HICPMメールマガジン第742号(2017.10.16)

HICPMメールマガジン第742号

みなさんこんにちは

「日本の住宅」展

現在HICPMの会員の方が、YOU-TUBEを使ってHICPMがこれまで行ってきた米国の住宅産業から技術移転したことを送信し始まましたが、私個人としてもそれに対応する取り組みをしています。https://youtu.be/8kHwRSp2X7A
昨日は竹橋の国立近代美術館で開催されている「日本の住宅―1945年以降の建築とくらし」を見学してきました。改めて日本の戦後建築教育の崩壊をしてき た建築家たちの間違いを見る思いでした。悪いことに、この展示会に登場した建築家自身に「日本の建築文化破壊を行なった」という自覚がなく、その弟子たち が現代に日本建築を想像したと勘違いをしていることです。この展覧会は世界を回ってきたということですが、世界に日本の現代建築の恥さらしをしたと言って よいと思います。この展示会をご覧になってください。その展示されている建築が日本の建築文化と言われたら、日本国民にとって、それを侮辱するもので、日 本の住宅建築の歴史文化に泥を塗るものであると言わざるを得ません。「13階段という死刑」の象徴的構成で戦後の住宅を「13の構成」によって破壊してし まったことをパロディにつもりだったのでしょうか。

 

『注文住宅』の続きを連載します

今回は国立近代美術館で展示会と重なります。黒川紀章のカプセルタワーは、当初の設計は防災避難上危険であったため2つの塔の 最先端で避難のつなぎを作ってもらって建築することを認めたものです。ここでの展示作品には、丹下健三や、今回登場する2人の建築家(黒川、菊竹)を含 め、政府が日本建築学会(池辺陽)と進めた工業化住宅とモデュラコオーディネイションなど私にとってもいろいろな思い出のあるものでした。

 

有名建築士の行政処分

私自身40年ほど前、建設省住宅局建築指導課長補佐(建築士班長)として建築士法の施行担当責任者の職にあったとき、建築士の 業務責任の適正な監督に取り組みました。1964年東京オリンピック後、HPシェル構造の東京体育館の雨漏りが止められず、設計上の欠陥が指摘され、修繕 策が見つからず、東京都は困っていました。設計者(丹下健三)が、「雨のも漏らないような建築など建築ではない」と言ったことが新聞に報道され、メディア は騒ぎ、当時、続発していた有名建築家の設計による建築事故は、丹下健三発言から追い風を得たように有名建築家が開き直った発言と行動を繰り返していまし た。当時、中国の文化大革命の影響もあり、権力への造反には合理的理由がある(造反有理)と風潮が社会的に広まり、権力に従わないことが、進歩的な考え方 である風潮が生まれていました。高度成長期に入って、ただでさえ違反建築が増加しているときに、この傾向に早期に対策を打たなければいけないと住宅局建築 指導課では考えました。できればその頂点にある丹下健三に発言の撤回を求めることも話題になりました。しかし、「猫の首(東京大学建築課)に誰が鈴を付け るか」という話になり、不可能とされました。かつて、戦後の建築行政に大きな影響を与えた東京大学内田教授が住宅局長人事に干渉した例が挙げられ、丹下健 三の住宅局への影響も侮れないとされました。そこで、「丹下健三の影響を受けた有名建築家の違法行為の行政処分から丹下包囲網を詰めていく基本方針」を定 め、沢田光英住宅局長の承認を得、建築士の行政処分が開始されました。とりあえず、神奈川県建築士会長や有名大学建築科教師などの数人の建築士の行政処分 を行いました。そして、建築学会や設計・工事監理業界の反応が、あまりに建築設計業界が乱れていて自己浄化できなくなっていたので、行政処分に好意的に なっていたのを見極め、以下の2つの有名建築家の社会的な批判の大きな事件で、国民の支持が期待される事件に取り組みました。

黒川紀章の寒河江市役所と菊竹請訓の宮崎県都城市民会館の事件は、派手な事件で、建築家たちは反省の色はなく、設計業界も有名 建築家には苦虫を噛み潰し、メディアでも大きく取り上げられ、行政処分を行っても、社会的な支持が得られると判断されました。その事件の概要は以下の通り です。

 

