第243回(2007年12月17日)

みなさん、こんにちは
  先週の土曜日には、市民景観ネットワークの集会があり、7件の報告後に、私の話を聞いてもらいました。この市民景観ネットは、石井一子さんを会長に、大西さん方関係者がその経験を生かして、全国規模で景観を守る運動を支えるため、お互いの交流を図り、少しでも実りある成果を勝ち取ろうと努力している会です。その努力には、敬意を表しています。中でも、石井さん、大西さんのお二方は、ご高齢にもかかわらず、大変な運動の先頭に立っていらっしゃるのには頭が下がる思いです。私も大西さんの紹介で、いくつかの運動の支援ができ、錆び付いた私の行政経験を生かしながら、嬉々として対応しています。
  私は、どんな問題にも、柔軟に対応しているつもりですが、結構、皆さんから見ると、頑固な対応をしているように受け取られています。しかし、私は原則だけは譲ってはいけないという考えに立っています。
  先日、沖縄の人民党党首瀬長亀次郎遺稿集として琉球新聞が纏めた本を、過日娘さんの千尋さんに堺でお話をうかがった時に購入して一気に読みましたが、瀬長さんは私的な仕事の時はいざ知らず、沖縄の人々の利益のために、また沖縄人民党首として取るべき立場としての原則を守る姿勢に、私は感動を覚えました。
  私は、HICPMというNPO法人として定款を定め、社会で活動している組織を運営している責任者として、小さい組織でも守らなければならない一分があると思っています。もちろん、個人個人も社会的な存在として、それぞれの生き方や、その信用を作る生き方や原則があり、木村拓也の出演した「武士の一分」はそれを分かり易く説明していると思いました。
  当日、私が話した中で重点についてここで説明しておきます。

景観ネットワークの運動の対象とし問題にしている開発の全てについて、それらの開発は不当な開発と考え、このような開発を容認することは、景観を破壊することにつながると考えています。そして、これらの開発事業は、お金儲けの為で、文化資産や、街並み環境や、自然環境を壊しています。開発を進める開発事業者もそれを容認している行政も、悪い事をしている人達だと言うことです。

 一方、開発を阻止しようとしている人達に対して、開発事業者も、行政も、司法も、ほとんど例外なく、反対運動は、住民のエゴイズムによる運動で、人が利益を得る事を妬んでいるとか、折角、地方公共団体の税金を上げることができる機会を、開発地周辺の住民が、自分達の私的な目先の利益を主張して、法律上認められた事業の邪魔しているとも考えています。さらに、裁判官の多くは、ほとんど閉じられた自分の生活との関係でしかものが見えないため、何か住民がこのような運動をやること自体が、法律を無視して、力で自分(司法)の判断に圧力をかける、不当な取り組みと見ています。
  三権分立によって民主主義が行われているという社会構造の中では、訴訟などしなくても、全て平和裏に解決できているはずで、訴訟などを起こすということは、基本的に訴訟好きの遊びか、一部の思想的に偏った人達の反社会的な運動と考えられています。

有名文化人が関係しているような場合には、よっぽど不当な犯罪や行政が行なわれていて、大騒ぎをしなくても、必ず行政や司法で正しい解決をしてくれることになるに違いない。そして、正義は国家権力によって実現できると考えています。訴訟で負けた住民は、やっぱり不当な要求をしていたに違いなく、物取り要求など負けて当然と考えている人が沢山います。日本には「お上」に対する信頼や事大主義が、国民の中に大きく根を張っています。
  私が原則として守っていることは、意見の違う人達に共通する土俵を設定することです。それは、日本が法治国であって、事業を進めようとしている人も、阻止しようとしている人も、対外的には「法律を守っていくこと」に反対はしていません。
「法律に適合する開発をする」ということに関しては、両者とも否定できず、共通しています。「合法性」ということこそ「誰もが否定しない立場」であるといってよいと思います。その法律に適合しているか、いないかをめぐって意見が対立していますが、それを解決する方法も、法律に沿った方法で行なう必要があります。
  法律によらない解決は、暴力しかありません。力の中には、物理的な力の行使とは別に、情報を広め、情報公開をすることで、多くの人の認識と意識を高めて、人々の理性に訴えて、モラルという人々の内在的制約によって、人々を導くこともできます。

