第213回(2007年5月21日)

 みなさん、こんにちは。

 先週末に大阪に行ってきました。その目的の1つは、HICPMが企画している来週のATCで開催する定期借地権セミナーに合わせて、UR(都市再生機構)がイギリスのレッチワースの考えの実現として、ゴルフ場跡地で取り組んでいるというプロジェクト、舞多聞(マイタモン)の内容を調査することでした。

 そして、舞多聞の見学と一緒に、そのプロジェクトの企画運営の指揮を取ってこられた神戸芸術大学教授の斎木さんに直接お会いして、計画の説明を受けるとともに、リースホールドによる事業について意見交換をすることでした。

 斎木さんは、2000年につくばと神戸のニュータウン研究者の企画により始まったエベネツアー・ハワードのガーデンシティ観光100年記念のコーディネイターをされていました。その成果が、舞多聞のプロジェクトということでした。

 URの買収したゴルフ場跡地は、URが買収した時点では不良資産であったようですが、現在は都市再生事業として、地価上昇の中心にあって、計画当初の、「売れないから定期借地でもして利用しよう」としていた状況とは、経済環境が全く様がわりしていました。

 URの本音としては、「今はいくらでも高く売れるから、定期借地権事業などやめてもいい。けれど、これまでの経緯があるから、仕方なく定期借地権事業をやらせているのだ」という感覚だと思います。そのため、斎木さんは、これまで取り組んできた定期借地権事業を守るという受け身の立場に立たされていました。

 舞多聞の現場は、非常に貧しい内容でした。定期借地権事業のモデルとして取り組まれたこの街は、私に言わせれば、無政府状態のデザインを許した街並みに、基本的に歴史も文化も踏まえていないレベルの低いデザインの住宅が、勝手にバラバラと建っているというもので、無計画に造られた住宅展示場を想像して頂けば、そのイメージがわかってもらえると思います。つまり、日本でこれまで「コーポラティブ」と言ってきた、居住者の話し合いで町づくりをする手法で、開発計画をしているのです。

 どのような町をつくるかのイメージがないまま、住宅を手にいれたい人達が集まって話し合いをすれば素敵な街並みができる、と間違って考えているのです。コーポラティブで町をつくっているのではなくて、お互いの意見を聴きながら個人住宅を勝手に造っているだけの事業なのです。そこには、町の住人として、どのような社会階層の、どのような需要に応えるかといった基本的なマーケット調査も、需要者の設定もなく、そこで提供しようとする文化的空間デザインに対するイメージさえないのです。デザインが、そこに住む人のアイデンティティであるという考え方がないため、ストリートスケープやビレッジスケープをつくるという考えがないまま、住宅建築を進めているのです。

 しかし、URや行政機関やジャーナリズムが、舞多聞を「夢の街づくり」のように取り上げ、その前提のエベネツアー・ハワードのガーデンシティの夢を実現したものであるかのように宣伝したため、現在でも、ウェイティングリストには、1 ,600人もの登録があり、それらの人々に住宅と街づくり教室を実施して、高い意識を持って、向こう三軒両隣となる人の固まりを作りながら、町づくりに取り組んでいました。東京からも講師を呼び、神戸芸術大学の斎木教室が高い理想を掲げて取り組んでいるのに、どうしてこのような貧しい空間デザインの事業にしかならないのかと大変不思議に思えました。

 結論から言えば、日本の街づくりの知識、技術、経験が未熟ということになりますが、その背景には、都市についての理論が基本的にわかっていないことに尽きると思いました。ヨーロッパやアメリカの優れた町をたくさん見て、その驚きを日本に紹介してきた都市計画学者や研究者といわれる人達は、現在、TVで見るだけでなく、実際に団体旅行で欧米へ出掛ける多くの人々と同じように、美しい町を見て驚き、その驚きを紹介することで、自らの街づくりの知識もあるかのような錯覚を持ってきたように思えます。

 彼らに、「アメリカやヨーロッパの都市や住宅がどのような仕組みでつくられたか」ということを尋ねてみると、必ずといってよいほど、「オースマンや、ハワード、アンウィン、パーカーのような能力のある都市計画家がつくった」と答えます。そして言外に、都市計画をやっている俺に仕事を頼めと言っているのです。彼らは、海外の事例をたくさん見ているので、色々と講釈はできます。しかし、その講釈は単に彼らの感想程度で、それらの都市のつくり方も経営のしかたについても、実はなにも知らないので、裏づけのない自分の作り話みたいなことを言っているのです。

 ハワードがガーデンシティの理論のなかで開発のベースとした、リースホールドの仕組みについて、ほとんどの日本の都市計画学者は説明できる知識を持っていません。「都市計画の父」といわれるハワードが、なぜ都市計画の父といわれているかという最大の理由は、地代負担能力の全く違う商業と住宅という土地利用が隣接して立地していなければ、都市での豊かな生活は約束されませんが、ハワードがゾーニングによって、隣接して立地しながら地価負担能力の低い土地利用を守ることを実現し、豊かな都市づくりを可能にしたことを、欧米の都市計画家達は評価しているからです。