(1)  寒河江市役所

寒河江市役所は断面が4m角の大きな4本の鉄筋コンクリートの柱で10mの片持ち梁の床を支持する構造です。4本の構造柱を中 空にし、壁で囲った構造柱を階段室にした建築物です。柱を中実(ソリッド)にしても中空(ホロー)にしても、構造理論上の安全に大差はありません。しか し、10mの片持ち梁の鉄筋を中空柱の壁にアンカーすることは不可能で、建築後床版は撓み、床は振動し、建築物は執務上危険状態と判断されました。話題の 建築で危険な建築であったので全国紙を賑わせました。松井源吾に構造相談をしていました。

 

(2)  都城市民会館

都城市民会館は門型の鉄骨針で屋根構造を釣る構造でした。この鉄骨梁を鉄筋コンクリートで被覆していたのですが、コンクリート の亀裂から雨水が侵入し、鉄筋を錆びさせ、門型の鉄骨梁の鉄筋コンクリート被覆は損傷を受け、何の予知現象もなく、穏やかな日に大音響を発して鉄筋コンク リートの門型梁の被覆材が崩壊落脱し、瓦礫の山がつくられ、まさに「青天の霹靂」で全国紙に取り上げられました。振動を受けやすい鉄骨梁を鉄筋コンクリー トで被覆する計画自体が鉄筋コンクリート構造として非常識で、大規模な崩落事故が発生しましたが、幸い人身事故にはなりませんでした。

 

この2つの事件はいずれも過去の建築構造としては例のない突飛な構造で、建設時点から社会の注目を浴びていました。建築士は自 らの技術力の未熟さを自覚せず、建築士の就業制限規定を勘違いしていました。2人の建築士は私が建築士行政上行なった設計者に自己弁明の機会を与える事情 調査で、2人とも、「建築士には、就業制限業務の建築設計は実施できる能力を建築士試験で審査し、建築士法でその設計する権限を国家が与えている」と権利 の主張をしていました。いずれの事件も「建築士法上あたえられた権力を行使したものであること」を主張するものでした。

彼らは、建築士自身の保有する学識経験を逸脱し、建築士法で禁止している誠実業務(建築士自身の保有する技能を超えない)以外 であっても、「建築士法の就業制限内の業務であれば、それは建築士の権利と勘違いし、その能力の及ばない設計を行った結果」の発生した事件でした。その業 務は建築士の不誠実業務が原因と判断され、調査結果をもとに建設省住宅局建築指導課内での検討の結果、行政処分がまとめられ、住宅局長の決裁を得て案処分 が決定されました。2人の建築士は丹下健三と同じ理屈で事故が発生した建築物に対する建築士責任を認識していませんでした。

 

建築士法第18条の誠実業務

米国の建築家法には建築家の倫理規定があり、建築家は自らが過去に実施した技術で検証済みの技術を行使すべきで、安易に未知の 技術を使うことは建築士の倫理規定に違反します。2人の建築士は、「建築士は国家が与えた資格で、建築士資格の行使は建築士の権利である」と見当違いの弁 明をしました。米国の倫理規則が建築士法第18条の「誠実業務」であるとして、行政処分の論理を構成しました。つまり、建築士の就業制限は、建築士がその 資格を理由に設計業務を行ってよい権限を定めているのではなく、すべての建築士資格を有しない人に実施を制限している業務というだけで、その業務能力を認 めている訳ではありません。建築士は実施する業務に関し、その学識経験に裏付けられた範囲を逸脱して行ってはならず、建築士法第18条、誠実業務(建築士 自身の内在的制約:モラル)として、自己の技術行使は、その能力を知っている本人が、自己規制することを、建築士法第18条で「誠実な業務の履行」を求め ています。

 

建設大臣による行政処分

2つの事件は、いずれも建築士が、設計する建築物を実現するに必要十分な学識経験を有しないで設計・工事監理業務を行なったこ とで発生した事件でした。彼らは「建築士として設計したものは安全である」と過信していただけで、安全性を説明する根拠はありませんでした。安全な建築物 の工事をするための設計圖書は作成されていませんでした。事故に関する部分の実施設計図書は存在せず、現場での職人任せの工事でした。建設省住宅局では建 築士設計モラルの崩壊と建築士行政の危機とされ、建築士業務を根本的に見直す取り組みとして違法な建築家の行政処分の実施を厳密に行う方針に従い、上記2 名の建築家に対しては、最終的に建設大臣は行政処分として、「業務停止2か月」を決定しました。その処分の実施に関し、建設大臣は中央建築士審査会に行政 処分を実施することを諮問しました。中央建築士審査会は、住宅局の建築士処分の基本方針を了解し、「この2件の事件はメディアを賑わせた事件でもあること を考慮し、有名建築家であるから許される問題ではなく、むしろ厳しく臨むべきである」と建設大臣の行政処分の諮問に対し、中央建築士審査会(会長市浦健) から同意が与えられました。

