住宅政策と住宅産業史

HICPM住宅・建築・都市講座(その2)米国・カナダの2×4工法と日本の枠組み壁工

掲載日2016 年 6 月 13 日

米国とカナダの2×4工法と日本の枠組み壁工法

はじめに
わが国の住宅産業は1960年代に始まった住宅生産近代化政策として始めはプレハブ住宅政策によって、基本的に大工・工務店による伝統的な建築業による生産体制を破壊し、約半世紀かけて、現代見るとおりのプラモデルの組み立てと基本的に同じように、住宅をハウスメーカーごと、プレカット企業ごと、住宅パネル供給業者ごと、又は、住宅設備システムごとに、単能工が材料に振り付けられた番号を揃えて組みたてることを「住宅生産」と呼ぶような生産システムに変化してきた。
ここで登場する単能工は、大工や左官のような伝統的な建設技能者とは全く違い、プラモデルの組み立てをする専門技能を持たない労務者で、新築住宅の組み立てに使うことができても、住宅施工全体の技術・技能を有せず、既存住宅の修繕や増改築をする能力を持たない低賃金で使える「使い捨て労働力」である。これらの労務者がいても既存住宅を健全に維持管理・増改築や修繕を担うことはできない。政府は半世紀かけて、住宅生産の近代化と言って、日本の伝統的な住宅生産を破壊し、新築住宅をスクラップ・アンド・ビルドすることでGDPを高める経済政策として住宅産業を利用してきた。
米国やカナダはもとより、そこから2×4工法を取り入れたヨーロッパ諸国では、住宅を購入することで住宅購入者が資産形成のできている国を作っている。それらの国では高い建設技能を持ち、高い賃金を得る技能者が2×4工法の住宅を建設し、リモデリングし、ストックとしての住宅資産の居住者のニーズに合うように維持管理リモデリングし、住宅の価値を高めている。
1970年代に政府が進める住宅生産工業化政策のモデルとされた米国の政府(HUD住宅都市開発省)が進めるOBT(オペレーション・ブレーク・スルー)を学びに米国に出掛けた日本の住宅産業人が、NAHB・IBS(全米ホームビルダー協会のインターナショナル・ビルダーズ・ショー)に参加したとき現地で見学したホームビルダーによる2×4工法の現場生産を見学し、その生産性の高さ、職人の高賃金、住宅取得者が2×4工法住宅で資産形成を実現している様子を見て驚き、米国から3人の大工を招いて、延べ面積100㎡の2×4工法の小僧躯体の公開施工工事を行ったところ、72マン・アワーで施工したことで日本の住宅産業界はもとより5大紙の記者を釘付けにした。
1985年プラザ合意後、政府が進めた輸入住宅により。カナダとアメリカから多数のホームビルダーやカーペンターが来日し、日本の大工と競争して2×4工法住宅の建て上げを行ったが、その施工速度は約3倍もの違いがあった。当初は住宅のコストカットを実現しなければということで、米国やカナダに学ぼうという姿勢もあったが、その後、日本がバブル経済に入り、輸入住宅は「洋風デザインは格好がいいから高く売れる」ことで、住宅の生産性に対する関心から、金儲けへの関心にすり替わり、建設業経営本来の建設業者の業務を放棄し、高額販売で利益を上げることで生産性向上への関心は消滅した。
現在、消費者の購買力の低落が明らかになって、現在の住宅生産価格の切り下げをしない限り住宅産業が成り立たなくなっている。それにもかかわらず、建設業経営改善方策が分からず、現在の高価格販売をする限り、工務店の職人も住宅産業に留まることができない状態に追い詰められている。
1970年に2×4工法が日本でオープンされた当時、米国やカナダの住宅が現在同様、同じ設計図書の住宅が日本の半額で供給されながら、職人は現在同様、日本の何倍も高い賃金を得ていた。その実態を見て米国カナダの2×4工法に学ぼうとした。日本の現在の2×4工法は北米の2×4工法と似て非なるものである。日本の住宅産業は北米の2×4工法の原点に立ち返る必要がある。

第1.2×4工法の歴史
日本の住宅産業との関係で2×4工法の歴史をたどることにする。
1.    シカゴ工法:
ウイリアム・オグデンのシカゴ都市開発
英国やヨーロッパから米国に移住してきた人たちは、柱と梁を「ほぞ差し込み栓」で組み立てるアングロサクソンの伝統的木構造「船大工の技術によるポスト・アンド・ビーム構造」であった。この構造は非常に強い構造耐力を有していたが、その部材の加工組み立てには、多大の技能力と長時間労働を必要としていた。そのため、工期短縮とコスト削減のための改良が強く求められていた。19世紀に入り米国西部(カリフォルニア、サウスダコタ、コロラド、アラスカ、カナダBC州)での金の発見でゴールドラッシュが生まれ、西部開拓と米国中西部で畜産と小麦とジャガイモの生産が拡大し、それらの農産物を全米に輸送し、西海岸から材木を米国中東部に輸送するため大陸横断鉄道が敷設された。その交易の中心地としてシカゴが開発され始めていた。
19世紀に入り、シカゴは産業革命と鉄道を利用した交易の中心都市となろうとしていた。その後シカゴの市長になったウイリアム・オグデンはシカゴの将来の発展を確実なものにするためには交易を担う鉄道関係労働者が住むことのできる住宅を大量に建設することが必要であると判断した。
大量の住宅を短期間に建設するためには、材料の運搬加工を考えると木材になさる材料はない。アングロ・サクソンはバイキングの末裔で、船大工の子孫である。そしてチュウダ~時代末期のエリザベス時代にはローマ法王庁との関係が崩れ、英国内でハーフティンバー回帰の風潮が高まり、木造建築全盛時代を経験していた。新大陸に渡った英国人は盛んに木造建築をハーフティンバー工法で建設した。ポスト・アンド・ビームとも呼ばれる軸組み構造である。

