の心が仏を祀る所にあることが解かりました。
ロシア革命を指導し革命の実現の指揮をとったレーニンは「宗教はアヘンだ」と述べています。時代を変革しようとするレーニンのロシア革命に対し、ロシアの民衆は ロマノフ王朝の政治に対する失望を、ロシア正教に救いを求めることで自ら社会問題解決に取り組みませんでした。そのロシア国民を見て「社会意識を麻痺させようと宗教に逃げてしまう」逃げ道を「アヘン」と指摘しました。宗教事態を非難した言葉ではなかったのですが誤解されて伝えられてきました。ミャンマー人民の巨万の富の宝石の巨大展示施設のようになっているパゴダを見て、レーニンの言葉を思い出すことになりました。長い軍事政権の中での国民の絶望が、巨大なパゴダに逃げる国家にしてしまったように思われました。軍事政権もまた国民の反政府的なエネルギーを宗教にすり替えたように感じさせられました。

ビルマの竪琴
ビルマの竪琴は、日本人墓地に出掛けたときその主人公をモデルにした水島上等兵の兵士の墓を見ることで、オウムが「おーい、水島、一緒に帰ろう よ」と言った言葉を思い出しました。日本人墓地はきれいに整備され管理され、多くの関係者が当地を訪れていることが分かりました。一緒にツアー に行かれた人の中にビルマ戦線で祖父を亡くした人で日本軍関係者もいて、祖先の霊を慰めておられました。多くの日本人は親たちから戦争の話を聞いて、改めて当時の兵士が味わった苦しい辛酸をなめさせられた話を思い出して、その霊を弔われたと思います。バスの中では、当時日本軍が惨めな状態に陥っていた話を参加者に披露していました。どの話を聞いても、本当に残酷な環境で戦争を強いられていた様子が伝えられ、やりきれない気持ちがしました。
私は、それらの戦争犠牲者の親族が、なぜ、当時の軍指導者や日本軍の作戦を行った指揮官の無責任、ひいては大本営に対して怒りを持たないか不思議に 思いました。これらの兵士は戦争の犠牲者でありながら、自ら生きるために、加害者となって多くの地元住民を犠牲にした事実もあったと思います。その加害者の行動をとらされた命令権者や、命令をしなくても兵士をそのような残虐行為を行わせる立場に追いやった日本軍の戦争責任と、結果的に戦争犯罪の加害者となった行動は消すことはできません。

第2次世界大戦の総括
ビルマの人たちが食糧を持たない日本軍からの被害を受け、それを恐れて逃げまどった事実が、東京裁判(B・C級裁判)記録を、私の娘がオックスフォード大学出版の英文原著の本人翻訳『不確かな正義』(岩波書店)と、この書は3年前同じく東京裁判(A級裁判)裁判記録をハーバード大学出版の英文原著を本人翻訳『東京裁判』(みすず書房)と一対になる研究です。私は裁判記録研究を読んで、日本軍人を告発した現地人の告発を、日本人はもっと知らなければいけないと思いました。東京裁判はサンフランシスコ平和条約の前提となっている国際的な共通認識です。私達の戦後社会の出発の原点です。
東京裁判の内容を知らない世代が、「戦勝国による戦敗国の裁判」という言葉だけを持ち出して、日本は犠牲者と感じて怒っているようです。そして原爆投下を持ち出すことで「喧嘩両成敗」で日本の戦争責任は相殺されるべきという気持ちになっているのです。米軍による原爆投下の犯罪は大いに問題にしたら良いし、そのために誰が原告になり、誰を被告として、どのような裁判を、何処の裁判所に起こすのかを考え、責任追及を検討したらよいと思います。その訴訟を提訴することに日本政府は原告になり、支援してくれるでしょうか。それが実施できたとしても日本の大本営が戦争を仕掛けた国や、戦争の行なわれた国、さらに、また戦争に出掛けた軍人たちに与えた苦しみは、少しも減殺されません。日本人墓地を訪問する機会をもったことはいろいろな意味で大切だと思いました。

レンガ工場と40年前のインドネシア
最後に1日はレンガ工場を2か所回ることでバス旅行でしたが、地方の農村を見学できて、昔インドネシアでバタコ(コンクリートブロック)工場に何度か出掛けたことを思い出しました。私にはインドネシアの農村風景を見ている気持になっていました。レンガ建築は最も単純作業で建築物を造ることができ、現在のミャンマーにとって最も利用できる建材だと思います。但し、日本で利用するには製品精度の問題でかなり難しい感じがしました。
取り敢えず旅行報告をすることにしました。



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