HICPMメールマガジン第791号(2018.08.17)

みなさんこんにちは

 

異常気象が続きお疲れになった体を、お盆休みで何とか回復されたことと思います。私の場合体の回復は自分が期待したようには進まず、よく考えてみると老化現象が進行し体の復元力が落ち、残留歪が溜まっているのだと思います。体力とは別に頭脳が私に要求する真実の究明は、私に住宅産業を欧米に倣って改善することを考えることを求め続けており、この「注文住宅」の連載もその一例です。

戦後の復興期の根無し草の建築デザイン

私が官僚時代の約半世紀前の話である。田中角栄が首相で「列島改造論」を纏め、わが国の高度経済成長政策を進めていた時代である。東京オリンピックでは丹下健三の設計したHPシェルを利用した代々木体育館の美しい姿が、オリンピックとともに日本人を鼓舞していた。丹下健三はそれに先立ち設計した和風建築デザインを取り入れた香川県庁舎の設計は、わが国のアイデンティティを求めていた多くの建築家や学生の心を掴んだ。当時、ル・コルビュジエが戦後の国際様式の建築を牽引していた。坂倉準三、吉阪隆正がその事務所で働き、前川国男はコルビジュエをわが国に紹介した。その影響を受けたピロティ建築が丹下健三の設計した広島の平和(原爆)記念館として建てられ話題となり、新しい時代の建築思想が国際建築様式として広がり、建築設計で社会思想を表現することが始まった。

 

明治の近代建築が、明治政府の支援を得て進められたのは条約改正を進めるためで、「我が国が欧米と対等の関係」を主張できる近代国家であることを欧米に示すためで、当時欧米で盛んに建築されていたルネサンス建築をわが国でも建てられる文明水準にあることを誇示した。ルネサンス建築設計のできる技術者養成のルネサンス建築設計教育を行なう教師を育成するため、工部大学校(現在の東京大学工学部)に英国からジョサイア・コンドルを招聘した。政府はルネサンス建築設計のできる技術者の養成を望んだが、ルネサンス思想を国内に持ち込まれては困ると考えた。ルネサンス建築思想の導入は禁止してルネサンス建築図案を「意匠」としてつくる「和魂洋才」の建築教育をコンドルに求めた。

 

明治の建築教育で骨抜きにされた建築設計教育

片山東熊は米国でアメリカンボザール建築を学び、赤坂迎賓館を、ベルサイユ宮殿(フランス)やバッキンガム宮殿(英国)と比較しても遜色ない宮殿建築として建築した。赤坂迎賓館には世界からわが国賓として国王や元首級の方々が赤坂迎賓館に招かれている。安倍晋三首相がホステスになって、赤坂離宮を背景に誇らしげに撮っている写真が多数飾ってある。赤坂離宮を支えている人文科学教育を安倍首相は廃止せよと言っている。わが国には赤坂迎賓館を設計できる建築家の養成は行なわず、その建築思想も建築技術も伝承されていない。明治時代に持ち込まれたルネサンス建築は図案や意匠として取り入れられたが、建築思想として受け入れられず、建築デザインの命を維持できなかった。

 

関東大震災により多数の人命と財産が失われた。そのとき、東京大学建築学科佐野利器教授は「ジョサイア・コンドルに倣った近代建築は人命と財産を守ることができなかった」と、「意匠か構造か」の不毛の建築教育論争を引き起こし、最終的に近代建築教育を廃止した。当時、土木学科では「構造力学」教育が行われていた。「構造力学」と同じ「応用力学」を創設する必要はなかった。建築デザイン(設計)教育を人文科学教育として受け止めず、単なる「図案」を真似る「意匠」教育とした明治の建築教育は、戦後になっても、建築教育は建築思想を背景にした人文科学教育とせず、建築設計教育を意匠教育と歪めたため、建築思想と言うバックボーンのない図案や意匠としての建築教育に堕している。

 

戦後のわが国の建築家は、当時世界の建築設計業界では、世界平和に向けての国際建築様式(インターナショナル・スタイル)が、社会思想を牽引する形で新しい建築様式を誕生させていたが、わが国では世界の建築デザインの潮流を社会思想として学ぶのではなく、新しい図案や意匠としてしか受け止めなかった。過去にわが国に存在しなかった建築デザインを競ってわが国で実現することが前衛建築家の自負となっていた。そこには社会思想としての建築思想は微塵もなく、浮草のように欧米を旅行して見つけた目新しい建築デザインをその根っ子にある思想と切り離して国内に紹介することに終始した。

