NPO法人HICPMメールマガジン第761号(2018,03.05)

みなさんこんにちは、

 

雛飾り見学

3月3日の雛祭りには目黒の雅叙園の100段雛飾りを見に行ってきました、今年は滋賀、美濃、飛騨の御雛さまが陳列されていました。来年は東北だということでしたが、日本の中世、近世の文化は江戸末期から世界にジャポニズムとして大きな影響を与えたとおり、現代の日本にとっても再現することのできない専ら保存するだけの重要な文化資源です。会場は移動できないほどの人でいっぱいで、「雛があるのを見た」というひどい混雑でした。しかし、見ただけで満足しなければという状態でした。私はこの雅叙園の100段飾りは雛祭りのほかにもいろいろな催物を見学に出掛け、この100段の空間に日本の伝統的な建築自体に日本文化が詰まっていて、出かける都度、驚きと感激を味わってきました。

 

神戸芦屋にあるフランク・ロイド・ライトの山邑邸も、この時期には山邑邸全館が雛人形で飾られている頃だと思います。HICPM副理事長の故成瀬大治さんは数寄屋建築と京都の文化に詳しく、2度ほどご一緒に雛祭りのときの山邑邸を訪問したことがあり、それも思い出し懐かしく思いました。

 

「赤坂迎賓館」

今回みなさんにご報告しようと思ったのは、以前から近代建築様式の学習のためにGKK・HICPM国内ツアーで実現できなかった「赤坂迎賓館」を今回、見学し、私が考えていた通りの『明治政府が望んでいた近代建築を代表した建築でした。「明治の日本人が近代建築で欧米先進国に伝えようと思っていたことを完全に伝えていた建築物」であったことをお知らせしなければ、と感じました。赤坂の迎賓館は、私が官僚になった半世紀前は荒れていました。宮内庁は何とか修復しようと、建設省営繕局が工事を行っているときでした。近代建築の様式への関心ではなく、そこを冷房の熱源にしている氷室があるという珍しい話を聞いて、それに興味をもって見学することにしたが、できませんでした。

今回、私がどうしても見学したかった理由は、住宅建築関係者が国民にひどい住宅建築を供給している大きな原因が、明治時代に始まった東京大学の建築教育が人文科学教育ではなく、欧米の建築家教育とは異質の教育であることを関係者に理解してもらうため、日本の建築教育を歴史的に確認をするためでした。官僚になって建築行政に関係してから半世紀間で経験してきたわが国の建築教育を整理し、最近約3年かけて『欧米の建築家、日本の建築士』の原稿を書きました。戦後の建築教育に問題があることは言うまでもありませんが、その原因が明治維新以後の近代建築教育に原因があったことを発見し、それを実証した本をつくるための貴重な事例の一つが赤坂迎賓館で、明治の近代建築教育の根拠の検証を目的に訪問したものです。

 

「近代建築」とは何か

赤坂離宮はフランスのベルサイユ宮殿と英国のバッキンガム宮殿の良いところを取り入れ、それらのモデルに比較して遜色のない宮殿を目指し、国家が全力を挙げて建設した建築です。赤坂離宮は英国とフランスの2つのモデル宮廷建築と比較し、ルネサンス様式建築の模倣の域を超えた優れた建築で、モデルの2宮殿を上回る優れた芸術作品であることを確認できました。半世紀ほど前、鹿島建設創設50年記念懸賞論文のテーマとして私が提起した『模倣から創造へ』の中で扱った内容を思い出しました。「学ぶことは、模倣から始まり、完全な模倣ができて、初めてそれから飛躍できる創造が可能になる」という日本の近代化を弁証的な発展として扱った日本の近代化を分析です。日本の近代建築は欧米のルネサンス建築の模倣から始まって、迎賓館建築として西欧建築の模倣から飛躍して、西欧建築のアーキテクチュラル・ボキャブラリーを駆使して、世界に通用できる建築を創造した例といって良いものと思いました。片山東熊の赤坂離宮を見る限り、建築設計用語が完全に赤坂離宮の設計に駆使されていました。しかし、片山東熊がその用語の背景にあるルネサンスの建築思想がどれだけ理解されていたかは、その後の「意匠から構造へ」という建築教育において、片山東熊の対応がどのような意見を述べておられたかこれから調査しなければと思っています。これだけの建築設計を行なった人に「建築設計」をこだわりなく放棄できるものかという疑問です。図案でしかなかったのか、それとも人格を賭けたルネサンス思想であったのかという疑問です。

