メールマガジン

HICPMメールマガジン第674号(2016.08.08)

掲載日2016 年 8 月 8 日

HICPMメールマガジン第674号(2016.08.09)
みなさんこんにちは、

私はこれまでいろいろな形でフランク・ロイド・ライトに関心をもち、その著作、建築作品、ライトの諸相、建築論などを勉強する機会に恵まれてきました。私がかつてタリヤセン・ウエストで購入した冊子に記載してあった「ライトの建築の4原則」がどの本であったかを忘れ、もう一度その原点を探ろうと色いろな本を読み直していた。その矢先、最近アントニンレイモンドの事務所で10年間働き、カリフォルニア大学バークレイ校で建築の教鞭と取り、ライトの「落水荘」、タリアセン、シカゴのロビー邸などの住宅を調査し、単行本でライトの建築を紹介している三沢浩の講演を聞き、その著作を数冊読んで、ライトの建築を考える機会を得た。

ライトに対する専門家の評価
三沢浩氏は東京芸術大学で吉村順三とライトをめぐって近い関係にある人と説明され、その略歴からは、これまで私が聞いてきたライト像とは大きくかけ離れていた。わたくしの「ライト像
は、私が翻訳した『アメリカン・ハウス・スタイル』の著者で、ライトを尊敬してライトに教わりたいとタリアセンイーストまで出かけ1週間ほどライトを待ち、そこでライトの建築思想にふれて虜になったジョン・ミルンズ・ベーカー氏から直接聞いたベーカーさんの見たライト像に大きく影響されている。ベーカー氏は、そのプレーリーデザインに大きな影響を与えたシカゴ・コロンビア博覧会に出展された宇治平等院鳳凰堂の2分の1模型の米国における反響や、吉村順三がロックフェラーの要請に応えて作ったMOMAの中庭に造った「松風荘」が戦後の米国の住宅設計にいかに大きな影響を与えたかという話は、これまで私が調べてきた「ライトの住宅デザイン」を最も納得のいく形で説明するものであった。

ライトにも共通する吉村順三の設計理論
東京芸術大学に吉村順三展を見に出かけたとき、そこでビデオを通して説明を受けた吉村順三の設計論や私がかつて、ペーパーバックスで出版された「ライトのユーソニアン住宅」について、国民にとって建築家がデザインにおいて保障すべき住宅としてライトが提唱している住宅論や、吉村順三住宅論と設計の考え方の次元として大きく食い違った三沢浩の話に驚き、その説明を受け入れるにしろ、受け入れないことにするにしろ、よく調べないとわからないと改めて思わされた。
ジョン・ミルンズ・ベーカー氏から、『アメリカン・ハウススタイル』の出版のための翻訳権を得て翻訳出版にこぎつけ、1998年にニューヨークでお目にかかったとき、1954年ごろ松風荘を実際に何度も見学したベーカー氏に、日本の輸入住宅の取り組みで「オープンプランニング」が住宅設計の話題を独占している話を説明しました。そのとき、ベーカー氏は、松風荘が建設されたときの戦後の米国の住宅デザインとして書院造が大きな意味を持つと考えたロックフェラーの考え方と実際に、書院造の建築・松風荘が、1954年、MoMAの中庭に建築され、米国住宅産業界の驚きが、日本人が輸入住宅によって米国からのオープンプランニングの輸入住宅を見て驚いたと同じ驚きであったに違いないという考え方を説明してくださった。
ベーカー氏の考え方は、ライトの設計論は松風層にも共通する日本の古典的な設計論を基本的に踏襲するものである。松風荘という吉村順三が設計した書院造の持つ伝統的建築設計理論が第2次世界大戦後の米国の住宅のモデルになるという驚きが、展示期間が終了したとき、「壊すことのできない建築物としてフィラデルフィアのフェアマウント公園に移築された。

F・L・ライトの米国における評価
私は全米ホームビルダー協会やAIAがライトを高く評価し、重大な表彰をするとともに、米国の「ビルダーズマガジン」誌が「20世紀を作った米国の偉人」を住宅産業関係者から投票で先行させたとき、F・L・ライトは100年の偉人の第2番目に選ばれた。ルーズベルト、フォード、ニコルズ、レービット、など、現代の米国の住宅産業の礎を築いた人の中で、ライトがルーズベルトに次いで第2位に選ばれた理由は、ビルダーズマガジンに簡単に記述されている。しかし、それではよくわからないので戦後の米国の住宅産業を調べ、米国では国を挙げて住宅は最重要な政策対象であると考えて取り組んできたことを米国の住宅産業政策を通してこの目で見せつけられるとともに、ライトの偉大さを改めて知らされた。HICPMのビルダーズマガジンも、これまでその理由を追求してきた。

