HICPMメールマガジン第812号(2018.12.10)

みなさんこんにちは

 

戸数主義〈トータルマーケット論〉と需要対象ごとの住宅計画(サブマーケット論)

政府は軍需産業の重層下請け構造の下で働く労働者を対象に、「一般国民を対象とする住宅」と説明して、軍需産業の下請け労働者など低所得労働者を対象の公共住宅を供給する政策を始めた財政負担も日米安全保障条約の下で、日米協定で取り決められた政策であった。軍需産業で働く労働者への住宅供給は、基本的に日米安全保障条約に基づく日本政府の義務であった。そのための財政支出は軍需産業の軍需物資買取の見返りを得た日本側の財政負担とされた。わが国は軍需産業関連の経済開発で、所得税、法人税、固定資産税、取引税等の税収を高めることができた。住宅政策は日米安全保障条約を前提にした財政費用の分担を根拠とし、わが国は米軍に軍需物資を供給する軍需産業の労働者向け住宅を供給する財政および金融負担をする役割分担が決められていた。

 

わが国の負担に見合う収入は米軍による軍需物資の買い上げ経費や、わが国に米軍の支払う税収を含む軍需費負担でバランスがとられてきた。しかし、ベトナム戦争後、軍需物資の買取りがなくなった後は、国家の経済政策として、国家の財政支出は住宅産業政策で得られる経済活動の波及効果による経済成長に伴う税収拡大と、財政支出に見合う利益を生み出すとされた。わが国の住宅政策は、住宅を供給する政府の財政政策や金融政策が政策の内容を、住宅戸数と世帯数の差(住宅不足数)を充足する戸数主義の住宅政策であって、その本質は住宅産業の売り手市場を維持する産業政策であって、住宅を求めている消費者の要求内容は考慮されて来なかった。

 

住宅金融公庫の産業労働者向け住宅や日本住宅公団による特定分譲住宅は、軍需産業の復興を行なうため、その労働者に対する住宅建設費用は、日本政府が「産業向け」住宅建設資金融資に責任をもって行うことになった軍需産業支援策であった。政府の住宅政策は戸数主義(トータルマーケット論)で総世帯数と総戸数との関係だけを住宅需要と供給の関係と見て、住宅市場バランスが採れない状況にあったので、産業支援政策として企業向けの住宅金融政策が行なわれてきた。その点では住宅産業界や経済界に与える経済的影響を考えた住宅政策で、住宅需要者の住要求を対象にする住宅政策ではなかった。そのような住宅政策は消費者を相手にしていない産業政策であった。

 

1970年ごろ、労働省が行なった京浜工業地帯の産業労働者の労働条件を基に「就業地と常住地との関係の調査」が行われていた。そのデータ分析をした結果、全労働者の38%が労働条件の関係で、「常住地と就労地とが接近していないといけない」ことが解った。私がまとめたその分析結果は「アサヒジャーナル」誌に掲載され、田中角栄の「都市政策大綱」で「職住近接論」として取り上げられた。わが国では「トータルマーケット論」(戸数主義)しかない時代であった。既に、欧米では消費者の需要構造に合わせて住宅計画を行なう「サブマーケット論」が一般的になっていたことを後日知った。わが国にサブマーケット論が存在しなかった理由は、住宅政策の目的が、軍需産業労働者目家住宅というフローの住宅政策で、政府は消費者本位の住宅困窮内容を考慮した住宅政策を必要としていなかった。

 

憲法違反承知の上で始まった住宅政策

現在の状況では全く想像出来ないが、国民は朝鮮戦争の勃発で生まれた米軍の特需で活動を始めた軍需産業で働く機会に恵まれた。結果的に、世界大戦の敗戦で軍需産業が消滅し職を失った国民は、朝鮮戦争の勃発に伴う旧軍需産業の復興で、戦前の軍事産業で培った技能・技術を生かせることになった。その技能技術の高さが労賃に反映され、生活の展望が拓かれ将来に向けて大きな安堵感を持った。復興された工場が戦前の軍需産業で旧軍需産業地に偏り、企業も労働者に軍需産業であることを公表せず、労働者も対外的に軍需産業であることをを公表しなかった。

 

