戸谷の言いたい放題

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掲載日2016 年 6 月 13 日

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「産業から国民本位の住宅政策」
(目下取りまとめ中の本の原稿」

―半世紀の住宅行政・住宅産業人生:官僚生活25年、民間(NPO.民間企業)25年からこれからの住宅政策、住宅産業の取り組むべきことの中間総括としてまとめた本の「序」-

戦後の対米従属日米同盟による軍需産業による経済復興
私が住宅問題に関係したきっかけは、60年日米安全保障条約を巡る学生運動の最中にフリードリッヒ・エンゲルス著『住宅問題』(岩波文庫)に出会ったときであった。国民の基本的人権を守るために国家の住宅政策の必要性が理解でき、戦後の国家再建に住環境の保障は不可欠な政策と考えた。住宅行政を担当するために私は国家公務員試験上級職甲に合格し、1962年建設本省に採用された。入省後、住宅局住宅建設課に配属され担当した公営住宅法は、終戦前、内務省が戦後の英国のアトリー労働党内閣の政策情報を得て、建設技官たちが中心になって作った制度であった。
英国の労働党の政策はグリーンベルト制度、ハワードの『レッチワース・ガーデンシティ』を継承したニュータウン制度、公営住宅による社会福祉制度であった。戦前、高等文官が中心となっていた内務省の中で、技官が着実に実力を蓄え、戦後、全日本建設技術者運動として、次官、局長、課長を技術者が担当する時代の幕開けの時代であった。公営住宅法立法の建前は次の通りの説明であった。1951年、住宅局技官が中心になり英国の公営住宅法を日本の状況に読み替え作成し、日本国憲法の採り入れられた主権在民と地方自治の考え方を取り入れ、占領軍の監督下で地方公共団体が事業主体となる公営住宅法が、国民の住宅を保障する考え方に立ち、主権在民の新憲法の思想を活かし議員立法された。住宅局住宅建設課では立法作業と並行して、英国政府発行の『ハウジングマニュアル』を鎌田課長以下技術官僚が中心になって翻訳し、『住宅建設要覧』(日本建築学会)として出版し、その内容を参考に公営住宅法の内容を整備し、英国に倣った公営住宅法の施行の円滑化を図った。
1946年に日本国憲法が制定され、軍隊関係者の公職追放、戦前の軍事産業資本である財閥解体を決定したが、しかし、1950年朝鮮戦争が勃発し、日本国憲法で定めた「戦争の放棄」と矛盾した米国の占領政策の下で、朝鮮戦争のために日本は米軍の兵站基地とされ、占領政策として戦前の軍需産業復興政策が実行された。戦前の日本には軍需産業しかなく、国内及び海外から引き揚げ者を含んで優れた軍需産業労働者が全員失業状態にあった。米軍は日本を米軍の兵站基地として軍需物資の生産を行うために、戦前の軍需産業資本(財閥)の解体決定を放棄し軍需産業を復興するとともに、旧軍需産業労働者(失業者)を再び軍需産業で雇用させる政策を採った。しかし、軍需産業都市は終戦直前、殆ど全て連合軍による焼夷弾爆撃で焼失し、旧軍需産業の復興のため、産業労働者用住宅供給が軍需産業復興のカギを握っていた。旧軍需資本の労働者住宅(社宅)の建設資金を供給するため、占領軍は日本政府に対し、給与住宅建設資金を供給する住宅金融公庫を設立された。1950年、住宅金融公庫は既に占領軍の指示により、戦災復興のための国産エネルギー石炭生産のため始めていた炭鉱住宅の建設資金を供給する業務と併せ、旧軍需産業用労働者住宅の供給が産業政策として始められた。
