HICPMメールマガジン第809号(2018.11.19)

みなさんこんにちは

 

わが国では住宅政策と住宅産業政策とは同じもののように考えられているが、それはわが国だけの異常な住宅産業環境である。住宅政策と住宅産業政策とは歴史的には全く別の政策として行われている。住宅政策は住宅自体が国民の所得に対しかけ離れて高額で、住宅ローンを組まないでは住宅を購入できず、住宅ローン自体が国家の金融経済政策と不可分の関係にあることから、住宅政策を国家の金融政策及び住宅産業政策の両面から長期的な政策として取り組まなければならないためである。

 

わが国の住宅産業政策は、産業活動として会計年度ごとに経営を考える企業会計と同じに、企業収益を上げる「フローの住宅」産業政策として行われている。住宅取得した人の住宅資産経営の視点で、住宅地経営を「国民の恒久的資産形成」としての「ストックの住宅」政策は行われていない。同様に、わが国では、住宅所有者の資産形成を図る住宅地経営を行なっている企業も人もいない。消費者本位の住宅産業と口先では言われている。しかし、住宅の生産と流通を通して利潤を追求する人たちにとっての住宅は「フローの住宅」であって、住宅の取引や住宅地経営を介して利潤追求することが目的で、住宅を購入した人の資産形成を目的とはしていない。つまり、住宅不動産に投資し所有することで投資利益を手に入れる考え方が、わが国にはないため、住宅政策上にも「ストックの住宅」は存在しない。

 

ストックの住宅(人文科学)、フローの住宅(工学)

第2次世界大戦後英国で始まった住宅政策は「ストックの住宅」政策で、ハワードが「ガーデンシティ」で提起した「ストックの住宅」としてのリースホールドによる住宅地経営を「ニュータウン」政策として実施した。住宅は土地を建築加工する住環境政策であるから、土地は政策実施に不可欠な物であって、わが国の住宅政策のように、公団や公社による土地開発を、政府が商業金利の財投資金を使って都市開発を行なう住宅政策ほど非常識な政策は欧米には存在しない。英国では政府(ニュータウン公社)が土地を所有し、国民はその支払い能力の範囲で地代を負担するリースホールドによる住宅地経営をすることが住宅政策として行われた。わが国では住宅と土地は別の不動産と見なされ、かつ、住宅は減価償却をする消費財と見なされ、取引に消費税が課せられている。欧米ではあり得ないことである。

 

わが国の住宅政策は欧米と同じと政府は国民に説明しながら、その実体は基本的に逆行している。戦後始まったわが国の住宅政策は土地分譲販売と住宅建設販売を分離し、前者では政府が財政投融資の財源の運用利益を得るため、公団・公社に高金利の融資を行なった。公団公社は「原価販売」と説明したが、政府は公団公社に商業金利での都市開発資金を提供し土地供給の資金で政府は利益を確保してきた。それを国民に負担させるため、狭小宅地と長期ローンによって国民に負担させてきた。戦後のドイツではアデナワー大統領は住宅政策として、都市開発資金は金利ゼロの巨額な資金が投入されてきた。英国のニュウータウン政策は同じくリースホールドによる経営であったので土地購入費はゼロであった。

 

欧米の住宅は土地・建築物一体の住宅不動産形成による「住環境管理政策」であるのに対し、わが国の住宅政策は、土地と住宅を一体にした住環境管理を行なう政策は存在しない。住宅を土地の建築加工として行なうのではない。土地は宅地造成で公団・公社が事業を行なうが、政府がその資金供与で、高金利融資の金利を奪い取ってきた。その上、住宅建築物を消費財と見なし取引に消費税を科した。住環境を減価償却する消費財として扱うため、健全管理する経営管理の考え方が取り入れられていない。住宅を「取引利益を生む商品」と扱い、住宅政策の中に恒久的資産として、住宅地経営の考え方が取り入れられない。わが国の住宅政策は、文字通り、消費財としての住宅の商品販売する商業政策であって、土地を建築加工して形成した欧米の住環境管理政策とは異質のものとなって当然である。

 

