HICPMメールマガジン特別号

今回は1970年に私が関係した建築基準法第5次改正の機会に学んだ欧米の防耐火・避難技術に関係する欧米の建築歴史を紹介することにした。

建築家(欧米)と建築士(日本)の建築法令知識の背景(建築基準法第5次改正で学んだこと)

建築家(欧米)と建築士(日本)の知識には大きな違いがある。その違いは建築法令とその前提になっている建築知識にあることで、建築基準法第5次改正のとき学んだことであった。

  • ビル・マンション火災の避難

(米国)火災報知で自分のビルで火災が発生したことを知ったときには、廊下を覗き、煙が移動している場合、煙の流れに向かって避難すれば、その先には階段があり、階段は中央加圧式になっていて、階段室は安全区画になっているので、風の流れに従えば、地上まで安全に避難できる。

(日本)2方向避難の原則に立ち、煙が見えたらその方向は火災の危険があるので、煙のない方向に避難する。その避難には2つの選択がある(2方向避難)。煙の流れる先には屋外への開口があるように、避難できる階段を計画する安全避難計画を立案する指導が建築基準法で行われている

 

  • 都市不燃化対策:木建築の禁止と防火材料の開発

ロンドン大火1776年以降、木造建築が都市火災の原因であるから、都市火災をなくするためには木造建築を禁止、又は制限し、耐火建築物や防火建築を建築するようになった。ロンドンのシティにあるモニュメントには、ロンドン大火後の不燃都市建設の記念碑高さ60mの「モニュメント」には、ロンドン大火からの復興は木造市街地を不燃建築物に変える闘いであったと記述されている。

防火対策として防火地域(ファイアーゾーニング)が建築法規に設けられた。英国人の祖先がデンマークからバイキングの技術として持ち込んだ船大工の技術であるハーフティンバー建築をどんどん中心街から排除した。現在ロンドンのピカデリーサーカスの近くにハーフティンバー構造のリバティ百貨店が残っているが、火災前のロンドンは木造市街地であった。この木造建築をルネサンス建築様式による赤レンガによる耐火建築物に建て替えられた。その当時、ヨーロッパでは「古代ローマに立ち返ることで、イスラム教国に勝る国家づくりをするルネサンス建築運動によりその国家意識を鮮明にした。

 

  • クリストファー・レンのロンドン大火後のルネサンス建築

パリのエコール・デ・ボザールでは、古代ローマに戻るルネッサンス建築は紀元前3世紀に古代ローマの建築家ヴィトルビュースがまとめた『建築10書』に立ち返ることが指摘され、アンドレアパラディオが、『建築10書』をモデルにビセンチア(イタリア)に建築した成果を『建築4書』にまとめたものをテキストに、ルネサンス建築教育が始められた。ルネサンス建築がヨーロッパを席巻しているとき、ローマ法王庁と対立し英国協会を設立し、バチカンに従わなかったヘンリー8世はローマ法王庁との関係で、英国人がヨーロッパに入ることが禁止され、古代ローマの偉業を学習するグランドツアーへの参加ができないでいた。ヘンリー8世の死後、英国人の大陸旅行は解禁となり、現在ロンドンの東部グリーンニッチに立っている建築家イニゴー・ジョーンズによるクイーンズハウスは、英国に建設された最初のルネサンス様式の建築である。その後、建築家サー・クリストファー・レンがフランスに渡り、ルネサンス宮廷の建築調査を行ない、ルネサンス様式を学び、ロンドン大火後のロンドンの火災復興を進めることになった。セントポール寺院とともに、火災復興のレンガ建築物をルネサンス様式で進めたため、その建築様式はレンの進めたルネサンス様式「レネサンス」と呼ばれ、やがて英国の海外進出とともに英国植民地建築(イングリッシュコロニアル)として、世界に拡散した。

 

  • 米国の首都建設に貢献したロンドン大火復興事業

18世紀、新大陸に米国が建国され、首都フィラデルフィアの都市建築のため、ウイリアム・ペン(ペンシルベニア州の創設者)は英国に亘り、ロンドン大火後仕事が激減して困っていた建設労働者や建設業者に対し、「緑の大地に出かけて資産を築かないか」と誘いかけ、ロンドン大火災後の復興事業で活用したレネサンス様式のレンガ建築を標準設計、ホームプラン、ルール・アンド・アーティクル(共通仕様書)、建設職人という英国の建設産業全体を米国に誘致してフィラデルフィアを建設した。そのため、米国では、「フィラデルフィアは建築家なしで造られた首都」というように言われている。しかし、フィラデルフィアの視聴者は世界で最大規模の無筋コンクリートの建築物で、戦後染料マッカーサーの祖父の建築家が設計した建築物である。