 

中央建築士審査会の同意の破棄

2人の建築家は田中角栄の列島改造委員になっていて、行政処分の中央建築士審査会の同意がなされ、建設大臣の行政処分決定の決 裁が開始されたことを知り、2人の建築士は行政処分の回避を二階堂幹事長に陳情しました。二階堂幹事長は同郷の救仁郷建築指導課長に処分猶予の検討を示唆 しました。住宅局長への昇進を窺がっていた救仁郷課長は、田中角栄の列島改造委員の処分は自らの昇進の妨害になると判断し、私建築士法の施行担当責任者で ある私に隠れて、市浦建築審査会長と謀議し、審査会同意を取り消すことを内定し、その同意やり直しの会議を開催することになった。私は事前にその動きを知り、信頼できる建築士審査会委員にその動きを知らせ、中央審査会の信用のために同意の見直しを行なってはい けないと説得した。中央建築士審査会では、市浦会長が救仁郷建築指導課長と謀議したとおりの筋書きに従って「同意の見直し」が提起された。そこで私は建築 士行政担当で事実関係を調査した行政官として「中央建築士審査会の同意見直しには正当性がない」ことを説明した。その結果、中央建築士審査会は「先の同意 を再確認する」ことになった。そこで、私は中央建築士審査会後、建設大臣の行政処分文書を起案し救仁郷課長の決裁を求めた。救仁郷課長は私の目の前で建設大臣による行政処分決済文書を課長の職務机の引き出しに収め、施錠し、「決裁文書はこうなるのだ」と言い、大臣決裁を妨害しました。

 

官僚の昇進の「邪魔者は消せ」、そして、邪魔者は「苛め抜け」

中央建築審査会の判断を尊重し行政処分を実施した私は、救仁郷課長から人事異動で、「君は業務に精励したので3等級に昇進し、 政令職、大臣官房技術調査官にする」と辞令が内示され、大臣官房技術調査室に配属されました。しかし、私の人事は「課長の意向に楯突く邪魔者」と建築士行 政の職務から外され、住宅局から追い出され、部下のいない大臣官房の閑職に配属されました。その後の人事で大臣官房付けでJICA門家としてインドネシア 政府に3年派遣された。帰国後、建設本省には戻せないと言い、付属機関の建築研究所に新設ポストをつくって配属し、その後は地方経験をさせろと言って愛媛 県に派出された。その後行政改革を前提で、宅地開発公団に合併し、住宅都市整備公団に派遣した。そこには救仁郷副総裁として建築部担当で就任し、私には都 市開発計画部の調査課長であったが、影響を及ぼし、私をルーティン業務をやらせない閑職にした。
そこで業務上都市開発調査は手が付けられなくて、私は「大都市圏の宅地の20年後の需給予測調査」や「高齢者社会における公団の取り組みを調査研究」をす ることにした。当時宅地不足と政府は言っていたが、私の実感としては宅地は過剰であり、この事実はどうしても明らかにしなければと考え、国土地理院がラン ドサットを使って調査した。そして、宅地の現状と建設省計画局が組織的に集めた宅地開発計画の基礎データをもとに20年後の4大都市圏における宅地の需給 調査を実施した。この結果は非常に高い精度で宅地過剰を予測したものであったため、志村総裁は日本の宅地問題の基本認識として重要であると判断し、私に、 建設省にその調査結果を報告するように指示された。
そこで公団の宅地部門の監督下である計画局三井幸寿宅地課長に報告した。ところが三井課長はその調査結果を聞くなり、その立場を見失ったように怒り出し、 「こんな事実が表に出たら、建設大臣は国会で立ち往生させられる。一体誰がこんな調査を行なえと言ったのか」というので、「3年間にわたって毎年調査の事 業計画は建設省計画局の三井課長にも説明し、その許可のもとに実施したもので、三井課長自身が承認した調査である」と説明したところ、「経緯はどうでもい い、この調査は部外秘扱いにせよ」と言い、私の面前で住宅都市整備公団の宅地担当理事久保田誠三を呼び出し、電話口で私に行ったと同じ内容で怒鳴り付け た。宅地供給が社会的に問題に取り上げられ始めていた時代であった。

