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HICPM住宅・建築・都市講座(その1)

掲載日2016 年 6 月 13 日

NPO法人HICPM

第1講座.   昭和~平成に至る戦後日本の経済と住宅政策史

NPO法人住宅生産性研究会
理事長 戸谷英世

1.日本の経済復興史
(1)    住宅政策が生まれる前の話

現在の日本の住宅政策を理解するために、戦後70年の日本の住宅政策の歴史を知っておかなければならない。それは、日本政府が「住宅政策」と言って取り組んできたものがどのようなものであったかを理解するためである。第2次世界大戦は全世界を巻き込んで多くの都市を灰燼に帰すほどの大きな戦災を経験し、かつ、世界経済自体が非常に疲弊した状態から戦後の住宅問題が始まり、それに対処してそれぞれの国が住宅政策に取り組んできた。戦後の住宅政策の出発点が同じような状態からであったため、その後の住宅政策が同じであったわけではない。

(2)    英国をモデルにしようとした日本
日本の戦後は戦災から独自の足で立ちあがったわけではなかった。日本は終戦に先立って英国の戦後住宅政策の情報を入手し、官僚たちは戦後の住宅政策は戦前の世界で最も力の強かった国、英国に倣おうとした。英国は植民地を失い、労働党が政権を手にし、国家は社会福祉国家を目指すことを明らかにしていた。日本は英国をモデルにしようと考えたが、朝鮮戦争が勃発し、占領軍すら予期しなかった事態に直面し、戦後政策は全く予想しなかった方向に展開することになった。それは、日本国が朝鮮戦争を戦う米国によって、米国の兵站基地にさせられたことである。

(3)    朝鮮戦争の勃発・サンフランシスコ平和条約の締結
日本国内では戦争が起きたわけではなかった。隣国、朝鮮で米ソの間で戦争が行われた。米国が朝鮮戦争を戦い抜くためにはその軍事物資の供給をする兵站基地が必要とされ、その条件は軍需物資の生産を計画通りに行う軍需物資生産能力がなければならない。日本には軍需産業資本である財閥があり、軍需物資生産を担える軍需産業労働者に満ち溢れていた。連合軍による占領支配に先立って、日本は戦争を放棄することと、国内秩序を維持するために天皇制を存続させることが基本として決められ、それに基づき日本国憲法が制定された。日本国憲法の制定が政治的に日本の国に一定の枠組みを設定した。日本国憲法の制定を見て、日本の戦争責任が東京裁判で裁かれ、その結果を受けて日本国が国際社会に復帰するサンフランシスコ講和条約の制定となる。そこで占領政策は終了した。

(4)    日米安全保障条約の締結・対米従属関係の始まり
日本国憲法は戦後の日本の政治を方向付ける最初の礎となるもので、それを軽軽に変更することは許されないとされていた。しかし、その直後、朝鮮戦争が勃発し、それは米ソ対立の熱戦として日本にとって猶予できない重大な事件であり、日本は米と対立という国際的枠組みの中で、米国に従属する形で政治を取ることを余儀なくされた。それがサンフランシスコ条約の締結日に日米安全保障条約が締結され、事実上日本は米国による占領支配を受け容れることになった。そこで、日本の戦後復興は、米軍の兵站基地として軍事的復興をすることになった。

(5)米軍の兵站基地としての日本の経済復興と日米安全保障条約の改正
日本の経済復興は米軍の兵站基地として軍需産業復興により実現し、日米安全保障条約による日米同盟は、日米の経済負担を対等に行う方向で行われた。その政策が自由化(貿易、関税、為替)政策であり、米国の2大産業の要請である石油の輸入と農産品の自由化を受け容れるため、日本は炭砿の閉山と石油の輸入を行うとともに食糧自給の政治を放棄させられ、農業構造改善事業を実施することになった。