フィラデルフィアで米国植民地時代の最後の国会が開催されたところがカーペンターホールで、ロンドンからやってきた建設業者や職人たちが繁栄をしたことを確かめることができる。フィラデルフィアにはその当時の英国のレンガ建築が残っている。

 

  • 防火材料の中心となった建材:石綿スレートか、石膏ボードか

英国では古くからで火災を遮断する材料として、薪燃料を中心的な燃料エネルギーとして使う国では、煙突からばらまかれる火の粉による火災対策として天然スレートが屋根材料として広く使われていた。その天然スレートに相当する防耐火性能の防火材料の開発がすすめられ、石綿スレートとセメントで固め版状にした建材が屋根及び外壁材として、開発され世界的に広く使われるようになった。明治維新にすでに「浅野スレート」の商品名で知られている通り、ヨーロッパから日本に輸入されている。石綿とセメントで成形加工する石綿スレートは、万能の建築材料として、戦後の日本では日本建築学会は中心になり設計競技を繰り返し実施し、石綿スレートは歴史的には不燃材料が防火材料としてつくられ、戦後のわが国に都市不燃化の期待を担ってきた。石綿スレートが防火材料として大きな役割を期待され、自由な成型により構造材料、内外装材量、設備配管にも使えることから、建築材料の万能選手とも言われた。建築物の全てを石綿スレートでつくる設計競技は日本建築学会と業界団体協賛で繰り返し開催された。石綿スレートはセメント生産国日本の条件にも合致していて、欧米諸国に遜色ない技術を誇っていた。わが国で万能の防火材料として利用されていた石綿スレートは、発がん物質であることが判明しその地位を一挙に失うことになった。

 

6.米国の建築法規を全面的に取り入れた建築基準法第5次改正

1960年代末、旅館ホテルの大事故が相次いで発生し、建設省は建築基準法の防耐火・避難既定の全面見直しの必要性を認め、当時の日本の建築学では対応ができないと判断された。日本建築学会を相手にしないで、建設省住宅局が日本建築センターを使って、戦後の建築基準法は1950年米国のユニフォームビルディングコード(UBC)をモデルにして作成した。その結果、日本建築学会と建設省によるそれまでの産学共同体制が崩壊した。その結果、建築基準法例集の取り扱いを日本建築学会から日本建築センターに移し、学会と住宅局の産学対立が激化した。

その建築基準法の技術基準の作成に関係した小宮課長、前川課長補佐が、建築基準法第5次改正の建築審査会委員、建築指導課長になり、米国の建築法規を調べてみると、日本の建築基準法では予想できないような防耐火避難基準ができていることを知り、それらの文献を取り寄せて研究する傍ら、住宅局で語学が飛び抜けて優れていた水越義之を建築指導課に移し、カナダに防火建築法規の研究にMSA交換留学生として派遣した。水越がカナダでの驚きは、防耐火の建築づくりで石綿スレートは石膏ボードに敗北し、米国・カナダの建築防耐火は石膏ボードによって決められている事実を見せつけられた。私は、建築基準法第5次改正に関係し、石膏ボードが米国の防耐火建築物で圧倒的な力を発揮していることを教えられたが、その歴史を知ることはできなかった。石綿スレートはその構成材料(石綿、セメント、水)の全てが不燃材料であるから燃焼しない材料である。しかし、セメントで固めた材料であるため、熱伝導率が高く、熱を即時に伝達し、加熱すればセメント中の水分が蒸気化し材料は爆裂し、火災に耐えられない。

一方、石膏ボードは最初は天然石膏を紙の間に挟むもので、破損しやすく重重量も石綿スレートより大きい欠点もあったが、施工は容易で、施工の結晶水が過熱により失われるまで形状を維持し、熱伝達を押さえるため、高い防耐火性能が認められた。そして、新しい防耐火理論として生まれたファイアーコンパートメント(防耐火区画)構成要素として不可欠な材料となって、その地位を不動のものにした。やがてその歴史秘話は、その後2×4工法をカナダから日本の建築基準法上の工法にする法制化の過程で、米国カナダの関係者から聞き、文献で確かめ、学位取得論文の原稿を建築学会の計画系論文としてまとめた。

