戸谷の言いたい放題

「住宅産業本位から国民本位の住宅政策へ」の出版社を探しています

掲載日2016 年 11 月 17 日

約5年間かけて出版を目指して整理検討をしてきた「住宅産業本位から国民本位の住宅政策へ」という書籍原稿が、出版するところが見つけられなくて出版の足止めを食っています。この本では日本の国民は例外なく住宅を購入して貧困になっているが、それは欧米のように住宅を購入することは普通一般の投資する以上の住宅投資が資産形成になる理由を調査研究してきた結論です

その梗概が以下のとおりです。ご覧になって面白いとお感じになられたら、ご感想をお寄せください。そしてぜひ出版すべきとお思いになられましたら、適当な出版社をご紹介ください。


住宅産業本位から国民本位の住宅・都市政策へ

――国民が住宅により資産を失う政策から築く政策へ――

戸谷 英世
(NPO法人住宅生産性研究会 理事長)

序章 本書の目的と梗概

国家の立法、行政のインサイダーとして関係した経験を国民に還元するために
私は戦災復興から戦後の経済復興時代を建設官僚として働き、官僚による建設関連立法、政府の住宅・建築行政、建築研究所での研究管理、政府機関である住宅・都市整備公団、愛媛県土木部や大阪府建築部での住宅・建築行政、㈶国土技術研究センターでの研究開発、インドネシア政府への住宅開発援助、東洋大学(不動産学部)講師等経験してきました。官僚になり住宅施策に携わって四半世紀後、自主退官しました。その後、民間住宅産業で輸入住宅に取り組む傍ら、NPO法人住宅生産性研究会を創設し、全米ホームビルダー協会と相互友好協力協定を締結し、米国の住宅建設業経営管理技術および住宅地経営技術を日本の住宅産業に移転する業務とあわせ、欧米の住宅・建築・都市の調査研究を行ない四半世紀経ちました。最近二〇年間余は行政事件訴訟を通して日本の立法・行政・司法に内在する矛盾の是正に取り組んできました。その半世紀間の官民での取り組みの結果わかったことは、日本の住宅・都市政策は欧米とは反対に住宅産業経営本位の行政で、国民は住宅を取得する際の不等価交換によりに資産を奪われ貧困にさせられていることでした。
本書では「聖域なき構造改革」を象徴する行政訴訟事件を三件取り上げました。この三事件については、できる限り具体的に問題の根拠を明らかにして説明し、私自身が関係して得た知識・経験および情報を駆使し問題を分析し、事件の本質を紹介してきました。日本の行政の実態を行政関係者だけではなく、広く一般の方々に知っていただき、これからの日本の住宅・建築・都市問題に取り組まれる政治家、行政官、司法官、学者・研究者、産業人等あらゆる立場の国民の皆様のお役に立つよう、わが国で起きていることの必然的理由を取りまとめました。まず、私自身が住宅問題に取り組んだ経緯とどのようにして本書の結論にたどり着いたかの歩みから説明を始めます。