わが国では西欧文明を取り入れて国づくりをしてきたため、政府も国家もわが国を欧米諸国と同様な西欧文明国に分類しているが、その認識は基本的に間違っている。住宅不動産を住環境資産形成の手段と考える欧米と、住宅を消費税対象の減価償却資産で、やがて建設廃棄物となると考えるわが国とは住宅および住環境の考え方が違い、同列に扱うことができない。建設工学として住宅・都市問題を扱い、研究や政策の対象にしているわが国は、欧米と全く別の住宅不動産思想に立つものである。

 

異常なわが国の注文住宅

「注文住宅」というテーマで現代の日本の住宅の取り組みの在り方を考えてきたが、戦後の日本の住宅政策を追っ掛けて検討すればするほど、現代のわが国の住宅産業や政府が「夢の実現」と国民に訴えている住宅政策は、消費者の住宅不動産投資に応える欧米の「ストックの住宅」ではなく、住宅の生産と流通で利益を挙げる住宅建設業者と住宅取引業者の利益を中心にする「フローの住宅」政策である。わが国の住宅政策は住宅産業政策でしかなく、消費者に住宅の価値以上の資金を貸し出すため、「消費させられる住宅」である。なぜ、日本人の「注文住宅」がこのように欧米と違ったものになってしまった理由は、戦後のわが国の住宅政策が「産業政策」として実施されてきたからである。

 

年収平均が500万円程度わが国の国民が、1,500万円を超す高額な住宅を住宅業者の言うなりのローンが供与されているため、無批判に購入させられている。この住宅政策の異常さに国民が気付かない理由は、政府が間違った住宅政策を護送船団の政策として進め、それに御用学者とジャーナリズムが群がり、護送船団の利益拡大のために合唱をし、そのおこぼれを得ようとしているためである。欧米人が住宅に対して抱いている「国民の適正な住宅費負担は家族年収の3倍程度を超えられない」という金銭感覚を日本人は失なわされているためである。「冬眠中のカエルを水に入れ茹で上げる」ように、住宅産業が売り抜けようとしている住宅に、販売額通りの住宅ローンを組まされて、ファイナンシャルプランナーに「購入できる」と欺罔され・購入させられ、住宅価格に鈍感にさせられている。

 

住宅ローン破産は消費者の自己責任か

政府は住宅ローンを支払えなくなった国民に「義務教育では住宅ローンの説明文程度は、誰でも理解できるから、消費者の自己責任だ」と「茹で上げられている冬眠したカエル」に責任転嫁している。住宅ローン破産は住宅ローンを組むときに始まっている。住宅産業が「長期優良住宅」、「品質確保表示住宅」政府の用意した各種住宅補助制度(差別化政策)で用意した、住宅の価値と価格の矛盾を欺罔して住宅を販売する住宅政策の総体が、消費者の支払い能力を逸脱した住宅を購入させられている政策である。

 

日本の住宅政策のこの異常な状態を理解するためには、戦後70年の住宅政策全体が作用してきており、その背後にはわが国政府が「住宅産業の利益の拡大のための住宅政策」を行なってきた歴史を理解しなくては理解できない。政治と行政とが癒着して、政治家の利益と官僚の利益が重なるような政策は長期間にわたって続けられることなしには現在の「住宅を取得することで国民が貧困にさせられる」ことが行なわれることはない。わが国の住宅政策は政府による「未必の故意」(最初から住宅産業の利益のため国民を住宅政策の罠にかける故意(住宅政策)の下で実施された政策であるからである。

 

それを政府は「高い学校教育水準を受けているわが国の国民の住宅ローン事故は、基本的に「自己責任」であると断言し、御用学者やジャーナリストがその発言に迎合してきた。私自身住宅政策・住宅産業政策に関わっていながら、現役時代には政府の住宅政策は住宅産業利益を優先させるための「未必の故意」による政策と見抜けなかった。ほとんどの官僚は私同様、政府の決めた政策を実現しようと努力し、誤った国民に背を向けた政策を、国民のための政策と勘違いさせられてきた。その間違いを理解するためには、人文科学的な歴史文化に立ち返った政策批判の認識が必要である。