しかし、重層下請け構造の旧軍需産業を復興するためには、軍事産業の下請け企業や関連産業に働く労働者にも住宅を供給する必要があった。軍需産業は直用労働者にしか社宅は供給しない。それらの労働者向け住宅としては、国家が社会住宅の供給を行うことが必要であった。1951年制定された公営住宅や、住宅金融公庫に低所得者向け住宅を供給する住宅公社が供給する労働者向け賃貸住宅供給のため低金利住宅供給制度が始められた。1952年サンフランシスコ平和条約が締結され、占領軍の支配は終わったが、米国は朝鮮戦争のために必要な米軍の兵站基地を維持するため、日本に従属的な日米安全保障条約を締結させた。そして、日本政府に軍需産業復興に必要な労働者住宅の供給を公営住宅、公社住宅等として政府が財政および金融上の責任を負って実施することを義務付けた。
朝鮮戦争終了後の米ソの熱戦は、過去の植民地において民族独立戦争と一体になり、インドシナ半島へ拡大した。それに合わせ米軍の兵站基地として日本の軍需産業需要は拡大した。住宅金融公庫が行った軍需産業向け住宅金融は産業向け高金利を使った産業労働者向け住宅であった。1955年、大都市圏の住宅需要に応えるため、鳩山内閣のとき日本住宅公団が設立されたが、そこでも軍需産業の発展に対応した労働者住宅として特定分譲住宅(社宅)の供給が、日本住宅公団が施行する方法で行われた。社宅に入居ができない軍需産業の下請け企業、関連産業及び一般勤労者は所得と家賃の乖離を埋めるために、日米安全保障条約を背景に財政負担で実施する日本政府の分担とされ、米軍兵站基地整備のための住宅は国民の社会住宅政策として、福祉政策金利を使った政府施策賃貸住宅(公営住宅、公団住宅、公社住宅)が供給された。日本の住宅政策の全てが米軍の兵站基地のためであったが、政府はその住宅政策を欧米の社会住宅政策と説明し、国民も欧米と同じ住宅政策と信じ込まされていた。

1960年経済的負担対等の日米同盟下の住宅
朝鮮戦争以来、日本は米軍の兵站基地として旧軍需産業の復興により高度経済成長を果たした。日本国内では、日米地位協定に代表される占領時代の不平等条約を是正すべきという意見が高まっていたが、米国からは日本の経済成長は米国からの軍需によるものであったので、1960年日米安全保障条約の改定に当たり、米国国民の税金で日本の経済復興を行われたという面が強調された。経済復興という観点から、日本は米軍の軍需に支えられ経済復興した事実を両国が認め、日米安全保障条約改定では、日米の経済面での対等の負担が米国から求められた。その結果、貿易、為替、関税の自由化を断行することが、事実上命じられ、それに付加して日本が自給してきた国産エネルギーの石炭産業を廃止し、石炭に代えて米国から安価な石油へのエネルギー政策に転換するとともに、日本人の食料自給の農業政策を放棄し、食糧を米国産の安価な畜産物を含む農産物の輸入を受け容れることが要求された。
その結果、炭砿閉山と農業構造改善が実施され、炭砿と農村から多数の失業者が都市に押し出され、都市には失業者によるスラムが形成された。そのスラムはエンゲルスの『住宅問題』に登場した英国の産業革命で生み出されたスラムとは違っていた。軍需産業復興による労働需要による雇用機会の増大にも拘らず、引揚者を含む旧軍需産業からの失業者の中に、それを遙かに上回る大量の炭鉱閉山と農業構造改善による産構造の変化による都市流出で追加された失業者により、労働市場の極端な買い手市場になり形成された。そこには戦前からの炭鉱が抱えてきた朝鮮人労働者の強制連行の問題と、日本国内における未解放部落を炭鉱労働者として使ってきた問題が、一気に顕在化した。中でも日本と国交がない朝鮮民主主義人民共和国住民の扱いに苦慮し、政府は日赤ベースでの国外移送政策を採った。
