HICPMメールマガジン第798号(2018.08.10)

みなさんこんにちは

今年8月初めに、私は『欧米の建築家、日本の建築士』(井上書院)を刊行しました。執筆から刊行まで約5年近くかけてまとめました。私にとっては半世紀に亘る欧米の建築家と日本の建築士の基本的な問題を国際的な視点で社会に投げかけた書籍です。私が住宅官僚になった動機づけも、中央官僚から上司の利権の妨害になるとして事実上対立し追放され、再び中央官僚として住宅局行政をする機会を奪われたのも、建築士の業務を巡って有名建築士の建設大臣の行政処分を行うことをめぐって、私が違法を行なった建築指導課長と建築士法違反を強行する建築士行政をめぐる権力闘争に負けたからでした。

 

その背景には、米国の建築家法をモデルに立法された日本の建築士法が、米国の建築家法とは異質なもので、消費者の利益を損なっていた事実をめぐって、立法通りの法律施行を求める官僚(私)の努力は、不正を容認し、有名建築家を利用した政治的影響力を拡大しようとする政治家と、その政治家にすり寄って不正を犯した建築士を不正に救済することで、住宅局長昇進を図った私の上司(建築指導課長)の不正によって蹂躙された結果、違反を犯した建築士は有名になり、不正を隠蔽した官僚は住宅局長になり、住都公団副総裁になり、東京都建築審査会会長になった。一方、立法通りの建築士法施行を求めた官僚(私)は住宅局から追放され、15年間国内外を転勤され続け、官僚への復帰は認められなかった。

 

その原因となっていたことは、建築士法行政をめぐる行政処分で、それは米国の建築家と日本の建築士の学識経験の違いに端を発する問題であった。この基本問題を『欧米の建築家、日本の建築士』というテーマとしてアカデミックに検討してきたものをまとめ、世に問うことにした。わが国の建築士制度が立法のときに、米国の建築家法の通りに立法され、施行されていたら建築士の不正設計は起こらなかった問題であった。それは現在、わが国で住宅を取得した消費者が、住宅を取得することで資産を失っているが、建築士が米国の建築家の通りの学識と経験を積んで建築士法通りの実施設計を作成していれば、設計業務の不誠実により,「住宅を購入した人の住宅が値崩れを起こし」巨額な損失を被ることもなければ、建築士が違反建築を設計して行政処分を受ける事態も起きなかったはずである。

 

欧米の建築家と日本の建築士とは似て非なる技術資格で、わが国の建築士が名刺の裏面に英語の名刺を印刷し、建築士を「アーキテクト」と自己紹介していることは、名刺を受け取った人に専その人が保有する専門術を間違って自己紹介をしていることで、資格偽証と言われても仕方ない犯罪である。それは名称だけではなく、建築士資格者が保有している学識経験の偽証にもなっているからである。私は官僚として建築士行政に携わってからその疑問にこだわり、欧米との間で住宅産業に取り組むことによって、欧米の建築家(アーキテクト)と日本の建築士とは異質な資格であることを知ることができた。

 

第31回 建築士に求められている学識・経験とその実力(MM798号)

 

1950年、占領軍がわが杭に政府に制定させた建築基準法、建設業法、建築士法のいわゆる建築3法は、現在まで基本的に立法された法律が施行されている。建築士が建築技術者の国家資格として、わが国の住宅・建築・都市の設計及び施工技術に関する高い学識経験を有する者として、欧米の建築家同様に大きな影響力を持っている。しかし、欧米の建築家とはその学識経験が全く相違する建築士に、建築士法の就業制限で業務を保護している結果、建築士に必要な建築学教育と、建築士法で定めた実務経験が備わっていないため、国民に大きな損失を与えている。

 