 

 第36回 間違ったわが国の住宅政策史の歴史認識(MM809号) 

 朝鮮戦争を契機に始まったわが国の住宅政策

戦後の住宅政策は、米国の占領下に始まり、国民には戦災復興政策として取り組まれたと国内向けに説明されてきた。1946年の日本国憲法が占領下で発布されたときは、現在の日本国憲法第9条の条文どおり、日本は「戦争の放棄」を宣言し、戦時下での軍国主義を進めてきた軍組織、官僚機構、軍需産業をすべて解体する決定を占領軍の命令と監視下で進めた。しかし、1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が1948年に定められた休戦軍事境界線を蹂躙して違法に南下し、基本的にその後の米国を中心とする国連軍とソ連・中国義勇軍による社会主義国との代理戦争が勃発した。

 

中国やソ連という北朝鮮と地続きの国と、太平洋を隔てた米国とが兵站力の比較で、対等の戦争はできず、米国は日本の戦前の軍需産業を全面的に復興することで、日本を米軍の兵站基地とした。そして、1946年に制定した日本国憲法を蹂躙して、連合軍と言う米軍の意思で、日本国憲法第9条に違反して朝鮮戦争を戦う決定をした。日本の戦災復興政策は単なる戦災復興ではなく、米軍の極東軍事戦略に沿って米国の兵站基地の役割を担わされ、それにより経済復興が行なわれることになった。日本には、米軍の片棒を担ぐことに反対する勢力を鎮圧する目的で、米軍の指揮下に警察予備隊がつくられた。

 

わが国が戦争責任を国際的に認めた「サンフランシスコ平和条約」

日本は戦後の復興は国際社会への復帰の足掛かりにすべく、ドイツにおけるニュールンベルク裁判に倣い東京裁判を実施した。日本の戦争責任と戦争犯罪人の犯罪を明確にし、東京裁判で戦争責任を明らかにしけじめを付けることが国際社会から求められていた。しかし、第2次世界大戦中、703部隊のような細菌兵器の研究を米軍が手に入れるため、細菌戦争を進めた東京大学や京都大学の医学関係者の責任を不問に付し、米軍の戦力に組み入れようとした。さらに朝鮮戦争に旧日本軍を投入することも政治の裏で画策されていた。その結果、国際法に違反する細菌研究関係者が日本の医学界を現在も支配し、米軍は占領政策として「戦争の放棄」を決めた日本国憲法の軌道修正を求めてきた。そして「日本国憲法は米国に強制された」という虚構を解明するために憲法調査会が設立された。しかし、憲法調査会の結論は、「憲法素案は米国から提供されたが、政府及び学識経験者が日本国として受け入れを適正と納得して受け入れ、強要されたものではないこと」が調査会の結論とされ、憲法調査会は解散した。

 

東京裁判は第2次世界大戦の戦争責任を明らかにする目的で開始された。しかし、朝鮮戦争の勃発により、「戦争を放棄」する政策自体が骨抜きにされ、占領軍からはもちろん、敗戦国日本の中でも米国の軍需産業を復興して経済的利益を受けることが求められた。日本国憲法で定めた「戦争の放棄」を事実上考えない思想が、日米双方から醸成され、「敗戦」という用語に代え(終戦)と言う用語が使われた。その結果、日本が国際社会に復帰するために東京裁判で第2次世界戦争の責任を総括し、現実の政治では、わが国は朝鮮戦争に加担させられ、再び戦争を起こさない誓いを、わが国は国際的にも国内的にも消滅させてしまった。その象徴的な問題が日本が米軍の兵站基地機能を日米安全保障条約により、日本国憲法に違反して維持し、また、東京裁判での戦争犯罪人を日本の政治家として選び、総理大臣や大蔵大臣の職を与えた。東京裁判で平和と人道に違反したA級戦争犯罪人でおの犯罪を認めた人は皆無に近く、インドのパル判事同様、自らを国家の犠牲者と言った。戦争で犠牲になった兵隊の気持ちからは、お骨を戦争犯罪人と靖国神社に合祀し、戦争犯罪人と犠牲者を同じ扱いをすることは許されない。

