メールマガジン第869号(2020.02.26)

 

みなさんこんにちは、前回に続き建築学が「人文科学」であることの説明をします。

 

第27回:TNDのデザインと「イムズ」と「フィロソフィー」とわが国の建築・都市思想

わが国の住宅・建築・都市問題を考えるに当たり、わが国の近代国家の政治、行政、経済、文化を根底から大きく覆す2つの大きなイベント(節目)があった。一つは「明治維新」であり、もう一つは第2次世界大戦の敗戦と、その後に締結された「日米安全保障条約」であった。この2つのイベント(節目)により国民の生き方は大きく変えさせられた。国民はその時代に逆らえず従がわされた。その時代の変化は、人々が主体性を持って取り組んだのではなく、国際情勢を反映し政府により押し付けられたものであった。この2つのイベントは国民の生き方を大転換させたが、いずれも国民が主体的に変革したものではなく、政府が国家統治として国民に生き方を強要するナショナリズム(国家主義)で。欧米社会で生まれた以下の住民発の「文化運動」とは全く異質なものであった。

16-19世紀のグランドツアーと結びついた「ルネサンス運動」、19世紀のウイリアム・モリスによる「アーツ・アンド・クラフツ運動」、「フェミニズム運動」、20世紀にハワードが巻き起こった「ガーデンシティ運動」、さらに、1990年以降の米国を中心に住環境運動として取り組まれてきたTND(トラディショナル・ネイバーフッド・ディベロップメント:近隣住区開発)、サステイナブル・コミュニティ等「ニューアーバニズム」で取り上げられている「イズム」と呼ばれる住民を巻き込んだ環境改善運動はわが国には存在せず、国民の生活改善要求から衝き揚がる文化運動である。

 

明治維新の「近代国家づくり」

欧米の住宅・建築・都市はルネサンス運動を基に自然科学および社会科学の発展を背景に経済活動を活性化させ、そこで生産されたものを国民に分配する「社会思想に立脚した運動」が取り組まれた。産業革命の過程で、先進工業国が不平等貿易を通し、発展途上国を植民地化し富を収奪してきた。明治維新は西欧列強による収奪に遭わないで国家の繁栄を図る国家経営がされていた。明治政府は岩倉具視遣欧米調査団を不平等条約の改正のために派遣したが、日本政府の要求は欧米列強からは歯牙にもかけられなかった。代わりに、欧米列強が産業革命、植民地経営、軍事力を背景に、収奪貿易により大きな富を奪い、不平等条約を正当化して世界中から富を集めていることを知らされた。

明治政府は欧米列強にわが国への植民地支配をさせないため、欧米に倣い、富国強兵、殖産興業を国家の基本政策に執る判断をし、欧米列強の植民地経営を朝鮮と台湾に実施した。日本政府は欧米とわが国が対等の力を持たない限り、不平等条約の改正は外交交渉だけではできないことを思い知らされた。江藤新平が法務卿のときには、「近代民法を持たぬ国に欧米人の裁判権を渡せない」と言われ、J・J・ルソー『社会契約論』をまとめたフランスが、世界で最も優れた民法を持つ近代国家と判断し、民法以下の国内法の整備を急ぐため、フランスのパリ大学のギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビーを招聘し、国内法の整備を委嘱した。明治政府の期待に応えたボアソナードの功績を顕彰し、現在でも、最高裁判所の入り口を入った広間にその胸像が置かれている。

その後、岩倉遣欧米調査団は調査結果として富国強兵を進めていたプロシャをわが国のモデルにすべき国と考えた。政府は不平等条約の改正の交渉の失敗を欧米列強に摸倣する政策にすり替えた。欧米の建築・都市はルネサンス・デザインでつくられ、普墺戦争及び普仏戦争で勝利したビスマルク・プロシャが富国強兵の国づくりに成功したことから、プロシャに倣った国づくりが取り組まれた。海軍及び陸軍のモデルとなった英国(英語)及び仏国(フランス語)教育に次ぎ、ドイツ語を理解できる医学生や都市・建築生を養成するため、ドイツ語教育が国立大学の第2外国語教育に取り入れられた。

