第226回(2007年8月21日)

 みなさん、こんにちは。

 先週、東北地方の街並みを見る機会がありましたが、これが経済大国日本の農村風景であるとはとても感じることができませんでした。そこに見える街並みは、トタン板でできたどこの国の仮設住宅かと判断に苦しむような街並みだったからです。

 かなり前から、東北地方に建つ住宅の、金属サイディングや、ガルバニウム鋼板屋根、黒いアルミニウムサッシが、農村の景色を壊しているのではないかと不安を抱いていましたが、この数年で、住宅の形態が完全に箱になり、その箱がたくさん集団化して建てられるようになったことで、戦後のバラックを連想させるのだと思われました。

 景気が後退しているので、住宅を安く造るために立方体に造ろうとすること自体は、経済的な必然性を感じます。事実、アメリカで見られるキューブ(立方体)の住宅と共通する点はありましたが、そこで造られたものが全く正反対のものになっていることは大きな驚きでした。

 アメリカでは、エネルギー消費量を減らすために、また、住宅建設費そのものを削減するために、積極的にキューブ形の住宅建設が取り組まれてきました。しかし、アメリカの住宅がシンプルで美しいのに対して、東北で見た日本の住宅はシンプルであるけれど美しくありませんでした。

 日本のこれらの住宅は、多分、坪単価20〜30万円前半くらいの価格競争の中で、この立方体の形態が決められたのではないかと考えられます。その中で、必要空間を詰め込んだ住宅であることは、壁面の窓を見るとよくわかります。日本の住宅は、平面計画から壁面の窓を決めるため、窓を見れば、その裏にある平面計画がわかるからです。外壁から見ると、1階に風呂場、居間や台所が詰め込まれた平面計画になっているのがわかります。隣り合って並んだ住宅からの眺望への配慮は全くなく、隣り合う住宅の窓が僅かな距離で対面し合うといった酷い住宅です。

 配置計画に配慮せず、兎も角詰めれば良いと考えているようにしか思えません。同じ住宅であっても、住宅は不動産ですから、隣りとの関係で、それぞれの空間の果たす意味、役割、効用は違ってきます。住宅相互の関係を考えて設計されていれば、お互いのプライバシーも守られるにもかかわらず、住宅を商品と考えて、大量生産方式で建てることで生産コストを下げたとしか思えない住宅を見ると、何故、このような住宅が建てられるのかという不思議を感じます。「住宅不動産」は、「住宅」とは経済的な意味で変化し、商品ではなく、土地と同じ商品の偽装形態をした不動産になるのです。

 住生活基本法時代になって、ますます民間住宅産業同士の無政府的な競争が酷くなってきています。

 住宅産業では、苦しい経営環境の中、自らの生き残りをかけて、消費者を騙して住宅を売り抜けているとしか思えない住宅生産が行われています。消費者の支払い能力も下がってきていますので、消費者も「安ければ、デザインがどうこうなどと言っていられない」ということで、構造的に安全であれば、後は業者の言いなりになっているとしか考えられない住宅になっているのです。住宅が雨露を防ぐシェルターでしかなく、文化空間を提供するものだという考え方がないのです。

 そんな住宅を見ると、「この消費者もこれでまた、建設業者の金儲けのために、または、生き延びるために財産を失ってしまったのだ・・・」と悲しい気持ちにさせられます。建設業者も生き残るために必死であることはわかりますが、そのために消費者を食い物にしてはいけないというモラルが、現在の日本の建設業界にはなくなってしまっているように思えます。

 これらの住宅購入者が、住宅を維持できなくなったときに、一体この住宅はいくらで売れるのでしょうか。多分、買値の半額でも買い手はいないのではないでしょうか。建設業者の中で、この窓をあければ、隣りの寝室があるといった住宅が中古住宅になった時の値段が、売りだし価格の半分程度にしかならないことがわからない業者はいないと思います。価値がないことを知っていて、その住宅を造っているのです。

 新築住宅として建てられているものが、みな同じような傾向をしていることは、これらが1つの新築住宅の傾向で、「新築」という目印になって、それで売り抜けていることがわかります。既存住宅市場、つまり、ストックとしての住宅自体があまりに貧しいため、「新築」という目新しさや、処女住宅ということで売り抜けているのです。

 このような住宅のデザインを、恐らく「洋風住宅」といって売っているに違いありませんが、どのように見ても洋風住宅ではありません。日本では一般に洋風住宅と呼び鳴らしてきたこれらの住宅は、アメリカやヨーロッパのどの国に言っても見掛けることのできない物で、あえて言えば、現代バラックと名づけることが最も適当に思えます。

 住宅のデザインは、その住宅に住んでいる人のアイデンティティを表す文化といって良いものです。

 この家に住んでいる人の文化性が、この家を見て推し量られるということを、住宅居住者も住宅建設業者もわかっていないとしか思えません。しかし、外部の人は、居住者や建設業者の無知にかかわらず、この住宅の居住者は、バラック居住者と変らぬ美的感覚や感性しかない人の住宅としてしか見ないと思います。公園でブルーシートのテントに住んでいる人の文化性を、テントを外から見て、どのように他人が評価するかと同じように、この洋風住宅と信じている人の住宅を、他人は評価しているのです。

 フランク・ロイド・ライトは、住宅の4原則の第2に、住宅の材用と工法が住宅の文化性に大きな役割を担っていることを指摘しています。同じ住宅でも、木造でつくったものと、トタン板でつくったものでは、全くその美的感じは違います。

 立方体で造られた住宅に、様々な大きさの窓がついていて、同じ形の切妻屋根に、黒い鉄板を葺いた住宅が、同じ間隔に何列も並び、住宅の隣棟間空地が1本先の道路までまっすぐに見通せる住宅地です。このような住宅の建設方法は、表も裏もない応急仮設住宅の建設方法です。多分、この隣棟間空地には、不要な廃材等が山積みされるようになり、やがて、全体がゴミの山のようになっていくのです。

 HICPMがこれまで色々発信してきたのは、基本的に工務店が消費者の利益を守ることに取り組まなくては、工務店の将来はないということです。工務店が生き延びることが目的になってはいけないのです。エンドユーザー(消費者)がお金を負担する人です。何故、お金を負担するかといえば、お金の額に相応しい価値のある住宅を手に入れることができると信じているからです。工務店を儲けさせるためや、工務店の経営のために金を出しているのではないのです。

 しかし、工務店の中には勘違いをしている人がたくさんいて、自らの経営を中心に考え、消費者を犠牲にしても、経営のために住宅の品質を落としても仕方がないというような不穏当なことを言う人がいます。しかし、工務店が本当に経営を成功裡に進めようと考えるならば、消費者の利益を中心にしてこそ、初めて発展する手掛かりをつかむことになるのだということをしっかり覚えておく必要があります。

 今回の旅行で、東北の住宅こそ、これからの日本の住宅産業の反面教師になると感じた次第です。多分、東北にいかなくても日本国住どこにでも反面教師になる例はありますが、あまりにも東北の変わりようの酷さに驚きましたのでメールしました。