 

米国は日本を従属国ではなく米国の同盟国として朝鮮戦争片棒を担がせる政策を、当初の占領政策を変更し軍事バランスを取るために、サンフランシスコ平和条約を締結と同時に日本を米国の従属国とするシナリオ通り、日米安全保障条約を有無も言わさず締結させた。朝鮮戦争により日本の連合軍による占領政策は、日本国憲法を持つ日本では憲法の内容を急遽変更せざるを得なくなっていたが、すでに発布されている日本国憲法を変更することはできず、まずは米軍の占領政策として始め、その後日米安全保障条約を米軍の経済支配で強行する政策が採られることになった。

 

経済復興政策として日本の米軍兵站基地化

朝鮮戦争勃発で日本は米軍の占領政策として、独サンフランシスコ平和条約で、日本が独立以後は、日米安全保障条約により兵站基地化された。兵站基地の最初の政策が朝鮮戦争の前線基地として国内の沖縄、岩国、横田、横須賀、三沢などの基地を米軍の軍事基地とするとともに、戦前の軍需産業を復興し、それらによって朝鮮戦争の兵站基地に必要な軍需物資を生産・供給することであった。米軍は日本の国土全体を米軍機が軍事のため日本の空域を米軍が自由に飛行できる空域に、海域を米軍に解放する日米地位協定により、国土全体を米軍の極東軍事活動のための「治外法権」の軍事基地としてしまった。占領政策として始められた政策は、サンフランシスコ平和条約締結後は日米安全保障条約により、米軍の占領政策が日本の独立後も継続するようにしてしまった。

 

その方法は、日本政府が事実上占領政策を自ら望んで、米国と対等の形で締結した条約のような形式を踏んで結ばれた。日米安全保障条約は、サンフランシスコ条約の署名人の中で吉田首相の単独で調印が行われた。この理由は、日米安全保障条約が日本国憲法に違反する屈辱的な不平等なものであることを吉田首相は承知し、その責任を首相単独で背負う形をとったと考えられている。その条約は、国民に大きな犠牲を押し付ける問題を起こす日米地位協定の施行に象徴されるとおり、朝鮮戦争以降の米軍の兵士の乱暴狼藉に対し、それを黙認させる形で日本に犠牲を強要し、日本国民を米国の従属国民として不平等に扱うことになった。朝鮮戦争以降の米軍の極東軍事戦略は、農薬散布など極めて残虐で非人道的なものであったことが、軍人の精神的安定を狂わせ、基地での非人道的な犯罪となって現れていた。

 

戦闘並みの残虐な兵站活動の復興

日本国憲法が制定された当時、戦前の日本の軍国主義とそれに基づく政治、経済、教育文化が国民の前で展開されたが、憲法で明らかにした「戦争の放棄」を掲げることで、国民が戦災復興の希望を持つことができた。それを裏付けるために必要不可欠なものは経済的な支援で、米軍による食糧供給や子供たちへの給食が国家の国民不安を解消するためには不可欠であった。軍需産業に依存して経済活動を引き起こさないと経済は活性化することはなかった。その経済を活性化させたものが、敗戦まで唯一の国内産業であった軍需産業の復興が、日本全体が米軍の御兵站基地になることによって、その軍需費用は、米国政府負担で始まった。日本政府は巨大な失業者を前に米国の言いなりになった。

 

米国政府によるわが国に対する占領政策は、日本は米軍に対しその兵站基地として軍需物資を供給するために、日本憲法制定時に占領軍が命令した「戦争の放棄」のための政策を行なわなくてようとし、それに代えて、朝鮮戦争を実施するための以下の政策を実施することが求められた。