 

わが国の建築設計教育

わが国の建築教育は人文科学教育ではないので、社会思想や建築思想を考え学ぶものではない。浮草のように目新しいデザインを新しい建築家の創造した作品として建築雑誌に発表しそれを誇り大学の建築教育の教材にした。人文科学としての土台をもたない建築設計は、それに対応した建築技術の裏付けや吟味がされていないため、それらの建築デザインを採用した建築物には歴史的な吟味や経験が伴わなかった結果、建築事故を発生した。過去の歴史・文化の裏付けのない建築物は事故を次々発生した。まともな建築設計教育が存在していないためである。丹下健三の東京体育館はその象徴であった。

 

今回扱ったテーマは、戦後のわが国の建築界をリードした丹下健三が、事故を起こした建築デザインを正当化するために、欠陥建築の設計に無責任でよいと発言をしたことで、黒川紀章、菊竹請訓らの建築士が無責任な建築設計を行ない、建築士法を所管する建設省はそれを容認することは建築士行政の自殺行為になると判断し、建築士の行政処分に取り組んだ。その歴史を行政当事者の著者が解説した。

 

 

第27回 竜頭蛇尾に終わった有名建築士の行政処分(MM第791号)

 

所得倍増計画からケインズ経済学による財政が経済政策を牽引する高度経済成長時代から、一挙に政府が財政で国家を支配する田中金権政治時代に移行し、8分の1の政治権力があれば、税金を政治家と官僚の政治・行政支配の手段として使えると言い、それを実践した田中角栄は、業界の利益と官僚の立身出世とを繋ぎ、不正な金権支配を犯罪と知りながら、それ容認する官僚の忖度行政が行なわれた。不正には「気付かなかった」と目を瞑り、「ぶつ切りにされた業務の範囲には不正はない」と強弁し、政治家の意向に沿った行政処分を正当化してきた。多数の官僚が田中派の国会議員になり、その利害対立は米国の石油資本を敵に回し、田中を失脚させた国際的な「ロッキード事件」へと拡大した。

 

東大教授丹下健三の「造反有理」発言

私自身40年ほど前、建設省住宅局建築指導課長補佐(建築士班長)として建築士法の施行担当責任者の職にあったとき、建築士の業務責任の適正な監督に取り組んだ。1964年東京オリンピック後、HPシェル構造の東京体育館の雨漏りを止められず、設計上の欠陥が指摘され、修繕策が見つからず、東京都は困っていた。設計者(東大教授丹下健三)が、その社会的批判に「雨の漏らない建築など建築ではない」と言ったことが新聞に報道された。メディアは騒ぎ、当時、続発していた有名建築家の設計による建築事故は丹下健三発言から追い風を得たように、丹下の威光を笠に有名建築家が開き直った発言と行動を繰り返した。当時、中国の文化大革命の影響もあり、権力への造反には合理的理由がある(造反有理)と風潮が社会的に広まり、権力に従わないことが進歩的な考え方である風潮が生まれていた。

 

高度成長期に入って、ただでさえ違反建築が増加していた。この傾向に早期に対策を打たなければいけないと前川喜寛住宅局建築指導課長は考え、建築士法行政として取り組むことを決定し、澤田光英住宅局長の内諾を得、私が実施責任者に指名された。取組の目標としては頂点にある丹下健三に「発言の撤回」を求めることが話題になった。しかし、「猫の首に誰が鈴を付けるか」の話になり不可能とされた。かつて、戦後の建築行政に大きな影響を与えた東大内田祥三教授が住宅局長人事に干渉した例が挙げられ、丹下健三の住宅局への影響も侮れないとされ、東大との直接的摩擦は回避することとなった。

 