 

7.「セントローレンスバーンズ」:コペルニクス的転換をした米国カナダの防耐火理論

  セントローレンス川のダム結果位置を利用して行われた大火災実験は、防耐火区画(ファイアーコンパートメント)された2×4工法住宅が、市街地火災に安全であることを確かめる実証実験であった。2×4工法の建築物が大都市の商業地域の建築物として建てられた結果、それが都市火災の原因となった。そこで欧米で都市防火と言えばロンドン火災後の復興に学び、防火地域(ファイアーゾーニング)により木造建築を禁止した。しかし、摩天楼建築により、高層の耐火建築物が建築されたが、1930年代から高層ビルで大火災が発生した。その被害額は低層木造市街地建築に被害を遥かに巨額なものであった。その際の様子を映画化したものが1974年に映画化され火災事故がタワリング・イン・フェルノであった。この高層耐火建築物火災は、建築物の構造材料に関係なく火災事故が拡大することを証明しており、それは人間が火を使い、火災はそれを制御できなくなったときに拡大し、防火地域や防耐火建築規制の理論や実践では基本的に解決できない。

そこで生まれた新しい防耐火理論は火災エネルギーをコンパートメント(防耐火区画)により分割管理することで加熱を計画管理することで火災安全を実現できる。そこで加熱の原因になるもの(火災荷重)をあらかじめ計画し、加熱の安全管理を確実に行うことで、防耐火安全を実現できる。石膏ボードにより防耐火性能の高いファイアー・コンパートメント(防耐火区画)が形成できる理論を実物実験として行った実験が「セントローレンスバーンズ」である。それまでの防火地域制(ファイアー・ゾーニング)を廃止し、火災を建築物の防耐火設計により安全につくる理論を顕彰した。「火災安全は燃焼拡大」、「危険ガスの蔓延」、「火災時の燃焼音の覚知」の3方法で行われた。

カナダ政府は、ファイアー・コンパートメントの理論に基づき1958年建築基準法と火災法を完成したが、火災保険会社の反対で進めることができなかったが、1960年からは、セントローレンスバーンズの結果を取り入れたことが社会的に周知され、両法は施行された。しかし、米国では火災保険業界の強い反対でUBCの改正は妨害され、1972年になってカナダの建築法と火災法を評価し、CABO(カンファレンス・オブ・アメリカン・ビルディング・オフィッシアルズ:全米建築主事会議)でカナダの法制度に倣って防火地域(ファイアーゾーニング)規定の廃止とフ防耐火区画(ファイアーコンパートメント)を採用することになった。

建築基準法第5次改正では、米国のUBCの規定を基本的に受け入れ、竪穴区画、面積区画、安全区画の俗称で建築基準法が改正され、防耐火構造と防火材料の格付け制度をアメリカに倣って法改正を実現させた。米国の防耐火理論が日本の建築基準法と違っていたが、1950年の建築基準法制定時に米国のUBCを学び、1970年に進歩したUBCを見て、日本建築学会の遅れた考え方を排除して建築基準法改正法を作成したことは、安全のために先見性のある行政判断であった。

 

8.日本の防耐火理論:川越理論と浜田理論

  建築研究所第五研究部川越部長は、戦後火葬場において日本の防耐火理論の意志杖をつくった研究者である。大都市火災で壊滅的破壊されたわが国を火災に対し安全に作るための研究を建設省建築研究所で行っていた。その一つは鉄筋コンクリート構造が都市火災に対し耐える研究として、火災の過熱に対してどれほど耐えることができるかを実証的に明らかにする研究家建築研究所第五研究部で行われていた。鉄筋コンクリートで造られた柱、梁、床、壁を火葬場に持ち込んで、火炎照射しながら、建築物の設計荷重をかけ、どれだけの時間耐えられるかという火災継続時間で火災安全性を計測する方法である。鉄筋コンクリートは長時間の過熱によって、鉄筋が熱せられ、その耐力を低下する性格に着目する耐火試験である。耐火性能を時間表記する理由である。そのため、日本では鉄筋コンクリートの研究者が防耐火性能の研究者である。欧米では、火災は有機物の燃焼という火災現象に対する学問と考えられているため、有機材料研究者は火災学の研究を行なっている。そのため欧米では「火災荷重」の管理が重要視され、その対策としてファイアーコンパートメント(防耐火区画)による火災荷重を分割管理する技術を防耐火技術と考えている。

