HICPMメールマガジン第861号(2020.01.06)

 

令和2年、あけましておめでとうございます。今年はオリンピックイヤーで全国が盛り上がっています。

日本の憲法に優先するものと安倍晋三総理大臣が考えているものを信念に当たってもう一度考えてみました。

 第20回 サンフンラシスコ平和条約と日米安全保障条約

わが国の戦災復興の混乱期には、戦災応急バラックや列車やバスや兵舎の転用した仮設住宅や、闇市場で生活する人たちの不良住宅地の発生の後を追って、朝鮮戦争が始まり、軍需産業の復興に合わせて軍需産業での雇用を求めて集中した労働者向け粗悪住宅が供給された。1950年に朝鮮人民民主主義共和国がソ連の支援を得て南下侵略した。米軍は対抗し戦争に応じた。連合軍の占領下のわが国は、国土全体を米軍の兵站基地にさせられ、朝鮮戦争に巻きもまれた。わが国は1947年に日本国憲法を制定し、「戦争放棄」を明確にしたため、米国は朝鮮戦争を戦うため、日本を米軍の兵站基地とし米軍向け軍需産業の復興を行なわせ、旧軍需産業資本(財閥)解体政策を反故にした。わが国の軍需産業を復興することで米軍の兵站基地の役割を果たさせる政策転換した。米軍の占領政策の下で始まった兵站基地としての日本の役割は東西熱戦が東南アジアに拡大するに対応して拡大し、戦争の高度化に合わせ、石油を中心にした重化学工業の発展が不可欠な産業政策として展開された。

朝鮮戦争に始まるわが国の軍需産業の発展は、わが国の戦後経済復興の柱となり、日本国憲法によって、日本人が直接戦地に派遣されることはできないとされた。米軍は朝鮮事情に詳しい100人以上の日本人を朝鮮戦争に従軍させた。そして、戦後のわが国の経済復興は旧軍需産業の復興を中心に拡大した。1960年の日米安全保障条約改正時点では、日本経済の基本は軍需産業を中心に育てられ、軍需用の兵隊や物資を輸送する自動車、船舶を始め重化学戦闘兵器の製造をする重厚長大型の軍需基幹産業であった。経済的利益追求の前に、「戦争放棄」を定めた日本国憲法に違反する議論は生まれなかった。逆に、東南アジアで戦闘を続けている米国からは、サンフランシスコ平和条約で日本政府は東京裁判により第2次世界大戦での戦争責任を認め、国連における自由主義陣営の票保増やすことで支持を得て、サンフランシスコ平和条約が締結された。

その結果、わが国は国際的に独立国と認められた。一方、連合軍を構成していた在日占領軍はそれぞれの本国に帰還した。中国とソ連(現在のロシア)は、サンフランシスコ平和条約に調印をせず、その結果、日本との関係は戦闘状態が継続していることになる。一方、米国は、日本を兵站基地として東西熱戦を東南アジアで継続し、日本を米軍の兵站基地として継続的に利用するために、1952年サンフランシスコ平和条約締結日に日米安全保障条約の締結を日本国に強要し、米軍の占領政策を日本政府も継続することを要求していることにして、日米は対等の関係を持った軍事同盟を締結し、占領政策を継続した。日米安全保障条約はそれに基づく日米地位協定に見られるとおり、日本の主権を著しく侵害し、日本人の人権を蹂躙するものであった。日本は米軍の兵站基地として機能させられ、政府は米国の要求通り、軍需産業労働者向け住宅の供給とその何倍もの下請け労働者向けの公営住宅の供給を政府施策住宅で実施させられた。全ての住宅供給が政府施策住宅政策の中で実施された。そのため日米安全保障条約は、政治的、行政的に米国の軍事政策に従属する政策であるとほとんどの国民は考えることはなくなってきた。その結果、日米安全保障条約をわが国も米国と同じ経済的視点で分析し、日本の戦後の経済復興をもたらす政策であると確信するようになっていた。

