HICPMメールマガジン第756号(2018.01.29)

 

みなさんこんにちは。寒い日が続いていますがお元気にお励みのことと思います。

 

先週、沼津クラブと聚光院伊東別院を見学してきました。会員の皆様に建築設計のことをお話しするときできるだけしっかりした情報としてお話しできるようにという準備です。

先月は大磯の吉田茂邸という吉田五十八設計に依る数寄屋建築を見て、建築主の見識と設計者の設計姿勢を見ることができ、和風建築と洋風建築と基本的に共通する設計思想が人文科学であると再確認しました。今回もわが国を代表する数寄屋建築です。

 

沼津倶楽部(旧ミツワ石鹸社長邸)

今回の沼津倶楽部は明治40年にミツワ石鹸の2代目の社長三輪善兵衛が「松岩亭」 として建設した数寄屋建築で、第2次世界大戦中陸軍に接収され、戦後大蔵省の管轄になり、総理大臣にもなった石橋湛山が大蔵大臣のとき、石橋湛山の政治活 動の場として使われ、「社団法人沼津倶楽部」となり、現代は将棋の名人戦会場にも使われるというところです。この建築は絵にかいたような数寄屋建築で、江 戸時代に完成したと言われる数寄屋建築が、当時の産業人の道楽建築として建てられたもので、現代までよく残っていると思われる建築です。建築というより工芸品で「1000人茶会」を催せる規模の茶室建築です。この建築は茶室を通して営まれる人間関係がどのようなものであったかを知らない私には、想像するだ けの世界ですが、「気ままに生きる風流人」が、「好みに任せてつくった」至極の空間で、贅を尽くした建築物です。

 

建築主の意図も設計施工をした棟梁は、江戸幕府の小普請方棟梁柏木家10代目の柏 木祐三郎です。いくつもの茶室が繋ぎ合わされてできた建築で、それぞれの空間(茶室)ごとに内部の使われ方、そこからの眺めや固有の屋内空間をもってい て、独立性があり、その設計を考えていると、驚くほど全体地に関係と詳細なディテールまで配慮が行き届いていて、隙のない建築であることが分かりました。 このような建築の形、建築詳細、建築意匠の設計と施工をすることが建築教育訓練だと改めて教えられました。そのためには欧米ではアーキテクチュラルボキャ ブラリー(建築言語)を使って建築主のこの建築物を利用する人への気持ちを大工棟梁が歴史文化に根付いて設計施工によって具体化していることが分かりま す。それを建築物をとおして建築主の思想を語らせているものは、「材料」と「工法」であることを改めて感じさせられました。

 

大徳寺聚光院伊東別院

この建築物は1997年に夫の追善供養と仏門交流、世界の平和を祈念した建築物で す。吉村順三の設計した建築物です。その建築物のインテリアがニューヨークを拠点に世界で活躍している日本画家千住博の襖絵で埋められている建築物でし た。予備知識なく、吉村順三の建築物ということで見学しました。鉄筋コンクリート造2階建ての大きな近代建築で、私が描いていた日本建築に造詣の深い吉村順 三の建築物というイメージとは大きく違い、全体が画廊で、そこに千住博の「水」という概念を「滝、切り、流れ、雲」という「水の変幻自在な姿」を画家の感 性で全館に展開したものです。画家の宇宙観とか地球的広がりをもって情報発信しようとする「先住博の絵画哲学」を全建築物に展開したものです。私には吉村 順三がニューヨークのMoMAの中庭に建築した「松風荘」のイメージで考えていたところもあり、大徳寺聚光院伊東別院の2階にある禅の修業場から、障子を 開いて見せられ大会と屋外に繋がっている空間を書院建築で吉村が米国の建築家たちを驚かせた「オープンプランニング」だととっさに連想させられました。し かし、この建築には鉄筋コンクリートラーメン構造として単純につくられ、建築詳細や装飾とかはなく、そこには日本の様式建築の持っているアーキテクチュラ ルボキャブラリーはありませんでした。私には仏教寺院建築という概念を否定する建築物にした建築家の意図が分かりませんでした。