日本の寝殿造りに影響されたプレーリーのデザイン
ライトは偉大な建築家であることは多くに人が指摘していることであるが、やはり普通の人間以上に自己顕示欲が強く、そのオリジナリティに対する主張を、「神秘性」のヴェールに隠していることに、アメリカンボザールの人たちにたたかれとおしてきたライトが、「真似したデザイン」として非難されることがないように警戒し、「自分の天から啓示を受けた創作」煙幕を張った極めて人間らしさがあるように思われる。ライトのプレイリー様式といわれるものは、当時全米に大きく評価されたが、そのデザインは当時米国の建築界を支配していたマッキム・ミード・ホワイト事務所が支配した「アメリカンボザール」とも「アメリカンルネサンス」と呼ばれていた勢力からは非常にけなされ、差別されていたことを忘れてはならない。プレーリーを米国のシカゴの大平原から考えたオリジナルなデザインといわず、日本の建築にその起源があるとでも発言したら、ライトはアメリカンボザールの建築家からたたかれたに違いない。シカゴのプレーリーをすることで、非難する理由を与えなかった。

19世紀末デザインを受け入れた欧米と共通したジャポニズムデザイン
フランク・ロイド・ライトが最初に就職したジョセフ・ライアン・シルスビーのもとで製図工として約1年間勤務した。この建築家のいとこがアーネスト・フランシスコ・フェノロサである。明治の初めに本にきて日本の文化を欧米人として初めて評価した日本美術研究家である。アーネスト・フランシスコ・フェノロサは、アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者で、明治時代に来日したお雇い外国人で、日本美術を評価し、紹介に努めたことで知られている。アーネスト・フェノロサはハーバード大学で哲学、政治経済を学んだ。先に来日していた動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(大森貝塚の発見者)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じた。フェノロサの講義を受けその後フェノロサのパートナーとして働いた者には、『茶の本』を英文で書いた岡倉天心がいる。フェノロサの専門は政治学や哲学であり、美術が専門ではなかったが、来日前にはボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はもっていた。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力した。

ジャポニズムを受け入れた19世松の欧米
第1回ロンドン万国博覧会、第2回パリ万国博覧会で、日本の江戸時代の中世文化がジャポニズムとして非常に関心を持って迎えられ、日本に対する関心は欧米全体に広がっていた。日本が欧米に倣って近代化を進めようとしている一方で、19世紀末を迎えていた欧米では世紀末文化への関心が高まり、その中で日本の文化は19世紀末の欧米が求めていた文化と共通するものがあるとして、ジャポニズムへの関心が高まっていた。その日本文化に対し高い評価を持って臨んだ人が、アーネスト・フェノロサであり、日本にルネサンス建築設計教育の教師として招聘されたジョサイア・コンドルであった。
フェノロサは岡倉天心とともに日本文化を欧米に紹介することで大きな成果を上げたが、そのフェノロサは、ライトが最初に働いたシルスビーの事務所の解説者のいとこで、その事務所にはフェノロサが日本から持ち込んだ浮世絵が多数張られていた。ジャポニズムに対する欧米の評価はフェノロサの日本文化評価の高さにより、ライトの美的感覚に大きな影響を与えたに違いない。即ち、当時欧米を席巻したいたルネサンスデザインとは別に19世紀末の欧米を支配するデザインとしてジャポニズムの存在を意識するとともに実際に鳳凰堂建築の建築を見て、その評価な確信につながった。

シカゴコロンビア博覧会と宇治平等院鳳凰堂
1893年シカゴコロンビア博覧会はシカゴのハイドパークで開催され、世界各行を代表するする優れた建築デザインの出展が求められ、日本政府にも出店要請があり、政府で検討したところ日本を代表する建築様式として寝殿造建築が候補として挙げられ、日本政府はその象徴的な建築として宇治平等院鳳凰堂の2分の1の模型を出店することになった。寝殿造とは、中国の寄贈建築を日本に輸入させた当時の帰属向け輸入住宅で、その代表的な建築物は御所のような天皇の邸宅である。当時の日本の貴族たちは寝殿造りでその邸宅を競って建築したといわれている。日本政府としては日本を代表する建築物が欧米社会で尊敬されることを目論んでいた。
シカゴコロンビア博覧会ではその中心となった建築物が西欧のエコール・デ・ボザールで近代建築のモデルとされていたルネサンス建築であったので、シカゴコロンビア博覧会は「白の博覧会」と呼ばれたように大理石でつくられたルネサンス建築の共演の場となっていた。その中の異端がシカゴ派のルイスサリバンが手掛けた駅舎建築と日本からの寝殿造であったといわれる。いずれも高い評価を受けたが、ニューヨークを中心に活躍するアメリカンボザール派からは差別的な評価しか与えられなかった。ライトは自らコロンビア博覧会の建築現場で働き、日本から出展された鳳凰堂の建築をつぶさに見学し、それは基本的にシカゴの大草原と同じ中国大陸に建築された大平原建築として取り入れる普遍性の持てるデザインであると確信したに違いない。