当時のヨーロッパの国々では、古代ローマ文化・文明に回帰するルネサンス運動が取り組まれ、都市・土木・建築、絵画、彫刻、哲学、文学がルネサンス思想を理解の道具として振興が図られた。16-19世紀の欧米では、ルネサンスの建築や都市が近代国家づくりに各国で取り組まれた。明治政府のルネサンスとは、狭義のルネサンス建築や都市様式の「意匠」であって、古代ローマがヘレニズム文化国家としてつくられた「古代ローマ帝国の文芸復興」(ルネサンス)思想運動を意味してはいなかった。

欧米各国からフランスのエコール・デ・ボザールに「ヴィトルビュウス」による古代ローマ建築様式を学習するために欧米諸国の建築家が派遣され、そこで古代ローマの建築設計のルネサンス教育を受け帰国しルネサンス建築を建築した。その代表的な例が英国と米国である。ロンドン火災復興をサー・クリストファー・レンが、レンガ造のルネサンス様式で行ない、また、米国では民主国家の建築デザインを学習するため、優秀な建築家をフランスのエコール・デ・ボザールに派遣した。帰国後、米国内で多数のルネサンス・デザインの建築物が建築された。米国の建築家がフランスで学び、帰国後国内で建設したルネサンスデザインが全米から世界に向け発信された。米国は英国から独立し民主国家の建国を古代ローマに倣う国づくりのデザイン、アメリカン・ボザールやアメリカン・ルネサンスとアメリカ発デザインを生み出した。わが国の片山東熊は赤坂離宮の設計者でアメリカンボザールを学び、辰野金吾の弟子の長野宇平次はルネサンスデザインウィ学び、その他多数の建築家がアメリカに留学しアメリカン・ルネサンス建築の意匠と施工詳細を学んだ。

さて、ジョサイア・コンドルが英国の人文科学者として、東京の中央官公庁街の都市経過うの設計を委嘱され、工部大学校でルネサンス建築教育を行なおうとしたが、都市計画案は使用されず、明治政府がコンドルに求めていた建築教育は、図案の正確な「建築意匠の模倣」で、人文科学の建築学教育ではなかった。人文科学教育を受けると学生の思想(魂)が、西欧思想(ヘレニズムやキリスト教)になり、国家に背くようになると危険視された。工部大学校の教育ではルネサンス思想を教育しないで、欧米のルネサンス建築を同じ形の建築意匠を模倣する工学教育が求められた。「建築意匠教育」とは、機械製図同様、建築設計製図のトレース(模写)に特化した教育が行なわれた。

「和魂洋才」が盛んに言われ、建築教育は形態の正確な模倣がよいとされ、人文科学的教育は日本人から「大和魂を抜きとる教育」とされ禁止された。その結果、1923年関東大震災が日本を襲って多くに人命財産が失われたとき、東京大学の佐野利器教授は、「ルネサンス建築設計を日本に伝えたジョサイア・コンドルの設計による建築でも、関東大震災では人命や財産を守れなかったと非難し、これまでの建築意匠教育は廃止し、構造安全教育に転換した。既に工部大学土木学科が創設され、そこで「構造力学」の教育は始まっていたが、佐野利器はそれを採用せず、理論物理学を長岡半太郎から学び、それを建築構造に応用した「応用力学」を建築教育に取り入れた。その結果、土木教育の「構造力学」と建築教育の「応用力学」が、全く別の「力学」教育として工部大学校で行われ、全く別の構造学として現在に至っている。

 

戦後の建築教育

第2次世界大戦後の戦災復興事業の中心は防災都市建設で、その中心は都市防災のための道路・公園等の都市施設事業であった。わが国の戦前の主要産業は軍需産業であった。その軍需産業は日本国憲法で「戦争の放棄」が明記され、軍需産業の復興は認めない占領政策で、戦前の軍需産業資本(財閥)を解体する産業政策が始まった。しかし、1950年、旧日本軍(関東軍)の武装解除したソ連に支援された朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が、旧日本軍(内地軍)の武装解除は連合軍(米軍)が行ない、国連から統治を委任されていた韓国に軍事境界線を越境し侵略し、連合軍は戦闘を余儀なくされた。連合軍(米国)は太平洋を隔てた朝鮮で闘うためには、朝鮮の近くに兵站基地を必要とした。米国軍の兵站基地は戦闘出撃基地以上に重要な軍需物資供給基地である。米国が朝鮮戦争を戦うためには、第2次世界戦争で米軍と闘った日本の軍事力を復活させるしかないと結論づけた。

