第211回(2007年5月7日) みなさん、こんにちは。 長ーい連休をいかがお過ごしなさいましたか。私は上野や両国に出掛けて、レオナルド・ダ・ビンチやロマノフの財産やルネッサンスの絵画などを見て回る一方、DVDを借りてきて、アーサー王物語のキャメロットやカトリックの聖人による奇跡の検証などの映画を見て過ごしました。始めは体力作りをする予定でしたが、どうも4月末のインド旅行以来、体がすっきりしないので、無理をしないことにして運動は差し控えました。 また、連休前に開発許可違反の事件で、HICPMの会員になられた方の依頼に応えて、裁判所に提出できるような意見書の取りまとめと、インド旅行の原稿をまとめる取り組みをしました。インドのまとめは、デザインの問題として、HICPMのビルダーズマガジンで紹介する予定です。 その中で、私が資産価値のある住宅を造る上で、デザインの重要性にこだわってきた観点から見ると、古代ギリシャに起源を持つヘレニズム文化や、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の原点であるヘブライズム文化が、いかに現代の文化の基礎となっているか、その文化が、現代の人々の文化的要求にいかに応えているかを、いやと言うほど繰り返し見せつけられ、私自身のこれらの文化に対する知識の貧しさを徹底的に自覚させられた1週間でした。 西欧文化の成果として、建築、絵画、彫刻はもとより、文学、音楽、舞踊、衣裳や装飾の全てにわたって、詳しく文化的な内容を知らなくても、それらの文化を享受することはできると思います。しかし、それらの文化の源泉となっている古代ギリシャ文化やユダヤの文化をどれだけ知っているかによって、興味も、面白さも全く違ったものになります。ギリシャ神話を単なる寓話として読むのか、それとも、それを人類にとっての真実に触れているものと考えて読むのかによって、文化に対する理解は違ってき ます。 ギリシャ神話が西欧文化の様々な場面に登場していることを知らないと、それらを前提に作られた文化を正しく理解できません。ダリの絵画を見て、あらためて、画家が絵画の中に登場させるものを通して、思想を訴えていることがわかりましたが、そこに登場するものの持つ歴史的、文化的な意味を知らなければ、ダリの訴えていることは理解できません。同様のことは、ピカソの「ゲルニカ」にも言えることで、これらの絵画は、単に構図のバランスが良いとか、色彩が調和している、というだけではないのです。 同様に、ダ・ビンチの絵画や、ラファエルやミケランジェロといったルネッサンス時代の画家の絵画でも、また、19世紀末のジョン・ラスキンやウィリアム・モリスのデザインの中にも、古代ギリシャ文化やユダヤの文化に登場するものが、それぞれの意味を持って、作者の思想を訴える形で描かれています。 最近の展示会では、オーディオの機械で展示物の解説を聞くことができます。欧米にも同じような解説の機械がありますが、日本語のものは稀で、せっかく本物を見ても、その深い意味を知らないまま終わっていました。日本では、そこがよく準備されていますので、国内の展示会にはなるべく出掛けることにしてきました。これは、日本で見られることの大きな利点だと思っています。 何度も同じものに出会うことで、少しずつ西欧文化がわかり、理解が進むと、その分、関心も高まります。住宅建築は、本当にこれら歴史文化の缶づめのようなもので、一般消費者はそれを理解できる範囲で楽しんでくれればよいのですが、住宅を供給する側の生産者は、住宅に担わせる歴史文化について、正しい知識を持っていなければならないとつくづく感じました。 住宅や街並みのデザインを文化として理解することができれば、空間のデザインを、人類がこれまで作ってきた空間文化という、歴史的視点を入れて考えることができます。しかし、日本の現状は、デザインを歴史的な観点から文化として見る視点が確立されていません。 グッドデザイン賞の審査委員長になった内藤広さんは、私とも何度も一緒に空間についての勉強会をした仲間で、今は日本を代表する建築家として活躍されています。