「シカゴ工法」という「バルーン工法」
ローラ・インガルス著『大草原の小さな家』に登場するローラの父のチャールスが働く製材工場が当時登場したばかりの量産製材をする材木工場であった。製材の生産性の向上と同様に、木材を接合する釘材を、それまで鍛冶屋が釘を一本づつ作成していた方法を飛躍的に革新した。それは、始めに針金を作成し、それを切断して大量生産する釘の大量生産方法の誕生である。その二つの業産品を利用して、自然発生的に板を釘で結合して建築物を造る木構造が生まれた。ウイリアム・オグデンは、その板と釘を使って建築物を造る建築方法は、それまでのポスト・アンド・ビーム工法に比較して3倍以上迅速で、かつ、それまでの住宅と比較して60%位の価格で、同じ効用を持った住宅をシカゴの物流のために働く労働者の住宅を、短期に大量生産するために利用した。そして2年足らずの期間に、800戸近い住宅を建設した。
その結果、この量産木材製材品と量産釘で造る住宅を「シカゴ工法」と名付けられることになったが、シカゴ工法の拡大で仕事を失ったポスト・アンド・ビーム工法の大工たちがシカゴ工法の悪口として「風船(バルーン)工法」とあだ名をつけ、蔑んだ。しかし、シカゴ工法はポスト・アンド・ビーム工法と比較して非常に軽量ではあったか、丈夫であったことから、「バルーン工法は人々の夢を風船のように膨らませる、軽くて、安心できる工法」とほめ言葉のように受け止められ、バルーン工法は全米に広がっていった

2.    北海道開拓使、ケプロンとウリリアム・クラーク、
北海道開拓に関しては、ロシア(ロマノフ王朝)も北海道に来航し、日本の北海道の主権を脅かす状況になっていた。明治政府は欧米列強と北海道の日本の主権を主張することに相談をしたところ、「北海道に日本の主権を主張するならば、そこに日本政府機関が置かれなければならない」と言われ、明治政府は「北海道開拓使」という政府の機関を設置することになった。明治政府は薩長土肥という日本の南部にいた藩閥が政権を担っていて、蝦夷の住む寒冷地には、「彼ら薩長土肥のような南部の出身者には住めない」と考えた。そこで、北海道と同じ緯度に首府がある米合衆国に指導を仰いだ。その結果、米国から農務長官が派遣され、北海道開拓使を指導することになった。

明治政府は北海道農学校を日本の食料自給の学問研究と技術指導をする人材育成のための中心的国立学校として、まず東京で設立させ優秀な学生を集めるとともに、これらの日本を担う有能が生徒や北海道を統治する官僚の環境整備の指導を北海道で行う方法をケプロンから受けた。
ケプロンは何世代を掛けて日本人の血を寒冷地に合わせ改良する方法を採るか、その時代の人が北海道で生活させるとすれば、住宅・建築の耐寒構造に造り、その住宅に暖房施設を設けることかのいずれかを選択することを示した。明治政府は耐寒住宅の建設を行い、それに暖房を行う途を選択した。そこでケプロンが指導した建築工法が米国のシカゴの流通の街造りで大成功を収めた後一般的な寒地住宅としての性能を持ったヴィクトリアン様式のバルーン工法であった。

明治政府は北海道農学校、北海道開拓使で働く官僚の官舎、官公庁及び迎賓館(豊平館:現在、中之島公園に保存)をバルーン工法で建設することを決め、北海道の沿岸警備にあたる屯田兵には、それを贅沢であるとしてロシアのログハウスと朝鮮のオンドルの住宅を建設することになった。
バルーン工法は当時の日本では高級な洋風住宅と考えられ、その木構造技術を日本に移転するために東京高等工業専門学校(現在の東京工業大学)に米国のイリノイ工科大学から教師を招聘し、建築技術教育に当たらせた。そのときの指導を受けた教え子が、文京区小石川にある重要文化財「銅御殿」の棟梁であった。そのとき以来、東京工業大学とイリノイ工科大学は姉妹校の関係にある。

3.ポーツマス講和条約に随行した橋口信助
日露戦争は、日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅し、旅順の203高地の店頭で勝利し、旅順港を制圧したことで、の本は圧倒的な勝利を得たと思っていた。しかし、実際の日本は財政的に危機にあり、国債発行をする可能性もなく、戦争継続は不可能な状態にあった。日本では日露戦争に勝利したと国民は軍部やメディアは大騒ぎをしていたが、日本には兵器や弾薬も購入し戦線に送る資金も底を衝き、戦争を事実上維持継続する能力を失って、米国にすがって講和条約の締結になったと言われている。そこで日本政府は終戦に到達するため、日本政府が講和条約を締結するため、米国のセオドア・ルーズベルトに仲介を願い出た。その窮状を理解し、ルーズベルト大統領は日露戦争の終結の仲介の労を取り、米国のポーツマスで講和条約が締結された。そのときに日本からの全権使節団の団長が小村寿太郎で、紀伊藩の出身であった。

その同じ紀伊藩出身の橋口信助は講和会議の全権団ではなかったが、小村寿太郎に随行し米国事情を見聞に出掛けた。当時の米国では国家経済は繁栄し、女性の雇用の機会が増え、女性の台頭が著しく女権が政治的にも社会的にも、フェミニズム運動として全米に拡大していた。フェミニズム運動(ウイメンリボリューション)運動は、女性の雇用機会の拡大と珍便の引き上げを求め、それを実現して行った。女性に家事労働と育児労働を無償労働として押し付けていた男性は、「女性の担ってきた労働はお金の得られない価値のない労働」であると蔑み、女性を差別していた。そこで女性たちは団結し、ブルーストッキング(青鞜)をそろえて団結し、示威行動として、家事労働と育児労働のボイコットを始めた。日本にも大正デモクラシーとして正答者が結成され、女性参政権運動や賃金引上げ運動を展開した。アリストファネスの「女の平和」のように、女性が社会的に団結し、各家庭では食事、選択、育児、清掃業務をボイコットしたため、家事、育児は社会的に停滞し、それを行うときは外部から有償の労働力を雇用する必要があった。主婦はレストランやロンドリーで働き、派遣労働として賃金を得て労働することになった。