1946年、「戦争の放棄」を明記した日本国憲法が制定されたが、わが国を兵站基地にする以外に朝鮮戦争を闘えないと判断した米国は、わが国憲法に違反し、国土を米軍の兵站基地にする政策に従わされた。連合軍の占領政策は日本国憲法には縛られないと言って、1946年公表された「財閥解体の占領軍命令」は反故にされ、旧軍需産業資本(財閥)に米軍の軍需物資を生産させ、それを米軍が買い上げる計画で、軍需産業は復興され、米軍の買い上げで軍需産業経営を成り立たせた。しかし、軍需産業で働く軍事産業労働者は、失業者として無尽蔵に供給されたが、それらの労働者を確保する住宅が絶対的に不足していた。米軍は日本政府に、郵便貯金と簡易保険等で国民から集めた資金(財政投融資資金)を使い住宅金融公庫を創設させ、産業労働者向け住宅(社宅)供給を行なう指示をした。

日本国憲法には民主国家建設のため地方自治制度を憲法の柱にしたが、朝鮮戦争を機に米軍に隷属する国家経営を行なうため軍需産業中心の産業政策へ転換された。新憲法では都道府県を単位にした地方自治制度が取り入れられ、都道府県を単位に公営住宅制度が造られた。旧軍需産業に対応するためには都道府県の行政境界を超えた対応が必要で、都道府県が単位の公営住宅制度で対応できなかった。そこで、1955年、4大都市圏を対象に住宅供給をする日本住宅公団が創設され、広域住宅政策が一般賃貸住宅だけではなく、産業向け労働者住宅(特定分譲住宅)が供給された。一方、軍需産業は石油を原料とするコンビナート(新産業都市や工業整備特別地域)が建設された。

 

わが国の「建築学」「土木工学」と「都市計画学」

欧米の建築学では建築設計と都市計画を教育し、わが国の大学教育では欧米の人文科学教育としての建築学も都市計画の教育も行っていない。東京大学工学部土木工学科及び都市工学科では、都市施設の計画及び建設の教育をし、建築工学科では都市のデザイン教育をしているが、歴史文化を扱う人文科学としての都市計画教育は土木工学、都市工学及び建築工学には存在しない。欧米とわが国では、都市、土木及び建築に関する学問研究や技術教育は行われているが、わが国の土木、都市及び建築の研究教育には、人文科学的側面と同様に社会科学的側面を大きく殺がれ、国家の政治的判断とされている。そのため工学部で都市、土木、及び建築を学んだ学生は、歴史文化的考察が出来なく、欧米の人文科学部(ヒューマニテイデパートメント)の学科や大学院に転入してもついていけない。

わが国と欧米を比較すると、建築、都市の用語が同じ意味(定義)と勘違いされ、両国間で使われているが、「用語の定義」は全く違うため誤解が生まれている。日本国政府を始め、大学等の教育現場でも、行政上も、科学上も同じ内容と未だに勘違いされている。学問領域で見ると、都市計画はわが国では工学(シビル・エンジニアリング)で考え、工学で対応をする学問分野とされてきた。

一方、欧米では、建築学および都市計画学は、歴史文化を扱う人文科学の学問分野とし、建築および都市計画を基に都市や建築・土木工作物を建設する学問は、設計計画をする人文科学と違う建設工学(シビル・エンジニアリング)とされてきた。今ではわが国では、工学部に置かれている都市工学科、土木工学科、建築工学科で、人文科学の範疇では扱われない工学教育の中で、欧米の人文科学教育が紹介され、わが国の工学と欧米の人文科学が混然一体に都市教育とされているが、人文科学教育は行われていない。