日米安全保障条約の下で日米財政収支は、日本が米軍に軍需物資を売却することで、多くの利益を得るものになっていた。その関係を貿易、為替、関税という視点から見ると日本が圧倒的に利益を上げ、米国は経済的に損失を被っている不均衡取引になっていた。そのため、日米間での不平等な関係の認識が表面化し、それを改善する取り組みが1960年日米安全保障条約の改正の主要問題とされた。わが国の国民は米軍基地のある地域での犯罪と犯罪処理の方法が、従属的で不平等であることが問題にされたが、その議論の基本は米軍の軍需費用に対し日本は経済的利益を上げている事実に着目して、応分の負担をせよと言う米国の要求として提起され、対米従属問題は軽視されてきた。

 

1960年日米安全保障条約改正

米国の認識は、日米は軍事同盟を締結し、利益を挙げている国家であるから、日本は「応分の負担を負うのが当然」と言う原則を掲げ、「米軍の兵站基地として始まった占領支配の経緯」を忘れ、それを日米双方は対等の同盟国であるから、その間では保護主義を排除し、自由化を推進することが提起された。その中で米国社会の2つの利権集団(石油資本と農業資本)からの要求は、日本政府の手厚い保護政策の廃止を迫るものであった。米国の石油産業と農業は、自由化されれば米国が手に入れられる利益を目前に置かれながら、日本の保護主義の貿易、為替、関税政策により手に入れられないでいた。米国国内では自由化が実施されれば得られる利益をお預け状態にされていることに政治的批判が集中した。それが60年日米安全保障条約の米国にとっての最大の課題であった。

政府は日本憲法の規定で、国民は戦地に派兵されなかった理由で「戦争放棄」の規定を遵守したと詭弁を弄した。戦前までのわが国の産業と言えば軍需産業だけで、それが壊滅させられていたから、わが国の産業は壊滅状態にあった。わが国経済は米軍の兵站基地とされ米軍の朝鮮戦争のため、旧財閥が救済され、戦前の軍需産業が蘇生された。軍需物資や軍需活動により軍需産業は巨額な利益を手にし、国家経済が成長してきた。そこで1960年日米安全保障条約の改正は、貿易、為替、関税の自由化を軸に進められた。1960年代日米安全保障条約改定後の自由化政策の中心となって、象徴的に取り上げられた問題は、わが国の石炭産業と農業という国内自給をしてきた食糧と燃料の2大基幹産業の保護政策を放棄し、米国の石油産業と農業産業の要求を受け入れた。その結果、農業と炭鉱業は解体され、大量の出業者を10年以上の期間にわたり社会に放出され続けた。それは米国政府にとって増大し続ける米国の軍需物資の買い付け価格を安値安定供給させるために不可欠な労働政策であった。

1960年池田内閣の下で自由化政策の成果は「所得倍増計画」とされ、1962年の経済白書に「もはや戦後ではない」の言葉が登場したとおり、日本政府の共通認識は1961(昭和36)年代に入って、戦災復興時代から日米安全保障条約を基本にする新産業都市と工業整備特別区域を基本にした軍需産業政策による経済成長の時代になった。「もはや戦後ではない」という言葉は、この年から日米安保条約という軍事同盟を基軸とする国家経済が始まった時代であった。日米安全保障条約が対米従属の片務的な条約から日米対等の軍事費の経済負担を目指した軍事同盟を目指した関係になった。

わが国全体が米軍の兵站基地である結果、その犠牲に見合う以上の経済的利益を得ていることも事実である。その選択は国民の政治的な選択によるもので、その解決は国民の政治的意識による以外に対応できない。新産業都市と工業整備特別地区で取り組まれた産業基地は、米国の新しい戦闘戦略と戦術に不可欠なもので、いずれもその後の平和産業の基盤を構成する石油化学産業であったが、米軍の軍需に応える産業である事実は否定できない。しかし、米軍による産業需要がわが国を経済的に豊かにし、国民は戦地にも行かない「死の商人」として、戦場で激しい戦闘で巨額の軍需産業利益を独り占めしていた。国内にはベトナム戦争の情報を他人事のように傍観し、軍需産業を先頭にした経済成長を謳歌してきた。