 

 

連載している「注文住宅」を2回ほど休会しましたが、以下に継続します。

米軍の兵站基地として行われた「住宅政策の問題」

 

朝鮮戦争を契機に始まった住宅政策の社会的背景

戦後の住宅政策は、米国の占領下に始まり、国民には戦災復興政策として取り組まれ たと国内向けに説明されてきました。1946年の日本国憲法が占領下で発布されたときは、現在の日本国憲法第9条の条文どおり、日本は戦争の放棄を宣言 し、戦時下での軍国主義を進めてきた軍の組織、軍国官僚機構、軍需産業をすべて解体する決定を、占領軍の命令と監視下で進めていました。しかし、1950 年6月25日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が1948年に定められた軍事境界線をソ連の支援を得て違法に南下し、基本的に米国とソ連・中国との代理戦 争が勃発しました。中国やソ連という地続きの国と、太平洋を隔てた米国とが対等の戦争はできず、米国は日本の戦前の軍需産業を全面的に復興することで朝鮮 戦争を戦う決定をしました。日本の政策は単なる戦災復興ではなく、米軍の極東軍事戦略に沿って、日本は米国の兵站基地の役割を担わされた結果、日本の戦後 復興は、米軍の要求に応えた軍需産業国家としての復興でした。。

日本は戦後の復興を国際社会への復帰を足掛かりにすべく、ドイツにおけるニュール ンベルク裁判に倣い、東京裁判を実施し、日本の戦争責任を明確にするけじめを付け、サンフランシスコ平和条約を締結するシナリオに向かって準備をしていま した。朝鮮戦争によりそのシナリオは米軍の要請で、急遽変更せざるを得ず、その最初の政策変更が、戦前の日本の軍需産業の復興でした。その方法として、

(1)   戦前の軍需産業資本である財閥解体の中止、

(2)   軍事産業関係で公職追放者たちの追放解除、

(3)   軍需産業からの失業者を軍需産業で雇用、

(4)   労働再開できるように政府資金で社宅を供給し、

(5)   軍需産業雇用者以外の下請け企業及び関連企業で働く労働者に政府の責任で公共住宅の供給

 

米軍の兵站基地として軍需産業復興のための住宅政策

1950年の住宅金融公庫法の制定は、米軍が朝鮮戦争を戦うために戦前の軍需産業 復興のため、財閥解体の中止と平仄を合わせ、旧軍需産業労働者を改めて軍需産業に定着させるため、占領軍は日本政府に住宅金融公庫を設立させ、郵便貯金と 簡易保険積立金という政府の管理している資金を使い行なうことを命じました。政府は米軍の占領政策として、住宅金融公庫を設立し、旧軍需産業(財閥)の社 宅建設のための産業支援融資を、既に、米軍及び軍需産業へのエネルギー供給を行う産炭地(財閥)の復興政策として始めていた炭鉱住宅の新設及び改良の産業 向け住宅融資とを併せて、住宅金融公庫ではじめました。政府の説明や住宅問題研究者たちは、日本の戦後の住宅政策は戦災復興事業として、日本国憲法第25 条の実現を目指して福祉政策として取り組まれたと説明されました。

 