軍需産業に働く労働者は、「戦争の放棄」を規定した憲法に違反する産業に働く自覚があり、後ろめたい気持ちもあった。米軍からの軍需需要は継続・拡大し、それがわが国の戦後経済の屋台骨になっていった。製造した製品が軍需物資であっても自らは生産するだけで軍事に使うわけではなく、軍需物資の生産を憲法との関係では意識しなくなった。軍需産業がわが国の基幹産業に成長する過程で製品は米軍や政府が買い上げ、労働者が製品を軍事目的に使うことはなかった。軍需物資を日本人が直接戦争目的に使っていないから憲法上に問題はないとも説明された。労働者は職場が軍需産業であることも忘れ「糊口のためから高所得を得るために」積極的に生産に携わった。

 

ベトナム戦争における米軍の敗北で存続の正当理由を失った住宅政策

ベトナム戦争の雲行きが悪くなる以前から、企業は軍需産業技術を生かした平和産業部門に急速に拡大し、自動車や船舶を始め、多くの軍需物資生産はそれを上回る平和産業物資生産に転換していった。新産業都市や工業整備特別地区(これらを「新軍需産業都市や軍需工業整備特別地区」と政策目的に沿った都市や地区の呼び方をすれば、政策の本当の意味が理解し易くなる)の開発は、新しい石油産業による焼夷弾の原料となるナフサの生産や軍事用エネルギーやプラスティック等を軍需産業から石油化学工業(平和産業)に転換した。石油関係産業全体が軍需産業中心から国民の日用品雑貨と言った平和産業への転換することが、軍需産業から平和産業への「量から質へ」の産業構造の転換であった。

 

表向き軍需産業労働者向け住宅供給は一般の「産業労働者向け住宅」として供給された。結果的には、産業支援のために当初軍需産業向け住宅として始まった巨大な住宅建設は、政府の財政及び金融支援を得て政府施策住宅として平和産業に働く労働者のために建設された。しかし、米軍のベトナム戦争の敗北は、軍需産業自体が消滅し入居させるべき軍需産業向け労働者が消滅したことで、(軍需)産業労働者向け住宅供給は不要となり、住宅金融公庫による産業労働者向け住宅と日本住宅公団による特定分譲住宅いう公的助成を行なう住宅政策は、両制度の立法上の大義名分を失ってしまった。

 

軍需物資を生産してきたわが国の戦争感覚

当時も現代も日本人の中でどれだけの人々が、米軍のベトナム戦での敗北をわが国の政治・経済問題と理解していた人がいただろうか。わが国が米軍の兵站基地とされ、生産した軍需物資を米軍に買い上げられて、日本国憲法に定めた「戦争の放棄」に違反して産業活動をする企業として成長をしてきたことを、政府をはじめ国民を含む国家全体として憲法違反と認めていなかった。わが国全体が「わが国が米軍を介して戦争に関係していた」ことに知らぬ顔をして、戦場で残酷な殺戮が行なわれるとき車両や船舶等の軍需物資の生産・輸送、武器弾薬燃料を供給し、企業も国も高度経済成長を謳歌してきた。

 

わが国の軍需産業は日米安全保障条約に基づき、米軍の言いなりに軍需物資の供給した結果、結果的に巨額な利益を獲得できた。軍需産業向け労働者住宅に居住する人たちは全て日本人であるから、建設省も地方公共団体もその住宅政策は日本人向け住宅政策として財政・金融を行ない、住宅を供給する政策を日本の住宅政策として行なってきた。大蔵省は米国との行政協定の管理人として、日本政府の住宅供給義務を米国に報告する役割を担って住宅政策を監視していた。米国が敗北し軍需産業自体が生産活動を停止し、そこで働く労働者のための住宅供給に必要がなくなっただけではなく、大蔵省の米国への報告義務も消滅し、大蔵省が行ないってきた協定のお目付け役の業務も消滅した。

 

軍需産業向け住宅供給を目的としたわが国の住宅政策

軍需産業自体がベトナム戦争の終結に伴い需要が消滅し、軍需産業はその生産主力を平和産業に「量から質へ」の転換を急速に行ったので、ベトナム戦争の終結は、関連する国内産業の突然死にはならなかった。しかし、軍需産業向け労働者住宅を供給する大義名分が失われた結果、これらの軍需産業労働者の住宅は短期間に「空き家」化し、新規の住宅生産及びそのための住宅金融は中止せざるを得なくなった。そのために計上されてきた財政・金融は、住宅政策上打ち切るか、変更することを意味していた。「空き家」化した公共住宅として供給された住宅では、入居者がなく取り壊わされた。住宅金融公庫の「産業労働者向け住宅」と日本住宅公団による「特定分譲住宅」供給を正当化する政策的根拠を失わせ、新産業都市及び工業整備特別地域向けの公営住宅の優遇配分の政策的根拠を失わせた。

