ネオクラシカル・リバイバル様式

西欧建築においてクラシカル様式といったときは、 古代ローマ建築様式からの伝統的な建築様式の系譜を指している。 古代ローマ時代にヴィトルビウスが「建築十書」を書き、 それが14-16世紀のルネッサンス時代の文芸復興によって、 再登場することになる。 アンドレア・パラディオによる「建築四書」やセルリオによる「建築七書」という形で古代ローマ時代の建築が復興され、 それに新しいルネッサンス時代のデザインがつけ加えられた。 それらのルネッサンス建築がベースになって、 その後、 大航海時代のスペイン、 ポルトガル、 神聖ローマ帝国、 太陽王フランスなど、 世界の富を集めた国々が、 その威を誇るスパニッシュバロック、 ドイツバロック、 フランスバロック建築様式や、 華麗なロココ様式を生み出すことになる。 その後、 大英帝国が海洋覇権を握るようになるとともに、 グランドツアーに参加することができるようになった英国の建築家の手によって、 ルネッサンス様式が英国に導入された。 イニゴー・ ジョーンズやサー・ クリストファー・ レンによるルネッサンス建築様式の導入によって、 やがてジョージアン様式やビクトリアン様式という形で英国独自のデザイン開発が進んでいった。

この間、 フランスではエコール・デ・ ボザールにおいて、 アンドレア・パラディオによる「建築四書」を中心にして、 ルネッサンス様式の本格的な建築教育が取り組まれた。グランドツアーに参加した、 独立して新しい国家の建国デザインに取り組む米国の優秀な建築家達は、エコール・デ・ ボザールで学んだ建築様式を忠実にニューヨークを中心に米国東海岸から五大湖南部の諸都市で展開することになった。

マッキム・ミード・ホワイトによるパートナー事務所の建築活動は、アメリカンボザールともアメリカンルネッサンスとも呼ばれた。彼等が中心になって展開したボザール様式の建築物を、 過度に記念建築物的に造ろうとする行き過ぎに対する反省が、 再びルネッサンス建築様式の原点に立ち返る建築様式として、 ネオクラシカル・リバイバルという様式を展開することになる。

コロンブスの米国大陸発見400年を記念して開催された1893年のシカゴ博覧会は、歴史建築物の博覧会と呼ばれ、日本から宇治平等院鳳凰堂の2分の1模型が、 2人の宮大工の手によって建設されたことでも知られている。 この同じ博覧会で展示された最も小さなパビリオンは、ルネッサンス建築に立ち返ることを示したネオクラシカル リバイバル様式の建築物である。クラシック様式を象徴する要素の最大のものは、柱のオーダー(タスカン、ドーリア、イオニア、コリント、コンポジット)である。

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