  • 戦前の軍需産業資本である財閥解体の中止し、一旦決定した軍需産業の復興を行なう、
  • 軍事産業関係で公職追放者たちの追放解除し、戦前の軍事産業での雇用を可能にする、
  • 軍需産業からの失業者を新たに米軍の要請によってつくられる軍需産業で雇用する、
  • 軍需産業労働者に政府資金(住宅金融公庫)で旧財閥(軍需資本)社宅を供給する。
  • 軍需産業雇用者以外の下請け企業及び関連企業労働者に政府責任で公営住宅を供給する
  • 軍事産業を支えるためのエネルギーとして産炭地復興を急ぐため、炭鉱住宅の供給と改良する

 

日本の住宅政策の始まり:軍需産業労働者向け住宅

1950年の住宅金融公庫法の制定は、米軍が朝鮮戦争を戦うために戦前の軍需産業復興する。そのために財閥解体の中止と平仄を合わせ、旧軍需産業労働者をあらためて軍需産業に定着させる。占領軍は日本政府に住宅金融公庫を設立させ、政府の管理している資金(郵便貯金と簡易保険積立金)を充当することを命じた。政府は米軍の占領政策として住宅金融公庫を設立し、旧軍需産業(財閥)の社宅建設のための産業支援融資を、既に、米軍及び軍需産業へのエネルギー供給を行う産炭地(財閥)の復興政策として始めていた炭鉱住宅の新設及び改良の産業向け住宅融資とを併せて住宅金融公庫ではじめた。

 

政府の説明や住宅問題研究者たちは、日本の戦後の住宅政策は戦災復興事業として、日本国憲法第25条の実現を目指して福祉政策として取り組まれたと説明された。しかし、歴史を遡って調べてみると、1946年の日本国憲法で戦争の放棄を宣言したが、1950年の朝鮮戦争勃発により米軍の占領下の日本全体が米軍の兵站基地とされ、国全体として米軍の求める軍需物資や軍人を輸送する車両や船舶をはじめ軍需物資の生産を支えるための物資の生産を行うことになった。米軍戦闘機は日本領空を自由に飛行し、米軍船舶は日本領海を自由に航行できる特権を行使した。すべての経済活動は、米軍のためで、そこで働く労働者が日本人であったため、軍需産業向け住宅も国民向け住宅と説明された。

 

独立国日本が米軍の占領政策から逃れられなかった理由

1952年のサンフランシスコ平和条約締結により独立国家となったが、米軍占領下の米軍の兵站基地としての扱いは、日米安全保障条約の締結によって継続されることになった。日本全体を米軍の兵站基地と扱う日米安全保障条約と日米行政協定に抵触しない部分にのみ、日本国憲法を基本法として適用する国として整理された。今の安倍晋三の祖父岸信介首相は、日米安全保障条約の改定を行ない、戦争の放棄に違反する戦争を推進する米国の言いなりに行なって、日本を米国の極東軍事戦略の中に組み込むことを勧めた首相であった。最高裁判所は岸信介の政治圧力に従わされ、1959年の砂川裁判において日本国憲法と日米安全保障条約との矛盾を認め、「すべての政策は日本を米軍の兵站基地とする政策の下での統治が行われてよい」と最高裁判所裁判長田中耕太郎に日本国憲法違反の判決を書かせた。岸信介は田中耕太郎の判決を行なったことを評価し、ハーグの国際司法裁判所判事に推薦した。現在の安倍内閣が進めている安保関連立法はその文脈の中で行われてきた。主権を有する独立した文明国家で、その国の憲法より外国との条約を優先させる国はない。日本はその例外国なのである。

 

日本国憲法と日米安全保障条約とは国家の主権を国民に置くか、米国との同盟関係の利益に置くかという2律背反(トレードオフ)の関係にある。米軍基地が置かれている地方では、米軍兵士の理不尽な犯罪に対し、日米安全保障条約を根拠に設けられた日米地位協定により、米軍に対し治外法権が行なわれ、米軍が犯罪人を国外に逃がし、日本人被害者は泣き寝入りさせられてきた。米軍が日米安全保障条約や日米地位協定を必要としている理由は、日本国内で戦争行為の延長を米軍兵士たちに容認しているためである。それに対し、日本政府は国民を守らず、米軍と軍需産業のためにそれを容認している。

 