当時の日本には、その後10年以上低賃金労働者供給させ続ける以上の失業者が存在し、それらが日本のスラムを存続させた。巨大な低賃金労働力の供給は、軍需産業に低賃金労働力を供給する好条件を提供し、軍需物資の低価格安定供給を約束した。この低賃金構造を維持することで、国は失業対策を兼ねた公共事業によって都市の経済活動を担うインフラ整備を容易にした。当時、わが国の経済政策に取り入れられたケインズ経済学どおり、公共事業により財政需要が国家経済を牽引することで、政府の財政政策主導で、計画通り、わが国が10%以上の高度経済成長を10年以上継続することが可能にした。その経済政策成功の最大の環境は、低賃金労働力が無尽蔵に供給されたことにある。
しかし、住宅需給関係は破綻し過度の住宅難世帯が発生し、住宅難の解消が大きな社会問題であり続けた。私自身上京後、建設本省住宅局で働き、結婚し子供に恵まれて後約10年間、公務員住宅に申し込んでも入居できず、公団賃貸住宅に40回以上応募し落選を繰り返した。その間、通勤1時間の横浜の2階建て木賃アパート(半間の炊事場付6畳一間、共用トイレ、公衆浴場利用)に、家族3人での生活を余儀なくされた。しかし、それは当時の東京都で働く勤労者の一般的な都市生活者の状態であった。公務員の多くは利権化した公務員住宅や公共住宅に「管理人名」や不正名簿記載で裏口入居していた。一方、厳しい炭鉱閉山と農業政策で失業に追い込まれた未開放部落と朝鮮人問題は、スラム問題を都市で引き起こした。そのスラム対策として住宅地区改良法が制定され、私は住宅地区改良事業の担当を5年間経験した。農業構造改善事業は農山村から山谷・釜ヶ崎という日雇労働市場へ出稼ぎ労働者や挙家離村労働者を押し出し、公共事業や建設工事現場の大きな低賃金肉体労働市場を形成した。
日本が石油の自由化を受け入れ、石炭価格と石油価格の差額をガソリン税として国家が徴収することで得た財源を利用し、政府は全国総合開発の土台となった道路財源により道路網整備を可能にし、都市改造土地区画整理事業と結びついて宅地造成事業が全国に展開した。日本経済は軍需産業として育てられた鉄鋼産業、自動車産業、船舶産業、機械産業、電機産業など重厚長大産業を発展させた。それらの産業は国内の基幹産業基盤となり、その経済活動を支える物流幹線として、高速自動車道路、新幹線、地下鉄、私鉄、バス輸送網が整備された。そして、商業・業務・住宅施設として超高層建築物、地下街開発、住宅団地開発を進め、経済開発に対応したプレハブ住宅産業を発展させて行った。経済成長を象徴する事業が1964年東京オリンピックと大阪千里万国博覧会であった。
政府施策住宅も日米安全保障条約を背景にする日本側の財政負担対象として新産業都市及び工業特別整備地区へ重点配分された。米軍の兵站基地としての性格は現在まで継続しているが、日本の経済規模それ自体が急拡大し、米軍の軍需に依存する比率が相対的に低下し、1975年ベトナム戦争終結で、軍需需要は一挙に縮小した。ベトナム戦争終結後は軍需産業の復興を軸に進められた日本の経済復興は終焉を迎え、住宅政策はそれまでの軍需産業政策の対象を失った。それは日本の産業全体に及んだ政策転換であった。軍需産業向け住宅政策に代わって政府が育成した住宅産業の経営保障が住宅政策となった。しかし、日本では住宅産業と日本経済成長を目的にした経済政策が行われたが、国民本位の住居費負担の軽減や住環境を中心にした住環境形成を目的とした都市計画と一体になった住宅地開発や、社会住宅政策は公共賃貸住宅政策を除き、戦後から現在まで行われて来なかった。
私が住宅・建築・都市問題と歩んだ半世紀は、日本が米軍の兵站基地を支えるための産業政策としての住宅政策と、住宅産業自体が成長するための産業・経済・金融政策であった。日本には欧米の社会住宅のように、国民の家計支出の範囲で適正な品質の住宅を供給する生活本位の社会政策は、公営住宅法にその考えが例外的に反映されているが、1976年から主体となった住宅金融公庫による持ち家政策からは完全に消滅して行った。現在の住宅政策はハウスメーカーと住宅金融機関が巨額な利益を上げる一方で、国民は独占価格で住宅を購入させられ国民の資産を不当に奪ってきた。