 

建設省人事というもの

私は住宅都市整備公団で5年働いたことになるが、公団への出向は5年が限度で、それ以降は建設省に戻す途しか残されていない。私はその与えられた職務の中で国民にとって必要な仕事を行ってきたため、その業務に非を見つけて馘首することはできない。そこで、建設省の設立した㈶国土開発技術研 究センターに派出された。その直後、建設省人事で大阪府の建築部長に派遣されていた人事が、共産党支持の黒田知事との関係で、存続させられないということ で本省人事は不要ということになった。しかし、建設省としては、大阪府に人事拠点を維持が必要ということで、「ともかく、誰か」を送り込もうということ だったが、だれもしり込みをして大阪に行く者はいなかった。私は行政事務に戻れるということで誰も行きたがらないところでしたが行くことにした。私が大阪 府庁に行き、建築部長に面会したとき、大阪府庁舎の建築部が置かれていた第2別館は、1階から6階までエレベーターホールには床から天井までの紙に大きな 文字で「戸谷英世は大阪府に来るな」と書かれていた。私に面会した建築部長は申し訳なさそうに、「労働組合との合意ができていないので、組合との合意がつ くまで、あなたの机も椅子も用意できない」ということであった。その2週間後に団体交渉があり、私は労働組合からの質問には積極的に応え、むしろ、私の人 事は既成事実として、業務に取り組む姿勢で臨んだため、組合は、「もう出てきちゃったから受け入れざるを得ない」ということになった。しかし、私の席は、 建築部の部長次長という管理職の部屋とは逆の位置にある入札室の中に小さな応接セット付きの部屋が造られ、そこには総務を中継しないと接続されない電話が 一本繋がっていた。完全な監視下に部下なしの部屋に押し込まれました。私の業務は建築部長特命のいかの2つの仕事で、これまで大阪府建築部が何年も取り組 んで何もできなかった仕事でした。

  • 大阪の木賃ベルト地帯の解消
  • 関西国際空湖周辺都市の整備を地区計画による整備

この2つの仕事はそれだけの大きさがあり面白い仕事として、その後の2年間大いに楽しむことができたため、建築部長が私に2年 の契約の任期延長を求めてきたが、仲介に立った建設技監が私が部長に重要視されることを煙たがり、大阪で継続的に勤務することを妨害した。しかし、私には 2つの民間企業から入社の誘いがあり、一つは海外勤務、もう一つは輸入住宅関係の国内企業でしたので、これ以上官僚人事で振り回されていても仕方ないと考 え、ちょうど2×4工法を活用した輸入住宅の仕事ができるので、退官を決意し、官僚でできなかった夢を住宅産に出かけることにした。私が退官後、30年以上経過し決裁文書は決済不能のまま放置され、住宅局で成仏できないでる大臣による行政処分の決裁文書のことを審議官から聞かされ、決裁文書の処分で、処分をしても、しなくても自分の利益にならぬ処分に手を貸さなかった官僚世界を再度見る思いでした。

有名建築士の行政処分で課長と対立し、建設本省を追い出されてから、建設本省には1日付で戻し、即日別の外部機関に派出する繰 り返しを、15年間にわたり合計8回の配置転換と昇給差別をさせられていたことになる。配置転換先ごとに救仁郷は住宅局の影響力を人事に発揮し、派出先の 人事権者に私をルーティン業務から外させる業務干渉しつこく繰り返し、私の官僚として住宅政策業務への復帰の希望を絶たれました。私が人事差別を受けてい たことを何も知らなかった私の娘が山崎豊子の小説を紹介してくれた。どの著作も著者山崎豊子の思い入れがあって、『不毛地帯』『大地の子』『二つの祖国』な ど全巻を一気に読みました。その中で『沈まぬ太陽』(日航労組)の10年間の人事差別物語に出会ったとき、私自身のことが小説化されているのではないか と、主人公にように錯覚しました。私は小説を読みながら、官僚社会での自分の経験をあらためて思い出していました。
私は退官し官僚人生でできなかった日本の住宅産業にかける「ストックの住宅」の実現に取り組むことにしました。この取り組みは国民が住宅を取得することで 資産形成をさせる仕事でした。それが現在のNPO法人住宅生産性研究会の「欧米の住宅産業に倣う仕事」に繋がっています。

