HICPMメールマガジン第741号(22019.07.31)

みなさんこんにちは、
メールマガジン第834号から第740号まで7回の連載で、以下の用紙の「私の小さなグランドツアー」を連載しました。
「私の小さなグランドツアー」要旨:
1996年、NPO法人住宅生産性研究会創設以来、輸入住宅の取り組みをする中で、建築デザインの重要性を理解し、欧米の建築学教育と、わが国の欧米建築の矛盾を検討してきました。その中で、ジョン・ミルン・ベーカー著『アメリカンハウススタイル』(井上書院刊)こそ、わが国の建築教育にかけている本であると思い出版してきました。建築物が、その思想を社会に伝えるためにはアーキテクチュラル・ヴォキャブラリーを知り、それを建築設計で建築作品を通して伝えない限り、伝えられないことを教えられました。

アンドレア・パラディオは、欧米ではルネッサンス運動を通して、過去に最も大きな建築作品を残すとともに、ヴィチェンツァでは古代ローマの建築による都市をつくり、西欧社会に大きな建築様式に影響を与えた建築家である。パラディアン様式ほど近代以降の欧米の建築設計に大きな影響を与えたものはない。フランスのエコール・デ・ボザールの建築教育を通して、西欧世界にルネサンス建築をつくる上で大きな役割を果たすとともに、とれちあーのの指導を受けたヴィチェンツァの都市計画としてルネサンス建築を通して古代ローマへの回帰を実現したとも言われている。

わが国の建築教育と欧米の建築教育の違いを、私の半世紀に渉る建築士及び建築行政と建築設計の調査研究を振り返って、昨年、『欧米の建築家。日本の建築士』(井上書院刊)を刊行した。昨年、その原点になるアンドレア・パラディオの建築を見なければと考え、10日間でヴィチェンツァ、パドバ、ヴェネチアの駆け足旅行をした。その後、旅行では分らぬことを現地での収集資料と帰国後の日本で文献を買い漁り、図書館から借り漁り、研究しました。

英国や米国にはパラディアン様式の設計者や信奉者が多数いて、英国や米国では多くの優れたパラディアン様式の建築を多数見学して回り、「アンドレア・パラディオ」を知っていたつもりでいましたが、パラディオ自身が設計・監理した建築物を見ていませんでした。パラディオの西欧建築界で果たした大きな業績を理解するため、昨年、パラディオが直接設計・工事監理した建築物が多数残っているヴィチェンツア、パドバ、ヴェネチアを訪問し、その作品を実際に見学しました。しかし、短期間で見学した建築物が多すぎて不消化状態でいます。

その中にはゲーテの『イタリア紀行』やその紀行記を参考にした建築歴史家の紀行書籍もあり、パラディオの偉大さを改めて感じさせられました。私の見学の基本的スタンスは、「西欧におけるルネサンス運動との関係で西欧建築が建築作品を通して社会に伝えようとした建建築家たち」の「建築物を見た人たちを動かそうとした建築思想」を理解することにありました。そのためには建築ヴォキャブラリーが伝えようとしている建築思想を理解しなければ、その目的は図像学と同様に建築様式が担っている建築様式の歴史文化を建築物から解読しない乖離、その建築思想の理解は叶いません。
私のアーキテクチュラル・ヴォキャブラリーは貧しいため、建築デザインを図案として美しさを鑑賞する「上っ面を見ただけの見学旅行」でしかなかったかもしれません。しかし、これまでの建築設計と建築用語の学習により、片言交じりかもしれないが、欧米の建築思想と建築デザインの基本に触れることができたような気がしています。そこで今回はルネサンス思想が古代ローマに回帰するというヨーロッパを席巻した「ルネサンス運動」がどのような文化運動であったのかに立ち返って、古代ローマ、ルネサンスのローマを見学することにしました。