軍需産業復興のための住宅供給

しかし、歴史を遡って調べてみると、1946年の日本国憲法で戦争を放棄しました が、1950年の朝鮮戦争勃発により、米軍の占領下にあった日本全体が米軍の兵站基地とされ、日本は国全体として米軍の求める軍需物資や軍人を輸送する車 両や船舶をはじめ、軍需物資の生産を支えるための物資の生産を行うとともに、米軍戦闘機は日本領空を自由に飛行し、米軍船舶は日本領海を自由に航行できる 特権を行使しました。それが東京裁判により、日本は戦争責任を認めたことで独立国になりました。1952年のサンフランシスコ平和条約締結が独立国家とな り、日本が国際社会に登場できることになりました。しかし、米軍占領下の米軍の兵站基地としての扱いを継続するために、日米安全保障条約の締結によって継 続されてきました。日本全体を米軍の兵站基地と扱う日米安全保障条約と日米行政協定に抵触しない部分にのみ、日本国憲法を基本法として適用する国として整 理されました。最高裁判所は、1959年の砂川裁判において、日本国憲法と日米安全保障条約との矛盾を、東京地方裁判所が第1審で認めたことから、積極的 に否定できず、日米安全保障条約を日本国憲法に優先する基本と認め、すべての政策が日本を米軍の兵站基地とする政策の下での統治が行われてきました。現在 の安倍内閣が進めている安保関連立法はその文脈の中で行われてきました。

 

軍需産業の低所得労働者向け住宅としての「公営住宅」

私自身、住宅問題との出会いは、60年日米安全保障条約改正反対の学生運動がきっ かけになり、マルクス、エンゲルス、レーニンの著作をきっかけに、エンゲルスの『住宅問題』『英国における労働者階級の状態』を読み、日本の住宅問題への 関心が広がり、上野洋著『日本の住宅政策』(彰国社)西山夘三著『日本の住宅問題』(岩波新書)を読みました。これらの書籍は、日本が米軍の兵站基地にさ れたことには触れず、英国の労働党政権の住宅政策に倣い、建設省住宅局の技術官僚が戦後の越冬住宅(緊急住宅政策)を恒久的な政策として、公営住宅法にま とめた政府の住宅政策の文脈で日本の住宅政策を英国労働党が推進していた福祉政策と同じ政策として説明をしてきました。

建設省住宅局で住宅行政を担当し、住宅金融公庫の制定時の経緯や公営住宅法立法の 経緯を先輩の住宅官僚から聞き、現実の住宅行政に関係するうちに、1950年から始まった住宅政策は、日本国憲法の下での福祉住宅政策のフィクションを政 府が国民向けに説明したもので、日米安全保障条約に基づき、日本が米軍の兵站基地とされて行われている住宅政策の説明は省略されてきました。1950年時 点の住宅政策は、日本国憲法第9条に違反して軍需産業の復興のために、旧軍需産業復興のための社宅供給の融資を、財政投融資を使って行う政策が実施されま した。その政策に政治的正当性を付与するために、軍需産業の復興を表に出さず、産業労働者向けの住宅政策の枠組みの下で、軍需産業復興政策がすすめられま した。

 

米軍の兵站基地(日本)での総合的な住宅政策

戦前の軍需産業では、家庭にまで部品生産を負担させる国家全体を軍需産業にした産 業構造でした。戦後の米軍はすでに日本国憲法発布のとき公表した財閥(旧軍需資本)解体政策を放棄し、それと矛盾する軍需産業のための社宅供給を行なうこ とで、旧軍需産業を復興させ、兵站基地機能は復興させる政策を採りました。しかし、米軍が旧軍需産業構造を調べてみると、軍需産業の復興は国民全体を巻き 込む下請け産業構造であることが確認でき、中小零細下請け産業労働者対策が重要であると理解しました。

たまたま内務省中で敗戦後の日本復興のモデルを研究していた官僚の中に、英国労働 党の住宅政策を知り、戦後の日本の国土復興に大きな役割を担う政策と考え、検討が初められていました。住宅・建築・都市問題を英国の労働党政策に倣うべき と考えた住宅官僚の取り組みが、日本国憲法違反の軍需産業復興政策をカモフラージュする政策となり、国民全体を旧軍需産業の下請けに組み込むためには、低 賃金労働者向け住宅政策は、軍需産業にとって不可欠な政策と占領軍は判断し、推進することになりました。

 