建築士法上で建築士に求められている設計上の学識・経験

1970年、私が建設省住宅局建築指導課で建築士班長のとき、東大都市工学部と東工大の社会工学部が卒業生を生み出す時期に当たり、両大学から卒業生に建築士受験資格を求める申請が出されていた。建築士資格の受験資格の条件として、大学教育での建築学の標準が東大建築学科での教育内容を建築士受験資格とする行政事務が引き継がれていた。建築士法上の論理である米国の建築家法をモデルにした立法の背景に立ち返れば、その建築教育は人文科学系の建築大学で建築学を4年以上履修し、その後、建築設計・工事監理に関する実務を2年間経験した後、建築士試験に合格した者が建築士として登録し、建築士事務所を開設し、住宅設計ができることになっている。

 

建築家法で規定する建築家の学識条件として、大学の建築学教育として、人文科学として建築学教育を行なっている大学はわが国に存在せず、設計施工一貫で建築工事を行なっていたわが国には、工事監理業務自体が存在していなかった。その意味では、わが国には建築士法で立法された建築士受験資格を保有する受験生自体が存在していなかった。前回、建築士法立法の社会的背景を説明したとおり、朝鮮戦争が勃発し占領軍からは、わが国を米軍の兵站基地として整備する上で、米軍関係の建築物を設計通り正確に工事監理する技術者を、米軍は現地で調達する必要に迫られていた。一方、国内では失業者が多数いて、占領軍施設の設計・工事監理の受注を希望する建築業界では、松田軍平以下設計管理業者が設計施工分離を主張し、米軍工事の受注のため建築士法の立法を推進しでいた。

 

建築士法制定時のモデルとした米国の建築家法は、大学の人文科学部建築学科で人文科学として建築学を学び、卒業後建築設計監理事務所で4年間の工事監理実務経験を積んでから建築家試験に合格する規定である。わが国の建築士法では、米国の建築家教育がわが国で行われていないことを承知し、日米の建築教育と設計・工事監理業務の実情を無視し、同じと見なし建築士法の条文がつくられた。おそらくわが国の建築学教育が欧米と違っていることに関する認識がなかったためとも考えられる。立法後70年以上経過し日米の建築家と建築士の違いが明らかになっても放置してきたことに問題がある。

 

米国の建築教育は、基本設計に不可欠な人文科学としての設計教育と実施設計に不可欠な建築材料及び工法の教育が行なわれているが、わが国の建築教育では欧米の建築設計教育は行っておらず、建築物の安全を実現する設計教育が、建築設計教育であると「代願設計」を建築設計と勘違いされていた。わが国の建築学教育では建築設計教育が行なわれておらず、基本設計と実施設計とが、建築主の必要条件を纏めた基本設計か、十分条件をまとめた実施設計かといった基本的な用語の定義自体、わが国の建築設計には存在していない。わが国では概略設計を基本設計と言い、それを詳細に書き込んだものを実施設計と言っているが、それらの用語の定義自体不正確なものである。

 

わが国の実施設計と言われるものは、書き込みこそ沢山 なされているが、何のために詳細な書き込みをするかという基本的なところが曖昧である。欧米の実施設計では、建築主が求める価格で建設できる実施設計として詳細な書き込みを行うことになり、請け負う工事費と無関係に工事内容を詳細に定めても、それが建築主の購買力に見合うものでなければ実施設計として意味を持たないことが日本の建築設計では理解されていない。実施設計で行う基本的な作業は、材料と工法を確定することであるが、わが国では材料や工法を特定するための知識がなく、その基本的な教育ができていない。

 

工学としての建築設計教育と人文科学による建築設計教育

米国の建築学教育では、建築主にとって帰属意識のもてる「居住者とともに成長できる住環境設計」をすべきとされ、入居者が偶々その住環境から転出せざるを得なくなったときでも、その住環境は設計された階層にとって憧れの環境として維持管理されているべきものと考えられていた。そのため、住宅所有者がその住宅を手放さなければならなくなっても、その住宅不動産は売り手市場を維持できる住宅として維持管理されている住宅であるから、一般の不動産投資同様のキャピタルゲインが得られるように善良管理がされ市場で取引される。基本設計自身が人文科学的な検討を基に高い社会性に基づき作成されるため、既存住宅は客観的に見て歴史文化的に高い必然性のある設計としてつくられている。