わが国の住宅政策と英国の住宅政策
私が住宅問題に関係したきっかけは、一九六〇(昭和三五)年、日米安全保障条約改正を巡る学生運動の最中にフリードリヒ・エンゲルス著『住宅問題』に出会ったときでした。住宅行政に携わろうと国家公務員試験上級職甲を受験し、一九六二(昭和三七)年、建設本省に採用され住宅局住宅建設課に配属されました。希望して担当した公営住宅法は内務省が英国の戦後のアトリー労働党内閣の政策情報を得て建設技術官僚(技官)たちが中心になり作成した制度でした。
英国労働党の政策はグリーンベルトを取り入れた都市計画制度、自らを都市経営の発明家といい、社会的に都市計画の父と呼ばれているエベネザー・ハワードが実現させた「レッチワース・ガーデン・シティ」を継承したニュータウン制度、地方自治体が行う公営住宅による社会福祉制度でした。
終戦まで内務省では高等文官が中心で行政が行われていましたが、技官が着実に実力を蓄え、戦後、土木官僚が中心になり全日本建設技術者運動を展開し、次官、局長、課長を技官が担当できる力を蓄え公共事業を通して技官出身の政治家を生み出すようになっていました。一九五一(昭和二六)年、住宅局技官が中心になり、英国の公営住宅法を日本の状況に読み替え、公営住宅法を作成しました。公営住宅制度は、一九四六(昭和二一)年に公布された日本国憲法の「主権在民」「地方自治」「健康で文化的な生活権の保障」等を取り入れ、地方公共団体を事業主体とし、入居者は家計費支出の二〇%以下の住居費負担を目標に国庫補助を行い、国民に住宅を保障する社会住宅制度で、新憲法の主権在民の考え方を生かし、議員立法された行政法でした。
私が配属された当時の公営住宅法は尚(しょう)明(あきら)住宅建設課長が事業を施行していました。しかし、公営住宅法は、鎌田隆男住宅建設課長以下技官が中心になって立法作業と並行してイギリス地方政務院発行の『ハウジングマニュアル』を翻訳し、『住宅建設要覧』(日本建築学会刊)として出版し、その内容を参考に公営住宅法の内容を整備し、英国に倣った公営住宅法の施行の円滑化を図っていました。私が配属された当時、公営住宅法の施行で技術的にわからないと、『住宅建設要覧』を見よ
と指示され、自分の仕事は英国の住宅政策と同じ仕事をしていると興奮したことを思い出します。

米軍の兵站基地となったことによる住宅政策
一九四六(昭和二一)年の日本国憲法の公布に合わせ、軍隊関係者の公職追放、戦前の軍需産業資本(財閥)の解体が決定されました。しかし、一九五〇(昭和二五)年朝鮮戦争が勃発し、日本国憲法で定めた「戦争の放棄」と矛盾して、日本は米国の占領政策のもとで米軍の兵(へい)站(たん)(戦争の後方支援)基地とされ、占領政策として戦前の軍需産業復興政策が実行されました。戦前の日本には軍需産業しかなく、戦後は、国内および海外から引き揚げ者を含んで優れた軍需産業労働者全員が失業状態にありました。米軍の兵站基地として日本を米軍の軍需物資供給の場とするため、米国は戦前の日本の軍需産業資本(財閥)の解体を中止し、戦前の軍需産業を復興するとともに、旧軍需産業労働者(失業者)を再び軍需産業で雇用させる米軍の兵站に、日本全土が組み込まれました。