明治維新のわが国の最大の政治課題は欧米との不平等条約の改正であった。この不平等条約は対等の貿易環境を破壊する國際問題として、わが国の政治の最大の経済課題とされた。経済問題を解決するために取り組んだ明治政府は、「日本人や日本国が欧米と対等の扱いを受けるためには、日本人が欧米と同じ行動形態をすること」と勘違いした。当時、不平等条約改正に失敗した岩倉調査団は、欧米から対等の扱いを受けられるようにするためには、わが国のモデルを見つけ、国を挙げて日本が真似る「モデル国家」に倣うことと考えた。「模倣こそ欧米と対等になる最短の途」と信じた。内務卿、大久保利通の進めた途は、天皇の「衣食住」を西欧化し、国民を天皇に倣わせることとした。国民も「洋装着し、靴を履き」、欧米人が来る建築では土足で屋内空間を歩く。貴族制度(爵位差別社会)を創設し、(政治家と官僚)が公費で高級な洋食を食する貴族特権社会が、欧米から評価される近代国家と考えた。

 

『明治の東京計画』に現れた都市計画の性質

西欧社会は産業革命を背景に経済成長し、そこを近代兵器で武装された軍隊の分列行進が出来る都市を建設した。西欧の近代都市は中世都市の城郭を取り壊し、放射状道路を張り巡らし、沿道にはルネサンス様式の建築物を威風堂々と建設した。都市に立つ建築物は全てルネサンス様式に揃えた建築・都市に造られた。西欧に倣ってわが国では国づくりを担う人材養成大学は、工部大学校として造られた。そこには英国からヨーロッパで優秀な建築家、若い著名なジョサイア・コンドルを建築学科教授に招聘し、建設者向け意匠教育を委嘱する傍ら、国家の重要な官公庁建築設計を依頼した。

ジョサイア・コンドルの建築教育は「世界各国の建築はその歴史文化を反映して造られ、国により相違してもデザインは建築物の上下の違いではない。日本建築やその源流であるインドや中国の建築も西欧建築同様の優れた建築」である。それに対し、辰野金吾は「不平等条約を改正するためには、欧米と同じルネサンス建築を設計・施工技術が必要であるが、西欧建築の背後にある設計思想は、日本人の思想を西洋化させる有害なもの」とし、辰野は「和魂洋才」の工学(建築意匠)教育を要求した。一方で、欧米では都市計画を担う技術者は人文科学教育を受けた者であることが分かり、首都東京の都市計画を人文科学技術者コンドルに設計が依頼した。しかし、コンドル設計した「東京の都市計画」は明治維新政府が期待した国威発揚した都市計画ではなかった。維新政府が期待した都市計画は、ナポレオン3世の下でジョルジュ・オースマンが作成した「パリ改造計画」であった。そこには、近代的軍隊が国威発揚の分列行進が威風堂々とできる放射状道路が中心に計画されていなかった。明治政府は失望し採択しなかった。そこで岩倉遣欧米調査団は、わが国のモデル国家は普墺戦争と普仏戦争に勝利したプロシャをモデルにすべきと考えた。そこでプロシャのビスマルク首相の建築顧問ウイルヘルム・ベックマンを招聘し、コンドルに依頼したと同じ「首都東京の中央官公庁計画」の作成を依頼した。ベックマンの計画はオースマンのパリ改造計画に倣った道路計画で、明治政府はベックマンの東京計画に満足し実施を決定した。しかし、わが国には都市建設技術者(欧米のシビル・エンジニア)が育っておらず、明治政府は急遽、工部大学校にその都市計画を実現できる施工技術者を養成することになった。「シビル・エンジニアリング」を中国語訳した(築土構木:土を築き木で構える)を簡素化し「土木」を科名に付けた。わが国では土木学科が建設工学を扱う学問とされ、都市計画は都市施設計画技術と勘違いされ、「都市計画は土木技術」とされてきた。都市施設建設技術はシビル・エンジニアリング(建設技術)で、都市建設は工学技術で、歴史・文化に根差す都市の設計・計画を扱うヒューマニティ(人文科学)ではない。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

 

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