バブル経済からバブル崩壊後の住宅政策
1980年「プラザ合意」以降、円高ドル安の経済環境の中で輸入住宅が政府を挙げて取り組まれ、米国・カナダからの住宅産業技術の導入が積極的に行われた。米国とカナダは日本の輸入住宅政策に対応して、米国の住宅の生産性を高める住宅産業経営技術(CM:コンストラクションマネジメント)を日本に技術移転し、日本の住宅産業を強化することで住宅用資材の輸出促進を図ろうとした。しかし、日本の住宅産業は生産性を高める技術移転を受け入れようとせず、政府は住宅産業の体質を改善しないで、利潤獲得に偏り、そこで取り入れられた技術は、単に洋風住宅の魅力で住宅販売促進を図ったため、輸入住宅は高額な住宅とリゾート開発に向けられ、バブル経済に踊った住宅都市開発となった。日本の住宅政策は不等価交換販売と不等価交換金融を容認することで住宅産業と住宅金融機関に不正利益を供与し、国民は価格に見合わない住宅を購入させ、例外なく、資産を失わされてきた。
1990年のバブル経済崩壊後の経済環境の下で、住宅都市産業は住宅専門金融機関の無責任な金融と相俟って、壊滅的打撃を消費者に与え、住宅産業自体も経営破綻を被った。バブル経済崩壊後の対応が適切に行われず、政府の指導により地価の下落を粉飾経理し、銀行への金利支払いを行うことで不良債権を隠蔽した。活用できない土地購入費用の利払いにより経営が悪化し、法人税納付できない企業が増大した。常雇職員を非正規雇用職員に転換し労賃総額を削減した結果、所得税は縮小し、法人税の減収と相俟って、国家の財政を厳しくした。政府は国債発行により財政欠陥を補ったが、やがて国債償還財源を生み出すため赤字国債を発行し、国家財政は破たんに向かって急落下するようになった。バブル経済崩壊後の国家財政は税収が伸びない小泉政権下の財政政策の結果、国債は380兆円(2001年)から670兆円(2006年)に1.7倍に累積され国債償還の財源として赤字国債が発行された。担税能力を失った企業が増大し納税額が減少した。企業経営の悪化が雇用体系を非正規雇用依存に転換させ、労賃の低下が労働者の家計支出を厳しくし購買力を低下させた。企業経営の悪化で発生した財政危機下で、国家が取り組んだ政策が、法人税の軽減と憲法で定めた私有財産権の保障を蹂躙し不良債権を帳消しにするバブル経済で崩壊した地価を回復させる都市再生事業であった。

「聖域なき構造改革」という憲法蹂躙の「統治行為」
財政破綻に直面し、2006年日本の住宅政策自体が全面的に見直され、住宅金融公庫、都市整備公団及び地方住宅供給公社の住宅供給が廃止され、住宅政策の基本が民間の住宅産業に中心が移された。
財政危機の解消と法人税の支払い能力を失った企業の不良債権の解消、経済の体質改善と景気刺激を目的に規制緩和政策が実施された。「聖域なき構造改革」と呼ばれた規制緩和政策は、不良債権の原因となった地価の縮小分の企業損失を、容積率を緩和する「贋金(土地)造り」によって回復する都市再生事業として展開した。都市再生事業は国民の私有財産の保障を定めた日本国憲法を拡大解釈し、社会・公共的土地利用空間をバブル経済の崩壊で資産を失った企業に、都市の社会公共的空間を無償で、排他独占的に所有できるように提供し不良債権を処理させ、担税力のある産業に復興する政策であった。国家が財政負担をしないで企業救済と国家財政力回復を図る財政危機の回避する「緊急の国家統治行為」を理由に、憲法違反の政治(立法、行政、司法)が「聖域なく構造改革」として強行された。
