HICPMメールマガジン第810号(2018.11.26)

 

みなさんこんにちは

 

西山・上野の「わが国の住宅政策」

前回、戦後の住宅政策に大きな影響力を持っていたわが国の住宅問題研究者として最も有名であった西山 夘三と上野洋の2氏の「我が国の住宅政策に与えた影響」の評価を行なった。それは現代の住宅政策の大きな流れをつくってきた影響力が大きいことを考えて、その限界を正しく認識することが重要と考えたからである。わが国の住宅政策を政府も、西山夘三以下の京大建築工学科から建設省に送りかまれた教え子や住宅問題研究者たちの考え方に影響されてきた。両氏は、「日本国憲法の下で日本政府は不十分ながらも西欧諸国と同じような国民の住生活を向上させるための住宅政策を行なってきた」と説明し、住宅政策努力の継続によって、わが国も欧米の住宅政策に迫ることができると説明してきた。

 

西山夘三はエンゲルスの『住宅問題』や『英国における労働者階級の状態』などの著作を学生たちに紹介し、自らの住宅問題の認識を多くの雑誌や、岩波新書や多くの単行本を著し、改良主義的考え方の普及に努めてきた。彼自身、戦前、住宅営団の仕事に関係し、戦後は政府の住宅政策にも大きな影響を与える立場にあった。そして西山夘三は京大で教育した学生たちを新しく登場した住宅政策の取り組む建設省住宅局に多数送り込み、住宅政策作成業務に影響を与えてきた。上野は官僚になり、住宅政策を推進する行政官の立場にあった。西山夘三の住宅政策への影響力は大きく、その発言は住宅政策に関しては、アウトサイダーではなくインサイダーであった。

 

政府の住宅政策の共同制作者と言うべき2氏のうち上野は『日本の住宅政策』(彰国社)の著者で、戦後の住宅金融公庫の産業労働者住宅制度にも関係し、建設省住宅局住宅建設課長を経験した。北欧の住宅を調査し『北ヨーロッパの住宅』(彰国社)を著し、わが国の公営住宅制度の整備や円滑な施行に貢献した。西山、上野両氏は戦後の建設省の住宅政策の整備に尽力し、政府の住宅政策の推進者として、国の住宅政策を理解してもらおうと努力をした人である。私は西山氏の下で『日本の都市問題講座』(汐文社)を執筆し、上野とは建設省住宅局市街地建築指導室で部下として働き、両氏が博識と国際的視野、政策実施のバランス感覚、民主的な人格で、住宅政策を推進してきたことを見てきた。

 

住宅政策批判の必要性

現在振り返って見ると、この両氏から米軍(占領軍)との関係や日米安全保障条約によって日本の住宅政策が大きく歪められた政策批判を聞かされたことはなかった。私が現役の住宅官僚時代、日米安全保障条約が住宅政策を大蔵省の予算配分権を使い軍需産業中心に歪められたと感じたことは何度もあった。しかし、西山、上野両氏の住宅政策に対する立場は、住宅局と同じ立場にあり、住宅政策の改良されていたことしか私の記憶にはない。今回取り上げている「日米安全保障体制と日本の住宅政策」テーマに、西山、上野両氏からの意見を聞いたことはない。多くの住宅関係者はこの両者の住宅政策に対する考え方を中立的な考えとして受け入れたが、結果的にそれは政府の住宅政策を肯定的に受け止める支援をし、政府に対する国民の住宅政策批判を鈍らせることになったのではないか。

 

戦後の住宅政策は国民のために行なわれたものではない。米軍の兵站基地としての役割を満たすための政策であった。現代のわが国の住宅政策は、発足時点から、「欧米先進工業国に倣った住宅政策」という政府の説明とは違っている。わが国の住宅政策目的は、「軍需産業のため」から「住宅産業と経済政策のため」という「具体的な政策目的」であった。「国民のため」という説明は、「具体性がなく、国民を愚弄する言葉遊び」であった。欧米で「消費者のため」という政策目的は、住宅産業関係者にその業務として住宅産業関係者に「消費者」を意識させている。「住宅を取得して貧困になって行く日本」と、「住宅を取得して個人資産の形成となる欧米」の基本的な違いを疑問に思ってきた。「住宅政策史に対する政府の認識」と国民の批判にその疑問を解明するカギがあるある。