そこで丹下健三の影響を受けた有名建築家の違法行為の行政処分から丹下包囲網を詰めていく基本方針を定め住宅局長の承認を得、建築士の行政処分が開始された。とりあえず、神奈川県建築士会長や有名大学建築科教師などの数人の建築士の行政処分を行い、建築学会や設計・工事監理業界の反応を見たところ、行き過ぎ発言をする建築家に対する行政処分には好意的であった。建築設計業界も建築家の行き過ぎには批判的になっていることを見極め、行政処分実績をつくるため、以下の2つの有名建築家の社会的な批判の大きな国民の支持が期待される事件で行政処分に取り組むことになった。黒川紀章の寒河江市役所と菊竹請訓の都城市民会館の事件は、派手な事件でメディアに大きく取り上げられ、行政処分を行っても社会的な支持が得られると判断された。その事件の概要は以下の通りである。

 

  • 寒河江市役所

寒河江市役所は断面が6m角の大きな4本の鉄筋コンクリート造の柱で10mの片持ち梁の床を支持する構造である。4本の構造柱は中空で、壁で囲った構造柱を階段室にした建築物である。柱を中実(ソリッド)にしても、中空(ホロー)にしても断面2次係数は変らず、構造設計に関係した松井源吾早稲田教授の説明では構造理論上の安全に大差はないとされた。しかし、10mの片持ち梁の鉄筋を中空柱の壁にアンカーすることは技術的に不可能で、建築後床版は時間の経過とともに撓み振動し、建築物は執務上危険状態と判断された。市役所は事務所利用を中止し、荷重の大きいロッカーは事務所外に持ち出し、事務所の使用を禁止する寸前にあった。話題の建築は危険のため全国紙を賑わせた。

 

  • 都城市民会館

都城市民会館は、「門型の鉄骨梁で屋根構造を吊る」過去に例を見ない派手な構造であった。この鉄骨梁を鉄筋コンクリートにより耐火被覆していた。しかし、鉄骨梁の振動で鉄筋コンクリートの亀裂から雨水が侵入し鉄筋を錆びさせ、門型の鉄骨梁の鉄筋コンクリート造被覆は損傷を受けていた。この鉄骨梁の被覆は、晴天の穏やかな日に、何の予知現象もなく大音響を発し崩壊落脱し瓦礫の山がつくられた。まさに「青天の霹靂」で、全国紙に取り上げられた。振動を受けやすい鉄骨梁を鉄筋コンクリート造で被覆する計画自体が非常識で事故を発生させたが、市民会館は利用者がなく人身事故にならなかった。

 

2事件の業務責任の考え方

この2つの事件はいずれも過去の建築構造としては例のない「水平思考」による突飛な構造で、建設時点から社会の注目を浴びていた。設計者の建築士は自らの技術力の未熟さを自覚せず、建築士の就業制限規定を勘違いし、私が職権で行なった調査で、2人とも「建築士の建築設計は、就業制限規定として建築士に実施できる能力があると定め、国家が設計する権限を建築士に与えているから、資格を付与した国家に責任がある」と国家責任を主張していた。いずれの事件も建築士としてアイデァを具体化することが建築士法上の権限と勘違いしていたが、設計業務を行なわず現場納まりで済ませていた。建築士自身が自らの学識経験を逸脱したことの責任を認識せず、建築士法で禁止している業務以外は、建築士の行使できる権利と勘違いしていた。いずれの事件も、建築士がその能力の及ばない設計を行なった結果発生した事件であった。その業務は建築士の不誠実業務が原因と判断され行政処分が決定された。

 

米国の建築家法には建築家の倫理規定があり、建築家は自らが過去に実施した技術で検証済みの技術を行使すべきで、安易に未知の技術を使うことは建築士の倫理規定に違反する。2人の建築士は「建築士は国家が与えた資格で、建築士資格の行使は建築士の権利である」と見当違いの弁明をした。米国の倫理規則が建築士法第18条の「誠実業務」であり、行政処分の論理を構成した。つまり、建築士の就業制限は建築士がその資格を理由に設計業務を行ってよい権限を定めているのではない。すべての建築士資格を有しない人に実施を制限している業務というだけで、建築士にその業務能力を認めている訳ではない。建築士は実施する業務に関し、建築士は自らの学識経験に裏付けられた範囲を逸脱した業務を行なってはならず、建築士法第18条(誠実業務:建築士自身の内在的制約:モラル)として、自己の技術行使は建築士本人が自己規制することを、「誠実な業務の履行」を求めている。