「聖域なき構造改革」は憲法に定められた平等の原則、私有財産の保障、生活権の保障という国家と国民の間で決められた憲法を蹂躙し拡大解釈され、ハウスメーカーと住宅金融機関の利潤と経営拡大のため、住宅の不等価交換販売と不等価交換金融を支援する住宅政策を実施した。その結果、政府が規制緩和政策で訴えたとおり、6年間に15%の経済成長を果たし、不良債権で苦しんだ企業は救済され、それに便乗した都市開発が大都市のスカイラインを短期間に変えるほどの利益を挙げたことで国家は当面の財政危機を切り抜けた。一方、住宅を購入した国民は『中古住宅流通合理化ラウンドテーブル報告書』(平成25年、国土交通省)に記述されたとおり、「住宅購入者は例外なく、50年以内に、住宅の資産価値の過半を失った」。東日本大震災で住宅を失った国民に負債だけが残る住宅金融政策や、住宅を購入し資産を失う政策を実施してきた国は、世界中で日本以外に存在しない。
その問題を日本のバブル経済と比較すると、2002年から米国で発生した住宅バブルは2007年にリーマンショックで終焉を迎えたが、その対比は明確である。欧米では住宅の購入を投資と考え、20年後には購入時の住宅資産価値の2-3倍に住宅資産を増殖する政策を実施し国民が確実に資産形成できている。住宅を保有する者は例外なく資産価値が増殖し豊かになるが、住宅を購入できない者を、住宅取得により豊かにするため、クリントン政権時代に融資保険制度により97%融資を実施した。但し、金融機関は返済能力の不足する借主の融資金利を高めたサブプライムローンを行った。そのローンの制御を誤ったため、低所得者の住宅購入が煽られサブプライムローンの貸し過ぎが返済不能を起こし破綻の途へ走らせた。住宅が投機の対象にされた結果であった。米国の住宅バブルは住宅が資産価値を一貫して上昇させる住宅産業の健全経営が金融投資・投機の対象にさせられたために発生した事故である。そのため2008年から8年かけて、米国は住宅投資・投機を制限するとともに、住宅産業の持つ健全な経営方法を生かし、2015年には住宅バブル崩壊前にまで回復させた。
一方、日本では住宅販売で国民の住宅資産が蝕まれている理由は、ハウスメーカーと住宅金融機関の不等価交換販売と不等価交換金融の問題が政府に依って容認されたため、住宅を購入した人の損失は回復されることは有り得ない。ハウスメーカーが設定した独占販売価格の約3倍の担保を押さえ、独占価格通りの融資を行った。そのため、ハウスメーカーと住宅金融機関は巨額の利益を先取りし、損失は住宅購入者に押し付け消費者から縁を切った。ローンの償還期間は35年で元金返済を遅らせる元利均等償還であるためで、購入した木造住宅は日本の不動産定評価で資産価値がゼロと評価された20年目には、残債額は融資額の70%残り、その後15年間もローン返済義務が残されている。企業経営が悪化し終身雇用制度が反故になろうとした現在、50歳で転職、退職を余儀なくされた時点で、ローン返済はほぼ確実に返済不能状態に陥り住宅は売却を余儀なくされ、住宅を売却しても住宅ローン負債だけがのしかかってくる。そして生活するため賃貸住宅を借りなければならなくなる。
バブル経済の崩壊で地価が縮小し損失を抱えた企業の損失分を、都市再生事業による法定都市計画の改正や、規制緩和の行政処分で社会的空間を排他独占的に企業資産に吸収させ、損失の回復を行わせたため、不良債権に悩む多くの企業は代償を支払わずに健全経営に回復できた。その反面、都市再生事業の実施された地域の近隣地域では都市環境は悪化し、都市に延べ面積の拡大と人口と産業を詰め込んだ結果、都市施設は過重負担となり、大震火災や津波等都市災害に対する危険性が拡大している。また、マンション建て替え事業の推進により、建て替え事業者が富を増やした一方で、区分所有者の全てがその資産の一部を奪われ、また、高齢者や経済的弱者は地域から追い出された。政府は法人支援策「聖域なき構造改革」を行ったが、現在の国債残高は1、200兆円に留まることなく増大している。

