HICPMメールマガジン第836号(2019.06.24)

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みなさんこんにちは

グランドツアーについて(その2)
グランドツアーが欧米の指導者たちに大きな影響を与えた話を調べて見てもその起源と目的を説明した文献は殆どない。私がグランドツアーの話に引き込まれた理由は、英国でイニゴー・ジョーンズが英国からは最初のグランドツアーに参加し、帰国が、英国で最小のルネサンス建築「クイーンズハウス」をグリーンニッチに建設した。その後、セントポール寺院をルネサンス様式で建設したサー・クリストファー・レンが、ロンドン大火の後ルネサンス様式のレンガ造の標準設計で、火災に弱い木造都市をレンガ建築による不燃都市に改造した。その技術は独立した米国の首都フィラデルフィアの都市づくりに使われた。そのルネサンス建築は英国の7つの海の支配とともに、英国からルネサンス建築を世界に広めることになるきっかけとなった。わが国が明治維新にジョサイアコンドルを招聘した理由は、英国がルネサンス建築では最も先進的であると判断し、ルネサンス建築様式の技術移転のために行なわれた。ルネサンスは「古代ローマに回帰する」文化運動・思想運動である。

グランドツアーはルネサンス運動に後れを取った英国の金持ちたちがその子弟たちを国家の指導者に育てるためと言って、お金にあかせたヨーロッパ旅行をさせたため、社会的には金持ちの道楽のように考えられたり、国家の啓蒙運動をアウル取り組みとして紹介されてきた。私な住宅、建築、都市とういう分野で英国の文献から紹介されているグランドツアーは、ルネッサンス思想に立った建築、住宅、都市思想を古代ローマ及び古代ローマを復興しようとしたルネサンスの経過を学ぶ研修旅行と考えている。そこで物としての古代ローマやルネサンスを見るのではなく、ヘレニズム文化を古代ローマとルネサンスのイタリアから学ぼうとする運動がグランドツアーだったのではないかと考えている。それは号炉的な考えを学び、その後の産業革命につながる近代化の思想を学ぶことだったのではないかと考える。日本で漫画「グランドツアー」で書かれたのを見ると、「有産階級の子弟の世界漫遊旅行」のように書かれているが、私が英国の建築家、イニゴージョーンズ、アダム兄弟、クリストファーレン等のルネサンスへの取り組みを見ると、ヘレニズム文化を理解する文化運動と見るべきと考えている。

第4日:5月10日(土曜日):トレビの泉、コロンな広場、ヴィットルエマルエル2世記念館
この日は、コンコルディアホテルから出発し、ホテルの近くにある「トレビの泉」を訪問することにした。「トレビの泉」に出掛ける前にホテルの近くの同じ通りにある「サンタンドレ・デツレ・フラッテ」大聖堂を見学した。12世紀に創建されたこの聖堂は、ボロニーニの鐘楼とベルニーニの天使像とで知られている。円筒形のボールと天井で天井画も豪華に作られている。聖堂の十字の交差部には、ベルニーニ作の2体の天使像が置かれている。この聖堂の東側数ブロック西に「トレビの泉」がある。そこまで街並み散策をした。地理ははっきり理解していなかったが、団体観光客が通っていたので、彼らは「トレビの泉」に向かう観光客と判断して同じ方向へ進んだ。予想どおりその先には都市空間を3次元的に演出するバロック様式の舞台装置「トレビの泉」があった。

トレビの泉
この泉は初代皇帝アウグスチヌスの片腕アグリッパがBC19年に敷いたヴィルゴ水道(ヴィルジネ水道)の水を使用したものである。AD6世紀に破壊された後、15世紀のルネサンス期に再建された。彫刻と噴水とがその背後にある3階建ての建築物と融合した都市造形を造っている。18世紀には教皇クレメンス12世が建築家ニコラ・サルヴィエをコンペで選び設計させた。半径30mの半円形の水面に張り出した大きな波をイメージした白い水馬の六頭が乗り出した中央に、水の神が立ち、この噴水彫刻の背景となっている凱旋門風の建築の壁面に対称的に女神像が立っている。凱旋門の最上部には豪華なバロックの天使像と彫像が4体造られている。「この泉に背中を向けて、コインを投げ入れると、この地を再度訪れることができる」と言われ、多くの観光客がここにコインを後ろ向きに投下していた。