英米の住宅がルネサンス運動の成果として、歴史文化を担い伝承した建築文化に満ちた住宅を購入することで、様式を伝承した住宅購入者の資産形成になっています。それに対し、欧米に倣ってジョサイア・コンドルを招聘して東京大学が中心になって様式建築教育が、関東大震災までの東京大学を中心にわが国の様西洋様式築教育が行われてきました。しかし、建築意匠教育は国民の生命財産を守ることはできないと、東京大学佐野利器教授が批判した結果、わが国の建築教育から様式建築教育は消滅しました。それだけではなく、戦後の建築教育には現代の欧米建築デザインを模倣することが建築教育として行われてきました。建築学を「物づくり」の工学教育として教育している国は日本だけです。

わが国の国民は東京大学の指導したわが国の建築教育を受け、その結果、住宅を取得した人たちは、例外なくその資産を失ってきました。英国人建築家コンドルが伝えたルネサンス教育は、人文科学教育として行なおうとしたが、日本政府に拒否され、工学部の建築意匠教育、すなわち「図案」教育としてのルネサンス建築図案の模写教育が行われた。それは欧米がルネサンス運動の中で学んで古代ローマのヘレニズム思想を伝えるルネサンス建築ではなかった。

私が英国や米国の建築様式を手掛かりにして独学し始めた英米の建築学は、明治維新以降東京大学中心の意匠教育という西欧建築様式の模写ではなく、英米がイスラム教国に対抗し、西欧先進国の中で最も進んで国家建設をするための文化運動として、古代ローマの栄光に迫る運動としてルネサンスが取り組まれた社会運動としてヘレニズム文化への回帰のための建築運動が取り組まれた。

「グランドツアー」とルネッサンス運動
ヘンリー8世(ヘンリーチューダー)が国教会を創設しローマ教皇を介在させなくて「王権神授説」による王権を手にできることを始めた結果、「英国はヨーロッパ下広く行われることになったグランドツアーに乗り遅れた」英国は国を挙げてルネサンスにとき組んだ。当時の西欧を概観すると、まず、エンリケ国王時代のポルトガルは、大航海時代を開き、アフリカや東南アジアに世界に先行していたが、スペインに敗北し、そのスペインは英国に敗北し、英国はオランドを海戦により打ち破り、最終的には英国が世界中の制海権を奪い、植民地をつくり、7つの海の支配者になろうとしていた。英国は、貿易や海賊・略奪で蓄積した巨大の富を背景に、大金富の蓄積を背景に、ヘンリー8世没後のエリザベス時代には、英国の指導者とその子弟たちはグランドツアーに参加した。

石ノ森章太郎著「グランドツアー」に競って参加した英国の富裕階層の狂乱ぶりを面白おかしく描いた漫画である。わが国の明治時代の国家を私物化した高級官僚や政治家や業界の指導者が、円の価値がドルの価値の2倍に膨張しバブル経済時代の欧米に出かけた「成金」金持ちと同じ指導者階級の国費外遊の情景でした。

私のグランドツアーの理解は、英国がエリザベス時代に入って、英国人が大陸にグランドツアーに参加できるようになったとき、その遅れを取り戻そうとして、国を挙げてグランドツアーに参加した。その後、英国発ルネサンス様式建築が米国のフィラデルフィアにルネサンス建築を持ち込み、米国の建築家たちが新国家のデザインとしてルネサンス建築を学ぶためにフランスのエコール・デ・ボザールに留学した。エコール・デ・ボザールに学んだ米国の建築家たちは、それを独立国米国の民主国家のデザインとして「アメリカン・ボザール」や「アメリカン・ルネサンス」としてアメリカ初のデザインを世界に発信した。

わが国から多数の建築家が、当時実際のルネッサンス建築様式の建築物が最もたくさん建築されている国として、実施設計と建築施工技術を学ぶため、米国に留学した。赤坂離宮の設計者、片山東熊は米国にルネサンス建築を学びに来た建築家であった。ゲーテの「イタリア紀行」はグランドツアーでイタリアに来たゲーテの紀行記で、この本を読んで触発されたわが国のイタリア留学の建築研究者の書籍は、ルネサンス建築の地に足を置いた建築研究者の紀行文であり、ゲーテのイタリヤ機構と違って見応えのある本である。