三権分立していない行政従属の司法
都市再生事業として行われた行政処分は、法律に違反すると国民が判断し、行政不服審査請求や行政事件訴訟が全国各地で提起された。私は行政法の知識・経験を生かし住民の生活危険を避けるため、10年間に約100件の行政事件訴訟を争ってきた。行政処分違反の訴えは「聖域なき構造改革」の政策により、行政府が政府立法として憲法違反の行政法を準備し、立法府は行政に従属し憲法違反の法律案を国会議決した。行政府は行政目的どおり憲法違反の行政法の施行にあたり、更なる緩和(違反)を加算し違法な行政処分を行った。行政処分が行政法及び憲法に違反する住民が訴え、司法の場で行政処分の違反が争われたが、殆ど全てが行政庁の答弁が追認され、住民の訴えは却下された。
行政事件訴訟で争われた事例から分かったことは、都市再生事業を推進する官僚が許認可の申請書を欺罔する違反事件を行政指導し、開発事業者と共謀し規制限度を2倍も逸脱した都市再開発事業を幇助したためである。住宅・建築・都市政策が行政法の規範を失い争われた行政事件訴訟は、司法が行政モラル崩壊を是認し、国家の経済成長と景気回復を優先させ、産業救済本位の判決をおこなった。
日本は法治国であると義務教育されてきており、立法、行政、司法の3権が日本国憲法の定めに従って相互に牽制し合い、民主的に法律を施行する制度になっている。立法や行政は政治的な判断に支配されても、司法は法律の番人として法律に照らして公正な判断をしてくれると信じられてきた。しかし、「聖域なき構造改革」に関する行政事件訴訟を見る限り、司法は違法な立法及び行政処分を追認するだけで、三権分立の機能を全く果たしていない。それは、日米安全保障条約という日米同盟の縛りによる政府の統治行為が憲法違反によって行われた。この「統治行為」として憲法違反が容認される方策を使って、小泉・竹中内閣は財政危機に直面し、憲法で定められた国家と国民の権利義務の関係を蹂躙し、不良債権に縛られた企業を救済し、国家の景気を回復し経済活動を回復し財政再建を目指した。小泉・竹中内閣は国会が承認した「聖域なき構造改革」に対し、司法もまた国家の統治行為としておこなった規制緩和の行政処分に沿うことを、政府の統治行為として行われたことにより服従した。
1959年東京地方裁判所は、刑事特別訴訟法で被告にされた米軍施設に入った学生は有罪であるとした刑事特別訴訟法は、日米安全保障条約が根拠である。その日米安全保障条約自体が日本国憲法に違反しているから、それを根拠にした特別刑事訴訟法は無効である。よって、同法による有罪判決は無罪と判決した。その砂川判決に対し政府は最高裁判所に飛躍上告をした。日米安全保障条約が日本国憲法に矛盾することに対し、田中耕太郎最高裁判所裁判長は、日米安全保障条約を日本国憲法に照らして裁くことができても、統治上の憲法で裁く必要はないとの判断(統治行為論)を示した。小泉・竹中内閣は、憲法改正できない日本の現状で、当時700兆円超の国債を抱えデフレ・スパイラルを断ち切るため、国民の権利と富の分配を定めた憲法を蹂躙しても、「聖域なき構造改革」として国会承認を得た根拠のある統治行為であるから、都市再生事業は容認されると小泉・竹中内閣は考えた。
累積した赤字国債発行を常態化している危機を回避するためには、不良債権を帳消しにし、企業の担税能力と企業の労賃支払い能力を高めるために、憲法違反を犯しても都市の社会的空間の企業による排他独占的利用を認めることも已む無しと判断した。小泉・竹中内閣による「聖域なき構造改革」は都市再生事業を実施し、経営不振企業の粉飾債権を都市再生事業で処理させ、不良債権債務を棒引きさせた。しかし、都市再生事業はバブル経済崩壊の際の企業経営を失敗に陥れた経営者責任を曖昧にしただけではなく、わが国の住宅・建築・都市の法秩序を混乱に陥れ、国民の都市計画の公共性に関する信頼性を失わせ、大都市に来襲が予想されている大震火災に弱い都市を造ることにしてしまった。