終戦直前、軍需産業都市は連合軍による焼夷弾爆撃で焼失し、旧軍需産業の復興のためには産業労働者向け住宅供給は軍需産業復興のカギを握っていました。その軍需産業向け労働者の住宅建設資金を供給するため、一九五〇(昭和二五)年に占領軍は日本政府に建設資金を産業向け金融として供給する住宅金融公庫を設立させ、国民の預貯金で資金を運用させました。産業向け住宅金融はそれ以前にすでに占領軍の指示により戦災復興の国産エネルギーである石炭生産のため、炭鉱住宅の建設資金を炭鉱経営者に供給する業務を開始していました。そこで炭鉱住宅に対する企業向け融資と併せ、旧軍需産業用労働者向け住宅の供給が経済産業復興政策として始められました。
旧軍需資本が供給する住宅は企業の従業員に限定されていました。重層下請構造でつくられた旧軍需産業を復興するためには、軍需産業の下請業者や関連産業に働く労働者にも住宅を供給する必要がありました。それらの低所得労働者向け住宅として、政府が社会住宅を供給することが必要とされました。そこで、一九五一(昭和二六)年に公営住宅法が制定され、地方公共団体が事業主体となり住宅を供給することになりましたが絶対量が不足していました。政府は住宅金融公庫に財政援助を行ない住宅公社等に低金利融資を行ない、公営住宅に準じた低家賃公共住宅を供給し、公営住宅に入居できない軍需産業労働者に低家賃の賃貸住宅供給ができるようにしました。
一九五一(昭和二六)年東京裁判の終結を受けてサンフランシスコ平和条約が締結され、占領支配は終わり、米軍の駐留はできなくなりました。しかし、米国は朝鮮戦争のため日米安全保障条約を締結させ日本を米軍の兵站基地として継続利用しました。日本と米国との関係は表向きは独立対等で、日本から防衛要請を受けた同盟関係と説明されましたが、実態は占領政策を継続する米国に従属する不平等条約でした。米国は日本に軍需産業復興に必要な労働者住宅の供給を公営住宅、公社住宅等として、政府が財政および金融上の責任を負って実施することを義務付けました。
朝鮮戦争終了後も、米ソの覇権をめぐる熱戦は過去のフランス植民地インドシナ半島へ拡大し、民族独立戦争となり、それに合わせ米軍の兵站基地として日本の軍需産業需要は拡大しました。
一九五五(昭和三〇)年、大都市圏の住宅需要に応えるため、鳩山一郎内閣のときに日本住宅公団が設立されましたが、そこでも軍需産業の拡大にともなう労働者向け住宅が新たに、産業支援の特定分譲住宅(社宅)政策として実施されました。社宅に入居ができない軍需産業の下請業者や関連産業および一般勤労者の所得と家賃の乖離を埋めるための福祉政策金利を使った政府施策住宅(公営住宅、公団住宅、公社住宅)は、日米安全保障条約で日本政府の財政負担で実施することとされ、住宅政策の予算執行の監督責任は日本全土が米軍の兵站基地とされたため、日米行政協定により大蔵省が負いました。しかし、政府は日本の住宅政策のすべてが欧米に倣った欧米同様の社会住宅政策であると説明し、国民も日本の住宅政策を欧米と同じ住宅政策と信じ込まされてきました。