当時の明治政府の最大の関心は江戸時代に締結した『不平等条約』の改正でした。その改正のために、「日本は民法のない野蛮国ではなく、欧米に匹敵する国家であること」を示さなければならないということで、そのためには、徹底的な欧米の模倣から始めたのが、明治政府の政策だった。フランスのソルボンヌ大学からから法学部主任教授ボアソナードを招聘し、日本に近代法典を整備する、天皇陛下が洋装・椅子式生活を率先垂範して行う。欧米の社交界に倣って鹿鳴館をつくり、日本の指導的政治家や官僚、産業界が夫婦一緒に欧米の外交官らを招きパーティをするなど、日本の街並みや官公庁・学校を中心に主要な建築は、欧米で盛んにつくられていたと同じルネサンス建築で建築する。そのルネサン建築設計ができる建築家を養成するために東京大学(工部大学校)に建築学科を創設し、英国からジョサイア・コンドルを招聘し建築教育を行った。当時の国家予算の10%程度が外国からの指導者の招請費用に使われました。

 

国民の健康で文化的な住宅建築を目的にしていない日本の建築教育

近代建築は模倣が目的になっても、実現の方法としては欧米のモデル以上に精度の高いものを作ることを実践してきたが、建築学が人文科学として学習する学問であるという基本が日本の工部大学校の建築教育にはなかった。そのため、関東大震災に「人命も財産も守ることのできない建築教育はやめろ」と東京大学建築学科の佐野利器教授の問題提起をした。その方法とし、造家学会(現在の「日本建築学会」の前身)に対し、『構造・意匠論争」を仕掛け、日本の建築学はぼろぼろにはげてしまった。それまでの洋風様式模写の建築教育を完膚なきまでに根絶やしにしてしまった。日本政府には欧米の人文科学としての建築教育を、最初から国内の建築教育として行なおうとする意志、政府にはなく、日本は欧米並みの文明・文化国家であることを示そうとした教育であった。

赤坂離宮ほどの優れた建築設計を行なった片山東熊のような建築家が関東大震災後、佐野利器東大教授の横暴を阻止できなかった疑問に、東京大学自身がわが国の建築教育を破綻に追い込んだ責任を取るために総括すべき問題である。しかし、東京大学は過去の建築教育の総括をしようとしていないどころか、それを歴史的に総括しようとしてこなかった。明治時代の意匠教育、関東大震災後の構造教育、戦後の代願教育そのすべてを東京大学関係者はすべて受け入れているようでいて、受け入れていない。無関心を装っている。良いとこ取りというか、評価されると「東京大学の建築教育」という。しかし、現在その建築教育文化は全く残っていない。戦後の日本には欧米のような人文科学としての建築教育はなく、確認申請書づくりの「代願設計教育」という不毛の雑草教育が全国に蔓延し、国民に「安全」を口実に貧しい住宅建築をお仕着せることになった。それは近代建築(意匠)教育同様、確認済み証を得ることが目的の設計で、建築主に健康で文化的な住環境を創造することを目的にしていなかった。

現在校正段階に入っている『欧米の建築家、日本の建築士』は、明治時代からの近代建築教育の歴史を、私の半世紀以上の経験と、欧米の建築教育を振り返って問題として比較検討し発見したことを、その後、歴史上の文献調査と私自身の半世紀の経験を分析検証したものである。

 

不平等条約改正の手段

欧米人が欧米で楽しんでいる文明・文化を日本人も享受している国家であることを国家挙げて発信しました。その一つは天皇制を報じる天皇陛下の玄関(東京駅)、資本主義国のダイナモ(日本銀行)、議会制民主主義国家の象徴(国会)で、そのすべてを辰野金吾が設計すると頑張り、東京駅と日銀を設計し、国会議事堂は江戸時代の作事奉行(建設大臣)の子孫が米国で建築学を学び、その後横浜正金銀行を始め、日本の銀行や官公庁建築を担う妻木頼黄にご下命された設計を辰野金吾が妨害し、結局自分の部下に担わせる権力抗争があった。そのように国家権力の中枢と表裏の関係にあった東京大学の建築教育は、国家権力をリードするための教育であり、国家の政策の実践の場であった。権力闘争で敗北した妻木はそのやりきれない気持ちを江戸と東京の2つの時代龍が見つめている日本橋の設計に込めた(長谷川堯の「都市回廊」に妻木と辰野の葛藤が記されている。)。

現代、『明治の東京計画』の著者、東京大学教授藤森輝信は、近代建築を文化論として解説しているが、それは明治時代の辰野金吾以下が取り組んでいた近代建築ではなく、現代欧米の建築学の視点で洋式建築を人文科学的視点で思い返してみた場合の感想に相当するもので、人文科学としての建築学的考察ではない。日本の建築意匠教育には、デザインの背景にある建築思想があることを認めていない。

 