(5)    所得倍増計画、全国総合開発計画、高度経済政策(10年間、10%以上)
日米対等の経済負担を求められた日米安全保障条約の改正は、安価な石油輸入があられ、政府はガソリン税集という税源を確保し、それが前項総合開発計画を進めることになった。また炭砿と農業の経済構造改革は大量の失業者を生み出したが、それが日本の軍需産業の復興を目指した工業生産に安価な労働力を長期に供給することができ、平和産業基盤を拡大した。(10年間10%以上の経済成長)そして、生産性の低い農業を建設業に構造変革させ、列島改造を進める産業に変質させた。都市政策大綱、列島改造論の原動力となる。

(6)    住宅建設計画法の時代「プラザ合意」「輸入住宅」「バブル経済」「バブル崩壊」
ベトナム戦争の終焉により日本が米軍の兵站基地としての性格に基本的な変化が生まれた。それは軍需産業のための労働者住宅供給の必要性がなくなり、社宅(産業労働者用住宅及び特定分譲住宅)および軍需産業の下請け、関連産業向け住宅供給として政府施策住宅の供給義務がなくなり、代わって政府が育成してきた住宅産業のために需要を保証する政策が求められた。
それが居住水準と住宅金融公庫中心の住宅政策であった。

(7)    住生活基本法の時代「聖域なき構造改革」と「都市再生事業」
バブル経済の崩壊は、政府施策住宅の3つの担い手であった公営住宅、公団住宅、公庫住宅の屋台骨を崩壊させ、住宅金融公庫、都市整備公団の廃止を余儀なくさせ、住宅建設計画法に変って住生活基本法が作られ、民間主導の住宅政策になった。しかし、バブル崩壊によって通常ならば破綻するはずの企業が粉飾経理により活かされたが、その経営は不良債権で厳しく、その救済をしなければ国債の破綻に向かう危険があった。そこで江戸時代の徳政令に相当する強行された。「聖域なき構造改革」であった。

2.日本の住宅政策史
(1)    炭鉱労働者住宅

連合軍がフィリッピンから、日本上陸前の敗戦国家に対する指示として、連合軍総司令(フィリッピン)から日本の戦災復興のための国産エネルギーの復興再建に向けて指示を行った。日本政府は、連合軍の指示を受け、建設省住宅局は、炭砿住宅課を設立し、炭砿住宅(新築築5万戸、改修7万戸)の予算を計上するとともに、炭砿に働く在日朝鮮人の取り扱いに関し、「戦勝国民と扱わず、戦敗国民として扱う」ことの占領下の命令を通達し、日本政府は朝鮮人の帰国を行わせないことを決定した。

(2)    旧軍需産業復興目的のために住宅金融公庫を設立
1946年日本国憲法が発布され、第2章「戦争の放棄」に対応し、陸軍おい帯海軍の軍隊の解体と併せて軍需産業資本(財閥)の解体を決定した。しかし、朝鮮戦争の勃発に伴う日本の米軍兵站基地化と旧軍需産業の復興を図るため、旧軍需産業向け労働者住宅(社宅)を建設するため、1950年、住宅金融公庫の設立し、一般会計ではなく財政投融資を使って、産業労働者向け住宅(社宅)という予算枠での建設資金融資を開始した。社宅は社会住宅ではなく、軍事物資生産用の労働力確保のための労働者住宅の供給であった。

(3)    旧内務省の調査と建設省による公営住宅制度
1951年公営住宅法の制定:英国労働党が戦災復興社会福祉政策として始めた住宅政策に倣った建設省技官たちが準備した公営住宅制度は、連合軍の日本を兵站基地とする旧軍需産業の復興を目的とした住宅金融公庫の新憲法に矛盾した政策が突出しないために創設が認められた。公営住宅制度は、占領下の日本で新憲法による住宅政策が行われているとする占領軍の社会福祉的観点を強調した占領政策で、住宅金融公庫による産業政策と均衡を取る形で以下の制度の内容の公営住宅制度の創設が認められた。

1.日本国憲法(1946年)、主権在民・議員立法、

2.事業主体:地方自治(日本国憲法第18章)・地方公共団体による住宅経営、

3.社会住宅(1):公営住宅法:建設費補助(補助率1/2,2/3)、元利均等償還(建設費-国庫補助金)、
建築構造材料の如何に拘わらず、「同一規模、同一家賃」の実施(現在の欧州各国で行われている「社会住宅の基本的思想)の導入...償還期間の操作:木造20年、簡平35年、簡二45年、RC70年
公営住宅法による家賃の「減価償却」理論は地方負担分を家賃として償却期間で回収するというもので、償却期間は、建築構造の物理的耐用年数を問題にするものではない。