 

2つの事件は、いずれも建築士が設計する建築物を実現するに必要十分な学識経験を有しないで設計・工事監理業務を行なったことで発生した事件であった。彼らは自らの能力を知らず、技術的可能性を理解し設計した「建築士が設計したものは安全である」と過信していただけで根拠はなかった。2人の建築士はその設計上の最も重要な解決を現場に丸投げし、安全な建築物の工事をするための設計圖書は作成されていなかった。東京都の豊洲工事で石原知事の執った行動と同じであった。事故に関する部分の建築詳細を作成せず、現場での職人に丸投げする権限の行使に責任が伴うことを認識していなかった。

                        

中央建築士審査会の対応

建設省住宅局では建築士設計モラルの崩壊と建築士行政の危機とされ、建築士業務を根本的に見直す取り組みとして違法な建築家の行政処分の実施を厳密に行う方針に従い、黒川紀章と菊竹請訓の2名の建築士に、建設大臣は行政処分「業務停止2か月」を決定し、処分の実施に関し中央建築士審査会に諮問した。中央建築士審査会は住宅局の建築士処分の基本方針を了解し、2件の事件はメディアを賑わせた事件でもあり有名建築家であるから許される問題ではなく、むしろ、厳しく臨むべきであると建設大臣の行政処分の同意が与えられた。その答申を受け私が職責において建設大臣の行政処分の起案をした。

 

2人の建築士は社会的な著名度により田中角栄の列島改造委員になっていた。彼らは中央建築士審査会の建設大臣の行政処分に同意したことにより行政処分決定の決裁が開始された。彼らはその事実を知り、行政処分の回避を二階堂幹事長に陳情した。二階堂幹事長は救仁郷建築指導課長と同郷の鹿児島出身で、彼らの行政処分は、「田中角栄の人選にケチをつけることになる」と処分猶予の検討を示唆した。住宅局長への昇進を窺がっていた救仁郷は、田中角栄の列島改造委員の処分は自らの昇進の妨害になると判断した。そこで行政処分の大臣決済稟議書を持参した私の目の前で、行政処分の決済文書を課長の職務机の引き出しに収め、施錠し、私に、「決裁文書はこうなるのだ」と言い、大臣決裁の稟議を妨害した。30年以上経過した決裁文書は決済不能のまま住宅局に放置されていた事実を審議官から聞かされた。

 

邪魔者は消せ

中央建築士審査会の判断を尊重し行政処分を実施した私は、突然、救仁郷課長から呼ばれ、「君は業務に精励したので3等級に昇進し、政令職・大臣官房技術調査官にする」人事異動の辞令が内示され、大臣官房技術調査室に配属された。しかし、私の人事の実質は「課長の意向に楯突く邪魔者」として建築士行政から外され、住宅局から大臣官房の部下のいない閑職に配属された。その後の人事でインドネシア政府(専門家)、建築研究所(課長)、愛媛県(課長)、宅地開発公団(課長)、住宅都市整備公団(課長)、㈶国土開発技術研究センター(部長)、大阪府(部付参事)にたらい回しされた。局長になった救仁郷は私を住宅局追放後,配属先に執念深く業務妨害指示が送ったが、新しい業務はそれぞれ社会経済的な要求への取り組みの場で能力を発揮でき、業務自体は楽しめた。建設本省と外部機関の間を2-3年ごとに「1日戻し、即日派出」の繰り返しを15年間、合計8回の配置転換と昇給差別をさせられた。

 

救仁郷は派出先の人事に執念深く干渉し、ルーティン業務から私を外させ業務干渉を繰り返し、その業務を悉く妨害した。派出された住宅都市整備公団では、高齢化社会に向けて取り組んだリタイアメントコミュニテイの開発調査は公団総裁の支持も得て進めていたが、公団で取り組む方向付けになったとき、救仁郷は公団副総裁の地位を利用し、建設省住宅局の意向を持ち出し公団として取り組ませなくした。また、1980年、宅地の過剰供給を明らかにする「20年後の宅地需給予測調査」は、建設省の承認した3年計画で、国土地理院のランドサットデータと建設省の宅地供給資料を使ったわが国にそれまで存在しない高精度の宅地需給予測調査で、宅地過剰供給の事実を明らかにしたものであった。志村総裁は調査結果の重要性を認識し、建設省に報告するよう命じたが、建設省は宅地供給過剰の事実が公表されれば、宅地策の失敗を暴露するため、それを避けるため、調査自体が存在しなかった扱いにした。