未来の国家経営に残すべきテキストの作成
本書では、わが国の戦後の住宅、建築、都市行政を産業中心の政府や御用学者の歴史見解や分析ではなく、建設本省で政府立法と建設行政に携わり、その後、立法及び行政の実体とその歴史観に対する疑問を、欧米の住宅・建築・都市政策と比較・検討した。その後、「聖域なき構造改革」に関し約100件に及ぶ行政事件で疑問に感じたことを、半世紀間に私が経験した住宅政策の疑問を欧米の住宅政策と比較研究し必然的理由を解明し、「戦後から現代までのわが国の住宅都市産業政策史」としてまとめた。
1962年からの25年間の戦後復興と高度成長時代の官僚時代、都市計画法の制定や建築基準法第5次改正の立法および住宅、建築、都市行政を担当した。その間、枠組壁工法をカナダから導入し建築基準法に基づく技術基準に纏めた。都市計画法及び建築基準法の立法作業を通し、日本と北米の住宅産業力の格差を痛感し、日米格差を埋める技術移転と調査研究を行った。
1973年、田中角栄が東南アジア資源確保に東南アジア歴訪時、反日暴動が勃発した。日本政府はその修復の社会開発事業のため、私はインドネシア共和国、都市・住宅局とPerumnas(住宅都市公団)に3年間派遣され、3つの都市開発プロジェクトの実施を通して技術援助の難しさを経験した。帰国後、住宅都市整備公団で4大都市圏の20年後の宅地需給調査を実施した。1988年に退官後の25年間、民間の輸入住宅・輸入建材会社で米加両国の住宅産業からの建材や技術輸入を担当した。その間バブル経済の崩壊とその後、日本の住宅産業界の復興に向けて、欧米の住宅・建築・都市の技術移転するため、住宅生産性研究会(HICPM:Housing Institute of Complete Project Management)を設立した。1996年にHICPMは全米ホームビルダー協会(NAHB:National Association of Home Builders)と相互友好協力協定を締結し、NAHBの住宅産業向け建設業経営管理のテキスト翻訳・解説出版をする傍ら、全国各地で工務店に対し、建設業経営管理(CM)技術移転教育研修を実施してきた。『日本の家、アメリカの家』、『アメリカの住宅生産』『アメリカの住宅地開発』など住宅と住宅地開発の書籍を多数刊行した。最新の成果は、欧・米・日の3国住文化比較を『フローの住宅、ストックの住宅』として刊行した。米国では、1980年代以降、資産形成を実現する住宅地経営技術、TND(Traditional Neighborhood Development)が生まれ、1992年以降ニューアーバニズム(New Urbanism)開発までの欧米並みの品質の住宅を国民の適正な家計支出(世帯年収の3倍)で提供できる住宅地経営技術を日本国内に、HICPMの活動を通して技術移転を行った。
「大統領の回顧録」は大統領が経験した歴史認識とその対決の経験を記載した歴史書として後世の政治に重要な役割を果してきた。本書は戦災復興から戦後の経済復興時代を官僚として働き、その後バブル経済の崩壊後民間で住宅産業への技術移転を行ってきた経験をまとめた実務レベルの歴史書である。本書で扱った事件に対し、私自身が関係して得た知識及び情報をできるだけ分かり易く取り入れ、日本の行政の実態を行政関係者だけではなく、広く国民に知らせるように努めた。



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