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HICPMメールマガジン第662号(2016.05.02)

掲載日2016 年 5 月 2 日

HICPMメールマガジン第662号(2016.05,02)
皆さんこんにちゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。

西洋美術館のカラバッジョの絵画展
私はできるだけ居間でないとできないことをと考えて出かけています。だいぶ前からメディアや街頭の絵画展のことが広報されていたカラバッジョの展示会が西洋美術館で開かれていますので、出かけてきました。日本ではあまり知られていなかったカラバッジョが近年一挙にブレークしたようで、カラバッジョに関する書籍や画集も沢山出ています。その影響を受けた画家が世界中には驚くほどたくさんいたということにも驚かされました。しかし、カラバッジョは短気で直情的で、人を殺め、凶悪殺人犯として司直に追われながら立派な絵画の仕事をしたという精神力というか絵画に関する情熱はやはり人並みで無かったと思います。イタリアでは、紙幣にも肖像画が印刷されているほど国民的な支持も与えられた芸術家ということも驚きでした。

西洋社会における絵画の果たした役割
私は絵画を画く学生時代絵画の授業を毎週1回、1年間事業を受けましたが、そのときは絵画を思想と考えず、技巧と考え、技術的にしか見ようとせず、力もなく監視を失い、絵画鑑賞能力もそだちませんでした。しかし、その後、これまで多くの絵画を見ることで、古代から現代まで、絵画は音楽や文学などと同じように国民の心に取り組むべき内在的な動機付けをしたことに驚かされています。特にルネサンス時代には、画家が中世都市の政治にも大きな役割を果たしていました。絵画や音楽がこれまでの歴史の中で人を動かしてきたということは、その人に自発的に取り組むべき運動に、「行動の機付け」を与えるということでした。その中には政治思想といったものもあると思いますし、正義や、道義といった内省的なモラルもあると思います。カラバッジョの絵画は人間の内面的なものを、絵画に取り上げられた人物を通して非常にリアルに表現し、見る人々の心をわしづかみしていると思いました。

人びとに大きな動機付けを与えた文化
大きな仕事をしてきた人たちは、その人本人が何かに衝き動かされて、仕事や社会運動や芸術運動をすることになったと思います。人びとを突き動かした「何か」というものが多種多様で、一口にいうことは難しいと思います。しかし、西欧の歴史を街造りとの関係で見てみると、偉大な事業を行った人たちは共通して、それらの優れた行動を行った理由を考えてみると、そこには「人間の幸福」というような「社会性のある行動に走らせる動機付け」が共通してあったのではないかと思います。それが、歴史的には、文化運動という形を取って表れるため、絵画、彫刻、音楽、思想、政治という所にそれらが現象として現れてくるように思えます。その中で「5感に訴えるもの」が社会的な影響力が大きく、特に14―15世紀の西欧におけるルネサンスや、19世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動の文化は、その象徴的な運動として展開されたと思います。「人間を尊重しよう」ということは、「合理主義を尊重しよう」ということで、それが「科学技術の発展」と「近代文明を発展」させたと思います。その方向付けをしたのがルネサンス絵画ではなかったかといえると思います。

「気が付く変化」と「見落とす変化」と「見ている対象その物」
文化も自然も過去と変わったとき人びとが問題にします。最近の社会は経済環境の変化を反映して大きく変わってきていますが、それを自分の生活という個人の生活との関係で見ると、ほとんど変化していません。しかし、少し時間を置いてみると驚くほど変化していることに気付かされます。
連休に出かけた「館林のつつじ」公園は、今年は早く暖かくなったため、「見頃」に出かけた筈が、「花は終わった花」を見ることになっていました。見学者は、花の終わったつつじ園を、驚くほど「変わった」(期待を裏切られた)という目で景色を見せられたわけですが、つつじにしてみたら、例年と同じに咲いているだけで、それを「善し、悪し」で見られたくないということだと思いました。
自然の変化を画家たちはどのような目で見るのだろうか、セザンヌはありのままを見ようとし、差別的な視点で見ないと思います。私はそこで見ることができた景色と、見たいと思っていた景色の落差を見ることで、満開の景色をもう1年後に見ようと思ったり、後1年かけて例年のように美しい花を咲かせようと考える造園士ことを考えたりして、「花の終わったつつじ」に、何か違った「次の季節には同じような花を咲かせる」という希望のようなものを感じました。私自身ベランダでたくさんの植物を育てていて、毎年のように花を咲かせ、身をならせてくれる木々を見て、花が終わり、実を収穫した後の植物に対して抱く感情を、今回、つつじ園の花の終わったつつじに思いを寄せて考えていました。花が豪華に咲いたときを見られなくても、豪華に咲いたということを感じることで、つつじという花を全体的に感じられたような気がしました。