彼は、権威によってものを見ないで、自分に忠実に自分の完成を大切にする建築家として、大阪の徳岡さんと同じような尊敬できる建築家です。この二人の建築家は、それぞれスペインやアメリカで仕事をすることを通して、多くの西欧建築文化の土壌、つまり歴史文化を経験し、それを通して自分自身の評価の軸を作ってきた建築家だと思います。 彼らのような建築家は、作家であって歴史学者ではありませんから、良い建築の評価を尋ねられると、自分が良いと信じることのできる物を造らなければならないと言います。先日、夜のTVに登場した内藤さんは、昔と同じように、「建築家としての良心に照らして、良いと信じるものを造ることが大切である」というような趣旨のことを話していました。 私は内藤さんを知っていますから、彼の生き方や、その業績との関係で、彼の発言を理解できます。 しかし、彼の説明では、「何でも自分が良いと思ったものを造っていけば、それで良いのだ」という、多くの日本の建築家の主張を支持しているようにも聞こえてしまいます。自分が良いと考える基準として、それが社会的な評価に耐えるものであるかということが、プロには問われているのです。 多くの文化人は、大抵、自らのやってきたことを客観的に見ずに、自分の世界の中の言葉を使って、相手の理解を無視して発言しているように思います。個人がどのような発言をするかは全く自由であり、それに異議を唱える気持ちはありません。ただし、良い仕事をしてきた建築家の言葉には、それだけ自分に厳しい内在的制約があること、つまり建築家に「一分」があっての発言であることを忘れて、それを聞き手が言葉尻だけで勝手に理解してはいけないと思います。 内藤さんや徳岡さんと議論しても、私とほとんど対立することがないのは、彼の考えと、実際に彼が造っているものとの関係を理解して、彼の話を聴くことができるからです。安藤忠雄氏や黒川紀章氏も、内藤さんや徳岡さんと同じことを言っていますが、彼らの建築を知っているだけに、私には、彼らの言葉が彼らの傲慢を正当化させるだけのうき草のような主観であって、そこに歴史文化への謙虚さはなく、内藤さんや徳岡さんとは全く違った言葉のように聞こえるため、徹底的に対立してしまうのだと思います。 本屋さんに出かけると、有名建築家のデザイン論がたくさん出ています。私に言わせると、内藤さんのデザイン論も含めて、日本人建築家が書いたそのほとんどは、随筆とか散文と言ってよいもので、社会科学的な論文ではありません。これらの随筆や散文としか言えないデザイン論が、デザイン教育を全く受講しないまま建築士の資格を取って、日本で建築家と称している人達に、大きな害毒を流していると思います。 建築教育の中で、デザイン教育ができる教師自体が極めて少ないのです。理論教育はもとより、デザイン演習においても貧困そのものです。このことは、HICPMの理事で京都府立大学の竹山さんが、いつも嘆いていることでもあります。 この連休中に私が読んだ、ジョン・ラスキンの『ベネチアの石』は、デザインの教科書として使えるまともな本だと思いましたが、残念ながら、日本人の書いたものの中には、このような本がありません。良い建築を造ることができるということと、科学的にしっかりしたデザイン論を書けるということとは、まったく別のことなのです。 ラスキンは建築作品として著名な建築を設計してはいませんが、彼の設計論は多くの建築家をうならせるだけの内容を含んでいます。ラスキンは、吉村順三も顔負けの、驚くほど正確なフィールドワークと、歴史文化の研究を土台にして、優れた科学的な設計論をまとめています。そこには、古代ギリシャの建築設計論、それを体系立てた古代ローマのビトルビウスの建築論がしっかりと位置付けられています。 資産価値のある住宅や住宅地の建設にとって一番重要な要素は、その空間が作り上げている文化なのです。それが空間のデザインであるということを、住宅関係者はしっかりと認識しなくてはいけないと思います。そのために、多くの文化が現代まで何を伝えているかを、私たちは学ばないといけないということだと思います。
|