第236回(2007年10月29日)
みなさんこんにちは、
今日は , 「国立マンション訴訟を闘って」と言うサブタイトルで , {景観にかける」という石原一子さんのご本が 10 月23日送られてきました。早速その日に、全部読みました . 早速メールを書き始めましたが , 住宅生産団体連合会に「200年住宅と資産形成できる住宅」についての説明をしに出掛けることになったので途中でやめて , 強続きを書くことにしました。
この本を読んでいるうちに、著者が気の毒になってきて , だんだんやり切れない気持ちになってきました。その理由は , 行政に携わっている人達は , 実は、私も、かつて、その端くれなのでしたが , 全く国民のことを考えていないだけではなく , 法律で守るべきとされていることを , 意図的に全く守ろうとしていないことに , 石原さん達が振りまわされて , 多くノ時間と労力をムダにさせられて来たことを知らされたからです。
私が最もいらいらさせられたことは , 行政関係者が法律に違反したことを , あたかも行政としては , 法律どうりやっているような顔をしてやっていることです . それにもかかわらず , 役人達の言うことを法律どうりの正しいことであると信じて , 住民運動が降り回されていることでした。役人の言っていることは , けしからんことであるといいながら , 法律どうりに杓子定規にやっている程度にしか感じていないようにも思えました .
住民運動をやっている人達は , 決して無学文盲の人ではなく , 日本を代表できる学識経験の豊かな人の集団でした。そこには、東京大学 , 一橋大学,桐朋学園の現役の教授、管理職、もとの裁判官で現職の教授、司法官試験に合格して弁護士の資格を持っている人,外部から見る限り,現役の法律専門家,都市住宅,環境問題の専門家として仕事をしている人たちが、山のように集って、真剣にこの運動に取り組ンできました.日本でも最高な陣容の構成の取り組みがされながら、法律違反の行政処分や、手続きの違反について、法律に基づく条文を根拠にする法治国としての闘いはなされず,裁判闘争が進められたことは,まったく驚きという以外にありません .
運動の焦点は、「景観を守る」と言う「国民の環境権と言う基本的人権」を争っているということで , 文化論的な議論が中心になっていました。形而上学的な文化論としては,議論をしている人達には高邁な議論に移ったかもしれませんが,私のような立場で見ていると,それは法治国家における裁判闘争には思えず,情緒的な文化論争にしか思えませんでした。文化論によって法定闘争を闘うということ自体,私には大変難しいことと思えたからです.
そこに文化人達の関心が集中したことは、文化論での議論自体は何も非難すべきことではなく,文化人なら当然やるべきことです.当然であり、それが運動の広がりや共感を得ることができた理由だと思います . しかし , 行政側は , 基本的に建設業者の利益を守ることが , 行政OBの生活や , 将来の権力維持に必要であることから , 建設業界と権力とが,その面子にかけても守ると言う一貫した姿勢でこの問題にり組んだわけです。多分 , どの役人がこの問題に関係しても , ほとんど同じ対応しかしないことは , 全国津々浦々で同じ問題が同じように起こっていることを見れば分かるはずです。
私がこの本を読んで無念でならないことは , 日本は法治国でありながら , 法律に照らして正しいか、どうか、と言う検討が、全く疎かにされていることです。住民運動している人にも , 確かに学識経験豊かな人ばかりでしょうが , 日本は法治国であると言う認識が不足しているとイライラさせられました。住民運動を取り組んでいる高い学識経験を持った人でも , 法律に付いて専門的な地した著しく不足しています。しかし , それを表に出さずに、役人の言っていることをおかしいと思いながらも、それを法律に照らしてどうなっているかを確かめようとしなかったのです。
都市計画の学者が裁判闘争に関係しているといっても , 学者はその関係分野の専門家に過ぎず,都市計画の行政についても、都市計画の法律に付いての法律知識についても。大変貧しいものです . それであるにもかかわらず,これらの学者や専門家 , 中でも大学教授や,弁護士と言う法律専門家達は,どのようなことについても,決して知らないとは言わず,知ったように振る舞ってきました. , 実は、法律について , 特に行政法についてはまともな知識を持っていなくて,実際に法律に間違ったことが起こっているにもかかわらず,それを指摘しないため,それらを法律問題として議論できなくなってしまい,それに代わる議論として文化論が登場してくるのです.このような間違った法律に対する取り組みなしで、これらの問題に取り組んで来たことに問題があるのです。
学識経験のあるとされている人達が , 自らの知識や経験で、この問題に取り組む上で不足していることを , 多分自覚していながら , それをみなの前に明らかにせず,間違った面子のため , 自分のできる知識の範囲で問題を処理できるかのよう似問題を引っ張っていったために,問題解決ができなかったように思われます.多くの住民達は,弁護士は,どのような法律でも知っているし,東京大学の都市計画の教授であれば,都市計画の正しい考え方が出きると勘違いしています。しかし,住民の勘違いを指摘せず,自らの知らないことを明らかにせず , わかったような顔をして,住民の勘違いをそのままにすることで,知識人たちは尊敬を手放そうとしません.
その結果が、問題の所在の隠蔽に、結果的に知識人達が組しているように、私には感じられるのです . 都市計画の専門の学者と言っても,博士の学位を持っていると言っても,その学者の専門と言える部分は , ほんの僅かな間口でしかありません . それであるにもかかわらず , 都市計画の問題であれば、どの問題にでも専門性があるかのように口を聞き,知らないことでも知ったように振る舞うため、問題を隠蔽することにてを貸す結果になっていたのです.国立マンションの問題をこんな結果にさせてきた原因は、この問題に日本の最高の学者や弁護士を集め、しかも、これらの関係者が全国の知識人の支援を得てやっているのだから,これらの方達の合議によって進めれば,キット勝利すると考えていたように思えます.