赤坂迎賓館が伝えているもの

政治、行政、教育関係の建築と並んで重視された建築が、欧米人を日本国としてもてなす迎賓館で、国内には複数建設されたが、その頂点にある迎賓館が赤坂の迎賓館で、辰野金吾と並ぶ東京大学建築学科第1回卒業生で卒業が米国で建築学を学んだ片山東熊である。今回私は初めて迎賓館に入り、そこには安倍晋三首相が世界の元首を賓客として迎え、赤坂離宮で接待している写真が満載されていたが、それほどの大きな政治的役割を果たす建築物である。わたくしたち国民は、この迎賓館の品質の高さを見て、わが国の首相が相手国に対し十分に敬意を表することができ、日本国の文化の高さを伝えることができたと感じるに違いない。その意味では、明治新政府が期待した国際的に日本の地位を欧米先進国と対等に示す絶大な効果を発揮していることを見て、岩倉具視の欧米調査団が欧米で驚かされた建築文化の偉大さ感じ、「不平等条約の改正のためには、日本の公共建築を欧米に倣う取り組みを急いだ意味も改めて感じさせられた。

私もベルサイユ宮殿やバッキンガム宮殿には複数回見学しているが、観光客としてであっても驚きの連続であったが、賓客として招かれることがあったら、両宮殿の歴史文化によって招待されたと感じることで、天にも上る気持ちにさせられることであろう。赤坂離宮はそれらの西欧の宮殿と比較して決して見劣りしないどころか、それを上回る西欧建築の基本に忠実に、かつ、その建築の形、建築装飾、建築装飾で構成されるアーキテクチュラル・ボキャブラリーを駆使して実現させている。片山東熊は、当時米国の最も優秀な建築家たちがフランスのエコール・デ・ボザールでルネサンス建築教育を学び、新興国家のデザイン、アメリカンボザールとして盛んに建築していたものを直接学んで日本に導入した。日本政府の建築教育は「和魂洋才」で、ルネサンスの精神を受け入れず、代わって欧米の建築以上の精度の高い意匠を実現することを学ぶように命ぜられていた。そして欧米人が「さすが、日本国は高い文明文化の国である」と感じさせて、欧米と対等の条約に変更してもらおうと考えた。まさに、赤坂離宮は現在でもその素晴らしい建築として、日本の建築の高さを欧米の人たちに示す役割を果たしている。

 

和魂洋才

人文科学としての教育を恐れた明治政府はルネサンス精神を受け入れず、代わって西欧以上に精度の高いルネサンス建築を実現した。今回赤坂離宮中に多数飾られている「海外の元首を誇らしげに接待している安倍晋三首相の写真」展示は、就任早々「人文科学教育は縮小せよ」という指示を出したが、皮肉な見方をすれは、赤坂の迎賓館は人文科学教育を受けなくても、現在でも欧米の意匠を正確に模写するドラフトマン教育で実現できるではないかと言っているようにも思われた。赤坂離宮の中の安倍首相は、赤坂離宮の歴史文化になじまない政治家が写真に登場しているように感じられたのは私の偏見であればよいがと思った次第である。

関東大震災を機に、「構造教育家、意匠教育家」の選択を迫った東京大学の佐野利器教授の「建築意匠教育の放棄」の挑戦をうけ、辰野金吾、片山東熊等の進めた「建築意匠教育」は壊滅させられ、欧米の洋式建築教育は全く根こそぎ破壊されただけではなく、建築が建築ボキャブラリーを使って設計されず、その国の文化を後世に伝えていることもなく、建築を日本の国民に正しく建築の歴史文化を伝えることのできる建築設計のできる人材を養成せず、建築デザインを「形の違い」を「差別化」としてしか教育せず」、高額販売を正当化する建築物の設計者・建築士で埋め尽くされた国にしてしまった。

 

社寺仏閣と日本の洋風建築

社寺仏閣はもとより、寝殿造り、書院造、数寄屋造りと言われる和風建築は、「神仏という宗教(魂)が生かされているため、崩しきれないものがある」が、洋風建築と言われる現在の社会に横行している建築は、私がそれらの建築を紹介して回ったカナダの建築家が、「戸谷さんが洋風建築と言って紹介してくれた建築のモデルはどこの国の建築ですか。そのような建築は日本以外では見ることができず、それこそ和風建築ではないですか」という疑問には答えることが出来なかった。欧米人の尊敬できない洋風建築を設計することのできない日本の建築士は、守るべき形が何かが建築教育で教えられていないのである。その点近代建築祖推進した公共大学の最初の建築は、欧米以上の高い制度の建築デザイン教育を受けたということで、短期に欧米と遜色のない建築を設計施行した。しかし、その建築教育は、建築設計者自身の知識能力で欧米の建築文化を発展することにはならなかった。

建築教育は日本の伝統建築に見られるとおり、歴史・文化・生活の基本としての人文科学としてまなぶべきもので、それなくして日本人自身で優れた文化の伝統を発展させることはできない。

(NPO法人住宅生産性研究会(HICPM)理事長 戸谷 英世)

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