 

わが国の建築教育は建築主の住宅要求に応えた品質を持った住宅の建設で、建築主の要求を満足させる「物づくり」を目的にするものである。建築主の要求に合った住宅を造ることが目的とされ、建築主の要求は絶対であり、建築主の要求に設計者は無条件に従うことが求められた。しかも、わが国では土地と住宅とは独立した別の不動産で、建築設計はその敷地条件の中で建築主の思い通りの建築を設計してもよいと考えられてきた。民法第87条で土地と建築物とはそれぞれ独立した不動産と規定され、その非科学的な「土地と建築物との関係」がわが国の建築設計を歪めてきた。

 

人文科学教育で作られる住宅と工学教育で作られる住宅

建築物は過去・現在・未来と連続する時間軸の中で、一旦建築された建築物は未来に向け、時間軸で計画されるとともに、建築物は相隣環境、近隣環境、地区環境、地域環境と水平的な広がりをもって環境の一部を形成する。人びとの住環境はその縦と横に繋がっている住環境として享受されるものである。それは歴史の時間軸と環境の水平的広がりとともに変化し続けるもので、その広がりごとに個性的な環境を形成する。居住者はその環境の広がりに対応し、「わが町」(アワータウン)、「わが街」(アワーストリート)、「わが家」(アワーハウス)を、その広がりに対応する帰属意識を認識することになる。人文科学教育による住宅は一旦建設したものは、恒久的な資産として相互に尊重し合い、その全体が都市に生活する人の環境の一部になることで市民の合意を得た環境を形成する。

 

「基本設計」が決定されるとそれを建築主が購入できる価格で取得できる材料と工法と技能で建築するため建築詳細を計画する「実施設計」が作成される。米国で「実施設計」は、その住宅に使用する材料と工法、職人の技能を決定する業務と言い、「実施設計」によって建設工事費を正確に見積もるとともに、建設工事現場で工事監理者が設計図書通りの工事監理を行なう。一方、わが国の建築教育では、工学部の「物づくり教育」として、建築主の目的に適合した確認申請により、長期優良住宅政策により住宅品質の定められた「代願設計」が作成される。

 

確認申請は「代願設計」ができれば実施できるので、代願設計により工事費見積もりが行なわれる。代願設計は工事費を確定させる建築士法上の実施設計ではないので「代願設計」では工事費の正確な見積もりもできなければ、建設現場での工事納まりも分らない。実際の工事は材料と工法と工事を決めないと工事はできないので、工事のために下請け業者と材料供給業者と折衝を繰り返し、工事業者間で現場納まり仕様と詳細を決定する。そこで決定される工事仕様(材料と労務)は「材工一式」の概算額である。その概算額の計算を通して、設計当初建築主の希望を取り入れ「仮押さえ」された仕様内容は工事請負契約で予定した工事費総額に収まらないと実施困難とされ、悉く否定される。

 

設計が着手されたとき建築主と設計者が合意したときの「相場」(工事価格)に見合った月並みな仕様に同意せざるを得なくなる。「相場」単価は工事業者と建築主の間での工事完成の住宅の完成の当事者間の基本合意事項である。相場単価は文字通り総場であって、建築設計そのものを前提にしてはいない。建築主の希望を取り入れた「仮押さえ」した仕様は、孤児費総額が予定工事費に収まらなければ反故にされる。仕様が決定せず時間が浪費されると、相場単価では工事費が不足し、工事を完成させるために手抜き工事が行なわれる。相場価格での工事を前提にした物づくりを目的にした工学教育では、相場価格での工事の完成が大前提になり、設計内容に対するこだわりを失うことになる。

 