一九六〇年経済的負担対等の日米同盟下の住宅
朝鮮戦争以来、日本は米軍の兵站基地として旧軍需産業の復興により高度経済成長を果たしました。国内では米軍基地周辺で発生する米軍関連の犯罪処理を巡って、日米行政協定に代表される占領時代の不平等条約を是正すべきという意見が高まっていました。一方、米国からは日本の経済成長は米国民の税金で賄われた面が強調され、一九六〇(昭和三五)年の日米安全保障条約の改定では、日本に対等の経済負担を求める米国内の与論が台頭していました。日本政府は米軍の軍需に支えられて経済復興した事実を認め、日米安全保障条約改定では経済面での対等の負担に基本合意をしました。その結果、貿易、為替、関税の自由化を断行することが米国から求められ、それに付加して日本が自給してきた国産エネルギーの石炭を廃止し、米国から輸入する安価な石油へのエネルギーに転換するため炭砿を閉山するとともに、日本人の食糧自給の農業政策を放棄し、畜産物を含む米国産の安価な農産物の輸入を受け入れるため農産物自由化政策を受け入れました。
炭鉱の閉山と農業・林業、畜産業の構造改善が実施された結果、炭鉱と農山村から多数の失業者が都市に押し出され、都市には失業者によるスラムが形成されました。軍需産業復興による労働需要のための雇用機会が増大したにもかかわらず、引き揚げ者を含む旧軍需産業からの失業者に加え、大量の炭鉱の閉山と農業構造改善による失業者が都市に流出しました。労働市場は極端な買い手市場になり、膨大な住宅需要に応えた粗悪住宅が供給されました。スラムでは戦前からの炭鉱が抱えてきた朝鮮人労働者強制連行し、また、国内における未解放部落(同和地区)住民を、炭鉱労働者として酷使した歴史的な矛盾が一気に噴出しました。政府は日本と国交がない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国民の扱いに苦慮し、戦前・戦中の朝鮮問題の解決を行なわず、朝鮮国籍の人たちを赤十字社ベースでの国外送還し、国外問題化する政治的な政策をとりました。
失業者という巨大な低賃金労働力の供給は、軍需産業にとって好条件を提供し、軍需物資の低価格安定供給を約束していました。この低賃金構造を維持することは、国の失業対策を兼ねた公共事業により都市の経済活動を担うインフラ整備を容易にしていました。当時、わが国の経済政策に取り入れられたケインズ経済学どおり、公共事業(財政)による有効需要を創出する国家財政と金融政策が経済を牽引する政策をとりました。政府は公共事業等の財政政策主導で、計画どおりわが国が一〇%以上の高度経済成長を一〇年以上継続することを可能にしました。しかし、住宅需給関係は破綻し、過度の住宅難世帯が発生し住宅難の解消が大きな社会問題になっていました。
私自身上京後、建設本省住宅局で働き、単身時代を含め結婚し子どもに恵まれた約一〇年間、公務員住宅に申し込んでも入居できず、公団賃貸住宅に四〇回以上応募し落選を繰り返しました。子供が生まれ家族3人になっても、通勤一時間の横浜の二階建て木賃アパート(半間の炊事場付き六畳一間、共用便所、公衆浴場利用)の生活を、三年間余儀なくされました。このような貧困な木賃アパート居住は、当時の東京都で働く勤労者の一般的な生活状態でした。
一方、炭鉱の閉山と農業政策で厳しい失業に追い込まれた未開放部落と朝鮮人は、都市で多くの社会問題を引き起こしたため、環境対策として住宅地区改良法(一九六〇年)が制定されました。私は上司から適任と見込まれ住宅地区改良事業に転属され、五年間住宅地区改良事業を担当しました。農業構造改善事業は農山村から山谷・釜ヶ崎等の日雇労働市場へ出稼ぎ労働者や挙家離村労働者を押し出し、公共事業や建設工事現場の大きな低賃金肉体労働市場を形成していました。