 

社会科学と人文科学に根を張れないわが国の住宅都市政策

私は学生運動で「日米安全保障条約反対」運動に参加する中で、日米安全保障条約の本質と日米同盟の政治経済政策を学んだ。しかし、わが国の経済成長が米軍の東南アジア戦略の結果もたらされた理解は観念論的理解に留まり、ベトナム戦争反対を観念論的に口にしても、体を張って米軍の兵站基地を廃棄する運動に発展することはなかった。そして私自身、大学卒業後、官僚生活に入って、わが国が米軍の兵站基地であることを全く失念してしまい、戦争のない社会でより良い国民の住宅政策を実現すべく、建設省の住宅官僚となった。住宅官僚になった当時は、学生時代に学んだマルクス著『資本論』やエンゲルス著『住宅問題』の古典を、建設省がモデルにした公営住宅政策の社会的背景理解のための基本テキストとされてれた。当時の政府が英国をモデルにしていたわが国の住宅政策、都市計画は、英国と同じ社会の構造と政策による理解の下に取り組める問題と考えさせられていた。

わが国の公営住宅制度、ニュータウン開発、都市計画法制度の全てが、戦後内務省が解体される以前から内務省の中で秘かに英国の住宅・都市計画をモデルに、戦後の日本の住宅・都市政策を取り組む検討が行われていた。私が住宅官僚になったとき、住宅行政の先輩たちが取り組んだとされる「英国に学んだ知識、技術、経験」は、纏まった行政資料としては存在せず、多くの官僚がその断片を知っている程度であった。しかも住宅局の先輩官僚たちは、マルクスの『資本論』やエンゲルスの『住宅問題』、ハワードの『ガーデンシテイ』を社会科学や人文科学として学ぶことはなかった。先輩官僚たちはこれらの「古典を読め」と言ったが、学習をしてはおらず、知識として理解されていなかった。私が利用できた資料は、英国政府発行・住宅局住宅建設課で翻訳・編集の厚さ10cmの『住宅要覧』だけであった。

 

わが国の軍需産業スラム問題の発生

1960年代に入ると、ドヤ街といわれる日雇い労働者「立ちん坊」を手配者が支配する労働市場が大都市に生まれ、やがて政府の労働政策にも組み込まれた。そこでは「奴隷市場」と揶揄されたように早朝から日雇い労働者の取引が行われた。炭鉱業と農業2大産業からの失業者はもとより、引揚者を含む大量の失業者は、その労働市場で職を得るため、農村からの出稼ぎ労働者や炭鉱からの失業者とが混然一体になって労働市場に集中し、多数の日雇い労働者は、ドヤ住まいに定住した。基本的に軍需産業の復興による新しい軍需産業向け労働者が集中した。炭鉱と農業の破壊で生まれた失業者と、低賃金労働者を求める旧軍需産業復興に対応した軍需産業雇用機会の拡大により労働市場は活性化した。

雇用関係も住宅需給バランスを欠いたので、雇用は住宅を取得できなかった人たちの社会問題は大きくしたが、雇用機会も住宅供給も軍需経済の成長とともに確実に成長して行った。それが米軍の求める軍需物資をわが国の市場から米軍に安定供給するための必要経済環境とされた。

高度成長期のわが国の産業や公共事業を求める安い労働力の供給源とするために、労働市場は不可欠になっていた。政府はこれらの失業者が都市に集積し、雇用機会が得られず、その不満を暴動という形で爆発することを恐れた。公安機関はスパイを住民の間に潜り込ませ、社会不安を煽る事態が起こらないよう警戒した。事実、山谷暴動や釜ヶ崎暴動は、景気が下降し職にあぶれる失業者が拡大すると、緊張感は増幅され、日雇い労働者は、警察署を襲撃し、暴動の扇動者がでっち上げられ検束された。

