HICPMメールマガジン第855号(2019.11.11)

みなさんこんにちは

 

第13回 欧米の住宅政策から取り残された日本の「住宅を購入して貧困化する仕組み」

わが国の住宅政策は戦後のわが国経済成長と足並みを揃えて成長した都国民を欺罔した政府の説明がされてきたが、わが国は欧米とは比較にならないほど取り残されてしまっている。そのような間違いは国民の誤解ではなく、政府が憲法違反の政治を適法な政治と国民を騙し続けた結果である。政府は間違った政策を是正せず、住宅産業も学識経験者も政府の意向を忖度し、政府の住宅・都市政策を礼賛してきた。戦後、国を挙げてGDP中心の政策で、国民を騙す政策と教育を行なってきた。GDP礼賛の教育で利益を残してきた世代が、それを正当化する誤りを繰り返している。わが国は現在の中国同様、経済的に豊かになったが、それはGDP最大化の経済政策と経済統計の結果で国民の純資産を高めてはいない。今回は米国で取り組まれているTNDにより米国人は住宅による資産形成が実現されているのに対し、わが国では住宅を購入して国民が資産を失わされている。そのメカニズムは、戦後の米国による占領政策とそれを継承する日米安全保障条約に根拠を置くものであることを説明する。

 

戦災復興ではなく軍事産業復興による経済復興

近年わが国は国民が怠慢になったわけではないが、GDP、国民一人当たり所得、最低賃金水準、経済生産性等の経済指標で、先進国にも入れられない状況に低落してきた。わが国では貧富の格差が拡大し、新築住宅価格は高値硬直化した一方、既存住宅価格は激しく下落し、国民の住宅の純資産価値は急落し続けている。空き家が急増し住宅を保有する国民は個人資産を失って行く。集中豪雨、台風、地震等の大規模自然災害では、建て替えする以外に方法がない大きな被害を被った。その理由は災害規模の大きさの変化もあるが、戦後の住宅は使い捨て資産として造られ、高額販売を目的に作られてきた。計画修繕や善良管理義務が果たせなく住宅のためである。欧米では住宅の資産価値が物価上昇以上に上昇し続けている理由は、住宅が恒久的資産として造られ修繕・維持管理され、既存住宅は推定再建設費で評価され物価上昇率以上に価値が上昇している。米国のTNDは住宅購入者の資産形成が目的である。

一方、高度経済成長時代に黒川紀章が「ホモモーベンス」と言う言葉で、自らの設計した粗悪な建築を取り壊す「スクラップ・アンド・ビルド」により無責任建築を使い捨てることを正当化し、GDP最大化の思想に利用した。それは政府の所得倍増政策と軌を一にしたもので、わが国の住宅都市政策の基本として進められてきた。「住宅は償却資産であるから、価値は減価して当然」と政府は言い切る政策に対し、世界では恒久的資産と教える住宅・都市教育を、わが国では償却資産と教える誤りに始まり、住宅都市は恒久的な国民の資産を居住者が建設・維持管理する考え方をわが国は受け容れていない。

GDP最大化の政策に流れて行った理由は、戦後の日本が連合軍の占領支配下で朝鮮戦争に巻き込まれ、わが国が米軍の兵站基地機能を担わされたことに始まる。戦後の経済復興は国家としての産業も財源もなく、国家は経済破綻寸前の状態に置かれていた。それを結果的に救済したものは、朝鮮戦争を進めるために、わが国が米軍兵站基地とさせられ、戦前の軍需産業が炭鉱も含め全面的に復興された結果で、わが国の住宅政策は米軍が必要とする軍需産業労働者向けの住宅供給政策として始まった。