わが国では戦災の経験から、延焼防止という「被害回避・被害防止」の考え方から、「延焼の恐れのある部分の開口部規制となっている。この火災の浜田理論は、延焼防止曲線の提案から始まっている。一方、欧米では、火災は人間の生活空間から拡大するから、社会に対し加害しないように、開口部からの火炎の拡大防止が基本的考え方になっている。火災を加害防止という視点でとらえるか、加害防止か被害止かいずれの観点でとらえるか、視点の違いが法規定の違いとなっている。

 

9.佐々波秀彦の遺言「アントニン・レイモンドは、許せない」

佐々波秀彦は戦後の住宅官僚の最初の世代の人で、建設省建築研究所に国連の地震のトレーニングセンターを設置した人であり、住宅関係の国際会議に日本を代表して参加した。退官後、筑波大学及び広島大学の教授で教育に携わり、国際社会でこの分野では、最も知名度の高い人で、豊かな国際経験を基に広い視野で物を考える方であった。佐々波秀彦は私の住宅官僚の先輩で、住宅協住宅建設課専門官時代、世界に飛び出し、帰国後、住宅局も先輩として、その経験を聞く機会があった。私が建設省建築研究所企画部調査課長時代に調査研究予算管理業務上の関係でした。HICPM創設後も、「住宅を取得することで国民が資産形成をしている米国の住宅産業の調査結果」を知るために、何度か情報を交換に来会されたこともあった。来会の都度、佐々波さんから何度も聞かされた話が、「アントニン・レイモンドは許せない」という話であった。その理由は、東京大空襲を実施することを、理論的裏付けをもって米国政府に提言した人がレイモンドだったからであった。、

 

10.建築家アントニン・レーモンド

チェッコスロバキアの工科大学でシビルエンジニアリングを学び、第1次世界大戦中は諜報活動の仕事に関係したが、第1次大戦後、レーモンドはフランク・ロイド・ライトの建築設計事務所でデザイナーとして働こうとイタリアに留学し絵画を学び、建築のスケッチやパースの力を高め、その技術がフランク・ロイド・ライトに認められ採用された。ライトが帝国ホテルを設計するにあたり、レーモンドはその協力者として東京の事務所で働き、耐震構造関係の設計に貢献した。ライトは帝国ホテルの工事途中、建築主と意見が合わず米国に引き揚げたため、レーモンドが遠藤新らと帝国ホテルの完成までの仕事を行った。帝国ホテルの完成直後の1923年、関東大震災が関東地方一円を襲い、日本建築物はもとより、ジョサイア・コンドルの設計した東京都博物館を始め、多くの近代建築も大きな被害を受けたが、帝国ホテルは、プールの破損はあったが、主要建築物は倒壊しなかった。震災市街地に帝国ホテルが無事に残ったことから、レーモンドは時代の寵児となり、レーモンドは耐震設計技術者としてチェッコスロバキア国の誇りとして駐日特別公使に任命された。

 

11.第2次世界大戦でレーモンドの果たした役割

レーモンドは帝国ホテルの仕事を通して日本建築に高い関心を持ち研究をし、日本文化にも愛着を抱き、ライトからも彼が日本の伝統建築の影響を受けたことにレーモンド自身も共鳴し、彼の建築思想に和風建築デザインを取り入れることになった。1945年(昭和20年)7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に発せられた、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全13か条から成るポッダム宣言を日本に示し、「無条件降伏」が戦争終結の条件とした。連合軍の無条件降伏の要求に対し、大本営は、「本土玉砕」を主張し、その要求を拒否する態度を明らかにした。連合軍は第2次世界大戦末期、硫黄島での戦闘、沖縄での戦闘では連合軍は勝利したものの甚大な兵隊が犠牲者になった。もし、「本土決戦」がその例に倣っていたら連合軍の戦闘による犠牲者は計り知れないと考えられた。連合軍は日本本土での戦闘は回避すべきと考え、それ以前に日本の「国体護持(天皇制の維持)」要求に妥協しても、終戦を実現したいと考えた。レーモンドは連合軍の意向は、日本の建築文化に強い関心を持つレーモンドの気持ちとも「本土玉砕回避」に関し、連合軍と共通の考えを支持できたことから、「日本にポッダム宣言を受け入れさせよう」と考え、大本営が連合軍の攻撃に対抗することはできないと思わせる打撃を与えることで、それを可能にする災害は、「関東大震災級の被害しかない」と考えた。