4.社会住宅(2):シュワーベの家賃負担(適正15%、上限月収の20%)
ドイツ人統計学者シュワーベが、「住宅費負担能力は所得が高くなるほど高くなる」という原理を発見した。このシュワーベの法則は欧米の住宅政策の基本となっており、日本では、日本の実情に合わせた検討を行った結果、公営住宅階層の家賃負担限度を所得の20%と住宅政策的に定めた。(「エンゲル係数」(家計支出の中の食費の割合)を逆から見た考え方)

5.リースホールドによる住宅地経営(土地と住宅一体の不動産)

創設当時の公営住宅制度は、「英国の公営住宅制度」に倣うことで、家賃の決定制度こそ、その基本として、英国の公営住宅の社会住宅としての家賃が取り入れられた。英国の公営住宅はエベネザー・ハワードの「ガーデンシティ」の考え方を全面的に踏襲したものであった。

6.1959年公営住宅法の改正
東京都の局長が公営住宅に低家賃で入居していたことが週刊誌で取り上げられ、新憲法第14条(平等の原則)に違反するとして公営住宅制度の見直しが国会で取り上げられた。そこでその例を英国の公営住宅制度に倣うことにした。英国においては、「居住権は国民の基本的人権」と考えられているため、居住を認めながら適正な家賃負担を行うような制度「レントリベート」(所得に見合った家賃)が実施されていた。

(内閣法制局の公営住宅の居住権に対する考え方)
しかし、日本では、内閣法制局は英国の考え方を、日本の公営住宅制度には受け容れられない、と主張した。その結果、公営住宅で定められた法定家賃を超えて居住し続けることは「違反者」であることを明確にし、その違反者には「懲罰的な家賃を科す」という論理でないと受け容れられないと主張して譲らなかった。
そこで、建設省住宅局は、公営住宅では以下の2点を軸とした家賃に変更された「割り増し家賃制度」となった。この時点で「減価償却」論の償却期間を建築材料の耐用年数と説明され始めるようになった。(私が入省した1962年当時、償却期間を耐用年数と説明し始めていた。)

(1).英国の公営住宅家賃:居住者の居住の権利を認め、収入に見合った家賃負担の家賃制度(レントリベート)制度の公営住宅への導入を、日本では内閣法制局の反対で収入制限入居者に罰則として「割増賃料」を科した、
(2).民法に沿った土地と建物の分離、「減価償却論の質的変更」:土地は減価償却しないので「地代相当額」とし、住宅は減価償却するとして「減価償却家賃」とした。

7.軍需産業労働者向け住宅(法人供給住宅)
(1)1950年朝鮮戦争が勃発したとき
既に1946年日本国憲法は発布されていたが、朝鮮人民共和国とソ連が一体となって38度線を越えて南下し、朝鮮半島全体を一挙に制圧する勢いでもあったため、その緊急対応として米軍の兵站基地として日本が機能させられることになった。

(2)1952年サンフランシスコ平和条約が締結されたとき
日本は独立国になったが、その会議にはソ連は参加しておらず、日本にとっては自由主義陣営の中で独立が認められた状態で、ソ連とは敵対的関係が継続していた。米国は日本に対する連合軍の占領政策を維持するため、サンフランシスコ条約で独立した日本に占領軍を留置できないので、それを事実上占領し続ける方法として、日米安全保障条約(日米同盟)を締結した。

(3)1952年日米安全保障条約が締結されたとき
サンフランシスコ平和条約締結日の平和条約締結後、サンフランシスコ平和条約調印式に参加した日本政府の中で吉田茂首相が単独で署名に参加した日本国憲法と矛盾した秘密条約であった。日米安全保障条約は、対米従属的な条約で、日本は国家を挙げて旧軍需産業の復興をする米軍の兵站基地となる日米地位協定で米軍の軍事活動に関しては、主権を米国に奪われる片務的な関係の協定が結ばれた。
そのため、沖縄、横須賀、岩国など米軍駐留市域では不平等な差別犯罪を容認せざるを得なかった。そのような兵站基地としての機能は、日本の国家全体としての対応が必要となった。