わが国の住宅政策史の歪

私自身、住宅問題との出会いは、60年日米安全保障条約改正反対の学生運動がきっかけになり、マルクス、エンゲルス、レーニンの著作を読むことになった。その中で、エンゲルスの『住宅問題』『英国における労働者階級の状態』(いずれも岩波文庫)を読み、日本の住宅問題への関心が広がり、上野洋著『日本の住宅政策』(彰国社)西山夘三著『日本の住宅問題』(岩波新書)を読み、住宅政策に取り組もうと考えた。私の人生の選択に影響を与えたこれらの書籍は、著者たちが安保改正時に口にし、それらを読んだ当時、読者たちを信じさせていた社会主義の思想書ではなかった。

 

西山夘三京大教授や上野洋建設省技官とは、私も西山とは一緒に本を執筆し、上野は上司として仕えたたことがある。ご両人とも民主的な思想を持ち進歩的な発言をしていたが、国立大学の教授や建設省官僚の立場に縛られ、日本が米軍の兵站基地にされたことには触れず、政府の住宅政策は英国の労働党政権の住宅政策に倣ったものであると説明してきた。西山・上野の住宅政策論を読むと、建設省住宅局の技術官僚が戦後の越冬住宅(緊急住宅政策)を英国の住宅政策に倣って恒久的な政策として、公営住宅法にまとめたと、政府の住宅政策の文脈で日本の住宅政策を福祉政策として説明をしてきた。その説明は現在の政府や住宅研究者の共通した理解に定着しているが、それが、住宅政策批判を窒息させてきた。

 

西山京大教授と上野住宅建設課長の影響

私自身、建設省住宅官僚として4半世紀住宅行政を担当し、西山や上野が説明してきた日本の住宅政策を信じ、その政策批判を行なえないようにされてきた。住宅金融公庫の制定時の経緯や公営住宅法立法の経緯を両者から、日本の住宅行政として直接聞かされた。同様の説明を行政の先輩の住宅官僚からも聞かされた。日本政府のまとめた住宅政策史(住宅白書)には西山、上野両氏の思想的影響は大きい。現実の住宅行政に関係するうちに、日本の住宅政策は欧米と同じような政策と信じ込まされて来ていた。1950年の住宅金融公庫と1951年の公営住宅とから始まった住宅政策は、この両氏が中心的に立案した日本の住宅政策であり、日本国憲法の下での福祉住宅政策と信じ込まされていた。 

 

京大の西山や上野が日本の住宅政策として説明してきたことは政府の住宅政策が欧米の住宅政策と基本的に同じものと彼らがつくりあげたフィクションであった。京大の住宅問題研究者がその研究成果として国民向けに説明したものであったが、実は西山・上野の両者とも建設省の住宅政策の立案者であって、政府の住宅政策を正当化する立場にあり、彼らの教え子や後輩を建設省住宅局に多数送り込み、その思想を政府に与えてきた。西山・上野の両氏は真面目な学者と行政間で、優れは研究者であったが、結果的に批判されるべき政府の住宅政策批判を妨害させ、正しい住宅政策批判をできなくさせていた。

 

わが国の戦後の政策は基本的に日米安全保障条約に基づき行われ、日本国憲法と矛盾する政策として行われてきたことを知ることなしには、正しい政策認識はできない。日本が米軍の兵站基地とされて行われている住宅政策の説明は西山・上野の説明には登場しない。彼らの説明には日本の住宅政策と日米安全保障関係の矛盾は現れず、欧米の住宅政策と基本的に同じことを日本政府が取り組んできたことになる。私自身建設省住宅局で住宅行政に関係し、予算執行に関し大蔵省の日米安全保障条約による締め付けを予算配分で持ち出したことに何度も遭遇した。日本の住宅政策が日米安全保障条約によって歪められていることに長く気付けなかった理由は、西山・上野の影響があったためと思わざるを得ない。

 