私自身は , たまたま行政にいて , 建設本省時代には,立法にも関係し , 中央でも府県でも行政そのものを担当し , その後も、毎年何件かの行政訴訟に関係し , 国内の司法の実態も身をもって知ってきました.その関係で,日本の制度を改善する糸口を探して,外国の都市や住宅の法律制度や、具体的な問題の解決策や、行政問題の研究をしてきました。私自身 , 民間の建設業者や材料販売にも事業者として関係し、外国との建材輸入のデストリビューターもやってきて , 実務として,多くの事例を経験してきました.それらは無数の事例のほんの一部であるかもしれませんが,社会問題として,全てに共通する問題も含まれていることと思っています。
海外にも、毎年、何度も出掛けて,日本での問題をどのように処理したらよいかと言う課題を持って色々調べて回ってきたことから , 多くの問題の関係について結構沢山の情報を手にいれることができ、それをHICPMの会員や多くの方々にお話して,実践的に取り組むヒントに使ってもらっていますが,その結果は、私にとって大変重要な問題を提起してくれます.私は,都市と住宅にこだわって,国民に利益になるかどうかと言うことに判断の基準を置いて取り組んできましたから,国立の問題は,私にとっては有機的に繋がっていて,ばらばらではありません.そのような視点で国立を見ていると,この問題に関係した知識人達は,住民を馬鹿にして運動をぶち壊してきたというように思えるのです.
そのような立場から見ると , この問題に呼ばれた知識人や弁護士達は,どうして狭い分野しか知らないくせに、その分野の全体についての専門家として扱われようと振るまい、恥かしくもなく , 住民達に虚像としての権威者としてのイメージを売りつけて,無責任な発言をするのだろうか.法律や制度に間違いがあることに無知であることを隠すために,本来自らの無知を明らかにして,その問題は分かりませんから,専門知識を持った人に聞いてくださいと言わず,専門家同志がお互いに無知には目を瞑って , 住民の運動を迷わせてしまったのである。
この本を読んで,私はあらためて,それらの「学識経験者」に対して、大きな怒りを感じます . 以前このメールで東京大学の松村教授と私とのやり取りについて紹介をしましたが , 今回の「景観にかける」を呼んで , あらためてこの感情が蘇ってきました . 私に国立マンション事件の法律違反がどれだけ沢山あったのかをこの運動関係者に説明する機会がありましたら , 何時でも説明したいと思っています.多分 , 関係者の方々はどうして、このような法律違反を弁護士 ,, 大学教授 , 行政関係者が無視できたのかを感じるに違いないと思います .
法律違反の例を挙げてみます.東京都の建築指導事務所長が、どうして特定行政庁になれるのですか.法律上の根拠はあるのですか.東京都条例で,建築指導事務所に事務移管している内容は,知事の特定行政庁の事務の先決処分をするということで,建築指導事務所長を特定行政庁とすることではないのです.同様のことは,特別区の区長に都市計画法では、知事にしかできない開発許可を地方自治法上根拠にはならない条文を使って許可をやらせているのも同じ間違いです。国立で住民が問題にしたことの全ては,都市計画法での開発許可をしないで建築物の確認で住ませたためです.都市計画の専門家がいて,開発許可の問題は何も問題にならなかったと言います。
建築基準法に国立問題の3条2項は,物理的に存在しないものに既得権を与えられないことは,小学生にもわかることです。内閣法制局がぼんやりしていても,それほど杜撰な法律を作ることはありません. 国立市 が地区計画で定めた高さ、20メートルまでの建築物は,適法建築物で,既存不適格建築物ではありません.20メートルを越えた瞬間から違反建築物になり,それには,潜在的に除却義務が掛かることになります.工事を始めた時点から既存不適格建築物であるという理屈が間違っている証明は,20メートルいかで工事を追えたときは,どんなにムリな法律の読み方をしても,20メートルまでの建築であれば、適法建築であるからです。
皆が文化論としてやっていたことも、景観権を認めるかどうかということを、司法の場でやり取りしていること自体が、法治国を無視した運動だと思います.司法は,立法機関ではありません。判例で法律にないことを作ろうとすることは三権分立違反です。国家と国民との間の基本的な契約が憲法です.憲法の中には,基本的人権があって,その中に環境権や景観権があることには議論の余地はないと思います.何も司法に判例などだしてもらう必要はありません.既に都市計画法の中でも,建築基準法の中でも,環境権や景観権という名をつけていないかもしれないが、これらの権利をより具体的な言葉で奉呈しているのです.景観法という法律がその後新しく制定された根拠は,既にそれを認める憲法があるからです.
土地は私的に所有されているが,その上下の都市空間は社会的に使われているため,その利用には社会的なコンセンサスが必要と言うことを知っている人ならば,今回のような司法の馬鹿な判決は,憲法に照らして落第点であることは明らかです.社会的なコンセンサスは,その行政界ごとにその住民の合意で決められなければならないもので,司法が原告適格などという恣意的な関係者のふるいわけをするべき問題でではないのです.民事上での景観権の争いということであれば,憲法を根拠に,それを侵害されたの感じる者は、全て原告になれるわけで,国立の場合,駅前の42メートル道路の景観を国立ちの町の財産であると思っている人は,道路に面しているか,いないかに関係なく、原告適格があるのです.
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