確定した設計図書で工事費カットの実現:時間

一戸の住宅を4カ月掛けていた工務店が1か月でできた設計図書が確定していたサステイナブルハウスは、欧米の人文科学の考えに立った設計である。確定した実施設計図書を使って、工務店が高い粗利を得、職人が高い労賃を得た事例である。その逆を考えると、工事遅延が起きれば、損失が発生する工事が理解できるはずである。大雑把に言って生産性が4倍になれば、工務店の粗利は通年で4倍、職人の労賃も通年で4倍になる。工期の延長は行われている工事では、工事が遅れているだけに見えるが、工務店経営の観点で見ると、期間あたりの収益が下落している。工事遅延を、「時間をかけて工事をすることで丁寧な工事ができる」説明は間違いで、工事速度と工事成果は直接関係しない。

 

建設業経営管理の教育は日本の大学では行なっていない。大手建設業者と一部の大学が行なっている「CM方式」は、欧米の工事管理技術とは異質の虚偽の説明で、その実際は下請け叩きを行なっている。京大や早大では、「CM方式」といって元請け業者の利益を拡大する方法を行っているが、欧米のCMとは基本が違い、職人の技能を生かすとか、職人に無駄な労働はさせない職人の実質賃金を向上させる考え方は微塵もなく、専ら企業利潤拡大でしかない。設計・工事監理業務だけではなく、建築施工に関係する建築士の多くが、生産性を高めることに関係しているが、生産性向上の目的は工事費にカットを目的に取り組まれており、建設労働条件の改善の視点はゼロに近い。

 

優れた工事を実現するためには、すぐれた材料と優れた職人が必要である欧米で一般的な建設業界の常識が、わが国では崩壊し、高い技能でないとできない工事を「単能工で実施できる工事」に置き換えることが業界の流れになっている。職人たちが長い歴史文化の結果として維持してきた技能は、優れた建築工事には不可欠なものである。欧米では優れた技能を消費者の支払い能力に対応して享受できるようにするために、技能力に見合った技能者の労働単価が決められ、高い技能者の労働時間を少なくし、全体の工事単価を引き下げる努力が行なわれている。高い技能者に高い賃金を支払う賃金体系を維持そることにより、優れた技能力を社会に残すことができている。わが国は「悪貨は良貨を駆逐する」という諺どおり、優秀な職人は消滅させられている。

 

住宅産業に必要な建設業経営の知識

わが国では、政府が会計法上及び税法上の資産評価の減俸である「減価償却論」を学問的な根拠もなく、不動産鑑定評価の技術として使い、新築住宅の詐欺商売が露見しないように、不正を隠蔽するため使ってきた。そのため、住宅は造られたときが最も価値が高く、それ以降は価値が下落し続ける評価方法として、住宅会社の詐欺商売を正当化する評価方法として政府の住宅政策として教育されてきた。

 

住宅価格の問題を住宅購入者の負担や住宅資産形成との関係で考える欧米の「ストックの住宅」の建築学教育はわが国では無視されてきた。それだけではなく、歴史・文化・生活を扱う人文科学的視点で計画する住宅・建築設計さえ、建築設計教育の必修科目に入れられていない。国土交通省が「住宅の資産価値は減価償却論通り減価する」と虚偽の説明をしてきた。その理由は、新築住宅がすべて独占価格販売され、購入者が間違いなく詐欺価格で買わされて損失を被っている事実を隠蔽するためである。

 

独占価格販売とは、住宅を完売するために必要な広告・宣伝、営業・販売費用を販売価格で回収する価格を言う。その販売価格の材料費、工事費の内訳は工事見積価格に示されず、「新材料、新工法」として高額な工事費として見積もられ、その工事価格は工事が普及する過程で下落し、住宅購入者が実際の価値を知ることができるのは、中古住宅取引段階になって販売価格の20%以下になってからである。新築住宅を購入した段階で消費者に示される見積もり価格は、住宅産業側の期待する十分な利潤を乗せた販売価格(「独占価格」)である。その価格は不当であることが住宅購入者に見抜かされるときが中古住宅販売時である。それまでの「減価償却」で政府は国民を欺罔してきた。

 

