第234回(2007年10月15日)
みなさんこんにちは
大阪でのCMセミナーの機会を利用して、猪谷さんの尽力で、木スクールで講演された東京大学の松村教授と意見交換をする機会を作ってもらいました。結果は大変残念なもので、猪谷さんが、その努力が無になったと、多いに悔しがっていました。
木スクールで、二時間の小規模住宅経営についてのお話しがありました。その内容は、日本のプレカット木造工法が、技術的に高い注意をすることで、高い生産性を上げることができたと言う事実を説明した上で、しかし、この木造住宅には、高気密高断熱、耐震構造、防耐火性能の高い壁を造ることになると、そこにツーバイフォーと似たような壁を造ることになります。つまり、高い技術を使った木造の軸組みは、結果的に定規ぶちの役割しか果たしていないと言うことになっているという結論でした。別のいい方をすれば、全体のコストという観点で考えると、ツーバイフォー工法が圧倒的に有利になるであろうということでした。
松村さんの話しは、木スクールで集まった人にとっては意外な結果を聞かされたということでした。私にとっては松村さんの結論自体、やっとこのような話が東京大学の教授にとって当たり前の話になったのかということで、講演後の話し合いに、一寸安心した気持ちになりました。二時間の講演の中で、よい品質の住宅を作るという話しはありましたが、その住宅は誰のために造るのかと言う消費者の話や、消費者の要求をどのように考えているかと言う話は全く出ませんでした。海外の話しもありましたが、全て人気を感じることのできない住宅の話しで、私には冷たいという感じをぬぐい切れませんでした。
松村さんとは会場から懇談の場に移る途中でも話を聞けましたが、あまり気のない感じで、予め、猪谷さんから話がいっていたわりには、関心がないのかなとも思いましたが、ツーバイフォーのことで、新しい情報を持っているということを口にされていましたので、懇談の場では松村さんの関心に水を向ける形で話を始めました。
松村さんは、バルーン工法とプラットフォーム工法の転換について新しい発見をされたような話でしたが、よく聞いて見ると、合板とプラットフォーム工法との関係についての経緯や技術開発についての知識はなく、そのためプラットフォーム工法について正しい認識が持てないでいることが分かりました。私がその説明をしようとしたところ、松村さんは、自分の知らないことを言うな、というような対応でしたので、その話は打ち切りました。
その次に、日本の住宅産業の生産性が悪いことで、若い労働者を惹きつける力を失っていることを問題に出して、CMの教育と、ディーテイルの標準化、規格化の推進こそ必要だ、という問題提起をしました。その中で、日本的なCMのような、本当のCMと違うことがやられていて、日本の住宅産業の妨害になっていることを問題に出しました。
松村さんは、アメリカのホームビルダーは勉強はしないし、CMなどアメリカではホームビルダーは勉強していないというようなことを言われました。私は松村さんの認識は正しくないと指摘したことから、話し合いの雲行きが悪くなりました。松村さんは不可知論者のような主張を繰り返しました。人々の認識はそれぞれ別であって、私の認識も松村さんの認識もそれぞれあってよいもので、私が説明していることは、松村さんの認識ではないので、松村さんの認めない事は言うな、議論の対象にするなといって、松村さんの認めないことは私の独断である、という趣旨のことを言われ始めました。
お互いの認識自体が違うことは、松村さんの言うとおりでよいのですが、私達が住宅産業について意見を交換しようとしているのは、同じ社会で住宅産業のための仕事をするには、お互いの認識の根拠を出し合って共通の認識を作らなければならないはずで、松村さんの言っているように自分の考えに合わないものは、また知らないことは、松村さんとの議論の土俵には乗れないという態度にはあきれるしかありませんでした。
私は、これまでCMについて、京都大学や工学院大学やCM協会が外部に言ってきた内容に間違いがある、ということをこの場でも提起しました。松村さんは、何を勘違いしたのか、あなたは人の批判を陰でする、それは我々の間で話題になっている、批判をするならば、批判する人に直接面と向かってするべきである、といいました。
私は以前、話題に出た団体や教授には話し合いをしたい旨を申し出ましたが取り合ってくれませんでした。国土交通省にはその間違いを指摘してきました。社会的に公表された内容についてその人や、組織の名を挙げて批判することは少しも卑怯なことではないと思っています。語るに落ちたことは、松村さん達は、陰で私の悪口を言い合っていたことを認めたことだったのです。