「産業労働者向け住宅」と「公営住宅」とは、「経営側の住宅」と「労働者向けの住宅」の違い

GHQは財閥向け軍需産業向け社宅との対立概念として、日本国憲法で新たに創設さ れた地方公共団体が低所得者向け公営住宅政策の施行主体となることで公営住宅は産業労働者向け住宅との政策上のバランスと取ったと説明されました。日本を 米軍の兵站基地にするためには、単に軍需産業だけではなく、日本国全体を米軍の兵站基地にすることです。軍需産業は重厚長大型の日本の基幹産業であり、軍 需産業の下請け産業や関連産業労働者の住宅問題は、日本の底辺の住宅問題で、経営者側職員の公庫住宅と労働者向け公営住宅が日本の住宅政策の両輪となると 位置づけられました。京都大学教授西山夘三、建設省住宅官僚上野洋は、いずれも、反体制学者や官僚ではなく、体制内の改良主義者として多数の著作を発表 し、政府施策住宅を支援しました。彼らは日本が米軍の兵站基地としての機能を担わされていることを承知で、建設省の住宅政策を米軍の指揮による旧軍需産業 の復興政策であることを全く表に出さず、国民全体を対象にした住宅政策と説明していました。軍需産業は重層下請け構造でしたから、下請け労働者や関連産業 労働者は社宅には入居できず、当時の高額な住居費負担のできない下請け関連産業労働者向けの住宅供給が、1951年制定された公営住宅として行われること は、軍需産業を下支えすることものであることは、米軍だけでなく、すべての関係者に理解されていました。

 

住宅政策は基本的に職場に拘束される地域住宅政策

旧軍需産業の立地する地域は、その後、新産業都市および工業整備特別地区に指定さ れ、公営住宅はこれらの地域に優先配分し、その住宅政策実現には、地方公共団体を事業主体として政府の強力な指導力のもとで実施されました。また、既に設 立された住宅金融公庫には、土地を所有している個人や、公営住宅への入居基準を超えた労働者向け賃貸住宅を供給する公社等への融資を行う途が開かれまし た。軍需産業に雇用されようと失業者が都市集中しており、大都市の住宅困窮者を減らすことが、軍需産業への労働者への住宅問題解決につながりました。

1950年6月25日に38度線を南下して始まった朝鮮戦争は、3年後に休戦しま したが、米ソ対立は戦線を東南アジアに拡大し、1976年ベトナム戦争で米国が敗北するまで継続しました。そのため、車両や船舶を中心に重厚長大型産業と 言われたわが国の軍需産業は、米軍需要と併せて警察予備隊、保安隊、自衛隊に成長した日本の軍隊の軍需により、軍需産業は大都市で急速に成長しました。そ こへ旧軍需産業の廃業と引揚者で満ち溢れていた国内では、旧軍需産業の復興が朝鮮戦争開戦とその後の東南アジアへの戦線拡大で急拡大し、失業者は雇用を求 めて殺到しました。そこで働く労働者を確保するために社宅の建設が住宅金融公庫による産業労働者住宅融資で始められ、重層下請け構造の旧軍需産業の下請け 企業や関連企業の低賃金労働者のための公営住宅、公社住宅が、日本国憲法に新設された地方自治に基づく住宅政策として、就業地と常住地とを対応させる住宅 行政として始められました。日米安全保障条約で、兵站基地としての軍需産業で働く労働者に対する住宅供給は日本政府の責任分担とされ、大蔵省は財政支出を 通して住宅用予算を計上と支出することの管理が米国から求められていました。

しかし、復興された軍需産業は大都市に集中し、多くの労働者は、大都市圏を単位に 行政界を超えて「遠・高・挟」の住宅環境の犠牲を承知で通勤しました。地方自治の矛盾を解決するため、1955年日本住宅公団が設立され、軍需産業労働者 向け特定分譲住宅の供給と公営住宅の矛盾を解決する一般賃貸住宅の供給を始めました。公営、公団、公庫住宅は国民全体を対象にする一般的な欧米同様な住宅 政策と説明されてきましたが、本質は1952年に日米安全保障条約を背景にした日本全土を米軍の兵站基地とした中での軍需産業のための政府施策住宅政策で した。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

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