第215回(2007年6月4日)

 みなさん、こんにちは。

 昨日、6月3日(日)に常盤台へ行ってきました。常盤台は昭和10年に内務省が肝いりで開発をしたといわれる郊外住宅地で、田園調布や成城と並ぶ優れた街並みがあります。現地を見てから、私の建築行政の大先輩である小宮賢一さんがマスタープランを作った住宅地であることを思い出しました。

 「常盤台の景観を守る会」の島田さんから、『東 京都市 計画物語』(越沢明著)のコピーを頂いて、興味深く読ませて頂きましたが、私の認識と違う所も沢山ありました。何でも活字になると一人歩きをしてしまうので、困ったものだという所もありました。

 ひとつ、その大きな箇所を上げると、建築協定の部分です。当時、郊外住宅を造るにあたっては、英国のディード(制限約款)で決められていたことを、住宅地の経営としてやらなければならないという情報が、既に広く理解されていたであろうことは、関西の室町、大美野の開発や、田園調布の開発からも確かめられます。

 これらの開発と連続するものが、建築協定のベースにあったことは間違いありませんが、GHQが建築基準法の制定にあたり、モーゲージを前提にした融資保険制度を住宅金融公庫の柱にすえ、長期に亘るモーゲージのベースになる住宅の資産価値を高めるために、確実に住宅地を熟成させる手段として、アメリカで住宅地づくりの骨子に据えられていたカベナントを成文法化するべく建築協定を建築基準法に取り入れさせたのです。

 私の直属の上司であった前川さんは、建築基準法制定時に小宮課長のもとで係長をしていた方で、私に当時の話を聞かせ、建築基準法行政の良き担い手に育てようとして下さいました。しかし、建築協定についても多くの話を聞かされたことを思い出しますが、多分当時の日本の建築行政担当者は、アメリカのカベナントについて理解できていなかったのではないかと思います。

 アメリカでのカベナントは、コモンロウで裏付けられた強制法規であって、少なくともアメリカではコモンロウは強制法規であり、それを日本の行政法という強制法規の中に建築協定として採り入れさせることで、住宅地の熟成を確実にさせ、モーゲージの実質的な信用力を高めようとしたのです。

 この一連の取り組みは、アメリカが日本をアメリカの同盟国にするという前提で、船一杯といわれた 1,000人ほどにのぼるニューディール派の人達を呼び寄せ、1929年の世界恐慌から経済復興したアメリカの経験を日本の復興に生かそうとした、という文脈で考える必要があります。建築士法、建設業法、建築基準法、住宅金融公庫法等を調べると、今でもその痕跡を無数に確かめることができます。世界恐慌から復興したときに活躍した法律制度が、日本の復興のための採り入れられたことを見ることができます。

 しかし、今考えてみれば、かつての上司、前川さんがしてくれた建築協定の話には、その辺りの経緯に関する説明はなく、建築協定を公法規制にいれた木に竹を継いだ間違ったことのように理解していて、それだから建築協定は確認要件ではないというような間違った説明になってしまっていたのです。

 『東 京都市 計画物語』の内容は、多分小宮さんの回想にもとづくものでしょう。建築協定の成文化の作業は、前田課長補佐≪事務官≫が担当し、そこでGHQとの折衝が行われたのだと思われます。建築協定を単なる団地の建築指導基準的なものと矮小化して理解していた当時の日本の官僚を責めることはできないと思いますが、その回顧談をもって、建築協定の目的や、制定の経緯はこうだと考えることは、本来建築協定で決められている文理解釈できる内容を歪めることになると言ってよいと思います。

 現在も建築基準法の規定にそのまま載っているとおり、第四章の建築協定は、どのように法律を解釈しても、強制法規の一部であり、確認や検査の要件であることは明確です。「建築協定は確認要件に入らない」と説明された前川さんの話は、GHQが親身になって日本に技術移転したものを、当時の日本の官僚が正しく理解せず、骨抜きにしていったかを説明するものです。

 私は、行政の先輩として前川さんから最も良い教育を受けたと感謝していますし、彼の行政に対する愛情や使命感は私のその後の生き方にも大きな影響を与えてくれたと思います。しかし、前川さんは建築基準法を背負う大黒柱として、現実との妥協をしなければならない立場に立たされて、多くの現実的な妥協策を法律に抵触してもやらなければと考えた現実主義者でした。

 国立の既存建築に対する基準法の遡及適用の取り扱いについても、よく考えてみると、前川さんが当時の住宅局長が駆け込み着工を正当化するために法律を歪めて解釈する理屈を作った責任者だったのでした。

 国立の例で前川さんに3条2項の解釈を説明してもらったとき、私が30年ほど前に前川さんの部下であったときに聞いた、駆け込み着工の歯止めの妥協策を前川さんが創り出した話を思い出してしまったのです。

 前田さんと大島さんのお二人に常盤台をご案内頂きながら、どのように町の変化が進んだかを聞くことができました。この地区から出ていく方々が、自らの利益のためにミニ開発やアパートやマンションにすることに同意して土地を売り払い、外部からの落下傘部隊が金儲けのために常盤台の環境を勝手に利用して金儲けをし、常盤台に住み続けてきた人たちは、これらの人たちに環境を壊されてきていることを多くの場所で見ることができました。

 東京大学の建築歴史の鈴木教授も常盤台にお住まいで、今回も偶然お目にかかることができました。

私は常盤台が壊されていくことの背後に、日本の建築関係者の住宅都市環境に対する考え方や知識の貧しさという問題があるのではないかと問いかけてみました。

 東京大学の建築都市教育が、政府の役人の知識や住宅都市産業に携わる人達の基本知識を作っているのであるから、東京大学において、都市計画や建築計画の教育のあり方を見なおすべきではないでしょうかという意見を申し上げました。島田さんと大島さんは大変困っておられたようで、ちょっとまずい話をしてしまったかなと、お二人には申し訳なく思いました。

 今日はHICPMの総会がありますので、この辺で尻切れトンボのメールになったことをお許し下さい。