やがて、米国では住宅を造っても、台所や洗濯場所は不要と考えられ、山岸会のような共同生活が広く行われた。その影響は海を隔てた英国にも広がって行き、ハワードのレッチワースガーデンシテイにもその影響が及んでいた。しかし、当時の米国は信教の自由を求めて移民した宗教心が強く国民の心を支配していていた。聖書のマタイ伝第2章に記述があるように、神の人類に家族像に対する御心は、「夫は妻を愛し、妻は夫を敬い、夫婦が協同して子供を愛しんで育てるべきこと」が記述してあることに立ち返り、フェミニズム運動ゆきすぎは、キリスト教の思想に矛盾するということになり、家庭崩壊を阻止する方向が社会的にとられることになった。

4.住生活改善運動とバンガロウとクラフツマン様式
それは、洗濯機、食洗器、掃除機、芝刈り機など家事労働や育児労働に機械を導入することで、労働を軽減し、夫婦で共同して家事と育児を分担することが社会的需要として取り組まれることになった。そこで、家庭における家事育児労働を軽減し、妻も外部で好きな労働をして賃金を得て、夫婦が共同して家事育児に当る住宅に戻る取り組みが始まった。それは「住生活改善運動」として全米に広がって行った。フェミニズム運動は民主化の運動であり、それは新しい聖書の思想に合った運動となって展開された。そこで、フェミニズム運動を取り入れた家庭生活を営む住宅は、「新しい酒は新しい革袋に入れないと革袋を破壊してしまう」と考えられ、新しい住生活改善運動を惹き起こし、その思想に対応した住宅デザイン提案が求められた。その運動は19世紀末の芸術至上主義に向かう運動の影響を受け、英国で始まったアーツ・アンド・クラフツ運動と一体になって展開された。その住宅がクラフツマン様式デザインで造られたバンガロウである。

このバンガロウ形式の住宅は英国がインド東インド会社を使って植民地経営をしたとき、英国人がたいへん好んだベンガル地方の住宅(バンガロウ)と言われ、この住宅は香港でアヘン販売をしていた、ジャセイマセソン社の日本支店長グラバーの手で日本に持ち込まれた長崎のグラバー邸の建築形式である。また、1・5階の大屋根で造られた家族が大きな屋根の下で肩を寄せ合って生活するイメージを感じさせるバンガロウは英国から大西洋を回って米国に伝えられ、19世紀末の英国で一世を風靡したアーツ・アンド・クラフツのデザインが米国カリフォルニアで建築設計をしていた建築家で出版事業を手掛けていたギュスタフの手で、「クラフツマン」という雑誌で、「クラフツマン様式のデザインの住宅」として全米に広がって行った。

5.    「あめりか屋」と「住生活改善協会」と橋口信助
全米で燎原の火のように拡大して行ったバンガロウ形式のクラフツマン様式の住宅は、その背景にフェミニズム運動を背景にした住生活改善運動があったことを体で感じ取った橋口信助は、フェミニズム運動の結果生まれたクラフツマン様式のバンガロウ住宅を、6戸米国で購入し、日本に持ち帰った。そして、日本で「あめりか屋」という最初の輸入住宅会社を東京虎ノ門の交差点の文科省の向かいの現在の「みずほ銀行」のある土地に設立するとともに、住生活改善運動協会を創設し、日本の住宅改善運動に取り組んだ。

当時の日本の住宅は「一家に家督相続人(戸主)という一本の柱しか建ててはいけない」と考えられていて、家族は戸主に言うことに従い、逆らってはならないという個人の権利や主張を許さない「朱子学を基礎とする儒教道徳」が社会を覆っていた。水戸黄門ではないが、偉大な政治家、又は、家督を継ぐ者は、広く民意を聞き、又は、人民や、または、家族が望んでいる政治や家督権の行使をすべきと考えられ、住宅には欄間を設け、家族の声は滞りなく主人の耳に届くような住宅構造で造られていた。「聞こえがしに話をし、又は、聞いていて聞かぬふりをする」生活が、日本の住宅の仕組みの中に取り込まれていた。そこに住生活改善運動の中で、戸主と家族のプライバシーを守り、公私室の計画区分や、「書斎」独立の接客間(デン)が取り入れられた。

「あめりか屋」住宅は、来客や家族が団らんする社会的空間と個人のプライバシーを守る空間を分離する平面計画を米国から持ち込んだだけではなく、個人主義思想を住生活改善に持ち込んだ。この橋口信助が日本に持ち込んだ輸入住宅は、米国で最も一般的なバルーン工法によるパッケージハウスであった。このパッケージシステムは、住宅のカタログを使った通信販売としてシアーズ・リーボック社がシカゴを本拠に全米に行っていた方法である。日本では、住宅のカタログ販売は持ち込まれなかった。ホームプランシステムは英国からの歴史を持っているが、米国においてパッケージハウスのカタログ販売として全芸に拡大し、現在に続いている。あめりか屋住宅は小林一三が阪急田園開発地や、東京、大阪、京都、名古屋、軽井沢など西洋文明を盛んに受け入れようとする人たちから、先進的思想と技術に支えられた住宅として盛んに採用された。

6.    2×4工法による「木造耐火建築」の変遷:
木造建築として建てられた2×4工法の住宅は、米国の地震多発地帯には筋交い(ブレース)を取り入れたブレースドバルーン工法として軽くて地震に強い工法として生み出しした。米国のカリフォルニアにおける地震は世界最大級のものであることから、日本の高層・超高層建築の耐震安全性を確認する地震波として採用されている。ブレースドバルーン工法は地震に強い建築工法としてカリフォルニア州多オレゴン州に広がって行った。この地震の問題以上にバルーン工法に立ちはだかった問題は、火災問題であった。そこで以下にバルーン工法と火災との闘いの歴史を紹介する。