1950年時点の住宅政策は日本国憲法第9条に違反して軍需産業の復興のために、旧軍需産業復興のための社宅供給の融資を財政投融資を使って行う政策が実施されました。その政策に政治的正当性を付与するために軍需産業の復興を表に出さず、産業労働者向けの住宅政策の枠組みの下で軍需産業復興政策がすすめられた。この戦後のわが国の住宅政策の出発点に、住宅政策は米軍の順需政策に歪められていた。この最初の躓きは、政府の推進した住宅政策が国民本位ではなく、米軍の軍事政策に迎合した政府本位の間違った政策であったとことを西山・上野が批判せず、わが国の住宅政策史を欧米同様の住宅政策史と誤った住宅政策史を記述してきたことにある。

 

米軍の兵站基地(日本)での総合的な住宅政策

戦前の軍需産業では、家庭にまで部品生産を負担させる国家全体を軍需産業にした産業構造であった。戦後の米軍はすでに日本国憲法発布に合わせて公表した財閥(旧軍需資本)解体政策を、朝鮮戦争の勃発時に放棄し、それと矛盾する軍需産業のための社宅供給を行なうことで、旧軍需産業を復興させ、兵站基地機能は復興させる政策を採った。軍需産業を復興させるためには軍需産業労働者向けの住宅を供給し、労働者を確保する必要があった。そこで軍需産業労働者向け住宅の建設に政府は取り組むことになったが、米軍が旧軍需産業構造を調べると、軍需産業の復興には国民全体を巻き込むために、下請け産業構造を巻き込むことが不可欠であることが、政府だけではなく米軍にも確認でき、中小零細下請け低賃金労働者向け産業労働者住宅対策が財閥雇用労働者以外に重要であると理解した。

 

戦後の住宅政策とは別に、たまたま内務省中で敗戦後の日本復興のモデルを研究していた官僚の中に、英国労働党の住宅政策を知り、戦後の日本の国土復興に大きな役割を担う政策と考え、検討が初められていた。住宅・建築・都市問題を英国の労働党政策に倣うべきと考えた住宅官僚の取り組みが、当初は、GHQは財閥向け軍需産業向け社宅と対立概念として、日本国憲法で新たに創設された地方公共団体が低所得者向け公営住宅政策の施行主体となる公営住宅は、産労住宅との政策上のバランスと取ったと説明された。日本国憲法違反の軍需産業復興政策をカモフラージュする政策と米軍は考えたが、やがて、新たに復興する軍需産業の復興のためには、国民全体を旧軍需産業の下請けに組み込むためには、低賃金労働者向け住宅政策は、軍需産業にとって不可欠な政策と占領軍も判断し、推進することになった。

 

日本を米軍の兵站基地にするためには、単に軍需産業だけではなく、日本国全体を米軍の兵站基地にすることである。軍需産業は重厚長大型の日本の基幹産業であり、軍需産業の下請け産業や関連産業労働者の住宅問題は、日本の底辺の住宅問題で、公庫住宅と公営住宅が日本の住宅政策の両輪となると位置づけられた。西山教授、住宅官僚上野洋は、いずれも反体制学者や官僚ではなく、体制内の改良主義者として多数の著作を発表し、政府施策住宅を支援してきた。彼らは日本が米軍の兵站基地としての機能を担わされていることを承知で、建設省の住宅政策を米軍の指揮による旧軍需産業の復興政策であることを全く表に出さず、国民全体を対象にした住宅政策と説明していた。

 

軍需産業は重層下請け構造であるから、下請け労働者や関連産業労働者の社宅には入居できず、当時の高額な住居費負担のできない下請け関連産業労働者向けの住宅供給が、1951年制定された公営住宅として行われたことは、軍需産業を下支えすることものであることは、米軍だけでなく、すべての関係者に理解されていた。旧軍需産業の立地する地域は、その後、新産業都市および工業整備特別地区に指定され、公営住宅はこれらの地域に優先配分し、その住宅政策実現には、地方公共団体を事業主体として政府の強力な指導力のもとで実施された。また、既に設立された住宅金融公庫には、土地を所有している個人や、公営住宅への入居基準を超えた労働者向け賃貸住宅を供給する公社等への融資を行なう途が開かれた。軍需産業に雇用されようと失業者が都市集中し、大都市の住宅困窮者を増大していた。

NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

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