ライトのオリジナルと日本文化
ライトは日本文化に精通し、たぶん、フェノロサからもその評価を聞き、日本文化に引かれ、その後浮世絵のコレクターおよび取引業者として日本文化が米国人の心を魅了していることとその理由を感じたに違いない。後年、ライトは駐米日本大使から岡倉天心が著した『茶の本』を送られ、そこで日本文化の神髄である「道教の思想」を発見し、それは自分がこれまでの仕事の中で発見したものであると驚くとともに、その後、茶の空間の考え方をライトのオリジナルな空間の考え方のように主張するようになった。実は欧米の建築空間に関する考え方は、基本的に『茶の本』に書かれている人文科学的に言う「場」の考え方であるが、ライトはシビルエンジニアリングを卒業し、物づくりとして建築を学んでいたこと方、欧米における人文科学的な空間との理解は『茶の本』によって学んだということになる。シビルエンジニアリングとして建築(ヒューマニティーズ)を学んでいなかったライトにとって、シルススピーの建築事務所や、そこでのフェノロサとの出会い、浮世絵との出会いによって、その後の「有機的建築」論という形でとしてまとめられたと考えられることになる。

ライト研究の断片性
三沢浩氏や谷川正巳氏の説明は、個々のライトの作品に対する説明はたくさんの情報で説明されているが、いずれも断片的で、個別の建築の説明として理解できるが、デザイン及び設計の歴史文化に根差す事柄に関しては、19世紀末の建築デザインや設計の流れや、バルーンフレーム構造がシカゴの街を作ったといったことがシカゴ火災の遠因になったことなど、建築・住宅・都市の形成に関し私のこれまでの知識と矛盾する説明があまりにも多すぎる。そこで、この機会にライトの提唱するユーソニアムに焦点を当ててライトの考えている住宅デザインを勉強しなおそうと思って、ライトの研究者として著名な歴史家・谷川正巳、ライトの手紙を翻訳した建築家・内井 昭蔵、歴史家大久保美晴らの著書を買い集め、片っ端から読みはじめた。
ライトという建築空間づくりの天才は、嘘も虚栄も名誉も金銭欲も強いにもかかわらず、それをおくびにも出さないですべて自分のオリジナリティとして立派な思想を展開している。米国の建築家の間でもプレイリー様式は寝殿造りをモデルにしたことは、米国の建築や住宅雑誌にも一般的に記述されていることであり、『茶の本』に見られる設計思想を基本にしているにもかかわらず、そのすべてがライト維新の創作であるといって、「日本」、「日本文化」から学んだことはないと言い切っているところに、ライト固有のアメリカンボザールのグループに対する自衛的な秘密があるように思われる。そこにはライトが学んだオリジンを隠した建築論を展開する人間味のギラギラしたライトを発見した。

ライトのオリジナリテイと日本文化の影響
ライトが活躍し始めた当時、フランスのエコール・デ・ボザールに留学していない建築家には発言権が与えられなかった時代に、ジャポニズムの人気のベースとなっている長い歴史を踏まえた中国の邸宅建築の歴史を米国の大草原(プレイリー)のデザインに読み替えて、それをジャポニズムに対する国民的共感と結びつけて、「米国オリジナルなプレイリー様式」として、「日本のこと」や「寝殿造りのこと」をおくびにも出さず、そのデザインの普遍的な優秀性を独自の創作デザインとして公表し、やがてヨーロッパの出版社から世界に向け発信したライトのオリジナリテイに、ライトの卓越したデザイン力と並んで、そのデザインソースを口出さない優越感と劣等感が共存して形成されたライトの自己主張に仕方を見ることになる。
(NPO法人住宅生産性研究会(HICPM)理事長 戸谷 英世)



コメント投稿




powerd by デジコム