 

結局、私の建設本省に復帰して取り組もうと考えた住宅政策業務への復帰の希望は絶たれ、私は退官を余儀なくされた。そこで私は、民間の商事会社から、「輸入住宅関係の業務を取り組まないか」と誘われ、官僚人生でできなかった住宅産業にかけた夢を、「わが国の住宅建設業者を欧米のホームビルダーに欧米の技術移転教育をし、ストックの住宅の実現に取り組むこと」で、私の夢の実現を図ることにした。私の娘が山崎豊子の小説を紹介してくれ、『不毛地帯』『大地の子』『二つの祖国』など全巻を一気に読み、その中で『沈まぬ太陽』(日航労組)の10年間の人事差別物語に出会ったとき、15年間建設本省に戻されなかった自分のことが重なり、私が小説化されているのではないかと錯覚を覚えた。

 

住宅局と建築家協会の合意:建築士法の立法趣旨と現実の矛盾

私の人事と建築士の行政処分とは表裏の関係で、私はその問題をいつか総括しようと考えていた。それを今年の8月井上書院から『欧米の建築家、日本の建築士』という形で刊行することができた。この本の背景には、有名建築家の行政処分の根拠の解明と建築家の業務是正のため、住宅局建築指導課と日本建築家協会の会長経験者、前川国男以下4人の幹部(圓堂、市浦、大江)との間での建築士業務の意見交換があった。そこでは建築士法制定時の経緯と建築士法施行とのずれを総括し、米国の建築家法と建築教育と設計業務と、それに対応する建築士法に規定されている建築教育と建築設計・工事監理業務、並びに、建築士法違反者に対する行政処分を官民のトップの共通認識を図る目的で行なった。

 

その協議の結論は、日本と欧米の建築設計・工事監理業務の基本である建築学教育自体が異質であるから、わが国の建築士は米国の建築家と同質の設計・工事監理業務を求めることはできないとされた。それは建築士法が前提にしている米国の大学の建築教育と米国の設計・工事監理業務経験は、わが国では行なわれておらず、設計・施工一環の建設業界と結びついた公共事業の利権構造により、現行の設計・施工業務を米国のように変えられなくなっていた。建築士に設計・工事監理業務を排他独占業務として行わせるには、建築士にはその資格を担保する学識・経験はなく、必要な設計・工事監理能力を自己規制する倫理規定がなく、その技術能力を確認する制度がないことが指摘された。

 

官民双方が協力しない限りわが国の建築士の業務は改善できないので、目に余る建築士の業務違反に行政処分を行なうことは、設計監理業界も理解するとし、2人の建築士に対する行政処分に設計管理業界は反対しないとされた。設計・工事監理業者にも分かり易い形で建築士法第18条に求めている誠実な業務を「設計・工事監理の業務基準」として明らかにすることが合意された。その合意を受け、建築指導課では行政部費で「設計及び工事監理の業務基準」を予算計上したが、業務基準をまとめることができなかった。そこで住宅建築業の業務に関し、設計者、施工者、行政官が研究会を組織し、2年以上にわたる検討をし、その成果の一部を、『住宅建築業の手引き』(井上書院)に取纏めた。

 

NAHBのCM教育の先進性

その30年後、私が住宅生産性研究会を設立し、全米ホームビルダーズ協会(NAHB)と相互協力協定を締結し、NAHBが発行している住宅専業経営管理技術(CM:コンストラクションマネジメント)のテキストの翻訳解説本(HICPM編、井上書院刊)を刊行した。そこには建設業者が高い生産性を上げるためにはCMを行なえる実施設計図書が不可欠と記載されていた。NAHBのCMテキストは私たちが明らかにすべきと考えてきた設計、施工、工事監理業務の全てが詳細に説明されていた。

 