 

わが国の住宅政策史としては『住宅白書』しかない。その筋書きこそ、西山、上野の住宅政策認識をベースにしている。西山、上野両氏は国民の利益を守る立場の社会派で、その住宅政策史観は消費者利益を守る立場であると信じられてきた。それがわが国の住宅政策の基本となっているのであるから、政府の住宅政策の本質から、もう一度、西山、上野の住宅政策の考え方を吟味する必要がある。わが国の住宅施策が「消費者中心の住宅政」か、それとも「住宅産業本位の住宅政策」かの対立こそ、わが国の住宅政策の方向を世界の先進工業国とは違った住宅政策にしてきた事実を証明している。私はその半世紀間に官僚や、住宅産業関係者として経験したことを、『フローの住宅、ストックの住宅』(井上書院)で明らかにし、産業の利益本位のわが国の政府住宅政策と、消費者の利益本位の欧米の住宅政策の比較を行なった。その政策批判をベースにしない限り、消費者本位の住宅政策は始められない。西山と上野は結果的に見て、わが国の住宅政策を現在の方向に導いた住宅思想家(イデオローグ)であった。

 

本書で問題にする住宅政策上の違いは、「社会主義か、資本主義か」の違いによるものではない。同じ自由主義を国是とする資本主義国であっても、国家の政治の中心を「住民中心に考えるか、産業利益を中心にするか」によって違ってくる。東西対立の時代には社会体制の違いを「消費者利益中心か、産業利益中心かの違い」に置き換える議論が多くなされていた。しかし、そのように社会体制との関係に単純化して、その違いを、消費者本位か、産業本位かに結びつける見方は正しくない。社会体制としては日本と欧米は同じであっても、欧米と日本の住宅政策の方向は逆の方向を向いている事実を、住宅政策研究の中で明らかにすることが、現実の住宅政策批判として重要である。

 

私は、全米ホームビルダーズ協会との四半世紀にわたる相互協力協定をベースにした交流を通して、国家も住宅産業界もそれぞれの立場で、消費者本位の取り組みをしている姿を見てきた。米国の住宅産業会が住民の利益を基本にしているのに対し、わが国は、産業の利益追求本位で動いている。その違いはその国の歴史と文化の形成と不可分の関係にある。そこで戦後の住宅施策史を改めて検討し、わが国の住宅政策が消費者不在の産業利益中心として行われてきた事実を明らかにする。

 

 

第37回 日米安全保障条約に集約される戦後のわが国の政策(MM第810号)

 

占領政策としての優先順位

1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を南下して始まった朝鮮戦争は、3年後に米国と休戦したが、米ソ対立は戦線を東南アジアに拡大し、1976年ベトナム戦争で米国が敗北するまで継続した。そのため、軍需用車両や船舶を中心に重厚長大型産業が拡大された。わが国の軍需産業は米軍需要と併せて警察予備隊、保安隊、自衛隊に成長した日本の軍隊の軍需により、軍需産業は急速に成長した。そこへ旧軍需産号の閉鎖と引揚者で、国内は失業者で満ち溢れていた。朝鮮戦争は「財閥の解体」方針を反故にさせ、旧軍需産業の復興により、失業者は旧軍需産業の復興により救済された。

米軍の兵站基地としての軍需物資生産が全面的に始められ、わが国の経済危機は救われた。朝鮮戦争開戦とその後の東南アジアへの戦線拡大で軍需物資の生産が急拡大され、失業者は雇用を求めて旧軍需産業に殺到し、旧軍需産業で働く労働者向け住宅供給がわが国の住宅政策の始まりとなった。

 