産業構造の変換を利用した経済成長
日本が石油の自由化を受け入れ、石炭価格と石油価格の差額をガソリン税として国家が徴収することで得た財源を利用し、政府は全国総合開発計画の土台となった道路財源により道路網整備を実施しました。政府は道路網整備と一体に都市改造土地区画整理事業を行ない、宅地造成事業を全国に展開しました。日本経済は軍需産業として育てられた鉄鋼産業、自動車産業、船舶産業、機械産業、電機産業など重厚長大産業を発展させました。それらの産業は国内の基幹産業基盤となり、その経済活動を支える物流幹線として、国道、地方道、自動車専用道路、新幹線、地下鉄、私鉄、バス輸送網が整備されました。そして、工業、商業・業務・住宅施設と併せて、超高層建築物、地下街開発、住宅団地開発を進め、経済開発に対応した既存の建設業に依存しないプレハブ住宅産業を発展させました。経済成長を象徴する事業が、一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックと一九七〇(昭和四五)年に開催された大阪万国博覧会でした。
政府施策住宅も日米安全保障条約を背景にする日本側の財政負担対象として、新産業都市および工業整備特別地域へ重点配分されました。日本の米軍兵站基地としての性格は現在も継続していますが、日本の経済規模それ自体が急拡大し米軍の軍需に依存する比率が相対的に低下し、一九七五(昭和五〇)年のベトナム戦争終結で軍需需要は一挙に縮小しました。ベトナム戦争終結後は軍需産業の復興を軸に進められた経済復興は終焉し、それまでの軍需産業政策のための住宅政策は政策対象としての公共賃貸住宅需要を失いました。
それは日本の産業全体に及んだ政策転換でした。軍需産業向け法人による住宅供給はその需要基盤を失い、代わって、政府が育成した住宅産業の供給力に見合った需要創造が住宅政策の目標となりました。日本経済が拡大し、国民所得は倍増し、国民の住宅需要が拡大している時代でした。政府は国内総生産(GDP)を最大化する経済政策として、経済的波及効果が大きく、財政・金融政策として政府が経済を牽引する住宅政策を、日本の経済政策の基本に据えることにしました。住宅政策がわが国の重大政策にされたのですが、それは国民の住居費負担の軽減や住環境形成を目的とした主権在民の社会政策としての住宅政策ではなく、住宅産業の需要を保障し、住宅投資による波及効果で景気を牽引し、企業利益とGDPを高めるための政府主導の経済・産業政策でした。
一九六〇(昭和三五)年の日米安全保障条約改定からの一五年間は、日本が米軍の兵站基地を支えるための産業政策としての住宅政策で、それは政府主導で住宅産業を成長させる産業・経済・金融政策でした。職人不足の大工・工務店に依存はできないので、住宅生産工業化政策が取り組まれました。それは米国のHUD(住宅都市開発省)のOBT(突破作戦)でのモーバイルホームやモデュラーホームのように工場で住宅をつくるのではなく、プラモデルのような住宅生産でした。日本には欧米の社会住宅のような国民の家計支出の可能な範囲で適正な品質の住宅を供給する生活者本位の社会政策はありません。僅か公営住宅法に立法時の痕跡が残っています。
一九七六(昭和五一)年制定の住宅建設計画法からは、社会政策的な考え方は消滅していきました。住宅政策は経済的波及効果が大きいことと、国民の所得が向上したことで、政府は政府施策住宅により、財政と金融指導で有効需要をつくり、GDPを最大化するために、既存木造住宅に減価償却論を振りかざしてプレハブ住宅に建て替えるスクラップ・アンド・ビルドの経済政策を採ることになりました。それが現在の住宅政策に引き継がれているハウスメーカーによる独占価格販売を幇助する住宅金融公庫による過大担保を押さえた金融機関にリスクのない超長期の信用金融です。所得倍増と経済成長によるインフレで持ち家所有が国民の七〇%にまで急増し、国民は政府の居住水準向上政策を謳歌し、ハウスメーカーと金融業が巨額な利益を上げ急成長しました。