A.ロンドン大火後の防火地域(ファイアーゾーニング)、
木造都市ロンドンの大火災

欧米の火災対策の始まりは英蘭戦争の真っ最中にロンドンのシティのパン屋から発生した火災はロンドンの4分の3が焼失し、その復興対策として防耐火建築が取り組まれたことに防火対策の歴史が始まる。英国はヘンリー8世の時代、王権を巡ってローマ法王庁と対立し、チュ―ダ-時代大陸から受け入れていた石造建築文化を否定し、アングロ・サクソンの船大工による木造建築文化に回帰していた時代もあって、コッツウォルド地方の首都らとフォード・アポン・エーボンやチェルシーなどの都市や、ロンドンのピカデリーサーカスの近くのリバティ・デパートのようにハーフティンバーによる木造建築で埋め尽くされていた。英蘭戦争の真っただ中、オランダに戦艦がテームズ河を上流に上って来たとき、偶然、この木造市街地がシティにあったパン屋からの火災が発生し、それが4日間にわたってシティを燃やし続けた、1666年に起きた「ロンドン大火」では、パン屋のかまどから出た火が、当時木造家屋が一般的だったシティの街を焼き尽くした。

モニュメントとそこに記載されたこと「木造建築との闘い」
シティの一角にこの大火災とその後の復興を記念し高さ62mの石造の塔大火記念塔(ア・モニュメント・トゥ・グレート・ファイアー・オブ・ロンドン)が建てられている。 この塔は、セントポール大聖堂などを設計したクリストファー・レンによるもので、塔が建つ場所から火元になったプティング・レーンまでの距離を表している。ただ、大火をきっかけにロンドンの街並みは今のようなレンガ造りになり、火災保険の制度も誕生した。塔の内部にはらせん階段(311段)があり、登れるようになっている。 台座の部分には復興に尽力したチャールズ2世の姿が刻まれ、この日には木造都市との戦いに勝利したという趣旨が記されている。シティにある地下鉄駅「モニュメント」は、この大火記念塔(ザ・モニュメント)と呼ばれていることに由来している。

当時ロンドンでは下水は垂れ流しであったために、ロンドンの人口が急増した結果、テームズ河の汚染はひどく、その臭気がロンドン市の環境問題になっていた。しかし、ロンドン大火の後、テームズ河からの汚水の臭気が途絶えたと言われるほどでロンドン大火はロンドンを破壊してしまった。エリザベス女王は火災後のロンドン復興計画を求めていたとき、サー・クリストファー・レンが既存の都市の道路計画を無視し、放射状道路パターンによるロンドン復興計画を提案した。

レネサンス
その計画の目新しさが女王陛下の目に留まり、クリストファー・レンは王室付き建築監となり、女王付き建築監に任命され、大火災後のロンドン復興を実施することになった。レンは、多くのルネサンス様式の組積造建築によるロンドン復興を成功させたため、レンが進めたルネサンス建築デザインを「レネサンス」とも呼んでいる。レンは、都市に3種類の防火地域(ファイアーゾーニング)を指定して、加害防止の火災理論で、建築の壁面位置の後退距離の設定と開口部の大きさと、開口面が外壁面からセットバックする距離を「加害防止」(開口部からの火炎の放出制限)の観点から定めた。この考え方は日本の建築基準法上の「延焼の恐れのある部分」を防火構造にする「被害防止の考え方」とは真逆の考え方である。

B.バルーン工法住宅による市街地火災(シカゴ、トロント、シアトル)
防火地域(ファイアーゾーニング)の登場
米国においてバルーン工法は、高い品質の建築物を高い生産性に裏付けられて建築されることから国民から高い支持を受け、都市化の勢いの盛んな中心市街地の建築として採用されたが、そこで火災が発生すると、ものの見事に市街地火災として類焼し、多くの大都市火災の原因となっていた。米国では、非常に古い時代から火災保険の制度は発達していて、火災保険料は、火災が発生したときの都市の消防力の消火能力により保険料率が変化するようになっていた。
当然消火用水や消防隊の消防能力が火災保険料率と関係していたが、バルーン工法で造られた建築物の場合には、その構造軸組が通し柱で造られているため、火災の回りが早く大火災となることが分かった。そこで、ロンドン火災の経験を取り入れることになり、多くの市街地に防火地域(ファイアーゾーニング)が指定されることになった。米国や英国では、防火地域は建築法として指定される建築規制地域で、日本のように都市施設として都市計画法で決定する地域規制ではない。

C.第2次世界大戦で開発された耐水性合板
第2次世界大戦において北米は戦果を受けることはなったが、太平洋と大西洋を隔てた対岸で大戦後行われ、そこでの日・独・伊の同盟国が厳しい戦争を行ったため、連合国は国を挙げて国土を軍需産業生産の兵站基地として戦わなければならなかった。現在、全米最大の規制窓会社であるアンダーセンウインドウも、窓の生産を中止し鉄砲の弾丸を入れる木箱を作っていた。戦争で資源が枯渇していた米国では、戦場に軍需物資を輸送する仮設道路建設に使われた鉄板の生産や飛行機の期待やプロペラの生産など金属の生産が払底していた。
そこで米国政府は農務省に命令を出し、仮設用道路材としての鉄板やプロペラなど金属製品に代替できるものを木材で生産することを要請した。その結果求められた木材は、水に強い耐水性と耐久性のある木材加工品で、接着剤がカギを握っていた。現在はフェノールと呼ばれているレジン糊が耐水性接着剤として優秀であることが分かり、4×8合板やプロペラ材料として戦場で大活躍しました。

D.プラットフォームフレーム工法の登場
戦争が終わり帰国した人たちは、住宅建設を求めたが、米国における住宅産業自体が戦争の兵站基地となっていたため、生産能力を失っていた。一方、戦後、結婚を待ちわびていたり、戦時中住宅購入を後送りにしていた人たちの住宅需要が一挙に増大したため、住宅産業は対応できないでいた。そのとき戦前までニュージャージー州でホームビルダーを行っていたウイリアム・レービットが、1950年に入り、流れ作業の技術を使って住宅地を開発するレービットタウンと、流れ作業技術を使って住宅を生産する技術(レービットハウス)を開発した。