軍需産業で働く労働者を確保するため、戦争で消失した社宅の建設が不可欠の課題となり、政府は占領軍の要求に従って、産業労働者向け住宅融資を行なうことを決めた。政府は、国民の預貯金や保険の積立金を財源とする財政投融資を使い、1950年住宅金融公庫を創設し、旧財閥資本に軍需産業労働者向け住宅(社宅)の建設融資を行なった。それが戦後わが国政府の住宅政策の始まりであった。進駐軍の指導で軍需産業向け労働者住宅の供給に始まったとき、国民大衆の住宅不足は大きく、国民は「衣食住」という生活の基礎となる住要求の実現を要求した。しかし占領軍は、限られた建設資材を配分するときの優先順位が統制経済として行われた。占領政策としての順位が軍需産業向け「産業労働者向け住宅」が国民の要求する公営住宅に優先する政策として採択された。しかし、占領軍は軍需産業の下請け企業に働く労働者向け住宅として公営住宅の建設に同意した。

 

大都市には戦災で焼け出された人たちや海外から引き揚げた人たちが失業者として集中したが、住宅が絶対的に不足し、親戚縁者を頼って間借りをする同居や、使用する必要のなくなった兵舎や旧聞関連の施設、廃材を集めて防空壕に屋根を付け雨露を凌ぐバラックや、使用できなくなった列車やバスを住宅に転用する「非住宅居住」が雨後の筍のように建設された。国民は住宅なしでは凍死の危険を感じ、「家よこせ」デモを行なった。政府は住宅不足が社会不安の原因になることを恐れ、「越冬住宅」を建設した。それは治安対策の見せかけだけの住宅供給で、政府の住宅政策に繋がるものではなかった。

 

内務省官僚に影響を与えた英国の労働党の政策

政府内部では、内務省は海外情報を収集し、英国では保守党のチャーチル首相は第2次世界大戦に勝利したので政権維持ができると考えていた。しかし、ロンドンをドイツの楽劇で殆ど焼失した英国民は得に住宅の供給を求めていた。その状況を見て労働党アトリー党首は、国民の住宅問題を公営住宅制度により国民の住宅は国家の責任で供給する政策を打ち出し、併せてニュータウン開発を行なうことで解決する政策を立て、選挙戦で圧倒的に勝利した。この情報は英国から日本へ交信として伝えられ、内務省内には、やがて日本に訪れる敗戦後の国家再建の道が検討の参考にされた。敗戦後、戦災復興院から建設省が創設され、旧内務省時代から英国に倣って公営住宅制度を設立することが検討された。敗戦後は、占領軍の支配下にあり、朝鮮戦争の勃発でわが国は米軍の兵站基地にされ独自性は奪われていた。

 

内務省の建築技官や社会政策や福祉政策に関係していた技術者は、戦後の復興は英国のような住宅政策が必要な社会になると考え、英国の住宅政策を調べ、準備を始めていた。そして占領軍に対し住宅政策を展開する必要を提起した。しかし、占領軍は住宅政策の重要性や、既に英国で住宅政策が取り組まれていたことを知っていた。英国のような公営住宅を建設する必要性は理解できたが、わが国の財政破綻状態の国で公営住宅政策を取り組むことはできないと考えていた。

 

朝鮮戦争が勃発し占領軍としては朝鮮戦争に勝利する政策に最大の優先順位が置かれていた。わが国は米軍の兵站基地とされ軍需物資の生産が求められ、軍需産業労働者向け住宅の供給は緊急を要する判断さられた。しかし、やがてわが国の産業構造は重層下請け構造になっていて、そこで働く低賃金労働者の住宅供給こそ、米軍の兵站基地機能を果たすために重要と考えられ、それらの低賃金労働者向け住宅として「公営住宅の供給」が取り組まれたが、国民には、産業向け住宅ではなく、住宅に困窮する国民大衆向け住宅と説明された。

 

ソ連の日本国土分割要求は米ソの緊張関係を高め、中国大陸では中国共産党が全土を支配下に置く勢いにあり、朝鮮半島では北朝鮮の臨時境界線を越境して軟化する侵略が始まり、占領軍は東西の軍事対決に予断を許さない状態であった。そこで日本を米軍の兵站基地として整備することに政治の優先が置かれ、旧軍需産業の復興を急ぐことになった。占領軍は日本国憲法制定にあわせ、財閥(旧軍需産業資本)解体を指示していたが、その方針を反故にし、軍需産業労働者住宅の供給を急げと指示した。その後軍需産業には下請け産業が不可欠であることを認識し、公営住宅が軍需産業の下請け労働者に必要な住宅として推進を容認した。