1946年11月に制定された日本国憲法には「戦争の放棄」が明記され「旧軍事産業資本(財閥)の解体」が決定された。しかし、朝鮮戦争の勃発により、政府は朝鮮戦争で米軍に軍需物資を生産供給するため、旧軍需産業資本(財閥)解体政策を放棄し、逆に旧財閥を復活させ軍需産業を復興させ、現在の経済大国に成長させた。この憲法に違反しても軍需産業を育成する政策で成長したものは、朝鮮戦争により、わが国の軍需産業だけではなく政治、行政、経済、産業の全てが経済的利益を中心に善悪を判断する国家を造り、その後GDP第一主義と言われた通り、手段を択ばず、富を拡大する価値判断を行動の中心に据える国にしてしまった。その結果、わが国の住宅や都市教育は、「差別化」により産業界が消費者を差差別し、不正利益を収奪する憲法14条の禁止規定の違反を正当化してしまった。

 

国民大衆は住宅購入で資産を失い、住宅産業は住宅取引で巨額な利益をあげる

そこでは、価値が低い住宅・都市施設を高額で建設し国民に負担させ、住宅供給業者が利益を挙げた。国民が住宅を手放さざるをえなくなったときは、購入時価格の半額以下でしか販売できない。当初の販売価格が不当に高額で、住宅産業が高額販売であった疑惑が露見することを恐れ、それを欺罔する「住宅産業」を擁護する理屈が、住宅を「減価償却資産」と見なす工学教育である。その一方で、わが国の鉄筋コンクリート構造は、耐火・耐震建築の性能理論とは別に、「差別化」により建設促進する政策として助成されてきた。政府は産業行政上の支援策と学校教育上特別研究支援を提供して巨額な国家予算が計上し、産業利権の政治、行政、産業、学会の複合体(護送船団)が形成された。

差別的な法的保護を受けてきた鉄筋コンクリート構造生産に関係する住宅・建設・都市産業全体に、不正な利益を分配する構造が護送船団と呼ばれる構造である。護送船団産業は巨額な利益を挙げる一方、国民が護送船団で構成されている産業から住宅を購入したら、住宅購入者は確実に資産を失う。護送船団が供給する住宅・都市の寿命は短く、災害に弱い都市施設や公共施設を建設し、国民は大きな損失を被ってきた。鉄筋コンクリートと批判された建設行政は、不正が発覚する前にスクラップ・アンド・ビルトを繰り返し、建設産業とそれに関係する政治家に大きな利益を提供してきた。国民の大多数はそれらの建設に要する財政(税)負担をさせられただけで、投下した費用に相当する利益を得ていない。わが国の住宅ではハウスメーカーに代表される住宅産業は巨額な利益を挙げてきたが、住宅を購入した国民大衆は、政府の説明する住宅の減価償却理論以上に住宅購入でその資産を失ってきた。

 

米軍による日本の兵站基地支配の根拠となる日米安全保障条約と治安対策

わが国が戦後連合軍の占領政策の下で、米国の朝鮮戦争のため戦前の軍需産業資本(財閥)を、憲法違反の政府金融支援の下に、朝鮮戦争遂行のため復興させられた。戦災復興が声高に叫ばれたが、それを推進する財政が逼迫し産業政策も展開できなかった。しかし、1950年朝鮮戦争が勃発し、わが国が米軍の兵站基地とされたことで、米軍は朝鮮戦争遂行のために日本国憲法に違反し、米軍の軍需物資調達特需に応えるため財閥解体政策は放棄され、財閥は米軍の軍需物資の供給主体として戦争をになって行った。軍需産業労働者住宅を供給するため住宅金融公庫の創設と、公営住宅制度が創設された。

米国はわが国を国際社会に復帰させるため、わが国の戦争責任を裁く「東京裁判」が実施された。「東京裁判」の結果、太平洋戦争の戦争責任が明確にされ、「サンフランシスコ平和条約」が締結された。その結果、米軍は独立国の軍事占領を継続することはできず、そうなれば、米国は朝鮮戦争を維持できなくなる。そこで米国が朝鮮戦争を継続し、わが国を米軍の兵站基地とするため、米国はサンフランシスコ平和条約の締結日に「日米安全保障条約」を日本に締結させた。この条約により、米軍による占領政策が継続させられた。わが国は憲法違反を犯し米軍の兵站基地となり、軍需産業は急拡大した。重化学産業コンビナート開発が新産業都市と工業整備特別地区の開発に象徴される軍需産業復興を広域行政として進め、全国総合開発政策の時代に入った。日米安全保障条約の改正は、米国の極東軍事戦略に併せ、わが国の産業構造の改変が取り組まれた。日本が米軍の兵站基地となり戦争を支援したことは憲法違反である。米軍の兵站基地のエネルギー政策としての米国の石油産業の要求(炭鉱の閉山)と大農業国米国農業の要求(農業構造改革)であった。この2大産業の構造改革は米軍の兵站基地の労働力政策として、低賃金労働者を長期的に安定供給のための失業者創出政策であった。低賃金労働者の供給により、経済成長が図られたが、巨大な失業者が都市スラムを膨張させ暴動が社会不安が拡大した。