 

その間、軍需産業対象に行ったOM技術は、日本生産性本部の活動により全国の工場生産に拡大し、生産性向上から取り残された建設労働者になり手は払底した。経済成長で住宅需要が拡大したにも拘らず、建設現場労働力だけが生産性を向上できず賃金が低迷したため供給が不足した。建設労働者の不足を補うため、政府(通産省と建設省)は協調して住宅生産近代化が「プレハブ住宅」政策として推進された。政府施策住宅全体がベトナム戦争終戦で、兵站基地としての政府施策住宅供給の大義名分を失った。その関連でプレハブ住宅需要も失われた。住宅需要の縮小は官民一体で育成してきたプレハブ住宅産業政策を崩壊させる危険があった。軍需産業労働者向け住宅の縮小は、官主導の住宅産業政策の危機、即ち、産業経済界の危機になった。ベトナム戦争の終焉はわが国の住宅産業の構造変化を意味していた。

 

戦後の軍需産業向け住宅政策からの脱皮した住宅建設計画法の立法

わが国の住宅産業界及び経済界がベトナム戦争終焉の影響を受けないように、政府はこれまでの財政・金融負担を追っても、既存の政府施策住宅の持続を考えた。既存の政府施策住宅の枠組みを継続することは、わが国の住宅産業及び経済にとって必要と考えられた。ケインズ経済学の立場では現状維持の政策はわが国経済に良い結果をもたらす考え方が、住宅建設計画法の立案を担当した高見事務官(経済専門家)から提起され,尚住宅局長が経済政策に基づく意見を住宅政策に取り入れ、住宅建設計画法がつくられた。財政・金融支出は政府投資による有効需要を生み原動力で、経済波及効果により経済活動を拡大し国家はそれを税収として回収できると考えた。

政府の建設投資は住宅ローンを組ませる分譲住宅を住宅政策の軸足にし長期間かけて回収する。その住宅政策は住宅産業本位の不等価交換販売と不等価交換金融(クレジットローン)を柱にした過去に存在しなかった住宅金融政策を柱に据えた住宅政策であった。政府は住宅産業の保有する市場支配の既得権を維持継続させることは、わが国経済にとっても必要であると判断した。ベトナム戦争終結前の住宅産業をそのまま持続成長させるため、それまでの政府施策住宅による財政・金融指導のそれまで2期10年間継続した「住宅建設5か年計画」を継続させる「住宅建設計画法」による住宅政策を「第35か年計画」として継続発展させることにした。

政府は、わが国の住宅産業をベトナム戦争終戦前通りの財政金融施策を維持継続させ、公営住宅、公団住宅、公庫住宅による政府施策住宅需要をそのまま維持継続することで住宅産業経営を守り、わが国経済成長を連続的に持続発展する政策を採った。政府は、政策転換のため、軍需産業労働者を最終需要者としていたそれまでの供給対象が消滅したため、それに代わる需要者として国民を最終購入者とする政策に転換した。政府は住宅政策の看板として「国民の居住水準の向上」を基本政策目標に掲げ、それを実現するために以下の政策に転換した。

 

「土地代ゼロ」で行う住宅建設と住宅金政策の拡充

「住宅建設計画法」の鍵は、以下の3政策である。その3政策とは、「住宅政策の対象者:国民」と、「住宅金融の緩和:購買力」と「土地代ゼロの住宅供給:木造住宅の建て替えと市街化調整区域」である。それを整理すると次のとおりである。

  • それまでの戸数主義に基づき政府が行なってきた政府施策住宅(公営住宅、公庫住宅、公団住宅)の財政及び金融政策とこれまでの住宅産業が住宅供給する骨組みは維持継続し供給する住宅を住宅不足数に代え、住宅に困窮する国民一般を対象にする政策にした。
  • 国民の住宅購買力を高めるため、住宅産業が販売を計画した住宅を、すべて国民が購入できるように住宅ローン額と融資期間を拡大し、購買額の上限を設けず、クレジットローン100%融資と超長期融資期間とし、住宅産業の販売戦力に合わせ住宅購買力を高めた。
  • 高騰した地価が住宅販売価格に反映しない「土地代不要」で建設できる住宅政策として、既存木造市街地での「建て替え住宅政策」と、農地価格で土地買収のできる市街化調整区域での住宅地開発を日本住宅公団、地方住宅供給公社、都道府県が公共事業として行なった。