米国の建築家は消費者の資産形成のできる住宅を米国の建築設計学に従って設計している。そのために住宅が都市とともに成熟し、居住者の成長とともに高い満足を与えることができるため、一旦建設した住宅不動産は、恒久的な資産として設計をしなければならない。住宅の資産価値を住宅・建築・都市の歴史から学び、住宅に使用する材料と工法とを設計し、住宅を定期的に修繕し、維持管理されている限り、政府が言うように減価償却することなどあり得ない。住宅不動産鑑定評価制度でも、既存住宅は物価上昇分以上の値上がりをする考えを踏襲している。米国では設計者に対する建築設計教育と同時に、施工者に対する工事施工管理教育を建設業経営管理(CM:コンストラクションマネジメント)教育として行ない、結果として欧米の国民は住宅を取得することで資産形成をしてきた。

 

「生産性」の考え方

米国は代表的な資本主義国で、自由主義経済を旗印に掲げ、需要と供給とで決まる自由市場で決められる市場価格が物の価値を表していることで整理されている国である。そのため価値のある住宅を設計・施工することは、すべて市場価格により価値を明らかにすることとして行なわれている。また、利益を上げる概念も、利益を「価格」で表示される「価値」で評価し、それを事業や業務の視点で見るときには、その価値を生み出し取得するときには、「どれだけの期間をかけてその価値を手に入れるか」という期間単位で利益を得ることを問題にしている。それが「生産性」の考え方である。米国では設計、施工、維持管理のすべての業務時間との関係で考える教育が行われている。「生産性の高い設計」、「生産性の高い施工」の概念が米国の住宅産業には貫徹している。それは、無理、無駄、斑のない「無欠陥(ゼロディーフェクト)」の設計施工と言われている。

 

一方、わが国では、建築教育は「物づくり」教育と説明されているが、建築士は自らの設計した建築物の実施設計図書を作成する能力も、工事額を見積もる能力も持っていない。設計上「工期」を考慮することなど全く気付いていない。自らの設計した住宅の工事期間も、建設工事費も分からないで、専ら、建築基準法に適合した建築設計業務を行っている。その結果、作成された設計圖書は、将来を考えた基本設計は存在せず、実際の工事を特定できる実施設計も作成できない上、材料と工法に関する知識は貧弱であるため、工事の詳細も決められず、設計図書では工事費見積もりができない。わが国ではまず「代願設計」は、設計図書ではないことを理解する必要がある。

 

建築士はこのような設計・工事監理業務を行なう建築教育を履修していない一方で、ハウスメーカーが最も重視する集客のための広告・宣伝、営業・販売技術に狂奔し、現場監督の名称の職責にあるため、下請業者からは工事納まりを決めないと工事はできないと突き上げに合い、設計部に工事納まり図の催促に使い走りまわる業務は、工事監理業務ではない。単なる工事調整の連絡係である。米国の住宅で建築設計者が作成した設計圖書は、工事費見積もりを正確にできる実施設計図書である。米国のように正確に工事ができるためには、建築工事の標準化、規格化、単純化、共通化が進み、それが建築部品や建築材料になって徹底することが必要である。建築士の業務の土台となるべき建築の知識、技術に関し、それを支えている学校教育と社会で業務を担う設計者の学識経験とは不可分の関係にあり、技術力との関係で業務を決めない限り、法律制度で定めた技術や業務が建築士法通り行使できない。

 

東大の権威を私物化する東大教授

わが国では建築士資格の前提になっている大学の建築教育も、社会に出てからの設計・工事監理の実務経験もなしで建築士試験を受験し、建築士資格を得た人が圧倒的多数を占めている。建築士法で定めた就業制限規定を利用して、集客し、設計・工事監理業務の成約が行われているのが実情である。当然、建築士資格を持っている人のほとんどは、建築士法が立法当時、建築士法が期待した学識経験を持たず、設計・工事監理技術を持たなくて建築士資格を得た人たちである。建築士制度ができた当時、東大の教授で建築士資格を持たず、建築士事務所を開設せず東大の研究室で学生たちをタダ働きさせ、設計・工事監理業務報酬を得ていた東大教授が「建築教育の一環で学生に実習をさせ何が悪い」と嘯いていた。