 

1960年日米安全保障条約改正

日本は石油エネルギー政策(ガソリン税を含む)と農業政策によって米国の経営管理下に縛り付けられ、わが国の全国総合開発及び新全国総合開発は日本国憲法に定めた都道府県を単位とする「地方自治」を否定し、都道府県行政領域を超えた米国の軍事活動に対応する広域行政(新産業都市、工業特別開発地域)を目指し、全国総合開発(全総)、新全総、3全総に国家の体制に組み替えた。特に炭鉱の閉山と農業の自由化政策によって、国民の政治不信は拡大し、治安対策の強化が国家政策として取り組まれた。政府は安保騒動が都市暴動の原因と位置づけ、治安対策として米国の市街地の治安・暴動対策法であったスラムクリアランス法に倣って住宅地区改良法を住宅局内部の検討で立法した。

1967年、橋本富三郎建設大臣の時代には、わが国の代表的なスラム(山谷・釜ヶ崎)で日雇い労働者の交番襲撃事件(暴動)が頻発した。この暴動を機に山谷と釜ヶ崎を制圧する治安対策を福祉対策と環境・住宅対策と併せて実施した。山谷・釜ヶ崎では、歴史的には未開放部落の地区で、地区からの出身者が、炭鉱の閉山と農業の構造改善で多数の失業者となり、日雇い労働者として帰り、ドヤ街に日雇い労働者市場が形成された。「土方殺すに刃物入らぬ、雨の3日も降ればよい」と謳われたように、ドヤ街では失業者が中心になって警察署交番襲撃暴動が頻発した。失業者の発生は対米従属政治の責任である。政府は暴動の背後には反政府社会主義者の煽動と見なし、政治的弾圧を開始した。

環境改善事業は治安対策の一部とされ、政府は60年日米安全保障条約の改正に合わせ住宅地区改良法を制定した。1960年に炭鉱閉山に伴う北九州の未開放部落(同和地区)住民と北海道の炭鉱労働者(在日朝鮮人)問題と、農業構造改善に伴う農業労働者の都市スラム居住者の環境対策として、治安対策として米国のスラムクリアランス法に倣って立法された。炭鉱の閉山による在日朝鮮人問題は、南北朝鮮の日本との政治問題として衛生環境だけではなく社会環境が悪化していた。住宅地区改良法はその環境改善を目的にしたが、社会不安が反政府暴動になる治安の乱れを政府が恐れた。

山谷、釜ヶ崎、高橋、桜本、尼崎、新生田川等の多くの都市の不良住宅地区には、木開放部落住民や朝鮮人たちが集住した。炭鉱閉山と農業構造改善政策での失業者が不良住宅地区の不安を増大していた。政府は歴史的に踏襲してきた住民の分裂支配を行なうため、未開放部落に全日本同和会を政府の肝入りで組織し、部落解放同盟に対立させた。その後、部落解放同盟を分裂させるために、社会党と共産党の対立を引き起こす「日本の声」を政府は支援し、部落解放同盟を事実上分裂させた。一方、在日朝鮮人問題は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国を国籍問題で差別し対立させ、わが国と国交のない朝鮮民主主義人民共和国民はわが国にとって危険な人民と見なし、国外追放を行なった。それは「朝鮮人帰還問題」と説明されているが、その本質は北朝鮮人を邪魔者とみなし、「朝鮮はこの世の理想郷」と朝鮮人妻帯者を欺罔・宣伝により国外追放し、政府は黒子に徹し、日本赤十字ベースで帰還させた。