(4)米軍の兵站基地機能の整備
米軍の兵站基地整備は、旧軍需産業だけではなく下請け産業、関連産業等日本の産業全体に及び、そこで働く労働者は国民全体が関係したため、政府施策住宅そのものが米軍の兵站基地対策になっていた。米粉の兵站基地のための住宅政策は日米安全保障条約を根拠に政府施策住宅の予算額とその配分を大蔵省が責任をもって建設省予算を日米安全保障条約に基づく政策と費用分担を行うこととして監督することになっていた。

(5)社宅:産業労働者向け住宅(公庫)、特定分譲住宅(公団)
政府施策住宅(社宅に入居できない下請け産業、関連産業、兵站基地を支える一般社会住宅)
新産業都市、工業特別整備地区…日米安全保障条約を背景にした日本の財政負担:大蔵省の監督
公営住宅、公団住宅、公社住宅を3本柱とする政府施策住宅は、米軍の兵站基地を維持するための住宅政策と言い換えることもできる。

8.日本住宅公団法の制定
鳩山内閣の住宅政策

(1)    1955年鳩山内閣は住宅政策を政策に掲げ、日本住宅公団法を制定させた。
日本住宅公団法は米軍の兵站基地として分樹産業を増強するため新産業都市及び工業正義特別地域を充実させるため高度化した分樹産業の労働者住宅(特定分譲住宅)の強化を図るとともに、公営住宅が地方自自の問題で憲法違反に疑義を生んでいたことに対処するため、地方公共団体の行政強化(地方自治の範囲)を超えた住宅供給に取り組んだ。
それは日本国憲法第18章地方自治制度との整合性と考えられた「常住地と就業地の不対応が問題」の矛盾が顕在化し、その解決が迫られた。

(2)大都市圏単位の広域住宅供給
旧軍需産業がその生産を拡大するにつれ、そこでの雇用機会は拡大した。そのため、高い資本集積が進んだ東京都内の産業に雇用機会を求めて遠距離通勤する労働者が東京周辺の県から東京都への流入が増大した。
その結果、地価の安い東京都の周辺県では公営住宅建設は円滑に行われたが、東京都では公営住宅の建設は非常に困難になった。東京の周辺県では東京都への従属を問題にした。
公営住宅は、その立法当時、日本国憲法第18章に新設さられた地方自治を実現する民主国家の建設を思い描き、英国の地方自治に立った住宅政策を実施するために公営住宅制度を創設した。しかし、公営住宅は立法の精神と違った経営を余儀なくされているとして、東京都の経済活動の支援としての公営住宅の建設は適当ではないと、「常住地が就業地と違う住宅需要者には公営住宅入居を認められない」という公営住宅政策を採り、公営住宅の応募制限を実施する県が新憲法違反を理由に登場した。

(3)日本住宅公団の組織
その結果、都道府県の枠を超えた広域産業圏に対応した住宅供給体制を創設する必要が産業政策から求められ、日本住宅公団が創設された。日本住宅公団には、4大都市圏支所が、やがて全国に6支社(北海道支社、関東支社、東京支社、関西支社、中部支社、北九州支社、)を対象に創設された。
日本住宅公団は産業用住宅として特定分譲住宅(社宅)と公営住宅が対応できなかった大都市圏の賃貸住宅として一般賃貸住宅を供給した。やがて分譲住宅も供給することになった。特定分譲住宅は住宅金融公庫の産業労働者住宅同様、産業政策としての空宅供給であって、社会住宅ではない。

9.1960年、住宅地区改良法
日米安全保障条約の改正
(1)日米の経済負担の対等化

1950年に締結された日米安全保障条約によって、日本の旧軍需産業は復興した。1960年日米安全保障条約の改正はそれまでの日米同盟の中で、米国は極東軍事戦略の実施によって巨額の軍事費用を支出し、それが日本軍需の産業を成長させた。
やがて、自動者及び船舶を主体とした軍需産業は、平和産業をも拡大させ、日本の高度経済成長を果たしていた。米国内では米国民の税金で日本経済が復興し、日本産業が強大になることに対し大きな反発があり、日本に極東の安全のために日本政府が経済的に対等の負担をするべきであるという与論が高まった。その世論が日米安全保障条約改定の大きな要求であった。