社会党は粗悪の住環境にあえいでいる国民のために公営住宅制度を制定することを主張したが、それは軍需産業にとって必要な住宅であることが占領軍の理解するところとなり、低所得者向け住宅の供給を政策として与野党合意で公営住宅制度が推進された。政治的には、住宅金融公庫の創設と産業労働者向け住宅を供給する自由党の政策と、低所得者向け公営住宅制度の創設と求める社会党の対決と説明された。保革対立といわれながら、占領軍の政策を保革両陣営が国民向けに説明するときの対立で、いずれも占領政策として米軍の許容するものであった。

 

政府施策住宅の全てが米軍の兵站基地の軍需産業労働者向け住宅

その政治的決着は1950年に住宅金融公庫の創設と、産業労働者向け住宅の供給が始まり、その翌年の1951年公営住宅制度が創設され、公営住宅は低所得者向け住宅政策として始まられた。この自由党と社会党との住宅政策上の対決は、政治対決として解り易いもので、与野党は国民に対し対立した政策であったと言い、その成果をそれぞれの政策の政治的勝利と謳った。しかし、公営住宅制度の制定には対立はなく、公営住宅は双方にとって必要とされる政策であった。重層下請け構造の旧軍需産業の下請け企業や関連企業の低賃金労働者のための公営住宅、公社住宅が、日本国憲法に新設された地方自治に基づく住宅政策として、就業地と常住地とを対応させる住宅行政として始められた。

 

復興された軍需産業は大都市に集中し、多くの労働者は大都市圏を単位に行政界を超えて「遠・高・挟」の犠牲を承知で入居し、通勤した。公営住宅法は日本国憲法に定めた地方自治の具体的な実践として説明されたいたため、行政区域を超えた公営住宅の入居は日本国憲法に違反するとされた。軍需産業は戦前の軍需産業を復興するもので、新憲法の地方自治制度を前提にしたものではなかった。朝鮮戦争の拡大から軍需産業の急成長が続き、それらの工場に就業しようと行政界を超えて労働者が集中した。

そこで、行政境界を越境した公営住宅への入居は、日本国憲法に規定した地方自治と公営住宅法が矛盾すると指摘された。公営住宅の入居規制を行なう地方自治体の政策を解決するため、都道府県の行政区域を超えた団体による住宅供給制度が検討され、公営住宅制度と地方自治の問題を事実上回避する方法として1955年日本住宅公団が設立された。しかし、日本国憲法で定めた地方自治とはどのような制度であるかは、憲法問題として議論されることはなくなりうやむやのまま現在に至っている。

 

朝鮮戦争はすでに休戦した後は、米ソの熱戦は東南アジアに拡大し、戦争はより高度化した戦略、戦術、武器が使用された。軍需産業自体が石油を取り入れた重化学工業を土台にするものに変化し、石油コンビナートが軍需産業として開発された。新産業都市と工業整備特別地域の開発は、新しい戦争に対応する軍需産業地域であった。日本国内では直接戦争を行なっていないことで、国内には軍需産業の技術革新に対応する軍需産業労働者向け住宅を、日本住宅公団は「特定分譲住宅」として供給させ、その関連の下請け労働者たちの住宅として公営住宅と日本住宅公団による一般賃貸住宅の供給を始めた。

公営、公団、公庫住宅は国民全体を対象にする一般的な欧米同様な住宅政策と説明され、政府は日米安全保障条約を背景にした政府間協定で、これらの住宅供給は日本政府の責任で行うこととされ、大蔵省が米国に代わって、住宅建設戸数の予算配分を「新産業都市、工業特別地域への優先配分」として監督し、米国への報告義務を負っていた。1952年に日米安全保障条約を背景にした大蔵省の予算配分権で、日本全土を米軍の兵站基地とした米国の監督下での軍需産業のための政府施策住宅政策であった。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

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