レービットタウンは、住宅の生産ラインとして道路を建設し、その道路を材料搬入路として材料をジャストインタイムで届ける流れ作業で、住宅加工をする住宅地開発はハイウエーにぶら下がる住宅地開発で効力を発揮しました。住宅の建材供給も戦後社会は未整備であったが、戦争中開発された構造用合板の生産能力は大きく、生産ストックもたくさんあり、その価格は軍需需要がなくなったため、合板は安く入手できた。

そこで全米ホームビルダー協会(NAHB)と米国農務省の森林研究所(FL)とが、ウイリアム・レビットに協力して、合板による平面版を作り、それで床と壁とを組み立て新工法を開発した。その工法をウッド・フレーム・プラットフォーム工法と呼んだ。この新工法は、これまでのバルーン工法は、「通し柱工法」であったものを、床版ごとに柱を分断するため、火災時に壁体の中を加熱が走ることはなかった。その結果、新しいプラットフォーム工法は、火災に強い工法であると考えられるようになった。

E.摩天楼時代の米国「タワリング・イン・フェルノ」
19世紀後半の米国の大都市の経済成長は急激に進み、大都市のダウンタウン(都心)は例外なく摩天楼(スカイスクレーパー)が鉄骨造や鉄筋コンクリート造建築物として建設された。ロンドン大火の経験ではこれらのスカイスクレーパーは耐火建築物で造られていたため、当然のように期待通りの高い火災安全性を保有していると考えられた。しかし、実際に、ファイアーゾーニングに建てられたスカイスクレーパー(摩天楼)で、一旦火災が発生すると、建築物全体が巨大な炉のようになって燃焼し、特に建築物全体が大きな煙突上になって火災を上階へと拡大し、避難を不可能にし、1974年米国で映画化されたサンフランシスコをモデルとした映画「タワリング・イン・フェルノ」で見る通りの大惨事を生む結果となった。それまでのバルーン工法による市街地火災と比べ物にならないような多数の人身事故と物損を発生させた。

F,火災理論の見直し(火元、燃種、火災荷重、構造破壊)
そこで北米では火災理論の全面的見直しが取り組まれた。米国では火災保険会社が防火地域と関連付けた高い木造建築の火災保険料率が保険会社の利益となったために、1958年のカナダ建築法は、米国はもとよりカナダでも受け入れられなかった。火災保険料率に関係する火災理論研究には熱心ではなかったが、木造建築の拡大が国家の産業都市で大きな位置を占めるカナダは、この機会にもう一度木造建築で耐火建築を実現できないかを考えるため、火災理論に見直しに取り組んだ。

カナダ政府は英国から火災学者を招聘して、欧米の火災額は、有機材料の燃焼理論に立つものである。タワリング・イン・フェルノにおいて、耐火建築靴は燃焼炉の役割を果たし、火災はそこに収納された火災荷重により引き起こされていた。火災拡大に理論は次のような順序で起きていた。
火の元(火災原因となる「火の用心」対策となるが、文明の発達は無限に火の元を拡大する)
燃え種(建築物内に収納されることになる燃焼するもので、「火災荷重」と呼ばれている。)
火災拡大を制御するためには火災荷重(ファイアーローディング)の分割管理をすること「ファイアーコンパートメント」(防火区画)の理論が結論として導き出された。カナダの1960年建築法の改正はその研究結果であった。

G.防火区画(ファイアー・コンパートメント)の形成
カナダにおける火災研究の結論は、建築物に収納される火災荷重を分割管理することで、その火災荷重を分割管理する技術をファイアー・コンパートメント(防火区画)と呼んだ。プラットフォーム・フレーム工法に導入により、火災が階を超えて拡大する危険性は著しく低下した。合板で目塞ぎされたプラットフォーム(平面版)でファイアーコンパートメントが形成されるが、この平面癌に表面材に石膏(ジプサン)ボードを用いると防火区画の形成がより大きくなることが明らかになった。石膏ボードは炭酸カルシュウムに結晶水(2H2O)がついていて、この結晶水がなくなるまでは、石膏ボードのり面温度は上昇しない。そのためプラットフォームの構造支持材が延焼を免れる。その結果、防火区画としての性能を長時間維持することになる。

歴史的には石綿(アスベスト)スレートセメント版は歴史的に不燃材料で造られていたため、防火区画として優れていたと考えられていたが、熱伝導率がたかぬ、裏面温度が上昇するほか、加熱で爆裂するため、防火区画(ファイアー・コンパートメント)構成材としては、石膏ボードよりはるかに劣る材料であることが分かった。その結果、米国では石膏ボードは防火区画を形成する耐火建築物を造るうえで優れた材料と考えられている。この防火区画には、単純に火災荷重を区画するものもあれば、火災の拡大する火災の通過路を区画することや、火災で発生する煙を制御し、安全避難を確保するなど多様な防火避難をするなどの対応策が明らかになった。これらの研究成果はカナダの建築法規に採用されたが、それらを木造建築に採用されることになると保険会社は保険料を切り下げなくならなくなると言って建築法規の改正には反対した。

H.セントローレンスバーンズ、ファイアーゾーニングからファイアーコンパートメントへ、
カナダ政府は1958年法に取り入れたが、北芸の火災保険団体から法反対があり、地方公共団体でのカナダ建築法規の行政上の採択の妨害があり、その実証実験が必要とされた。ちょうどそのころ、カナダのセントローレンス川に設けられていたダムが決壊し、多くの村が破壊される事故に遭遇した。そこでその罹災村を利用して、木造プラットフォーム・フレーム工法による火災実験が行われることになった。火災実験ファイアーコンパートメントの防火区画性能、開口部からの延焼防止の空間隔離(ファイアーセパレーション)加熱及び煙による避難路確保の可能性、火災燃焼音による火災拡大など多くの火災減少について確認するものであった。この実験結果は事前に検討し、カナダ建築1958年法に纏めた結果を裏付けるものであったので、1960年法としてカナダ全土で施行されることになった。