訴えていることと、受け取られていること
カラバッチョの絵画に登場する物には、人物もあれば、動物も、植物もあります。美しいものもありますが、残酷なものもあります。美しいものはカラバッチョの美的感覚で、美しく描かれていますが、その絵画の中には醜いものや残虐なものも、時代や社会と共に変化していくものを人間の5感に訴えることを通して描かれていました。それを観賞する人自身が主体性をもって感じ、考えてもらおうとしているのが、「文化の面白さ」ではないかと思っています。
カラバッチョは自身が感じたことを絵画にしていますが、カラバッチョが意図したとおりに観賞者が見てくれるわけではありません。そのため、文化は訴える側の人の意図と同時に、それを受け取る人の置かれている条件とに依って、芸術家の意図が鑑賞者に伝わることもあれば、伝わらないこともあると思います。芸術家は自分の意図が伝わらないときは残念であろうと思いますが、それはどうにもできないことです。鑑賞する側のレセプターが正しく機能していないと発信者のメッセージは伝わりません。私はHICPM創設以来20年余、欧米の優れたものを日本へ技術移転するよう努力してきました。しかし、欧米の宝を欧米で重要な役割を果たしてきたことを欧米の常識というレセプターをもたない人にとっては、全く意味を持たないのです。

日本の常識、世界の常識
私は半世紀以上、住宅問題に関係し、私達が供給した住宅によって、住宅を取得した人たちが豊かになることということが、欧米の住宅問題に対する共通の考え方であると多くの住宅問題研究や住宅政策の目標とすると聞かされ、読まされてきたため、私自身は欧米の住宅政策の基本的考え方を正しいと確信してきました。そして、その目標に向けて、与えられた場で、住宅を取得した人が、それによって豊かな生活を送れるようにする住宅問題に取り組んできました。
それは米国では、住宅を取得することを「アメリカンドリーム」の実現として共通の理解をしています。米国では住宅を購入することを「住宅投資」と言い、住宅は他の投資と同じように資産価値が上昇することを期待して投資しています。そのため、住宅産業は、住宅を購入した人に期待した投資利益を約束できるようにする住宅地経営技術が開発され、それを実践することにより、住宅によるキャピタルゲインの経営を実現することに成るわけです。その経営の基本が、住宅市場における需要と供給の関係です。需要と供給の関係は、住宅のように高価なものにあっては、住宅を取得する上で、「等価交換取引と、等価交換金融がなければそれは実現しません。
米国では等価交換取引と等価交換金融を社会的に構成に行われるように取引データは社会的に公表されてきました。市場での取引が公正であるためには、その情報が公開されていなければなりません。米国では不動産取引データは過去に遡って公開されています。その情報の公平さが取引の公平さを保証しています。それが世界の常識です。日本ではそこに「プライバシー保護」という歪んだ理屈を持ち込んで、不正取引を隠蔽してきました。それが日本の常識です。

クラシックデザインでつくられた住宅のデザイン
不動産市場で取引される住宅のデザインは、需要と供給が均衡できるものであればよいと欧米では考えられています。大きな需要に対し大きな供給があり、小さな需要に対し小さな供給となりますが、それ自体は需要と供給関係を支える市場の性格で、大きな需要がある住宅デザインには、大きな供給が対応し、そこで需給関係のアンバランスが生まれる訳ではありません。小さな需要に対して小さな供給が対応しても、需給関係にアンバランスが生まれる訳ではありません。
需要と供給との関係が安定した対応間関係となる住宅のデザインをFHAが1934年にモーゲージの債務保証を行ったとき、FHAが債務保証を行う「クラシックデザイン」と言ったのです。クラシックデザインは、個人の住宅デザイン嗜好としてある普遍性をもった歴史の中で形成されたデザインを差し、多くの人たちが歴史の洗礼を経た「懐かしさを感じる」デザインの個性的なデザインを差し、流行のデザインや、人々が見飽きることのない「時代に耐えるデザイン」を差しています。
デザインは見る人の置かれた状態はその住宅の利用のされ方やライフスタイルによって、植物の観賞のように、植物の性格と常態によって鑑賞者の評価とマッチしないことがあります。クラシックデザインでつくられた住宅も、居住者の生活要求の変化により対応しないことは起こりうることで、その場合、既存住宅市場に放出されたとき、誰かが自分の住宅としたいと思ってくれるようなデザインと考えられてきました。
カラバッジョの絵画は多くの人がすばらしいと思い、自分のものにしたがります。高い需要があり、希少価値で価格は高騰していますが、絵画自体としては優れた特性を沢山持っているという絶対的評価で優れた絵画と評価されてきましたが、他の絵画との比較で相対評価として優劣を言うべきものではないと思います。このような見方が世界の芸術デザイン評価の常識で、違いを区別としてではなく、優劣と差別する日本の常識とは違います。
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)



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