米国のCMは住宅建設業者に必要な建設業経営管理の技術を体系的にしたもので、現在の欧米の建設業経営では共通の経営学として大学教育で教育している内容である。この本では建築家の設計・工事監理業務と建築家が作成した実施設計図書に基づく建築施工(工事管理)を取り扱ったが、欧米では大学の建設業経営管理学部の教育になっていた。そしてCM教育を学校教育で学べなかったホームビルダー(住宅建設業者)のために、全米ホームビルダー協会(NAHB)の教育研修機関であるHBI(ホームビルダー・インスティチュウト:住宅建設業研修機関)がホームビルダーの研修を行なっている。

 

CMのテキストとしてNAHBプレス(出版部)から発行されたテキストを、NPO法人住宅生産性研究会(HICPM)は翻訳し解説を加え、井上書院から出版した。その作成の過程でCM教育が欧米の大学の建設業教育の建設業経営の必修科目として教育されていることを知った。しかし、日本ではCM教育が学校教育でも、職業教育でも行われていないことを発見した。CM技術は、米国で建設業経営学部として学校教育の軌道に乗ったのは、1960年代以降の新しい分野の教育である。

 

HUDのOBTとNAHBのCM 

実は米国では戦後合板を使ったウッド・プラットフォーム・フレーム工法が誕生し、建設現場を流れ作業に変えた結果、高い生産性を挙げるようになった。米国住宅都市開発省(HUD)は、さらに住宅を工場でつくり、現場に持ち込むために、アメリカン・モーターズ社長ロムニーがHUDの長官に就任し、OBT(オペレーション・ブレーク・スルー)政策を始めた。工場で住宅生産を行なえば、高品質の住宅を安価な安定価格で供給できる。ホームビルダーも現場の建設労働者も仕事を奪われるため、その政策実施に反発したが、工場生産で品質も向上し価格も引き下げられるならば反対はできない。

 

NAHBはHUDが進めるOBTに対抗すべく、ポラリス潜水艦の操作技術CPM(クリティカル・パス・メソッド:限界生産工程)を住宅建設に置き換える作業をジョージア大学のジェリー・ハウスホールダー教授に依頼した。現在の工程管理(スケジューリング)、資金管理(コストコントロール)、品質管理(トータル・クオーリティ・マネジメント)の建設現場で工場生産以上の生産性を上げる技術を開発した。それが現代のCM技術の始まりであった。NAHBは、HUDと20年以上にわたる「現場生産か、工場生産か」の実務・論争で勝利したが、HUDとNAHBの信頼関係は壊されてしまった。

 

クリントン政権になったとき、エネルギー問題が国家プロジェクトになり、HUDはその政策を推進するためにはNAHBの全面的な協力を必要と考えるようになった。そこでHUDは、NAHBにかつての「HUDが進めたOBTの政策は、米国のホームビルダー及び建設技能者の利益を壊す政策で間違っていた」ことをHUD自身が確認した結果の謝罪をNAHBに行ない、副大統領アル・ゴアが進めていたPATH(官民協力した先端技術を導入したエネルギー政策)にNAHBの全面的協力を求めた。HUDの謝罪を受け入れ、NAHBが取り組んだ政策が「グリーンビルディング政策」であった。

 

私は1970年代に建築基準法第5次改正を担当し、それに引き続いて2×4工法を建築基準法の下で一般工法化する作業を担当した。いずれも米国の建築法規と深い関係があり、北米の建築法規とともに、設計施工技術を日本に導入した。その経験から、米国の住宅設計施工技術の高さに敬意を抱くとともに、敗戦後のGHQによる占領支配時代の建設三法を調査研究した成果を、現代のわが国の建設行政に反映したいとHICPMの運動として取り組んできた。しかし、そのカギを握る住宅の現場生産性を高め、良い品質の住宅を安価に供給するカギを握るCM技術の技術移転が上手く行かなかった。その理由が4半世紀のCMの技術移転の取り組みを通してわが国の住宅施策にあることが分かってきた。

 

わが国の住宅産業がCM(コンストラクションマネジメント)を受け入れようとしなかった理由は、わが国の住宅産業が不等価交換販売と不等価交換金融で住宅産業が不正利益を挙げる「差別化」政策を政府が容認することで住宅産業が不正利益を挙げることを容認してきたためであった。欧米のように無理・無駄・斑を排除して合理的な経営で利益を挙げようとしていないことにあることが解かってきた。

NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷英世)

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