G.CABO米国建築主事会議による米国の建築法規大改正と日本の建築基準法改正
米国には3つの地域ごとに合わせた建築法規(UBC*ユニフォーム・ビルディング・コード。BOCAコード、SBBC:南部建築法規)があり、その全体調整がCABO(全米建築主事会議)で行っている。その会議の中心的な建築主事であったMr.ストリートは、カナダ建築法に、米国の建築法規をそろえるべきであると考え、関係者を説得した結果、1972年からの全米の3建築法規においては、防火地域(ファイアー・ゾーニング)の規定は廃止され、それに代わって、防火区画(ファイアーコンパートメント)の規定が取り入られることになった。

1969年わが国各地で旅館ホテルの火災が相次ぎ、建築物の防火避難規定の改正が、建築基準法第5次改正が行われた。当時私(戸谷)は建築指導課の基準係長で、防火避難関係規定の改正条文作成作業を担当した。日本には防火避難関係の学問研究が遅れていたため、米国の防火避難関係規定を建築審議会と住宅局建築指導課(前川課長、水越専門官、戸谷係長)が中心になって米国の火災研究を学び、英国やカナダの建築法規に倣って、改正法を作成した。
日本建築学会を中心にした大学や研究機関は、建設省の学界を無視した取り組みに反発し、改正法の施行を妨害しようとしたが、建築指導課はそれを押さえて強行した。ファイアーコンパートメントの理論は取り入れたが、木造建築にまで防耐火理論を導入した建築基準法改正はできなかった。現行の建築基準法上の防火区画、排煙区画、望遠垂れ壁、非常用のエレベーター、侵入口の規定等は米国の建築法規の考え方を援用したものである。

7.ダイアフラム(平版構造)理論と壁構造理論
枠組み壁工法の基準を作成するとき、その技術基準の原案作成を行った私は、当時、建築指導課課長補佐であったが、米国やカナダのウッド・プラットフォーム・フレーム工法の構造理論であるダイアフラム(平板構造理論)が理解できなく、当時日本では耐力壁による壁倍率による壁構造の理論がプレハブ住宅、在来工法に適用されていたので、その考え方で枠組み壁工法技術基準を取りまとめた。その技術基準は枠組み壁工法を一般工法として全国で利用可能にするためであった。

しかし、米国・カナダのプラットフォーム構造の構造解析ができなかったので、その技術と木造耐火構造の理論を構築するため、米国とカナダの建築法を日本で利用するための研究開発を5年間で5億円の研究開発費を建設省大臣官房技術調査室(高秀室長)がことの重要性を理解され、予算計上した。しかし、この調査研究は住宅局の官僚、大学の研究者、2×4工法団体及び2×4工法ハウスメーカーの妨害により、計上した研究費は期待どおり使われず、研究は2年で打ち切られ、日本の2×4工法技術はそれ以来、米国やカナダと全く違ったまま、特殊な日本基準となって、カナダや米国と同じ材料を使いながら、一部の業者の利益に歪められ、カナダや米国の2×4工法があれている利益を上げきれないでいる。

第2.『住宅産業論』
わが国の住宅産業は高い需要に支えられ続けられながら、その生産性が低いため工務店の利益は低迷し、建設労働者には高い賃金が与えられず、工場労働者と比べ賃金の先行き工場見込みがないため衰退の運命にあった。建設省はその状況に対し、日本で技能労働者の要請は建設省ではない労働省で行われていることもあって、技能労働者の供給をあきらめ、工場化政策に置き換え、現場では単純組立工を低賃金で雇用する道を選んでいた。
そのとき、米国政府の住宅都市開発省(HUD)はOBT(オペレーション・ブレーク・スルー:突破作戦を展開し、全米だけではなく、世界の注目を浴びていた。日本でも大きな住宅需要があるにもかかわらず、住宅建設業労働者の供給が全く先行き期待できないので、住宅用部品を工業生産する行政を行っていた通商産業省も米国の住宅産業に倣う方針を模索していた。それを決定づけた論文が『住宅産業論』(内田元亨著1967年中央公論社)であった。内田元亨は米国のOBTを調査し、そこで掛れたことを日本の住宅産業の進む道として雑誌に掲載した。その住宅生産工業化政策、は建設省の住宅産業近代化理論と相呼応し、通産省の住宅産業課、建設省の住宅生産課が同時期に新設され、工場化住宅政策を展開することになった。

1.    全米ホームビルダー協会(NAHB)の取り組み
米国では政府・HUDがOBTを進め、モーバイルホームやモジュラーホームと言った工場生産住宅の生産を進めて行ったが、全米のホームビルダーの約80%を組織する全米ホームビルダー協会(NAHB)は政府HUDの向上か住宅生産方式に真っ向から反対した。
その理由は政府が掲げる高品質の住宅をより安く供給しようとする政策目標自体は反対すべきことではないが、現在現場で住宅を建設しているホームビルダーやカーペンターが仕事を奪われるだけではなく、住宅生産を工場製作することによって建設できる地場のホームビルダーや大工やドライウォール工法(左官)建設労働者が現場から消え、既存住宅が流通する住宅の80%を占める米国社会において、国民の住宅を健全に維持管理できなくなる。

そこで全米ホームビルダー協会(NAHB)は政府HUDが工場での住宅生産に置き換えてもそれ以上に良い住宅を、より安く国民に供給する目標を設定し、政府に対抗する取り組みを開始した。その技術がCM(コンストラクションマネジメント)であり、TQM(トータル・クオーリティ・マネジメント)であり、CPM/CPN(クリティカル・パス・メソッド、クリティカル・パス・ネットワーク)であり、CC(コストコントロール)である。NAHBとHUDの戦いは30年以上に亘り続きNAHBが完全勝利することになった。