英国のグランドツアーとルネサンス建築
ルネサンスの取り組みに遅れていた英国が一挙にルネサンス建築の国のようになった英国の事情を追いかけて分かったことは、英国を代表する建築家、イニゴー・ジョーンズ、サー・クリストファー・レン、スコットランドのアダム兄弟等、新しい国家を建設しようとする建築設計分野で指導者を志した人たちは、グランドツアーに参加した。北イタリアには、トリシーノとパラディオの復興しようとした古代ローマの建築と都市ヴィチェンツアを見学するため、イニゴー・ジョーンズはパラディオの建築を見にヴィチェンツァを訪問し、その建築設計図を買い集め、英国にルネサンス建築を伝えようとした。英国のセントポール寺院はグランドツアーに参加したイニゴージョーンズ、サー・クリストハー・レンにより復興された。

ルネサンス建築に惹かれた英国の建築家たちは、英国の国威発揚のためにルネサンス建築を国家のデザインの建築としてつくることが英国をヨーロッパの先進国家とするために必要であると考えてパラディオに学び、ロンドン大火復興事業をレンガ建築によるルネサンス様式を使った標準設計の住宅復興として行なった。

米国の新首都フィラデルフィアの建設は、英国のローマ大火後の火災復興経験をレンガによるルネサンス建築様式による標準設計を使って行われた。そのため、その建築様式を英国だは、レネサンス様式(レンのルネサンス様式)と呼んでいる。また、フィラデルフィアは英国王室の債務の肩代わりにこの州を手に入れたウイリアム・ペンが首都建設のために、英国からロンドン大火の復興後縮小した建築工事職人を米国首都の建設に招聘し、「建築家なしで建設された町」を建設したとも言われる。フィラデルフィアの植民地時代最後の国会を開催した建築物は「カーペンターホール」と言われる。このような大きなホールを大工組合が所有できたのかという事実ほど、如何に当時大工は大きな社会的地位を築いていたかを説明する証拠と言われる。

古代ローマに学びそれを英国内で広げようとした。英国はロンドン大火後、ロンドンで万国博覧会を開催し、その博覧会総裁であったアルバート公は博欄会で得た巨大な利益で、ハイドパーク博覧会場となったロンドンのハイドパークの前面にある土地を買い占め、そこでアルバートホール、アルバートミュージアム、自然博物館、音楽大学などヴィクトリアン時代を代表する豪華な建築物を建築し、英国はルネサンス建築様式の国と世界に宣伝し、グランドツアーへの取り組みの遅れを一挙に解消した。明治大わが国はルネサンス建築教育をするためにジョサイア・コンドルを英国から招聘した理由は、英国が建築教育として世界の最先端にあると信じたからであった。

人工が100万人を超えた古代ローマが崩壊し、生活のできない廃棄物の山になり、塵(ゴミ)漁りをする2万人以下の人口になった都市から、古代ローマの栄光の文化遺産を発掘するに当たり、その価値を評価するためには考古学的な調査が文化遺産の調査と並行して行われることになった。古代ローマに回帰するルネサンスと呼ばれる文芸復興業は、ブラマンテ、ラファエル、ミケランジョロに依るルネッサンス文芸事業として、古代ローマの都市遺跡の上に古代ローマの復興とシテのルネッサンス事業が一体になって進められた。

グランドツアーによる文化人たちの交流により、グランドツアーを豊かするとともにルネッサンスの都市、文化の復興事業として新しいローマが建設されて行った。現代のローマについて、多くの人々は古代ローマの上にルネサンスのローマをつくり未来に向けての人類文化を伝える「永遠の都市」と呼んでいる。それは古代ローマからの歴史文化が息づいているためで、現代から未来を考えるために常に人類に参考にすべき歴史文化の教訓を伝えているためである。

『永遠の都ローマ』という書籍を読んで「私のグランドツアー」で見なかったローマを追っかけているが、古代ローマを学ぶ努力は人類の歴史文化を顧みることだと思っている。その努力をした結果、さらにローマの理解は遠のいて行く様にさえ思われる。

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