関東大震災を実際に経験したレーモンドは、震災で政府は機能を失い、また、震災において、木造市街地火災が大都市圏を炎上させ、国家が当時機能を維持できなくなった直接の原因と判断されたので、それに大本営判断を覆させることのできる「木造市街地への焼夷弾爆撃」を米国に提案しました。米国はそれまでB29による軍需産業を中心に空爆を実施して、期待通りの成果を上げられず、万策尽きた状態であったので、レーモンドの提案を受け入れ、ネバダで木造市街地火災実験を焼夷弾〈ナパーム弾の巨大化した爆弾〉を使用して実験した。実験結果で市街地火災の実験は大成果が得られたので、それを使って1945年3月10日「東京大空襲」を行い、10万人以上の死者を出し、その後、全国の主要都市に対し、軍需施設や軍需産業に対し焼夷弾爆撃が行われた。

 

12.日本の戦後とレーモンド

アントニン・レーモンドは米軍の日本攻撃に重大な功労者として、戦後最も早くから日本で建築事務所を開設し、自由に設計活動をすることができた。そして、現在、毎日新聞社のある所に当時米国の最大の雑誌社であったリーダーズダイジェスト社の社屋の設計を担当した。レーモンド建築事務所には、新進気鋭の建築家、前川国男、吉村順三らが働くようになり、進駐軍関係の建築設計業務をレーモンドは受注し、日本人建築家を指導し実施した。そのころ米国のロックフェラー財団から、戦後の米国の住宅デザインとして、日本の伝統的建築デザインを調査したい意向がレイモンドの元に伝えられた。米国のロックフェラーは戦前からライトと関係があり、浮世絵に関心を持ち、「ジャポニスム」に惹かれ、ライトが設計した帝国ホテルの情報をよく知っていた。そのモデルと考えられる宇治平等院鳳凰堂のデザインは、1894年、シカゴ・コロンビア博覧会で米国人の心を掴み話題になり、そのデザインが「帝国ホテル」として日本に里帰りしたことを知っていた。

ロックフェラーは、日本建築に関心がありその理解者であったが、戦後の米国の住宅に新しいデザインを導入しようと考えていた。その一つの候補として日本の住宅デザインを取り入れようと考えた。戦後は世界的に各国で新しい住宅デザインの開発が取り組まれ、ル・コルビジュエの「単位住宅」、F・L・ライトの「ユソニアム」等世界中の著名建築家は住宅デザインを提案し、米国では「ケース・スタディ・ハウジング」が広く取り組まれ、ロックフェラーは最先端の取り組みであった。

レーモンドは帝国ホテルの設計施工を通して、ライトが日本の寝殿造ね設計思想をプレーリー様式として帝国ホテルの設計に生かした日本建築の技法を日本の建築家に伝えることになった。

 

13.吉村順三によるニューヨークMoMA中庭に建てられた松風荘

  戦後世界中では戦災復興と国民の住生活創造のための新しい住宅運動が始まり、米国のロックフェラーは新しい時代の住宅モデルを開発すべく、新しい住宅デザインの開発に取り組んでいた。そのモデルとなるものの一つが日本の書院造であるとして建築家調査団が来日したが、そのモデルと考えられた住宅がMoMAに中庭には建てられず、吉村順三に設計が依頼された。それが松風荘である。この松風荘は米国の設計思想を根底から変更させ、オープンプランニングを全米はおろか世界に普及させることになった。寝殿造がプレーリーデザインとして帝国ホテルに影響し、関東大震災がレイモンドの東京大空襲のヒントとなり、レイモンドの日本建築に対する理解が前川、吉村という建築家を育て、それが松風壮という書院造り建築によって、現代の住宅設計の基本となるオープンプランニングを生み出した。日米を交流した住宅建築文化の中には第2次世界大戦と東京大空襲という悲劇も含まれている。

  ここで紹介することにしたものは、建築基準法による防耐火基準の整備強化を米国の建築法規の体系を全面的に受け入れて取り組んだ建築基準法第5次改正のとき、その防耐火・避難技術の関係で学習したことを私の建築知識の一連の物語として住宅産業関係者に説明しようとして考えたものである。ハードな技術のお城に多くの人間模様があることを改めて実感したところである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です