2.    日本への2×4工法の導入
米国とカナダとの間ではシングル・シェイク戦争と言って林産材の市場争いがあり、住宅建設市場の小さく林産材の生産能力の大きいカナダは米国と経済摩擦を起こしたとき必ず任される結果となっていた。カナダは米国との闘いを有利に進めるため、米国以外のヨーロッパと日本に林産資源の輸出市場を拡大すべく地道な輸出努力を続けていた。しかし、日本市場は非常に保守的でカナダが7年間努力をしても林産材市場は開放しそうになかった。
そこで、カナダ政府による2×4工法用木材(ディメンジョンランバー)売込みとカナダ林産協議会(COFI)の撤退決議を決定した翌年1月、HUDによるOBT(オペレーション・ブレークスルー導入)詣でと米国のホムビルダーの高生産性を見学して驚いた関係者が、米国の現場で見た高生産性を日本の住宅関係者の前で実践しようという取り組みを全く民間ベースで実施した。ホームビルダー研究会による「米国の大工による2×4工法施工実験」である。この施行実験は建設省建築研究所の所内で実施されたもので、2×4工法の2階建て(床面積100㎡)の構造を69人・時間で実施するという予告実験であった。この公開実験は72人時間で完了し、5代氏はその状況を3面4-5段記事として報道した。それを見て最も驚いたのはカナダ大使館であった。これまでの7年間の苦節の努力が米国に「トンビが油揚げをさらう」ように奪われると感じた。

3.    1970年枠組み壁工法の導入
カナダ大使館は、4月-3月の予算粘土であるので、以月も終わろうとしていた米国の大工の実験を見た後、外国旅費は2カ月しか余裕がない。そこでカナダ大使館で都合がつけられる予算を計算すると5人が1カ月程度カナダに出張する予算があることが分かった。そこで、ともかく日本の政府からの調査団をカナダに受け入れ、カナダの技術材料の輸出の糸口を付けることを行うことが決まり、カナダ大使館は建設省住宅局に招待要請を行った。
建設省は2×4工法のことはもちろん、カナダの住宅産業、林産産業などの情報は全くなく、何もわからないがともかく招待を受けたから関連する職員を派遣することが決められた。そこで、カナダ大使館と協議をした結果、カナダでは政府と同時にCMHC(カナディアン・モ―ゲ―ジ・アンド・ハウジング・コーポレイション)やカナダ建築研究所が2×4工法技術に関係していることが分かり、日本として関心のあるホームビルダーや建設業職人教育問題の調査を含んだ調査団を組織した。そして、1970年、カナダ政府からの要請を受けた日本政府調査団(戸谷、今泉、上村、丹羽の政府の技術者)がカナダへ派遣された。
カナダでは、バンクーバー、カルガリー、トロント、オタワの4大都市を訪問し、林産物の調査からホームビルダー及びカーペンター、並びに、カナダ社会の住宅調査を実施した。その結果わかったことは、2×4工法住宅は、住宅の資産形成に実現と消費者の満足を与えているとともに、工務店(ホームビルダー)の高い収益を保証しているとともに、そこで働くカーペンター、左官(ドライウォーラー)や建設職人の高い賃金を与え、多くの後継者が育っていることが分かった。そこで、日本において2×4工法を国の制度として受け入れるべき調査報告と併せて、具体的な取り入れる取り組みを開始した。

4.    1971年建築基準法に基づく『枠組み壁工法技術基準』の制定と住宅金融公庫:「2×4工法モデルタウンハウス事業」
カナダ政府は全面的協力を約束してくれたため、カナダ政府が英国とフランスでカナダの2×4工法のデモンストレーション事業の映画を借り受け、それを検討することと併せて、全国各地でそのせい社会を行って2×4工法でカナダが作り上げた素晴らしい2×4プロジェクトを全体像として理解することに努めた。しかし、それを実際の具体的住宅建築として建設するために、最初は建材試験センターにおいて1戸建ての2×4工法の建て方を日本人だけで実施するのと並行して、カナダ大使館員宿舎の建設を東京都港区芝で実施した。そこで建築する住宅の設計図書を日本の建築事務所の日本人の施工者が観て分かるような生産図面に作り直す作業を行った。そしてその設計図書を使って国内の関係者にカナダの2×4工法の紹介と指導を行った。
枠組み壁工法のオープン化準簡易耐火建築物扱いと割増融資として住宅金融公庫は、「2×4工法タウンハウスモデル事業」を実施した。

5.    神戸SV(シアトル・バンクーバー)ヴィレジ
(米国PUD13戸、カナダサブディビジョン13戸)
(1)「プラザ合意」に対応して日銀前川春雄の提案「輸入住宅」と中曽根内閣による「輸入住宅」(JETRO)と住宅金融公庫(河野総裁)が通産省と建設省のそれぞれ政策の実行部隊となって輸入住宅政策を推進した。
(2)日米住宅価格差(日本60万円/坪、米国30万円/坪)の差益のコストカット45万円/坪
(3)建材輸入価格(輸送費用・沖中経費・国内横持ち費用+流通業者の粗利20%)=FOB価格×1.5
(4)神戸市住宅供給公社の実績:60万円超/坪、神戸市住宅供給公社の2×4事業はSVヴィレッジ以降中止され、担当役員は更迭された。
(5)神戸KIHF(神戸・インターナショナル・ハウジング・フェア)、はNAHBの協力支援を得、NAHB・IBSと基本的に同じ催し物(住宅及び住宅地セミナー、建材及び住宅設備展、米項及びカナダ建築家設計モデルホーム8棟11戸)
(6)兵庫県三田市で兵庫県がワシントン州の支援を受けて実施した住宅地経営:ワシントン村、兵庫村は、その当初計画はワシントン州の優れた技術が持ち込まれたが、それは日本側(兵庫県)が正しく学ぼうとせず、日本側の勝手な方法に歪められて行った。(経年するにつれ衰退)