バブル経済からバブル崩壊後の住宅政策
一九八五(昭和六〇)年の「プラザ合意」以降、円高ドル安の経済環境の中で輸入住宅が政府を挙げて取り組まれ、米国・カナダからの住宅産業技術の導入が積極的に行なわれました。米国とカナダは日本の輸入住宅政策にあたり、建設生産性を高める住宅産業経営技術を日本に技術移転し、住宅産業の体質改善をすることで住宅用資材の輸出促進を図ろうとしました。しかし、日本の住宅政策は米国やカナダのように建設現場での生産性を高める技術移転を受け入れず、現場生産を工場生産に転換する住宅産業政策を進め、住宅生産に携わる職人を切り捨て、工場製部材利用に転換しました。輸入住宅政策は洋風住宅のデザインの魅力で高額な住宅販売促進を「注文住宅」と呼ぶハウスメーカーの営業方法で進められました。そのため、部材や住宅設備のOEM(企業特注材料)による国内生産と、特殊仕様を高級住宅と勘違いさせる「差別化」経営で、高額住宅とリゾート開発に向けて、バブル経済に踊った住宅都市開発が全国津々浦々に広がっていきました。
米国やカナダと同一品質の住宅の日米価格差は二倍以上ありましたが、その原因である生産性の向上と等価交換の原則に立った建設業経営と等価交換金融(モーゲージ)制度を学ぶことはしませんでした。政府は住宅産業を「建設サービス業」と分類し、広告・宣伝、営業・販売に要したサービス経費を販売価格で回収する「独占価格」販売(不等価交換販売)と、独占価格の約三倍の担保を押さえ、独占価格どおりの融資(クレジットローン:不等価交換金融)をすることを容認し、価格に見合わない価値の住宅を国民に購入させ、資産を失わせてきました。
一九九一(平成三)年のバブル経済崩壊後の経済環境のもとで、住宅都市産業は住宅専門金融機関の無責任な金融と相まって、壊滅的打撃を消費者に与え、住宅産業自体も経営破綻を被りました。バブル経済崩壊後の対応が適切に行なわれず、政府の指導により地価の下落を粉飾経理し、銀行への金利支払いで不良債権を隠蔽(ぺい)し、活用できない土地購入費用の利払いにより経営が悪化し、法人税納付不能企業が増大しました。正規職員を非正規雇用職員に転換し労賃総額を削減した結果、所得税は縮小し、法人税減収と相俟って、国家の税収は縮小し財政を厳しくしました。政府は国債発行により財政欠陥を補いましたが、やがて国債償還財源を生み出すため赤字国債を発行し、国家財政は破綻に向かって急降下していきました。バブル経済崩壊後の国家財政は税収が伸びない小泉・竹中内閣の財政政策の結果、国債の残存額は三八〇兆円〔二〇〇一(平成一三)年〕から六八五兆円〔二〇〇六(平成一八)年〕に一・八倍に累積され、国債償還の財源として赤字国債依存度が拡大しました。担税能力を失った企業および個人の増大で財政危機回避の展望を失ったのです。そこで政府が取り組んだ政策が「聖域なき構造改革」でした。憲法で定めた私有財産権の保障を蹂躙し、社会的利用を定めた都市空間を不良債権に悩む企業に横領させ、バブル経済で崩壊した地価を回復させ、不良債権を帳消しにする都市再生事業でした。