 

1963年当時、建設省住宅局の行政部費で、住宅生産近代化政策を進める調査研究委託費が日本建築学会に交付され、建築の基準寸法を定めるため、日本建築学会にモデュラ・コ・オーディネイション(MC)研究部会が設置された。池辺陽委員長の元に内田昌哉、池田邦明、広瀬鎌二など先端的工業化技術に取り組む学者・研究者たちと住宅局から2専門官(松谷、牛見)が参加し、4年間を超える会議に私は専門官の代理で出席した。最初はル・コルビュジエの提唱したモデューロールの学習と日本の尺・間との比較検討から始まり、既存の利権を漁る学者研究者の本音が出された。東大教授や卒業生たちの「東大を特権と意識し、同窓意識で国家権力を支配する法令無視」の意見を聞くことになった。

 

建築士法に関して、「東大で建築学を教育してやった現在の官僚たちが、建築士法を立法したからと言って俺たちの受験資格を審査し、資格試験で我々を採点し合否を判定することを許してはならない」と言い、法律上我々の業務に建築士資格が必要というのならば、東大教授には無審査で建築士資格を与えるべきだ」と口にしていた。住宅官僚の過半は東大卒で、教え子が元教師の東大教授には厳しく対応できなかった時代であった。東大教授は大学を違法に設計事務所にし、学生を事務所員として使い、盛んに建築の設計競技(コンペ)に応募し、得た賞金を着服していた。その代表的な建築家が丹下健三や大谷幸雄教授ら東大教授らで、その人脈が現在の都市工学科に繋がっている。

 

建築士の行なっている建築設計の社会的役割

個性的なデザインが話題になり有名になった建築士もいる。しかし、欧米で建築学教育を受け、建築様式を学びその上で豊かな学識経験に基づきその建築思想を発揮して歴史に残る建築設計をした設計者は極めて少ない。その建築士と対比される建築士不在の住宅設計業務を行なうハウスメーカーの設計システムは有名建築家の設計と共通し、建築雑誌を賑わす時代の流行をつくってきた。ハウスメーカーの住宅設計は3年ごとに時代のトレンドをつくり、モデルチエンジをしなければ見飽きられ、新規顧客を呼び込めない高額で使い捨ての住宅設計で、住宅購入者本位の「ストックの住宅」設計ではない。

 

ハウスメーカーで注文住宅を建設した人で、確認申請書上に記載された設計者及び工事監理者とされた建築士を、依頼主である建築主がその業務上で見ることはない。言い換えれば、日本の建築士制度上の資格を与えられた建築士はいなくても、建築基準法上では確認申請上、適法に設計・工事監理がされたことになっている住宅がつくられ、名義人の建築士が存在しなくても、誰も社会的な不都合を感じていない。ハウスメーカーは建築士法違反で業務を行なっても、罰則は課せられる心配はなく、不都合を感じていない。その事実は、建築士制度が不要であると言っているのと同じである。

 

それでは建築士法で定めた立法趣旨どおりの建築士が存在しないことで社会的にどのような不利益が生まれているかを考えて見る必要がある。建築士の活用は建築士法上で義務化されているが、建築士法は、国民が住宅を購入することで資産を失うことがないようにするためである。現実には建築士が設計・工事監理を行なった住宅が資産を失い国民に苦痛を与えている。建築士に建築士法で規定した学識経験がないためである。そのような事態が起きないようにするためには、建築士法を蹂躙した建築士法行政と、大学の建築教育を含み、建築士法の立法趣旨と条文どおりに建築士制度を直すしか方法がない。

 