(2)政治的不平等協定の改正
一方、日本では、経済的には豊かになったが、政治的従属性が矛盾を激化させていた。基地における米軍兵士による暴行犯罪に対し、日本には犯罪者を裁く権利がなく、刑事犯罪者の帰国を許す従属的な立場に立たされていた。国民の不満を解消することに対する要求は受忍の限界を超えていた。
そこで、その基本的な日米経済関係として自由化(関税、為替、貿易)政策とすることで経済的に対等の関係にすることの見返りに、政治的不平等を解消するため、日米地位協定を改正し、米軍に対する治外法権の不平等協定の改正が求められた。

(3)基本となった米国の期間産業要求の受け入れ
その自由化(関税、為替、貿易)を象徴する政策として、米国が求めていたものは、米国の基幹産業である石油と農業の2部門に対する次の2つの政策であった。
1.    日本の国産エネルギーである炭鉱を併産し、米国の石油を輸入する
2.    日本の自給農業を解体して、大農業国米国の農産物を輸入する。
上記2政策で、日米価格差を日本政府はガソリン税及び農産物輸入関税として徴収し、政府の自由化政策実施財源(道路建設事業財源及び農業構造改善事業財源)とした。

10.1965年地方住宅供給公社法
全国的に経済開発が全国総合開発計画という国土全域をカバーする道路網整備を基軸とする総合開発計画が作成され、広域的に進むにつれ、それに対応した市町村の枠を超えて都道府県単位での宅地開発需要が拡大した。政府はそれらの事業を一般軽軽予算ではなく、財政投融資を使って実施することにした。その事業主体として地方住宅供給公社を、全国都道府県を単位に設立した。

11.米軍の軍需産業支援住宅政策の転換(第3期5箇年計画:住宅建設計画法)
1976年ベトナム戦争終息による兵站基地機能のうち軍需産業支援住宅供給機能が中止された。
ベトナム戦争が収束し、日本の軍需産業需要が収束し、軍需産業用社宅と政府施策住宅の基本需要が消滅した。政府は、「量から質へ」(「軍需産業向け住宅」(法人供給)から住宅産業向け住宅)

(1)    既存の住宅建設可能土地利用住宅の促進策
建て替え事業による住宅供給を促進した。2世帯住宅、3世代住宅、建て替え住宅政策として、減価償却論による木造住宅の取り壊しを促進し、その後に政府が進めた「住宅生産工業化」政策で育成したプレハブ住宅を供給した。

(2)    住宅産業需要を拡大策(最低居住水準、平均居住水準、誘導居住水準)
住宅供給する床面積の拡大し、住宅産業の業務範囲(すそ野産業)を拡大し、国民の住生活に関する欲望を拡大し、住宅部品の工業生産課を促進し、住宅設備、家具・什器等の家財道具の収容力の拡大した住宅を供給する。

(3)    住宅産業の体質変化(建設業から建設サービス業へ)
住宅産業を建設業から建設サービス業へその経営を転化することで、利潤追求を主体とする産業にすることにし、独占価格(販売サービス経費の欺罔の正当化)販売を毀損の建設業法に違反して行うことを容認した。

(4)    住宅金融公庫の融資条件の変更(販売価格:欧米の2倍、融資期間:欧米の2倍)
国民の住宅購入能力は、直接的には住宅金融である。政府はハウスメーカーが設定した不等価交換販売による建設業法違反の独占販売価格を全面的に承認した住宅価格を住宅金融公庫の融資価格として実施する以下のような年収の6-8倍を超える以下のような不等価交換金融を住宅金融公庫に行わせることでハウスメーカーの住宅販売を幇助した。
融資返済期間:超長期(35年)ローン、巨額担保(融資額の3倍)独占価格の正当化
融資返済条件:原理均等償還による所期の返済額が縮小し、返済額を綱紀の持ち越す融資
融資  担保:融資対象住宅及び融資対象住宅の土地、並びに、住宅ローン借受人の融資対象額と同額以上の死亡払戻金額以上の生命保険(団体信用保険)