不安な生活と隣り合わせた不安定日雇い労働者は、暴動と隣り合わせの状態に置かれていた。1960年代半ば、橋本富三郎建設大臣の時代に山谷と釜ヶ崎の暴動を機会に、住環境改善事業を政府指導で進めることになった。私は住宅地区改良事業の担当官で、東京都と大阪府と協力し、玉姫(山谷)と飛田(釜ヶ崎)で、住宅地区改良事業に取り組んだ。「土方殺すに刃物は入らぬ、雨の3日も降ればよい」と江戸時代に読まれた川柳の世界が、戦後の山谷、釜ヶ崎に存在した。

住宅地の問題は、衣食住全体の問題であるが、政府は縦割り行政に分解し、住宅政策は専ら雨露を凌ぐ住宅問題から取り組むことになった。ドヤ街の家賃は、「日払い前納」であるので、職の得られない労働者はドヤを明け渡さなければならない。そのため、ドヤから寝具を窓から外に投げ出して逃げられることを防止するため、ドヤの経営者は窓に格子を付けた。そのため、宿泊者は火災時の避難はできないようになっていた。ドヤ街の家賃の毎日の支払いは少額に見えるが、月極め家賃に換算すると公共賃貸住宅の家賃より10倍以上に高く、ホテルの長期滞在宿泊費並みであった。ドヤ街は既に過密で土地取得は難しいので、私たちはドヤ街の地区外に土地を取得し改良住宅を供給した。しかし、最初喜んで入居した人たちの多くは、早朝から動き始める労働市場では早朝の高い賃金の雇用に有り付けないと言ってドヤ街に戻ってきた。改良住宅への入居時には、あれほど喜んでいた労働者が、ドヤに戻ってきたことを見て、「良い住宅や住宅地は労働条件に対応できる関係」にある必要が認められた。

 

住宅政策の基本となる住宅計画論としての「戸数主義」

政府の住宅建設計画法に基づいて供給された最低居住水準を充足した改良住宅を放棄してまで「ドヤ」に帰ってきたのである。ドヤに戻って来た労働者にとって改良住宅より良い住宅が、「ドヤ」であった。住宅の善し悪しは政府の政策で判断できず、住宅に入居する居住者(消費者)生活要求の視点で考えないといけない。わが国では政府が決めた「居住水準」を充足する住宅であれば住宅困窮者は満足すると考え、住宅需要者数を上回る居住水準を超える住宅を供給すれば、住宅不足は解消すると先験的に決めてかかっていた。それが戦後のわが国の「戸数主義」と呼ばれる住宅政策である。この政府が学識経験者の意見を聞いて決定した住宅計画の立案の方法は基本的に間違っていた。わが国の住宅政策の基本となっている住宅計画は、京都大学の西山夘三教授が中心になって当時の住宅局の住宅官僚と学識経験者が政府の住宅政策を決定するときの住宅計画理論であった。

西山夘三の住宅計画論を東京大学教授の本城和彦や鈴木成文が支持し、住宅対策審議会の審議を経、建設省住宅局が政府の住宅政策の基本に据えた住宅計画論であった。この住宅計画論は抽象的な住宅市場における需要と供給関係で計画されたが、現実の住宅市場で決定される実態とはかけ離れていた。建設省住宅局が、東京大学と京都大学の住宅研究の権威を使って決定した住宅計画論は、わが国の住宅市場の住宅計画論とされた。それは、住宅市場を「一つの均質な需要と供給で形成される市場」とする市場理論で、その「計画論を正しい市場論」と見なした住宅政策がゴリ押しされた。

住宅の需要市場は、突き詰めていけば、「世帯ごとの生活要求はすべて違っている」ため、住宅需要は、世帯数ほどの違いがある。世帯数ほど多数の数に分解される人びとの生活が複数の人々の合意を基に共通する生活要求ごとに違った住宅需要市場を形成する。その市場は固定的なものではなく、常に変化するものである。住環境は複数の世帯の合意により経営されるので、その住宅地における合意条件によって人々は集住する。集住の条件こそ、細分化される「サブマーケット」である。「サブマーケット」は共通条件が前提で、マーケットの規模を拡大する。各「サブマーケット」自体が人々の成長とともに変化する。住宅市場は居住者とともに変化し、その対応する住宅マーケットごとに管理が必要になる。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世)

 

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