コロンナ広場
「トレビの泉」から、大統領官邸のあるクイナーレの丘に行く計画であったが、道に迷ってクイナーレの丘が見つからず、途中でローマ・ルネサンス当時のポポロ広場から南下する幹線道路・コロン通りの中心にある、「コロンナ広場」に、行き先を変更した。天気も良く、眺望がよく周囲の景色を楽しんでから、「コロンナ広場」に向かった。コロンナ広場は、ポポロ広場から南の端にあるヴェネチア広場を結ぶ幹線道路の略中心に位置している。「コロンナ広場」には、マルクス・アウレニウス帝(161-180)の記念柱が立っていて、そこには首相官邸のキージ宮が立っていて、厳重な警固がされていた。その柱の頂部に在った皇帝像は、現在、聖パウロ像に取り換えられている。そこにも噴水が造られている。そのコルン通りを南に向かうと、昨日訪問したパンテオンや、事前の文献調査では、魅力的な文化遺産があり、興味深いハドリアヌス神殿跡やドーリア・パンフィーリ宮殿、サンタマリア・そプラ・ミネルバ聖堂がある。しかし、今回は、それ等の見学を割愛してベネチア広場に直行した。

ヴィットル・エマニュエル2世記念館
コルン通りは、ローマのルネサンス時代の幹線通りで、その南に進んで突き当たったところには、ヴィットリオ・エマヌエル2世記念館がある。その記念館は第1次世界大戦・第2次世界大戦関係の軍需記念でもあり、日・独・伊3国防共協定の記念展示でもあり、近代イタリアの国威発揚記念館とも言える。建築物全体が造形的に彫刻で装飾されたバロック建築で、イタリアが植民地政策を展開している時代を彷彿させてくれた。ヴィトリオ・エマヌエル2世記念館を出て、その南に広がるトラヤヌスのフォロ、カイザーのフォロ、アウグストのフォロを見学し、トラヤヌスの市場に向かう予定であった。地図で理解できた関係と現実がうまく照合できず、トラヤヌスの市場を探して道に迷ってしまった。

トラヤヌス市場
トラヤヌスの市場がミュージアムのようになっていたのを「トラヤヌスの市場」と気付かず、その先に見える塔をめざして行き過ぎてしまった。途中で気付き「トラヤヌスの市場」は、トラヤヌスの柱と地続きの土地であることに気付き入場した。そこにはトラヤヌス帝時代に作られた大きな市場の廃虚が残っていて、その3~5階建ての廃墟全体が見学対象になっていた。この構造をそのまま復興することもできそうな建築物であった。これらの廃虚は、確かに廃虚であっても、構造体としては2千年以上経過した構造で、その構造体を利用してそれに化粧を施せば、現代の希望する建築物としても使えるものである。このようにローマの建築物の廃虚をたくさん見ていると、建築物は人びとが必要に合わせて利用していれば、パンテオンのように恒久的に利用できるが、水道の供給が蛮族により破壊され、人間の生活出来なくなれば、建築物は廃虚になる。わが国の建築学教育で教育している建築耐用年数は建築物の材料ごとに、寿命が先験的に決められるという見方は、基本的に間違っていることを理解させてくれる。現にトラヤヌスの市場は、それ自体が博物館になっていて、仕上げ工事がはげ落ちた内外装がそのまま時代の歴史を説明する建築物の仕上げとみることも可能である。「トラヤヌス帝の市場」を見学した後、その南に続くカイザーのフォロとアウグスチヌスのフォロを通過し。南に向かってフォロ・ロマーノやパラチーノの丘を眺望してコロシアムの地下鉄B線の駅コロシウムに向かった。コロセオ(コロシウム)は以前にローマ観光で見たこともあり、本日は歩き疲れたので、フォロ・ロマーノなど古代ローマ遺跡見学は翌日以降にすることで、ホテルに帰ることにしてテルミニ駅に向かった。
「トレビの泉」が照明できるようになっていたので、照明した景色を見ようと夜の「トレビの泉」に出掛けた。ローマの噴水照明はラスベガスとは違い、彫刻中心で噴水の照明ではなかった。帰りは、トレビの泉の近くの屋台で夕食を食べて、この日のローマの観光を終わりにした。
(NPO法人住宅生産性研究会理事長戸谷英世)

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