 

建築士法の立法趣旨と現実の矛盾

有名建築家の行政処分の根拠の解明と建築家の業務是正のため、住宅局建築指導課では日本建築家協会の会長経験者ら指導的な役割 を担っていた前川国男、圓堂政嘉、市浦健、大江宏と建築士行政の担当責任者(救仁郷建築指導課長と建築士班長の私)が会合をもちました。その会合では違反 建築を撲滅するために建築家協会の協力を求めるとともに、現行制度の問題を検討しました。そこでは、建築士法制定時の経緯と現状のずれの総括、米国の建築 家法と建築教育と設計業務とそれに対応する建築士法に規定する建築教育と建築設計・工事監理業務、並びに、建築士法違反者に対する行政処分を、官民のトッ プの共通認識を図る目的で行いました。それは2人の有名建築士の行政処分が決定され、中央建築審査会の同意を得た直後で、建築士行政と建築設計・工事監理 業界との信頼関係を維持するため、建築士の行政処分に理解を求め、相互理解を強めるために開催されました。その後に2人の建築士が列島改造委員になり、救 仁郷が自分の身を守るために行政処分を覆そうとしたのですが、この時は行政処分で合意されていました。

住宅局建築士行政と日本建築家協会のトップ間での協議の結論は、日本と欧米の建築設計・工事監理業務は、その基本の建築学教育 自体が別で、異質であるから、日本の建築士は米国の建築家と同質の設計・工事監理業務を求めることはできない。それは建築士法が前提にしている米国の大学 の建築教育と米国の設計・工事監理業務経験は、わが国では行われておらず、設計・施工一環の建設業界と結びついた公共事業の利権構造により、現行の設計・ 施工業務を米国のように変えられず、建築士に設計・工事監理業務を排他独占業務として行わせることには無理があるという結論になりました。その上、建築士 に資格を担保する学識・経験はなく、必要な設計・工事監理能力を自己規制する倫理規定がなく、その技術能力を確認する制度がないことが指摘されました。そ して、官民双方が協力しない限り建築士の業務は改善できないので、目に余る建築士の業務違反に行政処分を行なうことは、設計監理業界としても理解するとさ れ、設計・工事監理業者にも分かり易い形で建築士法第18条に求めている誠実な業務を「設計・工事監理の業務基準」として明らかにすることが求められまし た。建築指導課ではその要求を受け、その後、行政部費で「設計及び工事監理の業務基準」を予算計上しました。結局、その業務基準はまとめることができませ んでした。そこで住宅建築業の業務に関し、設計者、施工者、行政官に2年以上にわたる検討をしてもらい、その成果の一部を、『住宅建築業の手引き』(井上 書院)に取纏めました。

その30年後、私が住宅生産性研究会を設立し、全米ホームビルダーズ協会(NAHB)と相互協力協定を締結し、NAHBが発行 している住宅専業経営管理技術(CM:コンストラクションマネジメント)のテキストの翻訳解説本を作成しました。そのとき、建設業者が高い生産性を上げる ためには設計業務として、CMを行なえる実施設計図書が不可欠と記載されていました。NAHBのCMテキストは『住宅建設業の手引き』で取り上げたことの すべてが、詳細に説明されていました。米国のCMは、住宅建設業者に必要な建設業経営管理の技術を体系的にしたもので、現在の欧米の建設業経営では共通の 経営学として大学教育で教育している内容です。この本では建築士の設計・工事監理業務と建築士が作成した実施設計図書に基づく建築施工(工事管理)に取り 組んだわけですが、欧米では大学の建設業経営管理学部の教育になっていました。そしてCM教育を学校教育で学べなかったホームビルダー(住宅建設業者)の ために、米国では全米ホームビルダー協会(NAHB)の教育研修機関であるホームビルダー・インスティチュウト(HBI:住宅建設業研修機関)がホームビ ルダーの研修を行なっています。CMのテキストとしてNAHBプレスから発行されたテキストを翻訳し解説を加え、NPO法人住宅生産性研究会は井上書院か ら出版しました。その作成の過程でCM教育が欧米の大学の建設業教育として教育され、日本だけはCM教育が、学校教育でも職業教育でも行われていないこと を発見しました。CM技術が米国で建設業経営学部として学校教育の軌道に乗ったのは1960年代以降の新しい分野です。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です