「聖域なき構造改革」と比較されるべき米国の『住宅バブル』対策
二〇〇六(平成一八)年に財政破綻に直面し、住宅建設計画法廃止と同時に、住宅金融公庫、都市基盤整備公団および地方住宅供給公社を廃止し、公営住宅政策を縮小し、そして、住宅政策の中心が民間の住宅産業に移されました。財政危機の解消と法人税の支払い能力を失った企業の不良債権の解消、経済の体質改善と景気刺激を目的に「聖域なき構造改革」と呼ばれた規制緩和政策が実施されました。この政策は不良債権の原因となった地価の縮小分の企業損失を、容積率を緩和する「贋金(土地)づくり」によって回復する事業でした。都市再生事業は日本国憲法を拡大解釈し、社会・公共的な都市空間をバブル経済の崩壊で資産を失った企業に、無償で都市空間を排他独占的に提供し、その利益で不良債権を処理させ、担税力のある産業に再生する政策でした。その結果、政府が規制緩和政策で訴えたとおり、六年間に一五%の経済成長を果たし、不良債権で苦しんだ企業は救済され、都市開発が短期間に変えるほどの利益を挙げ、財政危機を切り抜けました。
一方、二〇〇二(平成一四)年から米国で発生した住宅バブルは、二〇〇八(平成二〇)年にリーマンショックで終焉を迎えましたが、その後八年間で経済を回復させました。欧米では住宅の建設、購入、リモデリングを投資と考え、住宅取得後二〇年で購入時の住宅資産価値の二~三倍に増殖する政策を実施しました。住宅を保有し適正な管理をする人は、例外なく資産価値が増殖し豊かになっていました。そこで住宅を購入できない人を豊かにするため、クリントン政権時代に頭金なしでも住宅取得ができる融資保険制度により九七%融資を実施しました。その政策に加えて、金融機関は返済能力の不足する借り主に金利を高めた融資(サブプライムローン)を行ないました。市場の需給関係の急変で価格は急騰し、住宅の純資産(エクイティ)が急上昇し、そのエクイティローンでさらなる住宅購入ができました。しかし、住宅購入者の所得がローン返済に追い付けず、住宅を処分しようとしても購入価格での売却はできず、ローン破産に追い詰められたのです。
住宅が投機の対象にされた結果で、MBS(モーゲージ証券)も連動して投機の対象にされました。米国の住宅バブルは住宅が資産価値を一貫して上昇させる住宅産業の健全経営そのものが、金融投資・投機の対象にさせられたため発生した現象でした。そのため二〇〇八(平成二〇)年から八年かけて、不良な住宅投資や住宅騰貴で破産した人や、経営に失敗した企業を整理し、痛みを伴う清算事務を行うとともに、米国は住宅投資・投機を制限するとともに、モーゲージの債務保証を行なっているFHA(連邦住宅庁)は、支払い能力に見合ったモーゲージを組むことを消費者に指導し、ローン破綻物件に対して多様な対応策を講じ、住宅産業のもつ健全な経営方法を生かし、二〇一五(平成二七)年には住宅バブル崩壊前にまで回復させました。
一方、日本では住宅販売で国民の住宅資産が蝕まれている理由は、バブル経済が崩壊したとき、経済政策を失敗に導いた政府及び日銀、並びにバブル経済下で経営を誤った企業経営者に経営責任を取らせず、粉飾経理で不良債権の責任を隠蔽しました。解決できなくなった不良債権を、政府はハウスメーカーと住宅金融機関の不等価交換販売と不等価交換金融の不正を容認することによって巨額の利益を先取りを住宅政策として実施しました。そして、損失は住宅購入者に押し付け、後は消費者の自己責任にしました。ローンの償還期間は三五年間と長期に元金返済を遅らせる元利均等償還であるため、購入した木造住宅は日本の不動産鑑定評価で資産価値がゼロと評価される二〇年目には、三五年ローンの残債額は融資額の七〇%で、ローン返済義務は一五年間も残ります。
バブル経済崩壊後、企業経営が悪化し、企業は一方的に終身雇用制度が反故(ほご)にしようとしています。三五歳で住宅を購入後二〇年(五五歳)で転職、退職を余儀なくされる時点で、ローンはほぼ確実に返済不能状態に陥り、住宅は売却を余儀なくされ、鉄筋コンクリート造マンションを売却しても,購入価格の七〇%の住宅ローンの負債だけが残り家計は押し潰されます。生活のため安い家賃の賃貸住宅を借りても、失った住宅のローンの支払い義務は残っています。
バブル経済の崩壊で地価が縮小し損失を抱えた企業に、政府は都市再生事業による法定都市計画の改正と規制緩和の行政処分で社会的空間を排他独占的に企業資産に吸収させ、損失の回復を行なわせました。その結果、不良債権に悩む多くの企業は代償を支払わずに健全経営に回復できましたが、その反面、都市再生事業の実施された地域の近隣地域では都市環境は悪化しました。都市に拡大した延べ面積と人口と産業を詰め込んだ結果、都市施設は過重負担となり、大震火災や津波等都市災害に対する危険性が拡大しました。また、マンション建替え事業の推進により、建て替え事業者が不正に富を増やした一方で、区分所有者のすべてがその資産の一部を奪われ、また、高齢者や経済的弱者は地域から追い出されました。