 日本では、邸宅地がアパートマンションに浸蝕されて、大変貧しい都市景観になってしまったことを知らない人はいません。しかもそれが、マンション被害として日照、ビル風、景観、生活環境、地縁共同体の破壊、ごみや騒音問題など、猶予のできない社会問題として既存の都市環境を壊してきたことは、都市計画の専門家でなくてもわかっています。こうなった理由について、日本の都市研究は何を明らかにして、どのような対応をしてきたというのでしょうか。

 今回のもう1つの大阪行きの理由は、関西住宅会議の方達とHICPMの協力関係を強めるため、まず、相互の意見交換をやって、それぞれの持っている知識、情報、能力を交換することにありました。

 HICPM理事の竹山氏さんも関西住宅会議の運営委員ですし、HICPM近畿支部事務局長の猪谷さんも関西住宅会議の協力会員なので、そこでの年次総会に合わせて、会が重視しているカレントトピックスについて、講演が行われることになっていました。

 今年は、三村浩さんが、行政とも深い関係を持って京都の景観問題を進めてこられたということで、景観法をめぐる問題が扱われました。HICPMの竹山さんも、かねてから景観法を街づくりに利用するために積極的に活動され、HICPMとしても大変関心を持ってきたところでした。

 三村さんは、景観法をめぐる問題を包括的に、かつ生活との関係でわかりやすく説明されるとともに、社会は常に変化していくものであるから、その変化を受け止めることができなくてはならないという話と、今建てられているマンションの前に2階建ての町屋の建築をつけたような仮面建築も、将来には、京都の新しい景観の担い手になるかもしれないといった時代の中の判断はどのようになるかといった予想の話もされました。三村さんの話は、色々な可能性を網羅されたわけで、皆の議論を広げる上で大変うまい問題提起であったと思います。町屋の中にマンションが建つことについて、町屋に住んでいる人は基本的に反対しています。マンションを建てようとする人は、外来資本に売り払うか、外来資本に土地を貸そうとしており、そこに住んでいる人がこれまでの生活をつづけるための事業ではありません。

 町屋に住んでいる人達は、隣りにマンションが建ち、その被害を避けるからといって、移動するわけにはいきません。町屋は不動産で、土地そのものと同じ性格であるからです。土地の所有権は、土地の上下に及んでいますが、その土地の上下には、光、音、雨、風、地下水、電波、磁波など、森羅万象の全てが、自由に飛び交っています。つまり、都市の空間は社会的に利用されていて、そのため、都市でどのような町の景観にするかを皆で社会的に決めることが必要です。

 都市自体の空間が社会的であることから、都市空間の利用のあり方には、社会的なコンセンサスが必要になります。都市計画法や建築基準法は、都市空間の社会的利用を決めているこの社会的な強制ルールなのです。都市に住んでいる人達は、基本的にその場所に拘束されているわけですから、都市における民主主義の実現は、町に住んでいる人による空間利用についてのコンセンサスが必要で、町から抜け出す人の横暴だけで開発を許すということは、民主主義の否定になるのです。容積のあり方について、土地民主主義で考えれば、ダウンゾーニング(容積率引き下げ)は皆の望む所となる筈です。

 1966年からの日本の住宅建設計画法時代の行政は、土地の高度利用を都市施設の効率利用を実現するものと説明し、都市の高度高密利用をよいことであるという論理の元で、スクラップアンドビルドを進めてきました。都市計画で高密度で高層開発する事業は、公共性があるという理屈を持ち込むことで、建替えを正当化してきました。都市に住んでいる人の権利を、既得権まで否定して、落下傘舞台のデベロッパーの仕事を正当化してきたのです。

 芦屋のエエシのボンである竹山さんの宅地の隣りに大きなマンションが建設されました。竹山さんの土地の空間を利用して、マンションは眺望や採光を享受しているのです。竹山さんはそんな空間の略奪には我慢ができないと、マンション建設業者に「目には目」の対応をしたのです。このような問題は、日本中にいっぱい起こっていて、多くの都市計画や建築関係者は、加害者の側に立って金儲けをしてきました。

 加害者側に立ってきたそれらの日本の建築研究者や都市計画研究者には、都市や建築を議論する資格はありません。あたかもジキルとハイドのように、金儲けのために高度、高密度の建替えや、スクラップアンドビルドを正当化しておきながら、自分以外の人の金儲けが不当な権利侵害を前提にやられているときには、欧米の考え方を我田引水で持ち出して、善良な知識人のように、環境保護にしゃしゃり出てくるのです。

 今回の二日間の大阪での経験は、現在関西で行われている事業と並んで、そこに関係している多くの学者研究者の実体をあらためて見ることになり、ますます大変な障害があることを見せつけられた思いがします。