 

限られた財政金融の下で実施する新しい住宅政策は、「土地購入費なしの住宅建設事業」として行なった。具体的政策としては木造住宅を取り壊し、プレハブ住宅に建て替える政策である。その建設費用の全額は住宅金融公庫が融資する。大規模住宅地開発を都市周辺で行う宅地開発は、1968年制定された都市計画法による地価を農地地価に押さえた市街化調整区域で、日本住宅公団、地方住宅供給公社及び地方公共団体が「1団地の住宅施設」による都市計画事業として強制権を行使して都市開発を行なった。事実上、市街地の地価と比較すれば、「地価ゼロ」同然で土地を取得し、都市開発事業の大きな投資を行い、大きな公共事業で政治家と官僚が潤う仕組みを作った。宅地開発後、住宅産業が住宅販売をプレハブ住宅が住宅展示業を使って、人海作戦で地上げと住宅販売を展開した。

 

「土地購入費ゼロ」の公的都市開発

東京都と日本住宅公団が開発したわが国最大の多摩ニュータウン開発に象徴される住宅地開発は、住宅建設計画法による住宅政策を象徴する都市計画法立法時点には都市開発を押さえの農業振興を行なう地域として定めた市街化調整区域で、日本住宅公団や東京都が土地(農地、雑種地、山林)を安価に全面買収して大規模開発を行なった。市街地地価と比較した場合、「土地代ゼロ」での開発事業を推進した。当時取り組まれた大規模開発は、高い都市施設水準を誇り、構造安全性重視の鉄筋コンクリート擁壁を十分に使い、鉄筋コンクリート産業と、土木業者が大きな利益を挙げられる公共開発事業として行われた。土建国家と揶揄された理由であった。

 

政府(大蔵省)は宅地造成事業に高い金利の財政投融資を振り向け、そこで政府としての貸金利益を挙げた結果、財政投融資は宅地開発事業で大きな利益を挙げた。公団や公社は財政投融資(政府金融)から借りた資金の利払いで、宅地開発事業では必要経費しか得られなかった。そのため、公団は、国民には、大蔵省から言われた通り、「原価販売」と説明した。財政投融資としては、宅地開発で商業金利(7.5%以上の金利)を奪って公団等公的開発業者に融資していた。政府自体は宅地開発事業で商業的利益を得ていたのであった。取引地価の上昇に加え、造成地の地価は金利と造成工事費により高騰し、そこでの住宅建設の促進を図るため、政府は租税特別措置法により面積が、200㎡以下の宅地の固定資産税を6分の一にする減税政策を採った。租税特別措置法の適用を受けた課税標準が住宅購入者の負担できる地価であった。

 

都市経営されていない土地の経営崩壊

その当時宅地を購入して住宅を建設した人たちの多くは、その土地・建物の経営管理されていない住宅地であったので、無政府状態になった。住宅地は高齢化とともに衰退し、人口は減少し空き家が増加し続け、宅地開発に合わせて建設された学校は通学する子供がいなくなり廃校になり、宅地開発のための便法として利用された「近隣住区論」をかざして開発した近隣商店街は廃業に追い込まれ、高齢者が多数の住宅地になり、中古住宅は市場で取引されることはない。廃屋を取り壊さないと犯罪や火災危険があることが解っていても、住宅取り壊し費用が必要となるうえ、空き地になれば6分の一とされている課税標準価格を基にした固定資産税が科せられる。市場取引できない土地価格は、建材理論上がゼロである。政府は市場価格を無視し、地方公共団体が設定した課税標準価格を基に課税し続けている。

 

今回は戦後のわが国の住宅政策が国民不在の住宅政策として行われてきたことを明らかにした。最後に取り上げた固定資産税の減免措置に象徴されるとおり、政府は国民の支払い能力に合った宅地価格は、公団・公社等が「原価」と説明した価格の6倍もの高額な価格であった。その価格での売却はできないと分かって、租税特別措置法で6分の一にしたが、その特別措置で税が減少させられることで、地方公共団体の税収が6分の一にさせられたことになる。宅地開発に利用できる財政投融資の金利が、7.5%という高金利で、土地価格は低く押さえられれば、不動産取引も円滑に行われたはずであった。

(NPO法人住宅生産性研究会 理事長 戸谷 英世

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