三権分立していない行政従属の司法
都市再生事業として行なわれた行政処分は法律に違反すると国民が判断し、行政不服審査請求や行政事件訴訟が全国各地で提起されました。私は行政法の知識・経験を生かし、住民の生活危険を避けるため、一〇年間に約一〇〇件余の行政事件訴訟を、自ら原告になり、または、行政法の知識経験者として支援をしてきました。「聖域なき構造改革」の政策により企業債務は削減され、経済成長と不況を脱却するために、行政府が政府立法を行い憲法違反の行政法を準備し、立法府は行政に従属し、憲法違反の法律案を国会で議決させました。行政府は行政目的どおり憲法違反の行政法の施行にあたり、さらなる緩和(違反)をエスカレートさせ、憲法違反の行政処分を行ないました。行政処分が行政法および憲法に違反していると住民が訴え、司法の場で行政事件訴訟が争われましたが、すべての判決で行政庁の答弁がことごとく追認され、住民の訴えは却下されました。
行政事件訴訟で争われた事例からわかったことは、都市再生事業を推進する官僚が率先して、許認可の申請書を欺(ぎ)罔(もう)する違反事件を指導し、行政庁が開発事業者と共謀して許認可権を濫用し、規制限度を二倍も逸脱した都市再開発事業を幇助した事実です。住宅・建築・都市政策が行政法の規定に違反し、企業に不正利益を供与し、住民の生活環境を危険に晒したにもかかわらず、住民がその反射的不利益を受けた行政事件訴訟において、司法は主権者である住民の訴えに耳を傾けようとせず、国家の経済成長と景気回復を優先させた産業救済本位の判決を繰り返しました。
日本は立法、行政、司法の三権が日本国憲法に従い相互に牽制し合い、法律どおり施行されると国民に説明され、仮に政治的な判断がなされても、司法は法律の番人として公正な判断をしてくれると教えられてきました。しかし、「聖域なき構造改革」に関する行政事件訴訟を見る限り、司法は違法な立法および行政処分を追認するだけで、三権分立の機能を全く果たしていません。それは、日米安全保障条約の縛りによる政府の統治行為が憲法違反を容認した砂川事件以来、当然と考えられてきました。この憲法違反が容認された方策を使って、財政危機に直面した小泉・竹中内閣は、憲法で定められた国家と国民の権利義務の関係を蹂躙し、不良債権に縛られた企業を救済し、国家の景気と経済活動を回復させました。司法もまた、国家の統治行為として行なった財政再建を目指した規制緩和に沿った行政処分を容認する政策に全面的に服従してきました。
砂川事件で米軍施設に無断で入った学生を有罪とした刑事特別法に基づく検察庁の訴え、一九五九(昭和三四)年、伊達秋雄東京地方裁判所裁判長は「日米安全保障条約はその根拠が、日本国憲法に違反しているから、それを根拠にした刑事特別法は無効となり、同法を根拠にした罪は問えない」と無罪判決を下しました。この砂川判決に、政府は最高裁判所に飛躍上告をしました。田中耕太郎最高裁判所裁判長は、日米安全保障条約が日本国憲法に矛盾することに対し、「日米安全保障条約を日本国憲法に照らして裁くことができても、統治上、司法は憲法で裁く必要はない」と判断(統治行為論)を示しました。小泉・竹中内閣は憲法改正できない現状で、七〇〇兆円に迫る国債を抱え、デフレスパイラルを断ち切るため、国民の権利と財産の保障を定めた憲法を蹂躙しても、「聖域なき構造改革」は国会承認を得た統治行為であるから、都市再生事業は容認されるとしてきました。
政府は累積した赤字国債発行が常態化している危機を回避するため、不良債権を帳消しにし、企業の担税能力と企業の労賃支払い能力を高めるために、憲法違反を犯しても企業による都市の社会的空間の排他独占的利用を認めることは、統治行為上やむなしと判断しました。小泉・竹中内閣による「聖域なき構造改革」で都市再生事業を実施し、経営不振企業の粉飾決算を都市再生事業で処理させ不良債権を棒引きさせました。しかし、バブル経済崩壊の際の企業経営を失敗に陥れた経営者責任を曖昧にし、都市再生事業はわが国の住宅・建築・都市の法秩序を混乱に陥れ、国民の都市計画の公共性への信頼性を失わせ、大都市に来襲が予想されている大震火災に弱い都市をつくることにしてしまいました。「聖域なき構造改革」により憲法で定めた私有財産の保障を蹂躙するものです。都市計画は、未来に向けての市民の計画遵守により実現する国民の合意形成です。不良債権に悩むバブル経済で経営を失敗した企業経営と政府の財政を救済するために、目先の利益のために法定都市計画を蹂躙した結果、都市計画制度に対する国民の信頼は完全に失われました。
立法、行政および司法という三権に日本国憲法を基本とする法令遵守の 倫理観が失われ、御用学者や政府に迎合するメディアによって、「聖域なき構造改革」の間違いを批判できなくなっています。不等価交換販売と不等価交換金融で国民が資産を失うことが自己責任とされ、住宅産業及び住宅金融機関が不正利益を上げていることが正当性のある経営のように容認されています。本論は日本で起きている都市再生事業として行われてきた住宅、マンション建て替え、都市再開発の具体的事例を通して住宅政策により国民が貧困にさせられている歪んだ日本の構造と、将来向けて欧米の住宅先進国のように住宅を取得して国民が資産を形成する道を明らかにしました。

以上が本書の序章部分です。



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