12.    住宅建設計画法から住生活基本(日本経済のバブル崩壊による政府施策住宅の崩壊))
2006年、政府施策住宅が破綻し、公営住宅、公庫住宅、公団住宅と言う政府施策住宅は、政府の財政破たんにより継続することは不可能になり、代わって民間の住宅産業が主体となった住生活基本法が制定されたが、政府は、許認可権限を行使して民間に対する住宅政策を指導行政により推進している。その資金源としては旧住宅金融公庫の組織替えを行って米国のFHAとファニーメイ(FNMA)を合わせた機能の組織を作り、住宅ローン債権を住宅ローン証券化(MBS)して、それを民間金融市場に売却して、民間金融市場から資金を回収している。

(1)「差別化」政策:長期優良住宅、瑕疵担保履行法(民間産業中心の政策)
住生活基本法による住宅政策は、基本的に「差別化による住宅政策であった。「差別化」とは住宅の提供する住宅の効用(使用価値)、それは住宅及び住宅地のデザイン(意匠)、ファンクション(機能)、パフォーマンス(性能)の違いを、住宅の経済的な優劣であると差別することで、憲法第13条違反で禁止されていることである。
政府はその住宅政策において、住宅業者はサービス業であるから住宅の提供する効用(使用価値)を住宅価格の代償として営業宣伝を行い、それに要した費用を住宅の価格として回収することを認める「差別化」政策を実施した。それが長期優良住宅であり、住宅瑕疵担保履行政策である。

(2)「聖域なき構造改革」政策による都市再生事業(「デフレスパイラル」からの脱出)
バブル経済後の不良債権処理を巡って日本は税収の激減と財政維持のため国債依存を高めた。小泉・竹中内閣の時代に国債残高は700兆円に迫る状況に膨張し、国債償還財癌が不足したため赤字国債発行を拡大した。国際は基本的に財政で返済せざるを得ない。政府は国民の預貯金と保険資金を財政投融資で運用する権限を利用して、国債の運用という口実で国債の買い付けに充ててきたが、国債を国民の債務に転嫁できるわけではなく、国債を肥大化させることになった。そこで小泉・竹中内閣が採った政策は「聖域なき構造改革」という憲法違反(拡大解釈)による都市再生事業という徳政令であった。この政策で「聖域」とは、国民の権利と利害の境界を国民総意の合意によって決定した全ての国民が遵守することを義務付けられている日本国憲法である。この日本国憲法の改正は戦後の日本国憲法と日米安全保障条約の矛盾を巡って国民合意ができ御ない状態が続いているため、日本での憲法改正は不可能になっている。そのため、政府は憲法の拡大解釈により事実上の憲法改正を行ってきた。「統治行為論」と言われる理屈である。「聖域なき構造改革」として実施された事業が、都市再生事業である。都市再生事業は、一種の贋金づくりによる徳政令で、不良債権を抱えた企業債務は棒引きされたが、その結果、住宅・建築・都市政策は矛盾を構成に転嫁した。

(3)都市再生事業を含む現在の日本の住宅政策
現在の日本の住宅政策の近未来展望を以下4点でその主要点を指摘する・
1.独占住宅価格販売による国民の資産半減現象
デフレスパイラル「赤字国債拡大国家財政」下における日本の住宅政策

2.国民所得の低下に伴う住居費負担と住宅融資制度の問題の顕在化
新規住宅販売価格を年収の3倍以下にしないと国民の住宅ローン返済が破綻

3.日本がモデルにする米国の住宅政策とはどのようなものか
日本政府が「米国モデル」と説明している虚偽(実際の米国の住宅政策と違う)の米国住宅政策

4.国民の住宅、MBS(政府保証住宅証券)破綻による住宅政策の大転換
日本で住宅ローン破産が発生したとき、MBSは住宅の価値で相殺されないので、政府の信用保証となる。金融処理は赤字国債を抱えた政府はすることができない。



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