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HICPMメールマガジン第677号(2016.08.29)

掲載日2016 年 8 月 29 日

HICPMメールマガジン第676号(2016.08.29)
みなさんこんにちは

住宅産業関係者に知ってもらいたいこと:日本の住宅政策は国民を貧困にする
わが国の住宅産業関係者の多くは、日本の住宅産業と政府の住宅政策とが、どのような関係があるのかを知らないだけではなく、知ろうともしていません。その結果、住宅産業が活動している社会経済・金融基盤のゆがみを無批判に受け入れさせられて事業を行ってきたことで、住宅産業自身が住宅購入者を不幸に貶めてきました。住宅購入者に対し「貧困化の墓穴を掘ってきたこと」を産業界自身が知らないのではないでしょうか。現在の政府の住宅政策は、「国民が住宅を取得すれば、必ずその購入価格の半額以上は確実に失う」とともに、「国民の生活を長期間かけて、知らぬうちに蝕んでいく政策」を行いながら、政策実施責任を全く自覚せず、住宅産業はその下手人にさせられています。
その理由と住宅政策の仕組みを多くの住宅産業関係者に知ってもらおうと考え、できるだけ具体的に、これから4回のシリーズで、日本の住宅政策の解説をすることにしました。歴史的経緯を追いかけて住宅政策を追いかけて、かつ、米国の住宅政策との比較を取り入れて、私の住んでいる多摩ニュータウンで実際に起こっていることを使い、話題性を考えてお話しすることにしました。

第1回 
住宅政策に必要な資金供給制度MBS

日本の住宅産業関係者の方にMBSについて、以下のような質問をしたとき、殆ど回答が得られないだけではなく、MBS自体が、「何のことか知らない」という人や、「住宅産業とは、関係のないこと」のように思っている人が圧倒的多数を占めています。なぜ、そのようになっているかという理由は、政府が、「MBSを国民に正しく知られては困る」と考えており、国民にMBSを周知させないようにしているからです。政府は国民を騙している不正な金融制度を国民に知られたくないからです。政府の政策、特に住宅政策では、「由るべし、知らしむべからず」の非民主的な政策しか行っていないからです。MBSという制度がなければ日本の住宅金融制度は有り得ない最も基本となっている制度です。

(1)    日本の住宅関係者の方でMBSをご存知の方はどのくらいいるでしょうか。
(2)    日本のMBSが米国のMBSと同じか、違うかご存知の方はどのくらいいるのでしょうか・
(3)    MBSが住宅政策とどのように関係しているかご存知の方はどのくらいいるのでしょうか。
(4)    MBSは、いつから、何のために、どうして始められるようになったかご存知ですか

「日本のMBS」誕生の前夜
MBSとは、2006年に住宅建設計画法が破綻して政策変更を余儀なくされたとき、住生活基本法体系に住宅政策を切り替えたとき、経営破綻した住宅金融公庫という政府の金融機関を廃止して、それに代わるものとして創設した制度です。それは、民間の金融機関による金融に転換したとき、民間の金融機関による金融を継続的に持続性を維持できる金融制度として、米国のMBSという住宅金融制度を採り入れるというふれこみで取り組んだ制度です。しかし、実際に出来上がった制度は、米国とは全く基本の違った制度でした。しかし、その制度が、「米国のMBSと同じである」と国内外の関係者を欺くために、「MBS」と命名した制度にしました。
政府施策住宅が中心となった2つの時代
第1回は日本でMBSが生まれる時代の、更にその昔、現在のMBSの性格を決定する2つの住宅政策の時代がありました。そのいずれの住宅政策も国家の経済政策のためで、国民を豊かにすることを目的とするものではありませんでした。その一つは日本国憲法に違反し軍需産業を復興するための産業政策であり、もう一つは国が育成した住宅産業自体を発展させ、国の経済成長を進めるものでした。いずれも国家の経済政策の手段に住宅政策が使われたもので、国民は不在でした。その住宅政策の考え方が、現在の日本の住宅政策に引き継がれており、現在の日本の住宅政策の理解に不可欠と思います。