6.    1996年住宅生産性研究会(HICPM)と全米ホームビルダー協会(NAHB)による相互友好協力協定の締結とその契約内容の実践
(1)輸入住宅推進のための米国事業:CM教育(ワシントン大学オシンジャー教授の全国6か所(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡)でCMセミナー
(2)NAHB/HICPMによるNAHBテキスト4冊の翻訳。解説書の出版事業とNAHB/HBI(ホームビルダー・インスティチュート)協賛の全国6か所でCMセミナー
(3)毎年NAHB/IBSにおけるCMセミナー(約10年間)と北米研修ツアー、NAHB・IBS(インターナショナル・ビルダーズ・ショウ)でNAHB協賛による米国住宅産業関係者とHICPMによるCMセミナー

7.資産形成を実現する住宅・住宅地技術
(1)2000年、HICPMによるサステイナブルハウスプロジェクトの実践:米国NAHB[21世紀のタウンハウス]及びカナダCMHC{HOME2000}の経験を活用(約5年間に全国でHICPM会員中心に1、000戸建設)

(2)CMの実践モデルとしての「サステイナブルハウス」
米国およびカナダの2×4工法の基本に戻った事業として「サステイナブルハウス」というモデルの計画と、その生産性検証実験を通して「サステイナブルモデルホームシステム」を開発した。
・サステイナブルハウスは、矩形平面6モデュール×7モデュール(1モデュール4フィート)、総2階建て、「クラフツマン様式」、徹底的な単純化、驚異通貨を行い、米国のディテールシート(建築設計昌哉)に倣った。
・窓:1種類のみの窓(シングルハング)ドア:玄関ドアと勝手口ドア各Ⅰ種
・2×4工法に基本:構造モデュールと化粧・造作の分離
・2×4工法の設計図書(生産圖書)は、基本的に床と壁というプラットフォーム「平面版:ダイアフラム」を造ることで、プラットフォームを構成する枠材が床、壁、造作材、インテリアの構造的支持材として利用する。プラットフォームは「外モデュール」で計画され、内装や住設は「内モデュール」で計画されている。
・サステイナブルハウス:6×7M(1M=4フィート)
・2×4工法による設計図書はそれを使うことで、「見積書が材料と労務の数量と単価をそれぞれ明らかにして見積もることのできるもの」である。
・サステイナブルハウスの建設工事費の目標及びその標準見積額は、市場価格から20%OFF
で、床面積、130㎡、半地階付きで、HVAC付き980万円(市価1,300万円の80%)

(初期のサステイナブルハウス取組企業)
サンピアホーム(愛知県)ウイングホーム(茨城県)岡島建設(滋賀県)ロッキー住宅(埼玉県)
アービスホーム(宮崎県)高杉建設(愛知県)工藤建設(神奈川県)アサヒグローバル(三重県)
リバティハウス(大阪府)ハイランド(兵庫県)西日本ホーム(大分県)日の出ホーム(熊本県)

(3)生産性向上による利益拡大実践例

(宮崎アービスホーム工務店粗利5%から30%に飛躍した:1戸の建設工期4カ月が1年間で1カ月に短縮)1戸当たりの粗利は同じでも、期間あたりの利益及び労賃は約4倍増となった。

(4)CMの実践とホームプランで実現できなかったこと
見積書に対応してCMの実践:モニタリング(工事監理)とデイリーログの作成
デイリーログの集計と見積書との対比、企業としての見積もりデータ・ベースの作成、更新

(5)サステイナブルコミュニティの実現(「三種の神器」による住宅地経営)
住宅から住宅地へ:土地と住宅とは不可分一体の住宅不動産で、土地利用計画の実現に拡大。
欧米的理解では、土地と切り離された住宅は「動産」であり、土地に定着されたときに住宅不動産という不動産(住宅環境)になる。
住宅購入者にとって、住宅購入の目的は、「住宅投資(インベストメント)である。住宅は購入後の住宅地経営により住宅地市場を「売り手市場」として維持し、キャピタルゲインを実現するようにしなければならない。

住宅地経営の「三種の神器」とは、
基本的に住宅の土地を所有する人全員参加の近似契約で結ばれた住宅所有者全員参加のHOA(ホームオーナーズアソシエイション)による住宅地の自治経営を、ハードなルール(マスタープラン基本計画とアーキテクチュラルガイドライン建築設計指針)と、ソフトなルール(住宅地環境管理:CC&RSカベナント・コンディションズ・アンド・リストリクションズ)」により、レッドカード(先取特権の差し押さえによる対条)とイエローカード(罰金:ペナルティー)を使った民主的な統治を行うことで、「住宅を取得することで資産形成を行う目標の実現を行う。

(住宅地環境形成の事例)
高杉建設(エドモントンハウス)、東名ホームズ(エルトラッド)、アービスホーム(東宮花の森)
アサヒグローバル㈱(泊山崎ガーデンテラス、ロッキー住宅(武笠ガーデン)工藤建設(ガーデンヒルズ)、(株)大建(荻浦ガーデンサバーブ)

8.HICPM創設20年の反省総括
1970年代の2×4工法オープン時期における米国・カナダの2×4工法の合理主義を習おうとした原点回帰をすることで、現在の米国カナダの2×4工法の合理主義を実践する途を見つけることができる。
(1)政府の国民不在、産業政策としての住宅政策(フロー中心の経済政策としてのスクラップ・アンド・ビルド)による住宅産業政策から、ストック(国民の資産形成)を目的とした住宅政策への変更
(2)等価交換販売(独占販売の禁止)と等価交換金融(モーゲージローン)への転換
(3)CM(コンストラクションマネジメント)の基礎知識教育とその実践:PEPSIと、データーベース管理を確実にするモニタリングを実践する現場監督(スーパーバイザー)業務の確立
建築現場の実践すべきモニタリング業務の確立(発注者・設計・職人・管理)と見積と日報管理とそのデータ整理に基づくデータベースの作成
(4)2×4工法の原点回帰による設計図書の作成と見積の実践と生産性
(5)住宅地経営におけるニューアーバニズムの実践(ミクストハウジング、ミクストユース)
良循環のスパイラルを継続する「三種の神器」による「資産形成を継続する」住宅地経営



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