建築士法上の建築士

建築士法は憲法第25条に定める国民に健康で文化的な住宅・建築・都市環境を実現するために建築設計・工事監理業務を適切に行う法治国の役割を担っている。法治国であることへの安心感が、建築士法と建築士の業務への信頼感につながっている。実際に建築士法の立法趣旨どおりの業務が行われていなくても、建築基準法の手続きで建築士が設計・工事監理をしたことを確認された建築に対する安心感を、国家に対する信頼感として国民に与えている。法律違反が起きそれを国家に訴えれば、国家は法律とおりに違反を是正してくれると国民は教育し、国民は法治国の建前を信じている。しかし、実際は、学校で教育している内容は、建築士法に違反し、学識経験のない建築士の違反を行政は容認している。

 

不利益を受けた国民が、法律の正義を実現するためには、国家を相手に争わない限り、法律は実現できない。行政処分の違反では行政事件訴訟を起こし、特に、詐欺横領という刑事事件についても、行政が容認した住宅政策に関連した詐欺事件は、国民が被害者で刑事告訴をしても、検事が起訴しなければ刑事事件にならない。行政事件や刑事事件で国民の権利を守る方法として、法治国では行政及び司法は法律どおりの対応をすると説明されているが、実際に国民には起訴権がなく、刑事事件を起こすことはできない。民事事件でも、弁護士を使うことが事実上義務化させ、訴訟費用が高額化している。

 

しかし、実際に司法や行政により国民の権利が侵されてきた事例が無数にあるが、起訴されることは稀である。民事事件に関しても、司法の場で実際に争うためには多大の時間と費用を要する。訴訟の手続きは、ほとんど学校教育で教えられていない。要するに憲法で約束された権利を守るために、国民自身が非常な努力と犠牲を払うことなしに守られることはない。そのような実際の問題を教育しないで、「法治国」は国家が憲法で定めたことは守ってくれるかのような教育が行われ、法律違反の住宅政策として行われている。国家はそれ自体には法人格はあっても、自然人のような人格があるわけではない。国家は主権者としての国民が主体性を持って判断をしない限り、健全な判断はできない。

 

国家が率先して行った法律違反の行政

小泉・竹中内閣が行った都市再生事業は、日本国憲法に違反した行政法を立法し、改善と憲法違反を行った典型な事例である。憲法違反を積極的に推進してきた国は、政府の財政危機という緊急事態であるからやむなしと言い、そこで違反が行われたとは絶対に言はない。都市再生緊急措置法が違法に立法された行政情報が、完全に国民から遮断され、憲法違反の事実さえ説明されることはない。不利益を受けた国民が、行政事件訴訟を提起しても、司法は行政処分を追認し、原告である国民の訴えを裁判所は審理の対象にしなかった。都市再生緊急措置法のように国家自体が憲法違反を犯して国民共有の都市空間を奪う事件以外にも、「差別化」による住宅政策により不等価交換販売とそれを幇助する不等価交換金融により、多くの住宅購入者は住宅を購入する取引を通してその資産をだまし取られてきた。

 

国土交通省住宅局はハウスメーカーが「差別化」という欺罔の手段で事業を拡大し、住宅産業を発展させ日本の経済成長を牽引し、景気を浮揚したことを政府は評価し、ハウスメーカーの代表者としてダイワハウス会長に安倍内閣が国家大叙勲を与えた。大叙勲を与える場合は、それに先立って受賞者に犯罪によって不正利益を上げたのではないかという調査があって当然である。大叙勲を与えたことでダイワハウスに不正な営業はなかったことを政府が裏書きしたことにもなる。

 

国家大叙勲の結果、建築士が設計した住宅でも、建築士不在で建設された住宅でも、住宅を購入した国民が貧困になっても、住宅産業は高利潤を上げGDP引き上げに貢献し、経済を成長させ景気を浮揚させた結果が評価された。大叙勲の授与により、法律に違反した行為は問題にしなくてもよいと政府の判断が下された。ハウスメーカーの供給している住宅の直接工事費は販売価格の40%程度以下であることは政府も住宅産業関係者で知らない人はいない。その中古住宅価格は半額以下になっている。不正販売によってダイワハウスは巨額な利益を挙げたことも公然の事実である。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷英世)

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