第1は、1951年の朝鮮戦争の始まりから1975年ベトナム戦争終了までの軍需産業育成時代の産業労働者向け住宅を産業政策として実施した産業労働者向け住宅と、軍事産業社宅に入居できないそれ以外の労働者を対象に、公営住宅、公団住宅、公社住宅と言う政府施策住宅で実施された時代です。
第2は、1976年、ベトナム戦争が終わって軍需産業のための住宅供給が不要になり、それに代わって住宅産業に軍需産業に代わる住宅需要を創造する政策が求められたとき、ケインズ経済学が日本の経済政策を指導し、経済的波及効果が大きい住宅産業政策が経済政策の牽引役として引き出された時代です。政府は、財政・金融を駆使して、政府施策住宅により日本の経済成長を担うことになった住宅建設計画法による政府施策住宅とした時代です。

この2つの時代は政府が政策を牽引しましたが、それぞれ、軍需産業の復興と、経済成長を目的とする住宅政策という別の政策目標に分かれています。しかし、いずれの住宅政策も表向きは、欧米の住宅政策と共通の目標を掲げていましたが、その実態は、軍需産業の労働者の確保のためであり、国民にできる限り借金をさせ、住宅産業のために住宅を購入させた政策でした。「国民の住生活の向上」は国民向けの宣伝で、欧米で当時取り組まれ始めた「社会住宅」とは全く違った政策でした。国民の負担力と国民の生活を本気になって考えたものではありませんでした。その証拠に日本の国民は、住宅政策により国民は貧困にさせられ、経済的には、都市を追って生活・文化的にも貧しくさせられてきました。

戦後の米軍の兵站基地となった時代の住宅政策(軍需産業復興のための住宅政策)
米軍の兵站基地として米国に求められた最大の要請は自動車、船舶をはじめとする極東での米軍の軍事行動に必要な軍需物資の生産を、戦前の軍需産業を復興して拡大することでした。そのため、1946年日本国憲法制定時に、GHQが日本政府に命令された「財閥(戦前の軍需資本)解体」が、事実上無効とされ、日本の軍需産業関係者に軍需産業で働くことが認められました。しかし、戦災で日本の軍需産業都市は焼夷弾で灰燼に帰したところから軍需産業を復興するために、まず軍需資本である財閥解体が中止されました。軍需産業労働者が出業者として国中にあふれていていましたが、軍需産業用に労働者として確保するために「住宅がない」という状態でした。そこで日本と米国政府の間で、「軍需産業労働者の住宅を建設する政策として、政府が住宅金融公庫を設立して住宅建設費用を用意すれば、財閥は住宅金融公庫から産業資金として産業向け金利で住宅建設融資の融資を受け住宅を建設し、労働者を確保でき、その融資の償還は労働者からの家賃で回収できる仕組みが作られました。

軍需産業に雇用されない下請け労働者や関連産業労働者には社宅が供給されないので、公的助成を受けた住宅供給が必要とされ、公営住宅制度や公社住宅制度、やがては公団住宅制度が整備され、国家を挙げて米軍の兵站基地として機能する日本の住宅供給をすることになりました。日本全体が米軍の兵站基地とされたため、政府施策住宅は日本全体をカバーする社会住宅政策のように説明され、多くの人は欧米の社会住宅政策と日本の政府施策住宅とを同じ制度のように勘違いさせられました。政府施策住宅とは、日本全体が米軍の兵站基地として軍需物資を生産する軍需産業復興政策を支える労働者住宅でした。

日本は米軍の軍需産業を担うことで重厚長大型の産業構造を育て、国民が餓死しなかったのも、軍需産業が復興され雇用されたからでした。日本国全体が米軍の兵站基地となって軍需産業を復興する政策の位置付け自体が、日本国憲法第9条(戦争の放棄)に真っ向から抵触していました。軍需産業の復興は国民の経済基盤を復興することになり、多くの都市の失業者を含む国民からは歓迎しました。そこで政府は日本国憲法と矛盾することを承知の上で日米安全保障条約を締結し、「国家の統治行為」として日米安全保障条約に基づく行政を行うことを憲法違反でも実施する体制がとられました。中谷防衛大臣は、「兵站は戦争とは関係しない」と説明し、「兵站活動は戦争行為ではない」と答弁しました。