それでも、猪谷さんがこの機会を作ってくれたことを無駄にしないようにと思って、話題を全く変えて話を繋ぎました。日本の邸宅地を、アパートマンションがスクラップアンドビルドの方法で建て込んできたことで、その土地が腐ってきたことを指摘しました。これまでのこのような都市住宅政策について、松村さんと共通の土俵を確認して、話を少しでも成果のあるものにしようと努力してみました。
しかし、私の期待とまったく逆の対応が返ってきました。都市の中で、邸宅などもってのほかで、都市を高度高密に利用すべきであるといわれるのです。邸宅など都市の中には必要ないし、家庭に友人を招いてもてなすことなど必要ないと言うことを言われたのです。私は、都市の邸宅が欧米で果たしている役割を説明して、国際的にも国内的にも活躍している人の友達という財産づくりには、家庭に招いておもてなしをすることが必要であるという話をしました。松村さんは、ホテルやレストランを利用すればよいし、邸宅でなくてもマンションでもてなすこともできると反発しました。
邸宅地にマンションが殴り込んできて町が壊されているという私の都市批判に対して、私の言っていることは、欧米かぶれのような主張で、日本には東洋の都市文化があるといいました。私はインドネシアには3年住んでいたことから、アジアでも邸宅地が都心にあることを説明しました。
私に言わせれば、松村さんは、自分の言っていることが真理であって、私が具体的な例を示しても、松村さんが認めないものは、存在しないか、存在しても全くの例外でしかないということを、東京大学の権威を傘に着て言ってるだけだということが分かりました。欧米では邸宅が、どのような役割を果たしているかということも、ワシントンDCのジョージタウンを例にとってお話をしましたので、松村さんもジョージタウンは見ていることでしたので、自分の言っていることが如何に馬鹿げたことかに気がついたはずです。
このようなとき、自分の間違いを認めることができない人は、その場で口にしてきたことの面子にだけこだわって、間違いを認めず、それに代わって、面子を守るために、虚像の権威の中で権威を振るってきた人です。そのような人は、ほとんど例外なく、本来は自分を怒らなければならないのに、自分を傷つけられないので、その怒りを外部に対して向けて、そこで怒り出す意外にないのです。
松村さんは、立ちあがると、私を憎憎しげににらみ付けて、多くの人が見ていることを意識した上で、俺の権威はどのようなものか見せてやるぞと言わんばかりに、お前のような奴は社会では誰も相手にしないし、させないぞ、というような捨て台詞を残して帰って行きました。もちろん、その場の雰囲気は大変悪いもので、多くの人は松村さんのような東京大学の教授をあのように怒らせた奴はけしからん奴だ、と思ったに違いがありません。
多くの人にとって、そこで問題になっていることなどどうでもよくて、権威に対してそれを怒らせるようなことをした秩序を壊したことで、私が悪いということになるのです。猪谷さんは、私に、デミトロフの言ったことを、もう一度しっかり勉強しなおす必要がある、と怒りを別の形でぶつけていました。猪谷さんの気持ちとして、折角このような機会を作りながら、それをぶち壊してしまったことに対しての怒りとしては、当然だと思います。
私は、このようなことをこれまで何度も経験してきて、自分は馬鹿だとよく思います。何故なら結果的に敵を作ってきたからです。何も敵を作らなくてもよいのにもかかわらず、敵を作ってきたのです。私自身、敵を作ろうとして敵を作ってきたわけではなく、今回も私の話しは、自分の利益や特別の主張を言おうとしたわけではありません。だから、余計に馬鹿だといってよいのです。
もし、松村さんが東京大学の教授でなければ、会うこともしなかったし、このような議論をしようと思いませんでした。東京大学の持つ影響力を考えて、できれば科学的な議論を通して共通理解が得られることができれば、松村さんにもその立場で社会的に有用な仕事をしてもらえると考えたからです。権威を持っている人の共通の対応とはどのようなものかについて、皆様にその本質を伝えようとメールをしました。松村さんの陰口を言っているのではなく、松村さんにも見てもらったらよいと思っています。その反論を頂けたらよいと思います。多くの人も臨席していた場の話しですから。 |