これも大きな力ですが、この力は暴力とは違います。憲法では、国民はそれぞれの信じる思想信条に照らして、意見を発表して、賛同者を集めて政治的な力とすることは、国民の権利として支持しています。社会は、基本的に人々の力関係を反映して動きます。その運動法則は、自然科学において働いている法則と基本的に同じものです。作用反作用の法則、量から質への転換、弁証法論理(ベクトルの論理)等で、その法則のことを哲学と唯物論では呼んでいて、その法則性を唯物弁証法といっています。
  市民ネットワークで問題にしている開発事業者と住民サイドの主張を、法律に照らして、それぞれどのように成り立っているかを先ず明らかにしなければなりません。その上で、それぞれの法律上の主張について、法律に照らして検討することが大切です。しかし、日本は慣習法国ではないにも拘らず、過去の判例や、行政通達、行政指針、運用通達、行政解説などを根拠に、それを持って法律の解釈として持ち出し、主張を正当化しています。まず第一に重視されるべきことは、法律自身の文理解釈です。
  行政関係者は、よく「有権解釈」と言って、行政担当者の法律解釈をもって正当化しようとしますが、法律の有権解釈は、行政上は内閣法制局によって示されたものを指し、行政担当者の解釈ではありません。内閣法制局の解釈は、法律を施行する本省の局長名で内閣法制局に出された法律解釈の質問に対しての回答として出されます。それ自体についても司法の場で争うことはできます。しかし、行政担当者の解釈は、あくまでも担当者の解釈で、有権解釈とは言えません。
  法律の文理解釈は、法律文の書き方の約束にしたがって、合理的な解釈をしようとするもので、誰にでも文理解釈は可能です。しかし、その文理解釈が正しいかどうかは、法律文の合理性をつき合わせて検討をしていけば、自ずと明らかになりますが、その解釈についても判断が分かれることがあります。その決着は、法律で定められた手続きによってされることになります。
  しかし、行政不服審査でも、司法の場で争われる行政事件訴訟でも、法律の文理解釈は大変残念なことですが、あまり尊重されておらず、司法では判例を優先し、行政不服審査では、ほとんど行政で優先されている通達や運用が優先されてきました。つまり、これまで行われてきたことを追認する形で判断が行われてきました。そのため、行政がやってきた法律違反は修正されることなく踏襲され続けているのです。
  行政不服審査請求や、行政事件訴訟を調べてみると、そのほとんどの場合、住民が現状で享受している利益を奪われ、争うことでこれまで享受していた利益以上のものを手にいれることはありません。主権在民という憲法の原則に立って、政治、行政、司法が機能しているとするならば、その開発において住民が奪われる利益についての確認こそ優先される必要があります。住民は、現状の利益が奪われない限り先ず問題を起こすことはないということを、行政も司法も考えるべきで、そのような市民的感情を考えてみるべきです。
  しかし、住民が被る損失に、行政も司法も基本的に考慮することはありません。それは、納税者としての国民を粗末にすることで、とても民主主義国とは言えません。国民の利益が損なわれることを確認しても、その開発事業が適法として扱われることはありますし、適法であれば、それを実行できる権利が開発業者にあります。しかし、損失を与えることが明らかであれば、適法である開発でも、損失補償をする義務はあるのです。
  しかし、これまでの行政不服審査でも、行政事件訴訟でも、損失を受けている住民の要求を認めようとしません。多くの場合「原告適格」というハードルを法律の根拠を明らかに示さず、恣意的に設けて門前払いといって審査もしていません。審査会や裁判所が、原告としての範囲を、法律の根拠なしで、恣意的に利益の及ぶ範囲を決めて、それ以外の者には、不利益が及んでいるという訴え自体をさせないというような不当なことがやられてきました。そのため、法曹会で働いている多くの弁護士達は、依頼者の利益を無視して、裁判所に迎合して、これまで裁判所が設定してきた極めて恣意的で、法律上の根拠のない原告適格を設定する判例に住民要求を縛ろうとしてきました。これは弁護士法違反というべきです。
  例えば、都市計画法や、建築基準法第3章(集団規定)における原告適格問題は、この問題のよい例です。都市計画法や建築基準法第3章は、地域としての環境問題を扱っています。スポーツのゲームに例えれば、そのグランド、ピッチ、コート、ゴルフのコースと考えたらよいのです。ここで一緒になってゲームやプレーをしている人の中でルール違反をしている人に対して、そこに関係している人は、誰でも、ルール違反に対しては、それを指摘する権利があります。都市計画として社会的に決められたことに違反して、都市計画環境を壊している人に対して、その都市計画区域に生活している人は、誰でも、クレームを言う権利があることは明らかです。それを裁判所や審査会が権利主張をする範囲を制限することは、都市計画法、建築基準法の目的及び立法趣旨に照らして違反しているのです。
  景観ネットワークの中で問題にしていることは沢山あり、今、ここでそれを議論する余裕はありません。これらの問題は、それぞれ自体が特殊で複雑です。これらの問題の正しい解決をするためには、法治国としてのルールを徹底的に活用することを措いてないと考えており、それが、私の譲ることのできない原則と考えています。