日本国憲法と日米安全保障条約との矛盾は1959年砂川裁判で争われました。東京地方裁判所で敗訴したため、政府は最高裁判所に飛躍上告し、日本国憲法と矛盾する日米安全保障条約を遵守することは、「日本の統治行為として許される」という司法判断を出させました。それ以来、日本では憲法違反という言葉自身がタブーとなり、社会経済の環境変化で憲法を改正すべき事象が発生したときは、憲法第9条に影響するということで憲法を改正せず、「憲法の拡大解釈」することを内閣法制局に行わせて、それを根拠に行政法を改正することが行われ、事実上、憲法解釈をエスカレーションさせてきました。

住宅建設計画法の時代
1976年に始まった住宅建設計画法時代の住宅政策は、ベトナム戦争が収束し軍需産業用の住宅供給需要が、事実上、消滅しました。朝鮮戦争時代から日本が米国の極東軍事戦略上米軍の兵站基地とされ、米軍の極東軍事戦略上必法な軍需物資の生産基地としての機能を果たす役割から解放されというより、強制的にその任務を解かれることになりました。産業労働者住宅(住宅金融公庫)や特定分譲住宅(日本住宅公団)や新産業都市や工業特別整備地域への公共住宅(公営住宅、公社住宅、公団住宅)の建設は基本的に不要とされました。日本政府は軍需産業向け住宅供給を政府施策住宅として供給してきた住宅政策の大転換を求められた。住宅産業界の需要を維持するために、これまでの企業は公共団体や公団が住宅需要者に代わって、国民一般を住宅需要者とする政策への転換を求められました。その結果、住宅政策は、公営、公団公庫が中心となって直接国民に住宅を供給する政策に転換することになりました。

すでに経済成長が進み地価後高騰した時代に入ったことから、政府は高騰した地価に妨害されない住宅として、建て替え住宅政策により国民の持ち家住宅を進めるとともに、大都市の勤労者に対しては、中高層共同住宅政策により、地価負担を最小にして住宅産業用の事業費を最大化する政策が採られました。住宅取得者の住宅取得要求に応える持ち家住宅政策に転換した。そこで突然取り入れられた方法が、木造の償却年数を20年に定めた減価償却理論を持ち込んで、既存木造住宅の価値はないと政府が宣伝をし、住宅政策において取り壊しを容易にする「建て替え」を進めるとともに、住宅産業の住宅販売のため、高額の住宅による「ローン痛」を軽減するために、「35年超長期住宅ローン」を元利均等償還制度で取り入れられたことでした。

政府がこれまで育成した住宅産業を継続的に発展させるため、軍需産業向け住宅が不要になった代替需要を創出することが求められていました。住宅産業を継続して支援する産業要請に応えることも潜在的政策需要としてありましたが、政府は国の経済産業政策として、偶々住宅産業は裾野の広い産業として経済波及効果が高いことが指摘されたため、住宅産業政策を経済政策の基本に取り上げました。

そして、住宅に対する財政および金融政策を経済政策の中心に据えることになりました。建設省は大蔵省、通産省、経済企画庁と並んで経済政策を担当する省とされ、建設大臣も経済閣僚とされました。そのときから、住宅政策は産業界の経済成長を拡大するために利用され、住宅金融公庫が住宅産業の必要とする販売額を全額融資対象にする融資や「ローン痛」を先送りする超長期住宅ローンシステムを始めることになりました。産業界の経済発展のために住宅政策が利用された。住宅建設計画法はまさにその基本法で、それを全国津々浦々で実施するために地方住宅供給公社法が創設され、全国都道府県すべてに住宅供給公社が設立され、持ち家住宅政策を展開することになりました。
(次回は、「住生活基本法の時代」を扱います。)



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