 

わが国のスラムクリアランス法の本質

わが国が導入した米国におけるスラムクリアランス法は、犯罪、貧困、疾病を隔離矯正し、スラムが拡大しないようにする差別思想に立つもので、現代社会では受け入れられなくなってきた。わが国がモデルにした米国のスラムクリアランス法は、日米安全保障条約の改正とそれに伴う社会不安が暴動化したときの対策として1960年に制定された。米国での治安対策の経験を踏まえ、社会問題が勃発する前の対策(同和対策と在日朝鮮人対策)が政府を挙げて取り組まれた。住宅地区改良法は不良住宅地区を、強制権を行使して取り壊し、新しい環境の住宅地を公共事業で造る事業である。

住宅地区改良法のモデルとなった米国のスラムクリアランス法は、米国の経験(ミズリー州セントルイスのプルーイット・アイゴー団地)では、国家が強制権を行使してスラムを取り壊すことで治安問題の解消に使われていた。わが国の「物づくり」に偏った地区改良事業は、スラムを物理的に破壊して、全く過去と切り離した住宅地を建設するものであった。このような事業をしても社会的な病理の治癒にはならない。住宅地区改良法は東京大学建築学科高山英華教授の指導で、北畠輝躬専門官が米国のスラムクリアランス法を基にまとめた法律であった。立法当時のスラムクリアランス事業は、その後住宅局長経験者(片山、立石)が担当し、強制除却事業として実施したが、事業は頓挫してしまった。居住者の多様なニーズに応える事業として実施しない限り、事業は居住者のものにはならない。

米国のスラムクリアランス事業は基本的に失敗したが、現在はその反省の上に、居住者の生活を中心にしたニューアーバニズムによる住環境改善事業が取り組まれている。多数の事業の中でも、「ハイポイント」(ワシントン州ウエスト・シアトル)地区の環境完全事業は、子供や高齢者を大切にし、主体性を持って生活改善が取り組まれ、地区を流れる河川の浄化事業を環境改善事業に取り込んだ。

 

ハワードのガーデンシティ、英国労働党のニュータウン、わが国の住宅地開発

1981年に行政改革の一環として住宅都市整備公団が創設されたとき、公団の志村清一総裁及び小林忠副総裁が、新設された都市開発事業部に対し、「わが国が近代国家になってから開発した田園調布や麓々莊を目標にすべき住宅地開発」と言った。そこで、戦前に開発され東京圏と関西圏で高い評価を受けていた田園都市開発事例として、関東の平坦地と関西の丘陵地の都市開発の参考にしたが、わが国には物づくり(工学)としてしか都市開発を考えられないでいた。志村総裁は、わが国の都市開発の歴史を調査し、その経験を新しい事業に取り入れよう住都公団に指示し、大正時代に小林一三がハワードのガーデンシティに倣って開発した阪急宝塚「田園都市開発」や小林一三が指導した東急田園調布、小田急成城学園、玉川学園や旧内務省が米国に倣った都市開発として内務省技官小宮賢一が計画した東武ときわ台は、高い評価のされた住宅地で、現在も高級住宅地としての評価を受けている。

国内外の文献や実際の住宅・建築・都市を調査し、多くの事例を調べ、その中で、わが国の政府や学識経験者の考え方が都市施設の豪華さに置かれているのに対し、欧米の住宅地が居住者にとって住みやすさに圧倒的に重視されている欧米の社会常識とのずれていることに気付かされた。日本住宅公団で高蔵寺ニュータウンを設計し、ドイツのクラインガルテンをわが国に紹介し、自らの生活で実践した津端修一は大学教授になっていたが、フランスの「自由時間都市・ラング・ドック・ルシオン」に出掛け、それを推進したフランスの事業関係者から見聞した情報に志村総裁はよく耳を傾け、都市住宅調査課長であった私に「自由時間都市」の調査を継続するよう指示したが、事業にまで発展できなかった。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世) 

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